今日の一言 (バックナンバー) '2018年1〜12月

 

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12月30日 ★事実に向き合わなければ、正当化も、すり替えも、言い訳も、「何デモアリ」の妄想の世界に住み続ける。
 自分の「思い込んだ世界」をえんえんと引きずることになる。
 だが、事実の世界では、物理法則や心理法則が働き、因果に基づいて全てが無常に変化する。
 どれほどの悲嘆にも終わりがあり、新しい世界が始まる・・・。

 

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12月28日 ★苦しい現実や辛く悲しい過去から目を背けると、妄想で都合よく編集された認知が固定化する。
 だが、ひとたび真実に目を叩かれると、強い悲しみに襲われ、泣き崩れ、結果的に抑圧されていた負の情念が解放されていった。
 心に化学反応を起こし、苛酷な運命を受容させ、新たな旅立ちへと向かわせた発端は、真実をありのままに観る力だったということ・・・。

 

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12月26日 ★かけがえのない人を突然喪う不幸に襲われたのに、なぜか泣くことも悲しむこともできず、月日が流れていったという。
 ある日、末期のありのままの様子を正確な画像で確認し、ショックのあまり鬱状態に陥ってしまった。
 だが、それ以来、深い悲しみに包まれ、涙が流れ落ち始めたのだという・・。
 何が起きていたのだろうか・・・。

 

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12月24日 ★上から目線よりも、心すべきは自己満足かもしれない。
 介護される気持ちなどどこ吹く風、車椅子を押しながら、楽しそうにおしゃべりに興じているカップル・・。
 「ボランティアの犬ども!」と憤る詩を書いた障害者の方もいる。
 私たちこんな素晴らしい善行してるの・・とうっとり悦に入る鈍感な人たち・・・。

 

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12月22日 ★「身を屈めての善行」という言葉がしきりに浮かぶ。
 苦しんでいる人、困っている人に手を差し伸べる瞬間、傲慢さや強者の奢りが微塵も混入しないように・・。
 謙虚にならなければ、「対等な支援」が崩れやすい。
 見下された感覚がチラとでもあれば、受ける側の心を傷つけるし、反感を買う・・・。

 

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12月20日 ★見えた、聞こえた、考えた・・その内容が分からないほど素早いサティを入れるのは難しい。
 情報の中身が少しでも分かれば、反応も起動し始める。
 つまり、サティを入れた瞬間の認知内容には個人差が生じやすい。
 一瞬のサティに、人生観や価値観、考え方、反応系の心が影を落とす・・・。
 「瞑想とは、人生全体である」と定義したくなる所以だ。

 

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12月18日 ★ライバルを打倒し優勝した瞬間、邪悪な敵を滅ぼし戦争に大勝利した時・・、快感を司る側座核が発火する。
 シャーデンフロイデ(他人を引きずり降ろす快感)が遺伝的に組み込まれた背景だろう。
 エゴが強く、思い込みと正義感が強く、仲間を思いやる心と、怒りと、愚かさの強い者にも顕著な傾向だ・・・。

 

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12月16日 ★自分の勝手な夢や願いを子供に押しつける親。
 親に対してだけは、小児的エゴイズムを捨てきれない大きな子ども。
 親子も、夫婦も、親友も、互いの心がどこまで解っているのか。
 そもそも自分の本心を、ありのままに心得ているのか。
 自分の認知世界に固執した者達が、何を共有し、共感し合っているのか・・・。

 

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12月14日 ★母も死んだし、父も死んだ。
 必死で介護し看取りをしてきたが、過ぎ去ってしまえば、何もかも夢のようだ・・。
 人生の一瞬一瞬が、次々と過去になり、記憶イメージや断片的な思念に化してしまう。
 現実が、次の瞬間、妄想の素材に変わり果てていく。
 この世は、陽炎の如く、泡沫の如く・・・。

 

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12月12日 ★記憶力も、分析し推測し未来を予測する知的能力も、現在の一瞬を最高に生きるための進化の賜物だったはずだ。
 その光り輝ける能力ゆえに、地球を我がもの顔に支配し、あらゆる生命の頂点に君臨することができた人類。
 だが、光があれば闇もある。
 過ぎ去ったネガティブな過去にいつまでも縛られる。
 将来不安に思い悩む。
 妄想に端を発して集団で激しく争い、殺し合いまでやる。
 敵はどこにもいないのに、妄想のゆえに自滅する・・。
 無いものを想像する能力が偉大な文明も作ったが、人類特有の苦の元凶にもなった。
 のみならず、その苦しみを乗り超えるための瞑想まで妨げているという皮肉・・・。

 

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12月10日 ★集中が良ければ、腹部や歩行の感覚のみが次々と意識に触れるだろう。
 通常は、音が聞こえ妄想が浮かび顔が痒くなったりするので、その優勢な一瞬の知覚にサティを入れて中心対象に戻す。
 言葉→言葉→イメージ→イメージ→・・と概念が連鎖していく妄想世界に巻き込まれず、対象化し続けられるか・・・。

 

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12月8日 ★一瞬一瞬、自分の心と体に何が起きているかを客観視するのがヴィパッサナー瞑想である。
 外界の見物、つまり乱入してくる情報を詮索し妄想するのはいったん休止せよ、ということだ。
 名法(ナーマ:心の現象の変化過程)と色法(ルーパ:身体現象の変化プロセス)が、ヴィパッサナー瞑想の観察対象ということ・・・。

 

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12月6日 ★「メタ認知」とは、サティの瞬間を現代風に言い換えたものだ。
 自分自身を上空から眺めるように対象化し、自己客観視する認知のことである。
 厳密には、眼耳鼻舌身意の六門から情報が入った瞬間、自分の心と体に何が起きるのかを自覚する心だ。
 自己中心性を乗り超える、無我への第一歩・・・。

 

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12月4日 ★「音」「匂った」とラベリングはするものの、通常は、子供の笑い声、カレーの匂い・・と六門からの情報の中身は一瞬にして分かってしまうものだ。
 だから瞑想中は、外界に心を閉ざすと覚悟しなければならない。
 外側に飛び出していかなければ、心の矢印は自分自身に向かうだろう。
 すると、一瞬飛び込んできた情報に、自分の心がどう反応しているかも浮かび上がってくる・・・。

 

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12月2日 ★この瞑想時間だけは・・と限定すれば、この世を捨てる覚悟が定まるかもしれない。
 この世を捨てるとは、何が見え、何が聞こえたか、六門の情報の中身に手を出さないことだ。
 6つの穴が開いたカプセルの中に鎮座し、眼の穴、耳の穴、鼻の穴、舌の穴、身と意の6つの穴から、外界の情報が入ってきた事実だけをひたすら確認し続けているサティ・・・。

 

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11月30日 ★エゴ感覚が弱まれば、何事にものめり込まなくなるのでサティが入りやすくなる。
 自己客観視が容易になるが、エゴを無くすのは至難の業だ。
 別のアプローチもある。
 「妄想している私」とサティが入らず、妄想に巻き込まれてしまうのはつまり、この世への執着が強いからだ。
 悟らなければその執着は無くせないが、一時的にならできるかもしれない。
 この世を捨てると、覚悟できるだろうか・・・。 

 

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11月28日 ★もし他人の心が丸見えになるのだとしたら「妄想を嫌がっている」「妄想を消そうと躍起になっている状態」と客観視できるだろう。
 舞台の上の他人を眺めるように、自分自身を観察するのがヴィパッサナー瞑想の極意なのだが、こと自分のことになるとそうはいかない。
 「この私」だけは特別、と感じるエゴ感覚を引き算できないものか・・・。

 

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11月26日 ★よーし、妄想、出てこい。観てやろうじゃないか、と呟いてみる。
 妄想には妄想の事情があって、必然の力で、法として出てくるのだから、その様子を静かに観じきっていけばよい・・。
 と、気持ちを切り換えると、不思議に激減するものだ。
 同じ発想で、執拗な足の痛みなどにも効を奏する。

 

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11月24日 ★瞑想中に思考や雑念を止めようとすると、ますます止まらなくなる。
 思考モードに陥りながら、雑念を嫌う思考を必死でやっている状態だからだ。
 嫌うことが、ネガティブに強く執われている証しなのだ。
 暴れればますます食い込んでくる罠のように、妄想を毛嫌いするほど粘り着いてくる・・・。

 

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11月22日 ★賤ヶ岳の合戦で、柴田勝家が秀吉に敗れたのは、長年「親父殿」と慕っていた前田利家に裏切られたからだろう。
 勝家は落ち延びる途上、その利家に会い、今後は秀吉に従って身を立てるがよいと伝え、勝家の家臣に嫁いでいた利家の三女を送り返して、自刃したという。
 因果論を心得たかのような、花のある最期だ・・・。

 

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11月20日 ★「友達、おらな、アカンの?」と真顔で訊く孤独に頑強な人もいれば、濃密な関係性を求める人もいる。
 揺るぎない絆や真の友を求めてやまないタイプは、苦境のどん底に陥らないと、それが誰なのかわからないだろう。
 宿世の因縁で結ばれた縁の深い人と、誠のある人が最後に残る・・・。
 そんな人が一人もいない人の遺伝子は、とうの昔に滅び去っていただろう。

 

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11月18日 ★時計が戻って大喜びしている訳ではない。
 戻らなければ、不善業が現象化して消えていった消息を肯定し、さて、どうするか、と考えるのも楽しいだろう。
 取り戻しても、失っても、どちらでも良いのだ。
 現象の一連の流れを凶事と観るか、慶事と観るか、捨の心で観るか、異なった認知とその後の展開があるだけだ・・・。

 

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11月16日 ★スーパーへ買物に行き、歩行瞑想の計測用の時計を失くした。
 帰宅後に電話をすると、買い物客が届けてくれ、サービスカウンターに保管されているという。
 これまで落とし物のほぼ全てが取り戻せているが、不当に奪わない戒律を長年厳守してきた当然の帰結と考えている・・・。

 

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11月14日 ★「三つ子の魂、百まで」と言われるのは、幼少期の経験によって深く刷り込まれた反応パターンが変わりづらいからだ。
 意識の表層は変わっても、深層まで完全に書き換えられるのは無理なのかもしれない。
 ・・と、諦めれば、その断念した意志が繰り返されるたびに強化され、やがて遺伝的形質として来世に引き継がれていくだろう。
 いつの日か必ず乗り超えていく・・と決意する。

 

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11月12日 ★母が逝去して6年の歳月が流れた。
 日増しに記憶も印象も薄らぎ遠のいていく・・と想定していたが、そうではなかった。
 法随観の瞑想をしなければ見過ごしてしまう微弱さだが、母の面影や記憶が脳裡を過る刹那の膨大さに驚愕する。
 死者は、残された者の心の中に生き続け、無意識の意志決定にも関与し続ける・・・。

 

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11月10日 ★親に見捨てられたり、虐待を受けた過去があれば、怒りと暗い光が放たれてしまうのも無理からぬことだ。
 だが、同じ境遇なのに、過酷な苦を経験したがゆえに、傷ついて苦しんでいる人達への共感が痛切なものとなり、優しさが深くなる人もいる。
 何を経験したか、が問題なのではない。
 その経験をどう認知するのか、その経験から何を学び、どう反応していくのか・・・。

 

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11月8日 ★優しい、きれいな色に染められてきた心なら、反射的に立ち上がる反応に身を任せても良い。
 だが、ネガティブな色が刷り込まれた心がマインドフルでなければ、自らの未来に苦の種を蒔き散らしてしまうだろう。  
 黒い反応を自覚し、止めようと決意しなければならない。
 悪を避け善なる方向を選ぼうと決めていても、どす黒いものに巻き込まれた一瞬に気づかなければ、結果は何も変わらない。
 自覚し、決意し、どの瞬間にも気づいていくヴィパッサナー瞑想が不可欠な所以である。

 

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11月6日 ★無数の鏡を散りばめたミラーボールのように、人の全身からは、これまで自分に関わった全ての人の波動が反映している。
 優しかった人、愛情深かった人、冷酷だった人、傲慢だった人・・。
 人は、かつて自分に注がれた優しい光や暗い光や冷たい光を、自動的に照り返しながら生きている・・・。

 

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11月4日 ★ピンクの豚の貯金箱を連想させる、いかにもお金持ちで上品そうなご婦人の全身から、幸福と優しさのオーラが輝いていた。
 ニコニコ笑いながら他愛もない世間話をされていたが、この方は、いったいどれだけ多くの人に可愛がられ愛されてきたのだろう。
 ただ存在しているだけで、周囲を幸せにしてしまう力・・!

