今日の一言 (バックナンバー) '2006年1〜12月

 

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12/31(日) 情報を等価に受け入れるがゆえに、対象の実態や実状がありのままに見える。
  現状が正確に客観視できれば、なぜそのような状態になったのか、由来や原因も見えてくるだろう。
  因果の流れを読み解くことができれば、これからどのように展開するのか想定することも可能だ。
  答えは、問題の中に内在している……。

 

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12/30(土) 「好き・嫌い」「良い・悪い」「ためになる・くだらない」……と、心が反応する前にサティを入れる。
  情報を等価に処理する訓練が、一切を平等に受け止める価値観の確立へ通じていく……。

 

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12/29(金) 自分に甘い自惚れタイプも、自分に厳しい自己呵責タイプも、共通しているのは、自己愛と我執……。
  ありのままに自己客観視ができれば、自惚れにも嫌悪にも偏らない。
  そのためのサティ……。

 

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12/28(木) 付近に水の張ってない小さな細い側溝があり、近隣の猫たちが好んで通り道にしている。
  猫の姿はギリギリのところでこちらの視野に入らず、ピンと立てた尾っぽだけが迅速に進んでいく。
  白い尾っぽ、三毛の尾っぽ、リング状の縞目が入った尾っぽが、なぜかいつも早足で移動していくのが見える。
  「(可愛い)と思った」とサティを入れる。
  幼少期に恐ろしい化け猫の挿絵を見て以来、長く猫嫌いだったが、猫の生態、性格、身体能力など、実態を正確に理解するにつれ、「嫌い」はゼロになった。
  「理解」によって乗り超えられる嫌悪……。

 

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12/27(水) ピュアなサティを持続するためには、いかなる対象にも公平な眼差しを向けなければならない。
  ものごとを等価に、あるがままに観るサティの訓練が、たえず自己中心性を修正していく。

 

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12/26(火) エゴの立場から見ているかぎり、嫌悪も反感も苦しさも何も変わらないだろう。
  苦を乗り超えるために我執を手放していくプロセスに、成長がある。

 

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12/25(月) 拒絶や否定のエネルギーからは、何も生まれてこない。
 楽しいことではなく、幸福な状態でもなく、嫌なことを手放し、苦しいことを乗り超えるときに、最も深い学びが得られる……。

 

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12/24(日) 本当に嫌なことが自然に風化していくことはないだろう。
  嫌悪が強ければ強いほど、ネガティブな執着も強くなる。
  拒絶する心、嫌悪する心、反撥する心に終止符を打つためには、一転、赦すこと、受け容れること……。

 

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12/23(土) 自分は愛されている、受け容れられている、という自信が力をもたらす。 
  ありのままに受け止めてあげられるか……。

 

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12/22(金) どのような事実も潔く引き受けていく覚悟があれば、矛盾に葛藤する自分が一本に統一されていくだろう。
  ネガティブな自分を受け容れられるか……。

 

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12/21(木) 『え、ひょっとして、私、間違っている……?』
  ……自分を対象化し始める瞬間。

 

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12/20(水) <満足し、感官に気をくばり、戒律をつつしみ行ない、食事について節度を知り、人々を離れたところで臥し座し、心について専念する、―この人は<修行僧>とよばれる。>【「ウダーナヴァルガ(感興のことば)32−27」岩波文庫】

 

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12/19(火) 体が濁れば、意識も濁る。
  浄らかな心と集中した心を得るには、瞑想修行のテクニックよりも、摂取する食物の分量とバランスを整えた方が早いのではないか……。

 

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12/18(月) 食べ過ぎが、諸悪の根源……。

 

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12/17(日) 思考が止まったサティの連続状態の中で、事象の無常性が目の当たりになっていくとき、渇愛を起こし、