 

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11月2日 ★人は、自分のフィルターを通してしか、ものが見えないし、自分の世界を伝えることもできない。
 そもそも自分で自分のことが完全に掌握しきれていないし、考えていることも気分も一日に何度も変わってしまう。
 だが、共感し合える時もある、と信じて、今日も慈悲の瞑想をする・・・。

 

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10月31日 ★好きになった人や嫌いな人の顔など、一度心に突き刺さった印象は、一日に何千回も心を過っていく。
 無自覚に細部を微調整しながら、やがて記憶は真っ黒か真っ白に極端化される。
 事実は無常に変滅している。
 固定観念となった脳内イメージも徐々に変形し、憎しみや愛執の業を作り続ける・・・。

 

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10月29日 ★やりたいが、やりたくない。
 皆の幸せも願っているが、ワガママな欲望も満たしたい。
 理想と本音の本来的なギャップ・・。
 進化を単純化すれば、本能の脳→感情の脳→理性の脳→と上乗せされてきたのだから、人は構造的矛盾に必ず苦しむ。
 本音を否定するので葛藤が生じる。
 本能と理性の指令が常に矛盾する事実をありのままに承認しなければならない。
 戒を受け容れ、悪を避け、善をなす覚悟を確認する。
 ドゥッカ(苦)に帰着する快感、解放への第一歩となる抑止・・・。

 

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10月27日 ★ライオンも狼も人間も、敵を打ち倒せば勝利の雄叫びを上げる。
 集団に不利益をもたらす者に制裁を加える瞬間にも、脳の線条体という領域が強い喜びや満足を感じさせる。
 「利他的正義」を掲げれば、イジメもバッシングも魔女狩りも快感になるのだ。
 そんな人間の本質に逆らって、捨の心と慈悲を実践する瞑想・・・。

 

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10月25日 ★オキシトシン(優しさホルモン)が強い人ほど、愛情深く貞節で共同体の絆を大切にする。
 同時に、自分達の安全を脅かす者には攻撃的で排他的になりやすい。
 この負の側面である「他人を引きずり下ろす快感(シャーデンフロイデ)」は、日本人にダントツに多いという。
 「捨」の心は、遺伝情報に逆らう・・・。

 

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10月23日 ★「この私」という感覚が生まれてくるエゴ妄想・・。
 そのエゴに帰属する自分と家族と仲間と祖国を守るために、外部の利用できるものは搾取し、邪魔者は排除しようとする遺伝的反応。
 「福は内! 鬼は外!」と互いに叫び合っているエゴ妄想に気づき、どの瞬間にも全ての存在が諸力によって支えられ、結ばれ合っている実情が自覚されるならば、捨の心が維持される。
 「捨」は、「諸法無我」と同義である。

 

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10月21日 ★どうでもよい他人事に対しては「冷淡な無関心」を決めこむが、本気モードになった瞬間、自己中心的な視座の片寄りと反応が始まる。
 生存欲と競争意識と慢のスイッチも入ってしまう。
 命がけの本気モードなのに、全てを冷静に、公平に達観する・・。
 その矛盾の統合が「捨」の心であり、「一所懸命、淡々と」になる。

 

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10月19日 ★情報をいくら持っていても、一方的な視座から片寄って編集されれば、真実からかけ離れていく。
 どうしたら、エゴ感覚を駆逐できるのか。
 己の愚かさと無力さに打ちのめされ、ただ三宝にひれ伏すしかない謙虚な心境になると、捨の心が現れやすくなる。
 エゴの息の根が止められた訳ではないが、我執が弱められただけ、あるがままに視る視座が開かれていく・・・。

 

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10月17日 ★捨(ウペッカー)の心は、全身の力を抜いて脱力している状態に似ている。
 こちらから積極的に出力することは何もなく、受動性に徹しきっている。
 何も拒まないし、求めることもない。
 風に吹かれる柳のように、流れのままに従いきって、ただありのままに淡々と事の次第を観ているだけ・・・。

 

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10月15日 ★逃げるガゼルにも、追うチータにも、どちらにも加担できず、生命という残酷なシステムを、黙って見ていなければならない。
 因果が帰結していく現象世界の構造を知らずに、あるいは知っていてもそれでも、利己的な遺伝子に操られ、苦海に溺れていく現実からの完全な撤退・・・。

 

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10月13日 ★理不尽なことや不当な仕打ちを受けても、己の不善業が帰結したものと心得て、平然と受け容れていくことができれば、「捨」の心が成長していく。
 因果の流れが読み解けるのは、事象の本質を視ることであり、一切のものごとを達観する修行に直結している。
 「捨」の心を、時に「不動心」とも言う。

 

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10月11日 ★エゴイズムは、ものごとを観る視座が自己中心的な位置に固まっていることに由来する。
 その視座を自在に転換し、相手の眼から眺め、上空から両者を俯瞰し、過去や未来の時点からも眺めてみる。
 万物が、それぞれの分をわきまえながら公平に、平等に、存在していないだろうか。
 それが「捨」の心だ・・・。

 

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10月9日 ★海原に微風がそよいで小波が生じ、夕陽にキラリと光って崩れ去ろうが去るまいが、宇宙にとって何の意味もない。
 真夏の庭に撒かれた打ち水が誰にも見られず干上がるように、自分がこの世に生きていたことなど跡形もなく空無になっていくのだ・・。
 「捨」の心が迫ってこないだろうか・・・。

 

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10月7日 ★宇宙空間に点在し青白く輝く恒星は、法として存在している。
 だが、それを遠方から眺めて北斗七星だ、カシオペア座だ、とつなぎ合わせて見る星座はまったくの妄想に過ぎない。
 人は、混沌とした事象の流れに勝手な意味づけをした妄想世界を共有して生きている。
 そんな世間虚仮から解脱していく修行の道・・・。

 

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10月5日 ★人の苦しみの発端は、何事であれ、見た瞬間、聞いた瞬間、感じた瞬間・・、エゴによって情報が歪められる認知構造にある。
 事実をあるがままに観るには、修行をしなければならない。
 一切のものを無差別平等に観る「捨」の心と、自分を対象化する俯瞰の視座を訓練するヴィパッサナー瞑想・・・。

 

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10月3日 ★自転車で転んだ幼児が振り向いて「お母さんのバカ!」と怒りをぶつけた。
 多額の借金を負わされた相手への怒りがどうしても消えなかった瞑想者がいた。
 実はお金ではなく、ダマされて見抜けなかった自分に腹を立てていたと気づくと鎮まった。
 人は、自分に向けるべき怒りを人のせいにする・・・。

 

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10月1日 ★人の目や評価が気になって振り回される虚しさとくだらなさ・・。
 群盲が象を評するように、エゴの視座で歪められた妄想を共有し合い、褒めたり貶したりレッテルを貼っているのが世間である。
 他人の妄想や共同幻想に反応する愚かさが心に沁みれば、ただ独り犀の角のように、真実に向き合う覚悟が定まっていく。
 妄想のフィルターを外し続けて自分を欺かなければ、天が見ているだけで充分だ・・・。

 

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9月29日 ★エゴ妄想に完全なトドメを刺すには悟り体験が必要だが、対抗思念によっても減じることができる。
 懺悔の瞑想はプライドや傲慢さを弱めるのに最適だし、神仏などに自分を捧げきる感覚もエゴ感覚を弱めてくれる。
 エゴが弱まれば「捨」が強まり、サティのクオリティは格段に上がるだろう。

 

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9月27日 ★エゴの強い者には、ヴィパッサナー瞑想は難しい。
 エゴを弱めていかないと、サティが入らず、成り立たない瞑想なのだ。
 好きなものも嫌いなものも、価値あるものも無いものも、全てを無差別平等に対象化しなければならない。
 ・・日々修行を始める際に必ず「愚かな私を赦してください」「仏法僧に深く帰依します」と懺悔と三宝帰依の瞑想をしている。
 日々護り導いてくれているであろうデーバ(神霊)達に感謝の瞑想もする。
 謙虚にへりくだってエゴ感覚を弱めてから、サティの瞑想を開始する・・・。

 

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9月25日 ★たとえ悪いのは相手で、自分が正しかったとしても、赦してやりなさい。
 怒りに怒りを返し、怨みに怨みを返しては、永遠に終息することがない・・とブッダは言う。
 赦さない!と拳を握り締めるのは、怒りである。
 人は必ず過ちを犯すものだし、赦す者は自分も赦され、赦さない者は赦されない摂理。

 

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9月18日 ★幸福を求め不幸を嫌って一喜一憂するのが世間だが、認知を自在に転換できれば、どんなネガティブな体験も感謝して幸福の記憶フォルダーに納め直すことができる。
 悲惨な人生でも、幸福になれるのだ。
 だがその幸福も永続せず、否応なく業の法則に縛られていく事実と、全てが変滅してしまう無常の苦(ドゥッカ)はいかんともしがたい。
 仏教の瞑想が真価を発揮するのは、そこからだ・・・。

 

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9月16日 ★愛されたことがなければ、その苦しみと不満から「怒りタイプ」になるのも無理からぬことだ。
 だが、誰にも優しくされず、愛されたことがない人は、この世に一人もいない。
 育たずに、死んでしまうからだ。
 「愛されたことがない」という妄想を手放し、あるがままに観る智慧を得る瞑想・・・。

 

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9月14日 ★苦があれば嫌悪と怒りが生まれ、欲があれば不満と失望が怒りを生む。
 だが、誰もではない。
 執念深い人もいれば、潔い人もいる。
 一瞬にしてものごとのネガティブな側面にのみ注目する人もいれば、その反対の人もいる。
 怒るか怒らないかは、自分が決めることだ・・・。

 

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9月12日 ★怒りは、一方的な視座から編集された暗い認知を手放さない頑固さに起因する。
 自分の認知にのめり込み、その正しさを盲信し、対象化も客観視もできない幼稚さ。
 同じ怒りの妄想を繰り返しては、血のたぎる刺激を快感と錯覚し、取り違える愚かさ。
 怒る人は、怒りという名の興奮と混乱が好きなのだ。
 人は、ドゥッカ(苦)を愛している・・・。

 

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9月10日 ★本当は、傷つき、苦しみ、人生の虚しさを痛切に体験した人の方が、この世をうたかたのように陽炎のように視るのに有利なのだ。
 どれほど悲惨な経験でも、智慧がありさえすれば、心の平安と静けさが得られるだろう。
 絶対に怒りと怨みを手放さず、何がなんでも幸福になってやる!と激しく求めながら苦海に溺れていく人たち・・・。

 

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9月8日 ★上司へ報告する顔、部下に指示する顔、子供を迎えに行く顔、夫に文句を言う顔、後悔している顔、瞑想中の顔・・。
 本当の自分探しも、真実の自己も幻想に過ぎず、煩悩に耽ける瞬間も、自暴自棄の瞬間も、こんなの嘘だと思う瞬間も、どれも本当なのだ。
 その瞬間に出力された心のエネルギーの強弱と頻度に比例し、確実に業が形成され、否応なくその結果を経験させられていく人生・・・。

 

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9月6日 ★長年に渡り原始仏教を紹介してきた仏教学者が、最晩年は念仏を唱えながら亡くなったという。
 幼少期の家庭環境が熱烈な浄土宗だったので、刷り込み通りだったとも言える。
 知的な学びやそこそこの瞑想修行では、深層の心までは変わらない。
 極限情況に陥った土壇場で、自分がどの程度の者であったか、真価が問われるだろう。

 

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9月4日 ★意味のない人生だと知り、「世の中は泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ・・」と説くブッダの言葉を繰り返し読んできた・・。
 だが、現場では、思わず必死になり、本気で反応してばかりではなかったか。
 表層と深層の心が揺るぎなく一本化するために瞑想してきた歳月・・・。

 

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9月2日 ★20歳の頃、これまでに地球上で死んでいった人間の総数が何兆億になるのか・・と想像するうちに吐き気をもよおし、眩暈がした。
 火葬場の空き地に猛々しく繁茂しはびこる夏草を眺めながら、人生の無意味さに打ちのめされていたこともある・・・。

 

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8月31日 ★瞑想合宿を始めた頃、定員9人のうち4人が禅僧だったこともある。
 当時は、悟りに絞り込んだ過激なダンマトークばかりしていた気がする。
 その録音テープの大半が黴にやられ、道場移転の際に投棄した。
 完全に抹消してしまった。
 そのように、自分の人生も、やがて跡形もなく消え去っていく・・・。

 

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8月29日 ★瞑想を教え始めた最初期に、最も力のある瞑想者に出会い、私の全てを教えようと一緒にスリランカの森林僧院で修行もした。
 私が修行を再開したと耳にし、久方ぶりに道場を訪ねてくれ、再会を果たした。
 日頃誰にも話せない瞑想の最も突っ込んだ話を、存分に語り合うことができた。
 満ち足りた静かな午後だった・・・。

 

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8月27日 ★圧倒的な知恵と同時に妄想で自滅するという苦しみをもたらした人類の脳を、最適化するシステムとして登場したのが、ヴィパッサナー瞑想である。
 言葉と思考と概念化を司る脳を止めて動物のように経験した直後、一瞬だけ言葉の脳をonにしてサティを入れ、認識を確定する。
 次の瞬間、また言葉の脳をoffにして、眼耳鼻舌身意の経験に集中する・・・。

 

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8月25日 ★事実を正確に捉える直観像記憶(写真記憶)の能力を捨て、人類はものごとを大雑把に捉え、本質を抽象し、断片化された情報を再構成して新たなものを想像する能力を進化させた。
 だが、この偉大な能力と引き替えに、不正確な対象認知と、ありもしないものを妄想して苦しむ歴史が始まった・・・。

 

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8月23日 ★目の前に存在している事実を、写真のように正確に記憶する能力は、人間よりもチンパンジーの方が圧倒的に優れている。
 片目のない顔の絵をお手本にすると、チンパンジーは存在する事実に即し片目のない顔を描くが、人間の子供は「お目々が無いね」と、存在しない目を想像して描き足すのだという。
 事実のみを見る類人猿と、妄想で補完しようとする人間・・・。

 

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8月21日 ★原始仏教の根本原理である「四聖諦」(4つの聖なる真理)では、「諦める」という字が「真理」の訳語に当てられ、これは原語以上だとも言われる。
 どれほど嫌な事であっても、その原因を作ったのは過去の自分の所業なのだから仕方がない。
 諦めて、潔く受け容れる瞬間、苦が超越されていく・・・。

 

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8月19日 ★視座を変えなければ、発想の転換をしなければ、とモガき苦しんでいたが、なぜか突然、自分の無力さが痛感されたという。
 いかんともしがたいことなのに、必死で頑張っていたことに気づいたのだ。
 諦めがつくと急に楽になり、心が清みきっていた・・。
 ダンマを学び、毎日瞑想をしてきた成果が、こんな風に突然の閃きや理解となって花開くこともある・・・。

 

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8月17日 ★全てが煮詰まって、いかんともしがたくどん詰まりに追い込まれてしまった人が、突然「ああ、これは、どうしようもないんだ・・」と覚った。
 これは業の結果なのだから、受けきっていくしかない・・と、腹がくくれた瞬間、必死にしがみついていたものから解放され、楽になったのだ。
 素晴らしい。

 

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8月15日 ★復讐は、因果論を心得ない愚か者のすることだ。
 それは、叩きのめし屈辱を与えた相手の不善業を一挙に消してやっているに過ぎない。
 しかも実行した瞬間、相手への怒りと悪意の故に、こちらは恐ろしい悪業を作っているのだ。
 復讐とは、我が身を犠牲にして、相手の不善業を消すために奉仕することだ・・・。

 

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8月13日 ★楽受は見送れたとしても、苦痛を淡々と受け容れるには、修行が必要だ。
 心が傷つき体が痛む瞬間、殺生や暴力系の不善業が滅したと考える。
 罵詈雑言を浴びせられ中傷誹謗された瞬間、悪舌系の不善業が消え、妬まれ蔑まれ嫌悪された瞬間、そのような悪業を作ってきた因果が帰結したと感謝する・・・。

 

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8月11日 ★「刧(カルパ)」の時の長さは、例えば4000里四方の城に満載された芥子の実を、100年ごとに1粒づつ取り出して全部無くなるまで・・。
 仏教では、こうした巨大なタイムスケールの中で生滅を繰り返す循環宇宙論が説かれている。
 無始無終の輪廻転生の中で、酷似した再生が繰り返されていく勢いは「慣性の法則」に従っているということか・・・。

 

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8月9日 ★原始仏教では、宇宙そのものがエンドレスの生と滅を繰り返していると捉えている。
 宇宙が「生成する」→「維持される」→「崩壊する」→「空々漠々となる」→「生成する」→・・と「成・住・壊・空」の果てしないサイクルを無意味に繰り返している、と。
 また、その時間単位が途方もないのだ・・・。

 

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8月7日 ★「金細工師の輪廻が500回は誇張ではないか。最古の金の歴史はBC4000年頃なので、4000÷500=8となり、一回の輪廻が8年では信憑性がない」というメールが来た。
 しかし仏教の時間単位「刧(カルパ)」からは、ビッグバン以降の138億年など一瞬のマバタキのようなものだ・・・。

 

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8月5日 ★動くものは動き続け、静止するものは止まり続けようとする物理的な基本傾向を「慣性の法則」と言う。
 同じ宇宙内のこの世のことだ、業論にも適用されるだろう。
 ブッダとデーヴァダッタはいつの世でも敵対関係となり、モッガラーナとシャーリプッタは常に親友だったし、マハーカッサパとバッダは何度生まれ変わっても夫婦だったという。
 ほぼ同じ生涯を500回繰り返す者もいる・・・。

 

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8月3日 ★嫌な人に出会い、ネガティブな人間関係に巻き込まれたのは、不善業を解消し負の因縁を解くためではないか。
 しかるに、過去の過ちを同じように繰り返し、ただ増悪させてしまう人ばかりだ。
 業論について心得ていても、土壇場では役に立たない。
 同じ不善業を同じように作って、酷似した輪廻を何度も繰り返してしまう不可思議な虚しさ・・・。

 

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8月1日 ★人に自由意志があるか否か、脳科学からは疑問視されたりもする。
 私の勝手な妄想では、意志決定の50%は宿業による。
 25%は情況の流れや環境因子、残る25%程度に個人の自由意志が働くのではないかと感じている。
 本当に自分で決定しているのか、諸々の力に決定させられているのか・・・。

 

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7月30日 ★偉大なる師、ニャーニャナンダ長老がこちらを見て、静かに言われた。
 「あなたの生徒を棄てて、・・来なさい。私は、あなたの出家を既に受け入れている」
 身に余る言葉だったが、波羅蜜が熟していなければ、山中で命を懸けても不発に終わるだろう。
 今がその時とは思えなかったのは、その前に果たさなければならない義務があるだろうと感じていたからだ。

 

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7月28日 ★2つ目は、日本語を捨てなければならない無念さだった。
 瞑想の微妙な奥義について、意の尽くしきれない外国語でしか語れなくなるのか・・。
 日本語で長年培ってきた語彙と文法を駆使しながら、全てを語り合えるかけがえのなさ・・。
 言葉には、曖昧で不分明な薄闇の領域を切り開いていく力がある・・。

 

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7月26日 ★スリランカの森林僧院で出家を勧められた時、2つの理由から保留にした。
 1つは、当時私の瞑想指導を必要としていた方々に何の恩返しもしないで、一人異国の山中に姿を消す訳にはいかないだろう・・。
 私の孤独な修行生活を陰で支えてくれた方々だった。
 恩知らずにはなれなかった・・・。

 

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7月24日 ★なるほど、500回の輪廻もムダではなかったのだ。
 来る日も来る日も、代わり映えしない修行をただ繰り返しているような虚しさを感じるかもしれない。
 だが、練習とはそんなものだ。
 良き師に恵まれ、正しい技法が習得され、修行を重ねていく、いつの日か、花開く・・。

 

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7月22日 ★さらに、501回目の金細工師として再生した男は若くして出家し、シャーリプッタの指導を受けたが修行は遅々として進まなかった。
 やむなくブッダの指導を仰ぐと、男が金細工師の生涯を500回繰り返していたことを見抜かれた。
 そして神通力で真っ赤な蓮の花を化作して与え、不浄観の瞑想からサマタ瞑想に切り換える指導がなされた。
 工房のバーナーと同じ赤い炎の色が瞑想対象にされると、男はたちどころに初禅から第四禅定に至るサマーディを完成してしまった。

 

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7月10日 ★2つのバケツの水を、AからBに、BからAに、延々と繰り返す労役を強いられた囚人が自殺するのを書いたのは、ドストエフスキーだったか。
 無意味さに、人は耐えられないのだ。
 500回生まれ変わっても金細工師だった男のように、何度も何度も同じことをやり直さなければならない虚しさ・・・。

 

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7月9日 ★死ねば再び輪廻して、どこかに転生しなければならない。
 業の法則に否応なく縛られ、何もかも変滅してしまう現象世界は心底もうゴメンだと感じている。
 だが、それもエゴが宰領する表層意識の中だけのことなのだろうか。
 その自分を裏切り、生存に執着している無明のエネルギーに、いつの日か必ずトドメを刺す・・・。

 

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7月8日 ★石ころや鉄屑はただの亊物であり、心がない。
 命あるものには、心がある。
 心は刺激・反応系であり、苦受・楽受を経験した瞬間に一つの業が帰結し、反応する瞬間、新たな業が否応なく作られていく。
 因果が帰結する瞬間の苦痛と快感を無意味に、果てしなく繰り返す「この世」という地獄・・・。

 

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7月7日 ★いつ、何が、どのように、起きても、起きなくても、それで良いのだ。
 人の目にはどう映ろうが、善・不善の業を作ったのだから、必ず因果は帰結する。
 苦受をありがたく、楽受をかたじけない、と淡々と引き受けて、新たな業を作らないことだ。
 生起してきた一切の事象は必ず消えていく・・・ 。

 

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7月6日 ★たとえどれほど理不尽な仕打ちを受け、不当なことをされても、それは当然のことで仕方がないことだ。
 過去世の自分が加害者として犯した不善業が、今、現象化して消えているのだから。
 その因縁の流れが見えないと、憤りを覚えるだろう。
 ものごとがありのままに視えてくると、天地一切のものに感謝の念が込み上がってくる・・・。

 

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7月5日 ★今世では悟れないことが確定したなら、修行意欲が薄らぎ失われるのだろうか。
 悟れるか否かは生まれた時に決まっていると言われる。
 過去に組み込んだ強大な原因は、今世の微々たる努力では変更しきれないのだ。
 だからアビダルマでは「三因結生」が説かれたのだろう。
 たとえそうであっても、いや、そうであるからこそ、一所懸命、淡々と修行を続けて来世に繋いでいく覚悟・・・。

 

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7月4日 ★一来果の聖者だったと言われるアチャン・ナエブは、晩年、認知症状態になったらしい。
 だから彼女の悟りは本物ではない、とタイの僧院で耳にした。
 サティが入らない瞬間があれば、抑制系の心が働かないので煩悩が出る、という論拠だった。
 絶対に煩悩のドミノが倒れなくなった無条件の心が、原始仏教の目指している究極だ・・・。

 

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7月3日 ★悟りの第3段階である不還果では、怒りの煩悩が根絶される。
 なぜ、一瞬たりとも怒りの方向へ心のドミノが倒れなくなったのだろう。
 妄想する心そのものはまだ残るので、「慢」や自我感は消えないともいう。
 欲界の現象にこだわる妄想が生じなくなる程度に、涅槃の体験も禅定も深まっているということだろうか・・。

 

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7月2日 ★ブッダの時代に、預流果の悟りを得た後に結婚し7人の子を産んだ聖者がいたという。
 一来果の聖者になると、貪・瞋・痴の煩悩がさらに弱められ減じるが、わずかに残ると言われる。
 サティも、反応系の心の修行も、涅槃の体験も、いずれも不徹底ゆえに、煩悩のドミノが倒れてしまうのだろうか・・・。

 

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7月1日 ★トラウマも劣等感も過ぎ去ったことは全て手放され、無執着なので聖者と言われるのだろう。
 一瞬でも欲望や怒りや愚かな方向へ心のドミノを倒せば、その結末がどうなるかも熟知している。
 常によく気をつけているし、涅槃の体験が心に響き続けているにちがいない。
 だが、悟りの第一段階(預流果)では、貪・瞋・痴の煩悩が少し残るとも言われる。

 

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6月30日 ★見た、聞いた、感じた・・瞬間、苦受には怒りが、楽受には欲が生起するのがわれわれだ。
 だが、時には怒らない瞬間もあれば、貪らないこともある。
 反応する瞬間の膨大な選択肢から、なぜ聖者はいついかなる時にも「瞋らず・貪らず」の意志決定が下せるのか。
 その脳内プロセスは、いかに・・?

 

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6月29日 ★戒律は聖者には不要と言われる。
 「煩悩が出る→気づく→抑止する」
 これが戒の構造であり「戒とはサンバラ(抑止)である」と清浄道論に説かれる所以だ。
 煩悩の脳に二度とスイッチが入らなくなれば、当然、戒律は不要になる。
 戒を守るために不可欠だった気づきも不要となるだろう。
 どうしたら、そんなことが可能なのだろうか・・・。

 

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6月28日 ★礼儀作法の師範だった女性が老いて認知症を病み、立食パーティで寿司を手づかみにして投げたという。
 立ち居振る舞いが完璧だった人も、抑制系の脳が衰えれば、幼少期に刷り込まれた黒い情報が噴出してくるということだろう。
 気づきや決意で抑え込まれている限り、真の解放と呼ぶことはできないのではないか。
 それとも解脱を完成すれば、終生サティを切らすことがなくなるのだろうか・・・。

 

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6月27日 ★もし最悪の事態が発生しても、嫌悪や怒り、恐怖、絶望、悲しみ・・など悪業を作る反応が皆無だったなら、抑止する必要もないしサティが入らなくても問題は発生しない。
 そうなれば、反応系の心の修行は完成に近い。

 

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6月26日 ★相手に口汚く罵倒されても、その言葉を受け取らなければ、その罵詈雑言は相手のものとなる、とブッダは説く。
 罵る瞬間の意志が、悪業を作るからだ。
 罵倒されても反応しないのは素晴らしいことだが、もし平然を装って怒りのアクションを食い止めているだけなら、沸々と込み上がってくる怒りの情念が悪業を形成するだろう。
 その一瞬の心を観じきる・・・。

 

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6月25日 ★欲望も怒りもエゴイズムも良くないと納得していても、本能のプログラムは常にスイッチが入るのを待ち構えていて、貪り、怒り、利己的に反応しようとする。
 よく気をつけて、誤作動のスイッチが入らないように見守り続けなくてはならない。
 「サティを怠るな。常に、目覚めておれ」とブッダは言う・・。

 

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6月24日 ★朝陽が昇り、夕陽が沈むのを見て、腹を立てる人はいない。
 あまりにも当たり前のことで、日没も夜明けもただの現象として完全に受け入れているからだ。
 もし、我が身に起きる一切の事柄は、自分の作った善・不善の業が帰結していくただの状態だと受容できるなら、怒りのあろう筈はない・・。

 

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6月23日 ★見た・聞いた・感じた・・瞬間、心に執着しているものがあれば何にでも結びついて知覚され、情報が歪み誤認と錯覚が始まる。
 記憶は時とともにより黒くより白く激化され、やがてどぎつい怨恨や愛執となって人生を左右する。
 年老いて認知症にでもなれば、恐ろしい不善業を作ってきた記憶も自覚も脱け落ちたまま輪廻していく。
 再生すれば、新たな苦しい生涯が始まり、なぜ暗く悲しい不遇な境遇なのか知る由もなく腹を立て、不善業を無自覚に集積させていく・・。

 

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6月22日 ★「カチャーン!!」と鋭くかん高い音が鳴り響く・・。
 落ちたのがお皿なのか金属トレーなのか、音が耳に入った瞬間、既存の脳内記憶データと照合されて判断される。
 このとき金属トレーを購入しようとネット検索をしていた人は、お皿が割れたのにトレーだと誤認するかもしれない。
 伝聞ではなく直接知覚したのに、事実を歪曲して認知してしまうのだ。

 

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6月21日 ★ネガティブな事実を直視するのも、承認するのも、辛い仕事である。
 明確な物的証拠からつい目を背けがちなのは、自己イメージが崩れ、自分を守れなくなるからなのか・・。
 だが、事実確認をしなければすべてが憶測の域を出ず、心の中で決着がつけられない。
 あるがままに真実を観る瞑想が必要な所以だろう。

 

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6月20日 ★雨の日に1Day合宿で瞑想していた方が、夜になるとネガティブな情感に包まれた。
 30年前の雨の夜、走行中の車の前輪に何かが接触し、猫だったのか石ころだったのか確認せずに走り去った記憶が浮上したのだ。
 事実を曖昧にしたので、懺悔の瞑想も不徹底のまま30年経っても心に刺さっている・・。

 

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6月19日 ★ブッダのサンガに莫大な布施をして功徳を積んだ王妃マリーカは、死後地獄に堕ちた。
 死ぬ直前の心が、後悔の不善心だったためである。
 妻マリーカがどこに再生したか、パセーナディ王に訊かれるたびにブッダは巧みに話を逸らしたという。
 偽りを語らないためには智慧を使って、話を逸らしたり、婉曲表現をしたり、された質問をそのまま相手に返したり、時に微笑みながら黙秘する・・。

 

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6月18日 ★「戯れにも嘘を吐いてはならない」と、ブッダは、出家した息子のラーフラに厳しく戒めている。
 事実を偽って語る精神が、真実を洞察する瞑想にとって致命的だからだ。
 「故意の嘘に対して恥じない者には、誰であれ、行ない得ない悪が何もない」(「アンバラッティカ・ラーフラ教誡経」)

 

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6月17日 ★自分が仕込んだ情報や経験に基づく心なのに、その「自分」が自由に裁量できるのはわずかなものに過ぎない。
 心は心の論理に従って否応なく展開していき、エゴが意のままに支配できる表層意識の下の階層には、自覚に上りづらい世界が横たわっている。
 その深層と表層が完全に一本化される瞬間に向かって歩み続ける・・。

 

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6月16日 ★自由意志で何かを決定する0.5秒前には、脳細胞に起動パルスが発生しているとリベットは言う。
 7秒前に始まっているという報告もある。
 煩悩滅尽とは、情報処理と反応の仕方を司る脳細胞の一連の流れ「マナシカーラ(如理作意)」が揺るぎなく変わることであり、その総力戦を全うすることだと考えられる・・。

 

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6月15日 ★「スッタニパータ」<蛇の章>は愛欲や妄執を滅ぼし尽くした阿羅漢の境地を述べたものだと説明されるが、「怒りが起こったのを制する者・・」と記されている一節に戸惑ったことがある。
 怒りを司る脳が起動しても、つまり怒りが発生しても、刹那に停止させることができれば、それでも阿羅漢の範疇に組み入れられるのか・・と。
 刹那ではなく、0.5秒後の停止は? 1秒後は? 2秒後でもセーフ?・・等々の疑問。

 

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6月14日 ★そんなバカなことはないだろう。
 本能を司る神経細胞群は多目的に機能しているので、停止すれば生命活動は維持できなくなる。
 煩悩滅尽とは、煩悩の脳はいつでも機能するが、いかなる場合にも作動命令が下されることなく安定している状態とも考えられる(なのだろうか)。
 ここで浮かんでくる問題は、煩悩の脳にスイッチが入る瞬間はゼロなのか否か・・。
 入る瞬間はあるが、すぐに抑止されているのか。
 抑止しようとする一瞬の意志は働いているのかいないのか・・・。

 

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6月13日 ★苦受を避け楽受を求める「快楽原則」は全生命の基本原理であり、人の心の最深部にも当然組み込まれている。
 その欲動に従えばドゥッカ(苦)になると熟知していても、まだ快を求める心が起動してくる・・。
 煩悩が滅尽するのは、欲の心を司る神経細胞が全面的に機能停止することなのだろうか・・・。

 

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6月12日 ★「花」として見る「欲界」と、その構成因子にサティを入れる「色界」を交互に繰り返すうちに気づいた。
 サティを一瞬、遅らせて、ダリアを花として見たがっている気持ちが心の奥底に潜んでいるらしい。
 なぜなのか・・を検証すると、「花」として見た瞬間、「美」が感じられて快いのだ・・。

 

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6月11日 ★対象が目に入った瞬間、100分の一秒ほど遅らせてサティを入れると、ダリアという花が意識される。
 「法」として直接知覚されたのは色や形状に過ぎないが、一瞬の思考が起動すると「花」という概念が生じてくる。
 これが「欲界」であり、このプロセスから煩悩も生まれてくるのだ・・。

 

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6月10日 ★雲間から射し込んだ陽光がダリアの花を輝かせた瞬間、集中を極度に高め「見た」とサティを入れる。
 すると、心に「花(ダリア)」が成立せず、構成因子の「色」もしくは「形状」の知覚で終わってしまう・・。
 これは「色界」の瞑想と言える。

 

 

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6月8日 ★何が自分をこの世に繋ぎ止めているのか・・。
 その問いが、夏のリトリート中、通奏低音のように鳴り響いていた。
 日に数度、長時間の喫茶瞑想をしたが、ある日、スタッフが庭に鉢植えのダリアを置いた。
 暗紅色の美しさを湛えた花をガラス越しに眺めながら、緻密なサティを入れていた・・・。

 

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6月7日 ★心には、命じられたことは必ずやろうとする律儀なところがある。
 目を背けてきたものを見極める覚悟が定まれば、むしろ空っぽになった方がよいのだ。
 思考モードで探求すると、エゴが抑圧の仕事を始めてしまうからだ。
 瞑想が不可欠な所以であり、全身の力を脱く意味もここにある・・・。

 

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6月6日 ★なんとなく気分が晴れず、うっとうしく、鈍重な感じがする。
 どこか満たされず、ふっ切れた感じがしない。
 やる気が出ないのも、後味が悪いのも、暗くて重くて硬くて強張っているのも、不善心所の特徴と心得ておく。
 目を反らしがちだが、善心も不善心も、体感や全体的印象に兆候が現れている・・・。

 

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6月5日 ★理性の脳で知的に理解していることと、情緒的に心底から腑に落ちていることの間には、大きな隔たりがある。
 エゴの自意識と深層意識、あるいは本能の脳と理性の脳の命令にも、基本的な矛盾がある。
 心の闇を浮上させようと、客観的な自覚の瞑想に徹して、身と心を脱力する・・・。

 

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6月4日 ★ゲバラのデスマスクに集中して脱力→「捨(ウペッカー)」を育てた方に確認してみた。
 脱力に集中していた時はサマタ瞑想的になっていたが、その後、サティの瞑想に切り換えると、大変やりやすかったという。
 サマタで集中と捨を高め、ヴィパッサナーにシフトするのは理想的な展開と言える。

 

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6月3日 ★ネガティブな思考や情念が身体言語に翻訳されると、痛みや凝りや緊張などの苦受になる。
 死体になりきったように全身の力を抜いていくシャバアーサナを試みると、思わぬ部位に微かな強張りが見つかったりする。
 その感覚を味わいながら、心に去来するものに注視して淡々とサティを入れていく・・・。

 

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6月2日 ★深刻で重大なものは隠しきれず、抑圧の破れ目からチラリと顔を出す瞬間がある。
 その刹那にサティが入れば、無意識の闇に格納されていたものが自覚化されるだろう。
 偶然の一瞬を待つ訳にはいかないので、見た聞いた感じた次の瞬間、どんなイメージや思念の連想が現れるか注視するのだ・・・。

 

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6月1日 ★夏のリトリート中に、サマタ瞑想を続ける情熱を失ったのは、この引き算の王道に徹すべきであり、妨害しているものを自覚するのが先、と感じたからだった。
 受け身に構えて何も狙わずどこにも力を入れず、眼耳鼻舌身意から情報が入った瞬間、自分の心が何に、どう反応していくのかを観じきっていく・・・。

 

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5月31日 ★定力を高めて涅槃に突入できれば、一瞬にしてすべての煩悩を滅尽できるだろうという発想を支えているのはエゴ感覚であり、価値あるものを獲得しようとする足し算の原理が働いている。
 そうではなく、この世に自分を引き留めている渇愛の正体を見極めなければならない。
 その執着の由来や原因を腹に落とし込み、心底から納得して静かに手放すという引き算がブッダの悟りへの道だ・・・。

 

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5月30日 ★日曜日の初心者講習会に、父娘で参加された方がいた。
 特に深刻な悩みや苦しみがあるようでもないお父さんと、パパが大好きな小学生の女の子が仲良く淡々と修行して帰った。
 目立つものは何もなく、ただそれだけのことなのに、ああ、幸せとはこういうことかと心に沁みた。
 幸せな人達は、周囲を幸せにする・・・。

 

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5月29日 ★暗雲が立ちこめ、台風が通過しようとしている最中に瞑想会が実施され、かなりの参加者が参集したことがある。
 天気が悪ければ行くのはヤーメタと、あっさり中止するのは結局その程度のモチベーションなのだ。
 瞑想に限らず、何事もしっかり体得するには、なぜそれをやるのか自身の動機づけを自覚し、やるべき意義を理解して腹に落とし込まなければならない。
 心が定まっていれば、難関を乗り超えて修得していく方が却ってヤル気も真剣さも増すものだ。
 どんな過酷な人生であれ、正確に体得されたヴィパッサナー瞑想には、その流れを変えるだけの価値がある。

 

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5月28日 ★事象の本質をあるがままに観るヴィパッサナー瞑想。
 とりわけ自分自身の体と心の現象を純粋に客観視する極意は、受動性に徹しきることだ。
 見た、聞いた、感じた、考えた・・のは結局、自分が注意を注いだ結果なのだから、何も狙わず、どこにも絞り込まず、受け身に構えて、ただサティを入れることだけに徹していく・・・。

 

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5月27日 ★いかに価値あるものを獲得するかが、この世の幸福原理である。
 しかるに仏教では、執着しているものをいかに手放すかの引き算こそが苦からの解放への道となる。
 サマタ瞑想には、狙ったものをサマーディによって獲得しようとする足し算の原理が働いていると言える。
 ヴィパッサナー瞑想はどうだろうか・・。

 

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5月26日 ★死体になり切ったり体が消滅する観想がうまくいくと、脱力が極まっていくだろう。
 その瞬間の無我感覚が本物でも、ハイテンションが冷め、日常の意識モードに戻れば、欲望も怒りも慢も差別もセットで戻ってきてしまう。
 つまり一時的な解放に過ぎない。
 どうしたら根こそぎに滅尽されるのか・・・。

 

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5月25日 ★一点に集中することは、他の対象を除外することだ。
 心のどこかに存在しているものを強引に無視して、とにかく脱力→無我という結果を奪い取る構造が、サマタ瞑想の限界だろう。
 煩悩が吹き消され滅尽したのではなく、一時的に抑え込まれ、集中が持続している間だけの解放、脱力、無我・・・。

 

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5月24日 ★どうやって全身の力を抜いていったのか、訊いてみた。
 すると、有名なゲバラのデスマスクを想起しながら、あるいは、自分の体が末端から粒子状に消え去っていくイメージに全力で集中したのだと言う。
 なるほど、脱力=無我感覚の状態を、意識的に積極的に現出させるサマタ瞑想的やり方だったか・・。

 

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5月23日 ★早速やってみた方がいる。
 仰臥に限定せず、常に脱力を意識したのだ。
 すると不思議なことが起こり始めた。
 常になく人に優しくされ、子供が寄ってきたりするようになったという。
 どこにも中心を定めず受け身に徹すると、エゴ感覚が弱まり、受け容れられていると感じさせるのだろうか・・。

 

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5月22日 ★死体になったように全身の力を脱くシャバアーサナは、瞑想者にとってどんな意味があるのだろう。
 それは、ヴィパッサナー瞑想の最重要因子「捨(ウペッカー)」の身体的表現ではないか。
 どこにも中心を定めず、受け身に構え、全体を公平に、無差別平等に観る・・。
 心も体も、脱力する・・・。

 

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5月21日 ★仰臥して手足や体幹、両肩、顔面、指の一本一本に至るまで意識的に脱力していくと、体の随所に余分な力が入っていたことに気づかされる。
 ああ、知らぬ間にこんなに力んでいたか・・と「気づく」だけで解放され終わりになるケースもあれば、問題の真相を洞察し、根本解決しなければならないものもある・・・。

 

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5月20日 ★ストレスがあれば肩が凝り、イライラすれば眉間にシワが寄りやすいし、緊張すれば顔が強ばる。
 過去のネガティブな記憶を抑圧していれば、慢性的に心の蓋を押さえつけるのに力んでいるだろう。
 死体のポーズとも言われるシャバアーサナは、仰向けに横たわって意識的に全身の力を抜いていく・・。

 

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5月19日 ★抑圧されているものを自覚しようと狙う瞬間、エゴ意識が働いてしまう。
 どこにも注意を注がず、力をも入れず、ただ受け身に徹し切って脱力しなければならない所以だ。
 どうやればよいのだろうか。
 心と体は相互に関連し合っているので、心を解放したければ、まず体の力を脱いて解き放っていくのが有効だ。
 長年ヨーガをしてきたが、無空のポーズとも呼ばれ、究極のリラックス状態に入るシャバアーサナが理にかなっているのではないか・・・。

 

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5月18日 ★できれば見たくないし、プライドが傷つくことだが、真実を視なければその先がないと得心がいけば、自分が何に執われているのか、その実状を見届けようと覚悟が定まるだろう。
 心底から決意したことは必ず具現化していくのが法則だ。
 あとは、全身の力を抜いて、受動性に徹して全てを受け容れていけばよい・・・。

 

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5月17日 ★いったい何が、自分をドゥッカ(苦)の世界に封印しているのだろう。
 どうせ死んでいくのに・・、この世の存在の世界はしょせん現象の流れにしか過ぎないのに・・、刹那刹那に崩れ去っていく事実は何も掴めないのに・・、何にこだわり何に執着しているのか・・。
 己の渇愛の正体に気づき、構造的に理解し、心底から納得して静かに手放していくのが、苦を絶滅する修行であると心得ているのだが・・・。

 

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5月16日 ★そこで、受動と能動を瞬時に切り換える変則的な技法を思いついた。
 脱力し受け身に構えて淡々とサティを入れていく「撤退型」と、何かが見えたり聞こえたり感じたりした瞬間、どんなイメージが浮かび何が連想されたか、その反応の本質を洞察する「特化型」のスイッチを素早く切り換えるのだ・・・。

 

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5月15日 ★一点集中とは反対に、脱力し、受け身に徹していく「撤退型」瞑想もある。
 だが、撤退は無関心とスレスレで、心の闇から目を背けるのにもお誂え向きとなる。
 心の闇を見ようとギラギラ狙っているのもエゴ、闇に葬り去ろうと抑圧しているのもエゴ・・。
 暴き出そうとすれば抑圧され、無関心になればますます目が背けられてしまう・・・。

 

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5月14日 ★あらゆる束縛から完全に解き放たれ「解脱」した状態を、力づくで奪い取ろうとしているのは誰なのか。
 ギラギラしたエゴがほくそ笑んでいないか。
 執われて握り締めているものを手放していく「引き算」の究極に向かって、ただ脱力する。
 能動的に業を作ることからの完全撤退・・・。

 

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5月13日 ★定力を高めようと一点に絞り込んでいく努力精進は、いつ執着や渇愛に変わっていくのか・・。
 思わず肩に力が入り、ガツガツしている自分に気づいてハッとしないだろうか。
 何かをゲットしに行くのではない。
 無意識に握り締めていたものに気づき、その妄執の構造を自覚し、静かに手放す修行なのだ・・・。

 

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5月12日 ★サマーディの完成とサティの高速化が連動すると、一瞬一瞬の生と滅が異様なまでに鮮明化しブツブツに分断される。
 その「瞬間定」が極まった時、涅槃を経験する「道心」が生じる。
 ・・と聞き及んでいる瞑想者には、その一瞬に対する強烈な執着が起きやすい。
 執着を手放す修行なのに・・・。

 

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5月11日 ★多くの初心者は、ラベリングが禁じられるとサティそのものが維持できなくなる。
 反対に、サティが安定し鋭く気づけるようになると、逐一言葉確認するのが煩わしく感じられることもある。
 そんな時にラベリングを一本化する技法を使うと、途端にサティが高速化し始める・・。

 

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5月10日 ★定力を特訓した相方は、合宿後半には毎回座れば数分以内に、写真や現物以上に鮮やかな色のニミッタ(相)が出現するようになった。
 集中力は、時間と労力に比例して増強されていく。
 だが、サマーディの特訓だけでは心の成長は望めない。
 定力の訓練だけで40日間費やすのはもったいないので、マハーシシステムとは異なる瞑想法も並行して習得する修行プログラムを考えた・・。

 

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5月9日 ★集中を極めていくサマーディの修行は、いつ着手すべきか。
 心に汚染が残っている限り、一点に絞り込む度合いに比例して汚れた心が深く抑圧されていく。
 修行すればサマーディは完成するだろうが、定から戻れば人生の苦しみは変わらないし、悟りも解脱も起きないだろう。
 心の浄化が優先されなければならない・・・。

 

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5月8日 ★「欲界」の瞑想と「色界」の瞑想があり、無を対象にした「無色界」の瞑想もある。
 「欲界」の瞑想は、「想(サンニャー)」が働いて普通に知覚された「海原」や「桜吹雪」など具体的な
イメージが対象になっている。
 もし「海原」や「桜花」などのイメージが形成される以前の、純粋に「青」や「ピンク」の色そのもの
に集中し合一すれば「色界」のサマーディとなる・・・。

 

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5月7日 ★瞑想対象の「ニミッタ(相)」が安定したら、その色を濃密に変化させたり、形状を拡大したり縮小させ
たり回転させたり、自在にコントロールできるだろうか。
 意のままに瞑想対象を操ることができ、リアルな鮮明さを増大させることができれば、やがて自分と瞑
想対象が合一するサマーディの完成に近づいていく・・・。

 

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5月6日 ★まず画像を凝視して右脳にイメージを焼き付ける。
 次に目を閉じて、できるだけ鮮明に脳裏に想い描く。
 安定しリアル感が増してきたら、目を開き、眼前の壁面に同じイメージを描き出す。
 こうしたイメージを「ニミッタ(相)」と言い、サマーディに近づくほど実像と区別がつかなくなってい
く・・・。

 

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5月5日 ★カシナ(遍)は、集中の指標であるニミッタ(脳内視覚イメージ)を安定させる補助用具と考えればよい。
 現代では写真で代用してもよいだろう。 
 「青」の好きな相方は、こんな海や花の画像と変わらぬ青を、脳内に描こうと集中していた・・・。

 

 

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5月4日 ★かねてより定力の訓練をしたいと言っていた相方につき合って、サマタ瞑想の修行を開始した。
 アラジンの魔法の召し使いがいるような快適さの上に、十二分な時間があるのだ。
 サマタ瞑想の修行には絶好のチャンスである。
 ニミッタ(脳内視覚イメージ)を安定させる目的で、オーソドックスな集中型瞑想ではカシナが使われる
・・。
 「カシナ」とは何だろう・・・。

 

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5月3日 ★子供の時に覚えた自転車は、50年後に乗っても乗れるだろう。
 体で覚えたことは何年経っても忘れずに保存されるが、細部の技能は劣化し曖昧になっているかもしれない。
 だが、しばらく練習すれば原状回帰するし、さらに技を磨くこともできる。
 音楽の演奏も然り、瞑想もまた然りだろう。

 

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5月2日 ★劣悪な修行環境だったらヴィパッサナー瞑想を修行し、妨害要因の少ない、快適な環境に恵まれたらサマタ瞑想を修行するのが良いだろう。
 長年、瞑想を教えてきたので、修行現場でのデータは膨大に増加し、私自身のサティの技術も進歩し、智慧も格段に向上したように思われる。
 だが、定力が低下してきたのも感じていた。
 修行時間が激減していったのだから、当然のことかもしれない。

 

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5月1日 ★心を静かにととのえ集中の究極を目指すサマタ瞑想にとっては、劣悪な環境は悪条件となる。
 一方、どれほどひどい環境でも、あるがままに現状が客観視されれば、ヴィパッサナー瞑想は成立する。
 苦も楽も等価とはいえ、多くの人は人生が苦しくなった時によく修行をする。
 心地よい欲界天では修行する気になれないので、ほどよくドゥッカ(苦)のある人間界こそ解脱の修行に
望ましいとも言われる。
 苦をあるがままに観て離れることはできるが、快感にサティを入れて見送るのは嫌がるものだ・・・。

 

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4月30日 ★長年に渡って瞑想者を助け、外国の瞑想センターや森林僧院にお布施をしてきた・・。
 ひとたび自分が修行に入れば自ずから環境が整い支えられるのも、不可思議でも何でもないただの因果の帰結に過ぎない。
 「全ては因縁の流れによる」と説かれるが、我が身に生起してくるいかなる事象も、すべて自分が形成
してきた「行(サンカーラ)」の所産なのだ・・・。

 

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4月29日 ★「ベランダに目隠しが欲しい」と筆談で伝えると、驚くべきことが起きた。
 スタッフが思いつきで次々と植木を買い込んで並べ始め、アレヨアレヨという間に庭園ができ上がって
しまったのだ。
 何もしないのに、ひとりでに修行環境が整っていった・・

 

 

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4月28日 ★1Fの美庭に面した部屋は相方に譲り、私は2Fに陣取った。
 歩行瞑想に使われてきた部屋だったが、照り返しが厳しく眺めも悪く、長時間座る瞑想をするには不向
きだった。
 どうしても視野に入ってくる植木屋の倉庫&ガレージが雑然としていて、人の出入りも激しかった。

 

 

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4月27日 ★下館の道場は、王様のリトリートのように恵まれた修行環境だった。
 沈黙行を崩さぬため、筆談による不完全な意思疎通だったが、スタッフが必要なものをすべて取り揃えてくれ、修行に専念できる態勢を完璧に整えてくれた。
 これまで多くの寺や瞑想センターで布施をしてきた徳のポイントが空っぽになるのでは、と危ぶむほど
だった。

 

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4月26日 ★苦しいと感じた瞬間、過去に蒔いた不善業の種が現象化し、消えていったのだから慶賀すべきではないか。
 楽しい!嬉しい!と楽受を得たなら、積み重ねてきた善業の徳のポイントが一つ消費されたのだ。
 そのように理解し受け止めていくと、常識的な世間の価値観と真逆になる。
 幸福な人生には憂慮すべき本質があり、負債返しのできる苦しい人生こそ喜ぶべきではないか・・・。

 

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4月25日 ★極限情況で平素の信念と矛盾する反応をしてしまっても、それが事実なら仕方があるまい。
 至らぬ自分を嫌悪するのは、エゴ感覚に由来する我執であり、第2の毒矢だ。
 どちらも本当だったと自らを戒め、どの瞬間にも反応したとおりに業が作られていて、その結果を受け
る日がやがて到来すると覚悟しておけばよい。

 

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4月24日 ★深層意識のパターンとは、@遺伝情報、A三つ子の魂の刷り込み、B何万回も繰り返した習性などだが、今世で@Aを完全に組み換えるのはほぼ不可能だ。
 初志貫徹すれば、Bは今世で変更可能だが、@Aが書き換えられるのは来世以降だろう。
 膨大な時間をかけて形成されたものを変更するには、途方もないエネルギーを費やさなければならない。
 この世界のいかなる存在も事象も無常の法則を受けるがゆえに、同一の状態が持続されることはなく、必ず変わっていく・・・。

 

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4月23日 ★断固たる決意をすれば、心のドミノは必ずそのように倒れる。
 表層意識と深層意識の命令が矛盾すると「土壇場になれば本性が出る」「分かっちゃいるけど止められない」の葛藤となる。
 しのぎを削り、押し合いへし合いの綱引きになる。
 「やっぱりダメか・・」と断念するか、ブレることなく決意を貫徹するか・・。

 

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4月22日 ★今その瞬間、あるがままに気づくというが、何をどう気づいて認識しているのか・・。
 「怒り」か「嫉妬」か「(嫉妬した自分を)嫌悪」したのか。
 洞察と智慧の伴ったレベルの高いサティは、反応系の心の成長に比例する。
 ダンマ(理法)の理解と決意と内省に裏打ちされた心が気づく一瞬・・・。

 

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4月21日 ★瞑想が絶好調な時も最悪の時も、40日間、何度検証してみても「音」の次に「嫌悪」のサティを入れた
ことは皆無だった。
 なぜだったのか。
 スタッフのどんなドタバタ音も、100%修行者を支えるためのものなのだ。
 必ず肯定的に受け入れるという覚悟があれば、嫌悪の反応はゼロになる・・・。

 

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4月20日 ★リビングの一角で念入りにサティを入れながら、日に何度か喫茶の瞑想をした。
 部屋の隅ではスタッフが洗濯物をたたんだりアイロンがけをしていたが、幼かった頃の母親と全く同じ
波動なのに驚いた。
 忙しいスタッフの足音やドアの開閉音、さまざまな生活音が瞑想の集中にいささかも妨げにならない事
実に、さらに驚いた。

 

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4月19日 ★初めてタイで修行した寺の指導僧がある日、初歩的な質問をし、それに対して難しく答えたのを小馬鹿にされたので、青かった私は論破してやり込めてしまった。
 すると翌日から凄まじい復讐が始まり、異国の地で完全に孤立し絶望的な日々を送った。
 自分の存在が全面否定されながら瞑想する過酷さ・・・。

 

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4月18日 ★一日に何度も掃除がなされ、洗濯機が回り、全てのゴミ箱が空になり、庭に散水され、花が活けられた。
 瞑想に没頭できるのは、このスタッフから放たれている「(瞑想者への)敬愛の念」に由来すると感じた。
 心から修行者を敬い、子育てが楽しくてならない母親のような優しい波動・・。
 安心感に包まれ、幼かった日々への郷愁を覚えた・・・。

 

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4月17日 ★40日間のリトリートをスタッフとして支えてくれたのは、単身赴任の夫は瞑想の良き理解者、自分は間
もなく初孫が生まれる有閑マダム状態の方だった。
 徹底した掃除や洗濯、アイロンがけ、庭の手入れ、買物、炊事・・等々、恐るべき家事力を発揮する専
業主婦のプロの実力に目を見張った。
 この世に完璧な存在はなく、何事も一長一短のトレードオフ、あまりにも両極端のタイと下館の修行環
境に感慨を覚えた。

 

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4月16日 ★神韻渺渺たる霊気に満ちた外国の森林僧院は、瞑想修行に最高の環境だが、同時に最悪の生存条件と日々闘っていかなければならない。
 下館道場では、沈黙行も不徹底だし、閑静とはいえ俗世の市街地の一角に過ぎない。
 孤独な独房のようなクーティで、なぜ生きるのか、なぜ存在するのか、喉元に匕首を突きつけるように
問うてくる森林僧院の聖域とはあまりにも対照的だった。
 とはいえ、その生活の利便性は、掃除も洗濯も上げ膳据え膳の食事も布団干しに至るまで、快適なホテルで暮らしているような錯覚に陥った。

 

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4月15日 ★下館の修行環境は、タイ森林僧院の環境と激烈なほど対照的だった。
 深い森の中の完全な孤独はかけがえのないものだったが、大量の蚊や虫が襲来し、天井裏のヤモリを狙いにくる蛇もいた。
 栄養の偏った食事で体調が整わず、蚊を払いながらの洗濯も風呂場での食器洗いも大変な作業となり、総じて環境要因は過酷で悩ましかった。
 しかるに下館道場は、欲界天にいるかのような快適さだった・・。

 

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4月14日 ★40日間の修行パートナーとなった相方は理系の出身で、よく分かってないのに分かったようなフリは絶対にしないタイプだった。
 つまらぬプライドに囚われて、修行レポートを飾ったり話を盛ったりしないのも、潔い。
 確実に体験し検証しながら理解を深めていく理系的感覚は、「あるがままを観る」瞑想者にふさわしい
・・。

 

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4月13日 ★多人数で同じ空間を共有していても、瞑想修行は、自分の心と体の現象を観じきっていく孤独な営みだ。
 人と群れて、概念世界のやり取りばかりしていたのでは、頭が腐っていく。
 だが一人称のモノローグの世界に浸りきっていると、発想も視座も煮こごりのように固まってしまって
いるのに気づかなくなる・・・。

 

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4月12日 ★相方が、その「高次思考」が体験されたとレポートした。
 聞き及んでいくと、確かにそのようであった。
 我が意を得たりとだんだん興に乗り、エゴ感覚は思考プロセスの産物であること、通常思考が完全に停まった後でなければ出現しないこと、エゴレス次元からの発想なので内容的に高度な印象があることなどを説明した。
 語りながら、私自身の理解がより明確になり深まっていくのを感じた。
 教える以上に、教えられている気がした・・。

 

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4月11日 ★雑念や妄想が鎮まり瞑想が深まってくると、高度な思念が一瞬閃くように過ることがある。
 通常の考え事や思索とは別次元のエゴレスな印象が特徴的で、「インスピレーション」の語源である「
(異界から)吹き込まれた」ような感じを受けたりする。
 思考が止まった後の、直観的「高次思考」と呼んでいた・・・。

 

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4月10日 ★私は師匠なしに修行ができるが、相方は必要としていたので、1日おきに面接をした。
 沈黙行が破られるのは修行の妨げだが、必ずしもマイナス要因だけではない。
 ある日、断食中のヘロヘロ状態で眠り続けるしかなかった時に、面接時間が迫り、気合いで立ち上がると、普段と変わらぬインストラクションを最後までやり遂げてしまった。
 なぜ、そんな力が出るのか、我ながら不可思議だった・・。
 法友の力、と言うべきか・・。

 

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4月9日 ★常に限界設定を自分で決めなければならないのが、孤独な修行者だ。
 自らを律し、怠け心や不善心と闘い続けなければならない。
 だらしない者は、とめどなく甘い修行に流れていくだろう。
 他人が存在すれば、デメリットも多々あるが、「見られる力」や「教えられる力」が発生する。
 自分の限界を超えた底知れないエネルギーが湧き上がってくることもある・・・。

 

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4月2日 ★リトリートを共にしたのは、この10余年、長期の合宿に何度も入り、一貫してグリーンヒルを支えてきてくれた方だが、弟子というより戦友のような存在となった。
 自分自身にひとり孤独に向き合わなければならないのが瞑想である。
 同時に、他者の鏡に映さなければ己の真の姿は見えないものだ・・・。

 

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4月1日 ★瞑想中の意識をさらに透明にするために、リトリート中に50時間の断食を2度、30時間を1度、合計3回の断食をした。
 痩せた体からさらに5kgの体重が失われた。
 苦行を礼賛するブッダの言葉がしばしば去来した。
 「肉が落ちると、心はますます澄んでくる。・・見よ。心身の清らかなことを」

 

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3月31日 ★1年前に踏み出した新たな方向性に修正を加えるものは何もない。
 20余年瞑想を教えてきたことが生き甲斐というより執着になっていたと自覚された。
 だが、今やその執着は完全に手放された・・・。

 

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3月30日 ★メールもインターネットもテレビもいかなる来訪者も完全に遮断して、この世という名の概念ワールドとそれへの執着を全捨てする瞑想リトリートが終わった。
 これ以上はない完璧な修行環境で存分に修行できた。
 来し方を総括し、将来の見通しが確立し、命を削るように瞑想していた昔の修行感覚に完全に戻ることができた。
 今後約10年間は修行者に徹し、もし残余の命があれば何かこの世にお返しできればと思う・・・。

 

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3月29日 ★現世の完全超越と、現世で苦しむ者たちへの慈悲が統合されるという拮抗し合う理念・・・。
 想像すら難しいその形象を完璧に造型し、具現化したこの仏師の心境やいかに・・と唸った。
 長期の修行に入る直前のタイミングで、導かれるように、瞑想の終点とも言うべき究極の姿を目に焼き付けることができた感動・・・。

 

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3月28日 ★正視すると「無念無想」の禅定にも見えるが、涅槃の残存印象と合一する「果定」の深さを感じた。
 思わずひざまずき仰ぎ見ると、仏の表情が一変した。
 慈愛の溢れた温顔に優しく包まれたような感動を覚えた。
 俗世を超越した涅槃と、衆生を救う慈悲の統合こそ瞑想の究極・・と衝撃を受けた。

 

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3月27日 ★なぜか万難を排して行くべきと強い直観が働き、上野でタイ仏像展を観た。
 果たして、ブッダの瞑想の究極が造型されたような一体の仏に衝撃を受け、釘づけになった。
 悟りを開いたブッダを風雨から守った龍神ナーガを光背にした、圧倒的に美しい像だった・・・。

 

 

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3月26日 ★タイの僧院でリトリートに入った場合、出家した愛弟子と尼僧の瞑想指導を、アチャンから要請されていた。
 タイに同行する予定だったスタッフの指導も兼ねて、2日に一度30分程度なら、と引き受けていた。
 外国の森林僧院でもこの世の瞑想道場でも、パーフェクトな孤独と沈黙行は難しい・・・。

 

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3月25日 ★普遍的な世界宗教では、必ず嘘を戒めている。
 認知システムには本質的弊害があり、事実とかけ離れた情報が乱れ飛ぶからだ。
 加害者の数だけ被害者が発生するが、言いたい者には言わせておけばよい。
 天に向かって吐いた唾が己の顔に落ちてくるように、言った通りやった通りの報いを受けるだろう。

 

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3月24日 ★一定の大きさの物が目の前を過れば必ず捕食しようとする蛙の認知ワールドは、遺伝的プログラムが決定している。
 人間の場合、地位や立場の思惑に加え、エゴの視座から五感の知覚情報が切り取られる。
 さらに、又聞きの噂と推測と妄想がゴッチャになった認知ワールドが、法の世界と混同される・・・。

 

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3月23日 ★地位や立場や情況が、人の視座を決定する。
 インストラクターとして指導的役割を果たしている時は、既に体得したものや存分に心得たものを意識しながら振る舞っている。
 一方、ひとりの修行者の立場に戻れば、まだ到達できていないもの、不完全な未熟な部分にばかり目が向いてしまう・・・。

 

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3月22日 ★軽度のストレスなら、強い刺激や代償の快感獲得で癒されるかもしれない。
 考え方や生き方に根差した重度のストレスは、心の構造改革が不可欠だ。
 イチオシの推奨は、マインドフルネス瞑想など全ての瞑想の源流であるヴィパッサナー瞑想だ。

 

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3月21日 ★「地位が人を作る」と言うように、母になり、リーダーになり、テロリストの一員になれば、その立場や環境が暗黙に働きかけてくる力がある。
 他律的な強制力なのだろうか、期待や義務感に応えようと自らの自由意志で己を律しているのか。
 「決定する心」なのか、「決定されていく心」なのか・・・。

 

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3月20日 ★事が成就するとは、諸々の因縁因果が調和的に帰結した姿である。
 生来の実力と努力は、全体の何分の一になるのだろうか。
 妨害要因を除去しなければならず、直接間接、多方面、多次元から支えてくれる諸力が働かなくてはならない。
 情況の推移と時の流れにも合致しながらまとめ上げていく力を「波羅蜜」という・・・。

 

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3月19日 ★20余年、多くの瞑想者の修行をサポートしてきた。
 及ばずながら、何がしかの波羅蜜(修行を完成させる徳)も集積されてきたのではないかと考えたい。
 わずかな徳のポイントをことごとく費い切ってしまえば、また一からやり直すしかない。
 なすべきことをやり遂げない限り、輪廻は続く・・・。

 

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3月18日 ★「他人を拠りどころとせず、自らを拠りどころとし、法を拠りどころとせよ」とブッダは説く。
 私の最良の師は、これまでに培った修行経験とダンマの知識と瞑想指導で得たデータだ。
 下館の環境と設計された瞑想食は、私には理想のものだ。
 だが果たして、成すべきことをやり遂げるだけの波羅蜜が蓄えられただろうか・・・。

 

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3月17日 ★外国の瞑想センターや森林僧院を探し求め、瞑想修行をしてきた経験から得た結論は「この世にパーフェクトは存在しない」だった。
 瞑想法は? 指導者は? 寺の環境は? 体に合う食事か? クーティの居心地は? 修行仲間は?・・等々、完璧に全ての要因が整った場所も物も人も、絶対に存在しない。
 それでも、八王子や下館を私の理想に近い修行道場として築いてきた。
 その道場で、自分が長期の修行に入ることになるか・・という感慨。

 

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3月16日 ★長時間同じ姿勢の執筆に行き詰まってくると、スーパーの買物を兼ねて、速歩で夜道を歩く瞑想をする。
 たちまち脳が活性化し、直観が冴えてくる。
 運動による血液の循環+心身内部と外界への素早い注意+キビキビしたラベリング+思考停止→エゴモード解放→自在な発想→閃き・・の流れだろうか。

 

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3月15日 ★料理も、脳を活性化する。
 レシピ通りの定番ではなく、冷蔵庫の限られた食材で即興のオリジナルを急いで作っていくと、明らかに頭の回転が速くなっていく。
 食材を洗い、刻み、火勢、味、スパイスの選定、盛りつけなどマルチタスクが、計画・段取り・運動系等の脳活動全体を加速させていく・・・。

 

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3月14日 ★70代の初心者で頭の回転が速く、驚くほど覚えの早い瞑想者がいた。
 若い頃何をしていたのか問うと、格闘技の日本チャンピオンだったという。
 筋トレも脳トレも同じことで、ボクサーや卓球選手の動体視力が優れているのは日頃の訓練の賜物だ。
 瞬間定も構成因子に分け、パーツごとに特訓する。

 

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3月13日 ★もう一つ、脳を高速化させるトレーニングは「瞬間視」だ。
 モニターに一瞬だけ現れる何桁もの数字を読み取ったり、電車の窓外をパッと見て、車や人や人家や樹木、色は全部で何色か等々、できるだけ多くの情報をいかに正確に素早く把握するか。
 瞬間視は目の能力ではなく、脳の処理能力なのだ。

 

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3月12日 ★テレビも、ノーマルスピードではまだるっこしいので、録画して1.5倍速で視聴している。
 iPodの速度が速まると、半ば強制的に集中が高められ、さらに加速すると言葉の存在が遠のいて、意味内容だけがダイレクトに意識に届いてくる感じになる。
 ボンヤリした意識が賦活されていく・・・。

 

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3月11日 ★iPodに電子書籍やメールや資料を読み上げる機能があり、日々のタスクの迅速化に活用している。
 音声を耳で理解するので、私は「聴読」と呼んでいる。
 その聴読の速度を2倍、3倍と高速化させていくと、文字通り余念がなくなっていく。
 脳の処理速度を意識的に速める習練になっている。

 

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3月10日 ★サティとサマーディの訓練法は確立しているが、「高速化」はどのように練習すればよいのだろう。
 答えは、脳を速く動かすことだ。
 思考や情報処理など頭の回転をできるだけ素早く、高速度に稼働させるのが習練になる。
 私が毎日やっている方法を2つ紹介しよう。
 一つは、速聴である。

 

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3月9日 ★集中が高まっても、瞑想対象がイメージや概念では「瞬間定」は起きない。
 微動だにしないイメージと融合し固まってしまうからだ。
 その強力なサマーディに、サティが連動するヴィパッサナー瞑想!
 素粒子のカスケード(滝)のように、無常に変滅する現実の一瞬一瞬に強力な定力が働くと・・・?

 

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3月8日 ★「瞬間定」を構成している要素は、「サマーディ」と「サティ」と「高速化」である。
 悟りのイメージと融合し合一するサマタ瞑想とは異なり、刹那に生滅する事象に対してサマーディが瞬間的に分断しているのだ。
 存在の本質である無常の真実を見た衝撃が、妄想が紡ぎ出す煩悩を破壊する・・・。

 

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3月7日 ★「ああ、ダメだ・・」と落ち込んだ時に、すかさずサティを入れて対象化できるだろうか。
 「お!良いサティが入った!」とワクワクした瞬間にもサティが入らず、<エゴモードでのサティの瞑想>という滑稽な状態にも陥りやすい。
 サティを入れた自分を、次の心が対象化し、さらにそれを客観視する・・・。

 

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3月6日 ★回転している扇風機は円盤状のディスクにしか見えないが、スイッチを切れば、実体は3枚のプロペラでしかない。
 そのように、本当は無我なのに、エゴが実在すると錯覚し、我を張れば人生が苦しくなっていく・・。
 全てが相互に関連し合いながら、刹那に滅していく因縁の流れしかないのだが・・。
 俺に、私に、自分に目が眩み、他のエゴと比べてひとり苦しむ・・・。

 

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3月5日 ★この世を捨てるとは、エゴが妄想でまとめあげた認知ワールドを手放すことだ。
 なぜ、自分の見ている世界が法として存在する実体そのものだと錯覚してしまうのだろう。
 昨夜見た夢の内容に本気で執着する者はいないのに、エゴが勝手に解釈した世界に激しくのめり込んでしまう無明・・・。

 

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3月4日 ★この世を捨てるほどの覚悟をしなければ、妄想が止まることはない。
 昔タイの僧院で2度目のリトリートに入った時に、サティを入れても入れても、どうしても妄想が止まらず万策尽きたときに、そう腹に落ちた。
 頭で思っているのと、本気モードで心得ることの間には、無限の距離がある・・・。

 

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3月1日 ★瞑想リトリートに入る前にしておくべきことは、心の気がかりを一掃しておくことだ。
 いまだに納得のいかないネガティブな出来事や、決断を下しておかなければならない決め事など。
 思い出すと怒りが出ることや赦せないことを、それでよい、そのお陰で今がある、と心から受け容れられるなら、心にわだかまるものはなく、今の瞬間に専念する瞑想に着手できる・・。

 

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2月28日 ★山に籠って孤独に瞑想修行することを英語では「リトリート」と言う。
 撤退や避難所、隠遁所などの意味が本来だが、昨今「仕事や家庭などの日常生活を離れ、自分と向き合い、新しい体験を得て人生を再スタートする」との使い方があるらしい。
 瞑想の本質が漠然と広まっている兆候だろうか・・。

 

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2月27日 ★朝日カルチャーの昼の講座が終わり外に出ると、眩しい陽射しがビル街にこぼれていた。
 タイの森林僧院の、異様に透明な陽光と煙るような霧雨が思い出された。
 書くべき本の仕事に迫られようとも、夏の40日の瞑想リトリートは死守する。
 修行できる時にやらなければ、必ず後悔するだろう。
 原稿の〆切のように、人生の〆切日も確定していれば、計画を立てやすいのだが・・。

 

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2月26日 ★生きていくことは一瞬一瞬、何かを選び何かを捨てながら、意志決定していくことだ。
 チータの獲物を強奪するハイエナも、敵を銃撃する集団も、自分は間違っていないだろうか・・と振り返ることはない。
 誰もが自己正当化しながら罵り合い、倒し合う世界で、自分を対象化し客観視する瞑想・・。

 

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2月25日 ★50余時間の断食をして1ヶ月以上になるが、約3キロの体重が失われたままだ。
 すぐに原状回帰するのが通例だが、離乳食もどきでは太りようがない。
 最も透みきった意識で瞑想しようとすると、毎日わずかに体重が減っていく。
 これ以上痩せたくないのだが、瞑想は体との闘いだ・・。

 

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2月24日 ★掛けがえのない人生の拠りどころを失い、それを心底から受け容れることができた者に、残されたこの世への執着はわずかである。
 生きることは、六門の情報を経験することだ。
 その一瞬一瞬が、ただの眼耳鼻舌身意への刺激でしかなくなる「六門確認サティ」が切れ目なく続いていくその先には・・?

 

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2月23日 ★記憶と意識の流れに敏感で、昔から法随観を得手としてきた者にとって、郷里で暮らすのは至福の日々である。
 暗い夜道を黙々と歩きながら瞑想しているのだが、寂れた街路の変哲もない佇まいから、膨大に折り重なった幼少期以来の記憶が溢れ出す。
 誰にも出会わない夜の街の印象と、素速い連想の流れと微かな情感に、矢継ぎ早にサティが射ち込まれていく静かな感動・・。

 

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2月22日 ★眼耳鼻舌身意の内容に入らず、「見た」「聞いた」「感じた」で止めてしまうのが、サティの瞑想の原則である。
 純度の高い瞑想に集中すると、車や通行人との危険回避すら危うくなる。
 今は寂れて廃屋が点在する下館の夜の裏道は、人っこひとり出会わず、法随観に徹することができる幸せ・・。

 

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2月21日 ★ところが、以下の鯉のぼりを撮影した瞬間は、「欲界」にどっぷり漬かっていた。
 中空構造のビルを巨大な井戸のように妄想しながら、現代的建築の中を上昇していく古来の伝統と季節感を意識していた。
 事実に妄想が重なれば重なるほど、美が現われ、感動や陶酔が深まるこの世・・・。

 

 

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2月20日 ★純粋な音や視覚対象が意識されているのは「色界」だが、「想」が働くと笑い声だ、納豆だ、羽子板市だと知覚され「欲界」が始まる。
 庭に陽光が射した瞬間、緑の「色」だけに純粋に反応し、シャッターを押した。
 「庭だ」「花の終った新緑だ」という印象はなかった・・。

 

 

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2月19日 ★かすり傷のトラウマ(心理的傷痕)なら、目を背けたまま風化させ、忘却の闇に葬り去れるかもしれない。
 だが、深傷を負った場合には、言語化の力が必要不可欠だ。
 正面から向き合い、対象化し、正しく意味づけ、客観的に物語って人に伝え、共感してもらわなければ乗り超えられないだろう・・。

 

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2月18日 ★ラベリングの認識確定効果は絶大で、その瞬間の経験に結論をくだし、終了させる立役者である。
 自分の感情を自覚し、言葉で表現することに障害が起きてしまう「アレキシサイミア」(失感情症)は、ラベリングの重要さを暗示する。
 心の現象を随観する瞑想は、ラベリングなしにはあり得ない。

 

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2月17日 ★その瞬間の経験の意味が分からなければ、「呆然自失状態」とサティを入れるしかないだろう。
 サティの瞑想が難しいのは、ラベリングの言葉が瞬時に見つからないからだ。
 しかし直観や洞察の智慧は閃かなくても、四六時中いつでも頭に充満していたネガティブ妄想が止まるだけで、サティの効果は衝撃的だ。

 

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2月16日 ★「夢と現実は同じ布で織られている」と歌う詩人がいたし、栄華を極めた己の生涯を「夢のまた夢」と辞世にする天下人がいた。
 イメージと思念という名の夢が、一瞬の知覚と交差し、絡まり、ギラギラ輝きながら矢継ぎ早に崩れ去っていく。
 現実が心に焼き付けた印象も妄想も、同じ素材で織り上げられた虚しい世界からの撤退・・。

 

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2月15日 ★意識や連想の流れが詳細に気づけると、イメージや思考が飛び交う膨大な個数と速度に圧倒される。
 LED街灯、焼き鳥の匂い、電車が走り去っていく音、その一つひとつに何倍もの連想と思念がランダムに爆け飛ぶ。
 心を現実に繋ぎ止める中心対象がなくなると、時間軸を失った世界が崩壊していくような衝撃・・。

 

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2月14日 ★朝日カルチャー講座の食事会でイクラと鮭のパスタを食べ、ズシリと重たいものが胃に落ちていった。
 離乳食のような特殊な食事で20日間維持されていた体の透明感→意識の異様な透明感→瞑想の深化→という流れは、これで終りだろう。
 仕事中心に切り換えて夏にまたリトリートに入ろうと思う・・。

 

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2月13日 ★今、見ていた事、聞いていた事、感じていた事が刹那に崩壊し、次の瞬間、次の現実が心に刺さって崩れ去る・・。
 たった今、現実だったことが、各人各様に編集されたただの印象に変わってしまい、妄想の素材に一変してしまうのだ。
 ゲスはゲスの妄想世界を共有し、寺の僧達は仏の幻想を共有しながら生きている。
 認知が変わればたちまち変容してしまう概念世界。
 そんな妄想世界に執着して苦しむ虚しさが心に沁みる・・。

 

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2月12日 ★「どうしたら、この世への執着を捨てられるのでしょうか?」
 「かけがえのないものを喪失する体験と、その苦を受け容れる体験をすると、執着は激減するでしょう。
 新しい生き甲斐や拠りどころを見つけて立ち直るのではなく、事の次第と因縁の流れを徹底して理解し、心から納得して受け容れる時に落ちていくものがあります」

 

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2月11日 ★下館も日暮里も夜の裏道は人が少なく、歩く瞑想に専念しやすい。
 六門開放サティが延々と続く。
 眼耳鼻舌身意の内容に入らない決意さえ定めれば、中心対象回帰が不要の「撤退型」はサティの持続が容易なのだ。
 だが技術が完璧であっても、この世への執着が強ければ「撤退」できず、六門の情報に食いつくだろう。

 

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2月10日 ★断食後の特殊状態がいまだに維持され、心と体の透明度があまりにも良好なので、瞑想ばかりしている。
 米も魚も卵も肉も口にせず、蕎麦粉に赤ちゃん粉ミルク、プロテイン粉末、コラーゲン、ココア、オメガ3油を温牛乳で練ったものなどを食べている。
 心と体と環境を整えることが瞑想の一部、と心得る。

 

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2月9日 ★内観も瞑想も、上手くできない者が完成を目指して努力するので「修行」と呼ばれる。
 相手から受けた恩愛のみを見て、自分が被った迷惑には一切目を向けず、ただ自分がかけた迷惑だけを視る・・。
 そんな視座が揺るぎなく安定していたら、自己チューは卒業、無我の体得に大きく近づく。
 できないから、できるように頑張るのだ・・・。

 

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2月8日 ★一つのネガティブ体験が、多くの幸せな出来事を黒く塗りつぶしている。
 それを修正する前に、果たしてそれは事実だったのか。誤認や錯覚や思い込みがデッチ上げた妄想ではなかったか。まず、誤った認知を正すのが内観だ。
 妄想を投影しながら誤って認識されてきた個人史の一つひとつを、歳月が流れた今、もう一度過去を精査して正しく配列し直していく行法・・・。

 

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2月7日 ★真の内観は、自己中心的なエゴ妄想を捨て去る修行と心得る。
 膨大な愛を受けてきた親から不快な仕打ちをされたとしても、愛は愛、恩は恩、トラウマはトラウマとして個々別々に、あるがままに観じきっていく。
 どの瞬間も事実だったのだ・・。
 エゴ妄想に一方的にのめり込んで、かけがえのないものを無視しまくってきた、俺だけ、私だけの世界・・。

 

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2月6日 ★なぜ瞑想には、怒りを瞬時に消滅させる力があるのだろう・・。
 サティが入れば、猿が枝から枝へ飛び回るような思考モードが停止するからだ。
 モンキーマインドの思考が止まれば、思考プロセスから出現してくるエゴ感覚も、真夏のアスファルト路面にこぼれた水滴のように干上がっていく。
 回転する扇風機のディスクのようなエゴ妄想・・・。

 

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2月5日 ★サティを際立たせるには、ラベリングを明確に打ちながら歩く瞑想に専念する。
 サマーディを深めるには、心に刺さったトゲを抜き、体を浄化し、食を賢く制御し、身と心を静まらせる。
 智慧が閃き出るには、経験と、情報と、分析と、正しい意味づけと、空っぽの無思考状態になること、そして、人生全体だ・・。

 

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2月4日 ★短い断食が終わると通常、1週間ほどかけてゆるやかに普通食に戻していく。
 だが今回は、10日後なのにいまだに離乳食のような復食メニューを続行している。
 結果、絶好体調が維持され、あまりの透明な体感に仕事を放ったらかし、瞑想ばかりしている。
 瞑想を決定づけるのは体調だと心得、摂生に徹する!

 

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2月3日 ★誰も人が住まなくなった廃屋が点在している裏通りの夜道は、六門開放型のサティを矢継ぎ早に維持しながら、速歩の歩く瞑想がやりやすい。
 外乱をほとんど受けない環境だからだ。
 すると、心に眼耳鼻舌身の情報が触れた瞬間、必ず高速の連想がいくつも走り抜けていることに敏感になる。
 シュールな回顧録映画を観るように、かけがえもなく豊かな記憶の断片が躍動し、爆ぜ、飛び交っている・・。
 私だけの人生劇場・・。

 

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2月2日 ★因果論を学び、現象世界を司る業の法則を心得ているはずなのに、自分の事になると、滑稽なほどトンチンカンな解釈を始めてしまうものだ。
 無自覚なのか、トラウマや劣等感に目が眩むのか、宿業の突き動かす力なのか。
 人は、なぜ性懲りもなく同じ悪業を重ねてしまうかの謎・・。

 

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2月1日 ★飢えた敵には食べさせ、渇く者には飲ませよ。
 迫害する者のために祈れ。
 復讐は神がしてくれる・・と、怒りの手放し方をイエスは教えているとも言える。
 怒りを鎮めなくては、私が嫌いな人も幸せであれ、と心から祈れないからだ。
 イエスもブッダも、善をもって悪に打ち勝て、と真理を説く。

 

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1月30日 ★「復讐するは、我にあり」
 と言ったのは神なのだが、もし、この世を貫いている法則性そのものが「神」だとすると、復讐するのは業であり因果法則である。
 だから、自分に向けられた怒りと悪意に対し、言い返してはならない。 
 やり返してはならない。
 怒りと悪意を向け返してはならない・・。

 

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1月29日 ★ご馳走を用意しても、客が食べずに帰れば、料理は主のものとなる。
 そのように、怒りを向けられても受け取ってはならぬ、とブッダは言う。
 自分に向かって投げつけられた怒りも、嫌悪も、蔑みも、批判も、悪口も・・受け取らない修行だ。
 発した人がすべて受け取っていく事象の流れを検証する・・。

 

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1月28日 ★迷いもためらいもなく悪をやらせてしまう元凶は、正義という名の大義名分かもしれない。
 互いの「正義」と「正義」が最も激しくぶつかるのが、戦争である。
 自分は正しいと信じながら悪をなしていることに気づかず、苦の種を撒き散らしていることも、なぜ苦しい人生に陥っていくのかも理解できない悲しさ愚かさ・・。

 

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1月27日 ★70点の断食でも、昨夏のタイ森林僧院の時より効果があった。
 離乳食のような復食で徐々に俗世に戻りつつあったが、完全な空腹感の到来を待つうちに10数時間食間が空き、体が断食再開と錯覚するような微妙な体感になった。
 ここからの瞑想がことのほか深まった。
 日本でも修行が可能だったか・・。

 

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1月26日 ★光の如く高速展開している意識の流れや構造を、悠々と観じ切っていける明晰な視力を可能にするのが、観の瞑想のサマーディの力である。
 天賦の才能を持った定力の持主にも、体調不良か絶好調かで雲泥の差がある。
 長い断食を乳粥で解いた絶妙のタイミングで、ブッダに解脱の瞬間が訪れた・・。

 

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1月25日 ★52時間半の断食を解いた。
 70点ぐらいの結果だったが、仕事そっちのけで瞑想ばかりしていた。
 体が整えば、座禅を組むや否や禅定感覚に包まれる・・。
 この体感を得るために、辛い断食に挑むのだとも言える。
 きれいな体感→意識の透明度→禅定感→瞑想の深まり・・・。

 

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1月24日 ★絶食を開始して46時間になろうとしている。
 枯渇し疲弊の極に達すると、脱力感で何をするのも鬱陶しく、思考力が減退していく。
 ・・遠からず死んでいく老齢者の感覚はいかばかりかと想像された。
 サティを入れても明晰な意識が戻らなければ眠りに落ち、起きればスッキリする繰り返し・・。

 

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1月23日 ★久しぶりに断食をしている。
 生きていく限り、心も体も必ず汚染されていく。
 排泄しきれず、日々蓄積されていく食物エネルギーの代謝毒を、何も食べず、循環を止めて解毒するのだ。
 人類の歴史上、飢餓は常態だった。
 体の汚染には断食、心の汚染には、思考を止め情報を断食する、瞑想!

 

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1月22日 ★見ながら、聞きながら、食べながら、考えながら、一瞬一瞬経験される全ての情報、全印象を、一定の順番で、強調し、無視し、フォーカスし、並べかえ、編集し、物語らなければ、人生は大混乱の混沌状態になってしまう。
 こうして、悪意に満ち狡猾に編集された認知世界が、お人好しの世界が、共有され、真実と錯覚されていく・・。

 

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1月21日 ★言語がまとめ上げる認知世界なしには、あらゆる出来事が断片的な一瞬になり、時間の感覚も、私が「私」である感覚も不明な、恐ろしい混沌状態になる・・。
 と、7歳で初めて手話を覚えた先天性聾唖者の自伝(「かもめの叫び」)は、お互いの妄想を「共同幻想」にして繋がり合うしかない「世間虚仮」を示唆している・・。

 

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1月20日 ★夫婦喧嘩も、暴力団や会社組織の抗争も、国と国との戦争も、人は事実で争っているのではない。
 事実にどう意味付けして認識したか。
 誰もが、かってに見たいものを視て、互いの妄想がまとめ上げた認知ワールドを激突させ合っているのだ。
 恋愛も、友情も、戦いも、宗教も・・人生は虚しい。

 

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1月19日 ★暴力が振るわれている光景を見た瞬間、不快を感じるのは、脳の島皮質が発火するからだ。
 ところが、あれは村中にひどいことをした悪者が罰を受けているところだ、と説明されると、快感を感じる腹側線条体が発火する。
 同じ光景なのに、意味づけが変われば、まるで違った事実になってしまう・・!

 

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1月18日 ★人は、事実に執着することはできない・・。
 敬愛していた僧が嫌になると「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」と、着ている衣にいたるまで嫌悪する。
 崇拝されようが、憎悪されようが、当の本人は何も変わらない。
 妄想に執着し崇め奉る業を作る者がいて、憎しみ嫌悪する瞬間の業を作る者もいて、応報の業果を得ていくだけのことだ・・。

 

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1月17日 ★あらゆる人生の苦しみは、「渇愛」という名の執着が原因なのだよ、とブッダは説く。
 自分を縛りつけている最も強烈な執着を手放す感覚とは、例えば、かけがえのない存在を失う絶望に酷似する。
 その恐怖を承認し受け容れてしまえば、怖れるものが無くなっていく・・。
 束縛からの解放の道。

 

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1月16日 ★バックハウスも「三王外記」の作者も、いつの日か再び人間に輪廻転生し、故なき中傷誹謗をされ、なぜ苦しむのか解らぬまま怒りに駆られ、また人の悪口を言い続けるのだろうか。
 悪業を作ろうが善業を作ろうが、生命が苦受・楽受に泣こうが笑おうが、宇宙から見れば、そんなことはどうでもよいのだ。
 ただ厳然と因果の理法が機能していく・・。

 

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1月15日 ★世界三大悪女とも言われる西太后の極悪非道ぶりは、英国諜報員バックハウスの捏造本「西太后治下の中国」が世界中に流布したことも暴かれてきた。
 カリスマ妄想や神妄想など「共同幻想」によって大集団を一つにまとめる方策をとった人類には、嘘、噂、作り話、風評、デマ、中傷誹謗などから真実を見分ける必要が生じた。
 妄想する異常な能力を進化させた人類には、ヴィパッサナー瞑想が必須のものとなった・・。

 

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1月14日 ★徳川15代将軍の中でも随一と欧米の歴史学者から評価される綱吉の汚名は、何に由来するのか。
 野蛮な暴力装置である武断派の時代に終止符が打たれたことに怒った者が、事実と嘘を巧みに織り込んで徹底的に綱吉を貶めた「三王外記」を後世にまで流布させたからだ。
 妄想と事実が混同されない歴史はない。

 

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1月13日 ★「生類憐れみの令」は、犬を異常に愛した暗愚な「犬将軍」綱吉の悪法ではなかった。
 慈悲の瞑想の実践そのものであり、日本人の優しさの礎を築いた画期的な法令だった。
 実状を精査した欧米の歴史学者から180度覆った評価がなされるようになった。
 なぜ、こんなことになったのだろうか・・。

 

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1月12日 ★目隠しを外し「なんだ、これか」と解った瞬間、口の中の食べ物の味が一変する。
 さらに昔の印象や記憶をかぶせると、あるがままの味が変わって大嫌いや大好物になってしまう。
 味覚+嗅覚+視覚など 複数の情報をダブらせまとめる瞬間、妄想が始まり、事実が歪んでいく・・。
 サティを入れる!

 

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1月11日 ★悪と知りながら犯した不善業と、知らずに犯した不善業はどちらが重いのだろうか。
 悪いことをしている自覚があれば、止めろ、やれ、の葛藤が生じ、悪業を作る力が減衰する。
 知らなければ、何のためらいもなく、思いっきり実行する!!
 知らずに犯した悪の方が重大な不善業になる、と「ミリンダ王問経」は説く。

 

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1月10日 ★悪業を作っている多くの人には、自分は今不善業を作りつつあるという自覚がない。
 それどころか、正義を実行しているのだと真逆な思い込みをしている人もいる。
 やがてその悪業の結果が現象化すると、なぜ、こんな理不尽な苦を受けなければならないのだ!と混乱し、怒り、その反応が新たな苦を起因させる・・。

 

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1月9日 ★文言を覚えるための「慈悲の瞑想」カードが作成されました。焦茶とサモンピンクの2種類です。
 写真の蓮の花は、北海道から盲導犬と共に朝カル講座を受講されている方が栽培されたものです。
 カードは瞑想会でお配りしています。

 

 

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1月8日 ★仏教の因果論に基づけば、未来予測ができる。
 これまでに人に捧げてきた愛や優しさと同じものを受けとるだろうし、人にぶつけた怒りや残酷さと同じ苦を受け取っていくだろう。
 怒るのが当然の文脈でも、慈悲を返す人は苦を寄せつけない・・。

 

 

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1月7日 ★心底から愛されている人たちは、命がけで人を真実に愛してきた人たちだ・・。
 愛をかすめ取ることばかり考えている者たち・・。

 

 

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1月6日 ★ハメられて突き落とされたのは無念なことだろうが、そんな苦に叩かれなければ、行くべき道、進むべき方向が変わらなかったのだ、と考える。 
 一切の事象に、暗黙の天意が読み解けないだろうか。
 苦(ドゥッカ)が変える人生の流れ・・・。

 

 

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1月5日 ★人に苦しみを与え、自分は地獄へ堕ちながら、結果的に人を救っている尊い方々がいる。
 自分に苦しみ与えてくる人は、「菩薩」と心得る・・・。

 

 

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1月4日 ★苦を受けることによって、消えていく不善業があるのだ。
 堪え忍び、身軽になっていくありがたさを、泣きながらでも祝い寿ぐ・・。

 

 

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1月3日 ★爛漫と咲き乱れ、灼熱した生殖の輝きを放つ桜の樹の下では、腐乱した死体にからみついた毛根が水晶のような液体を吸い上げている・・と幻想して、圧倒する美しさに納得のいった詩人もいる。
 人は、対象が心に喚起する世界を生きている・・。

 

 

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1月2日 ★一切の妄想を排除して、物事をただ法として観ることは至難の業だ。
 人は、事実を独自のイメージとストーリーで認知していく。
 百人眺めれば、百様の桜が出現する。
 しょせんエゴに編集された認知世界に過ぎないと心得ている者もいれば、客観的な事実だ、真理だ、とうそぶく者もいる。

 

 

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1月1日 ★本生経(ジャータカ)に依れば、敵は敵、夫婦は夫婦、親友は親友として、何度生まれ変わっても同じような関係性を繰り返すらしい。
 無自覚な衝動や惰性によく気をつけて、明確な意志的行為として人生の流れを変えなければ、これまでどおり同じ不善業を作ってしまうものと心得る・・。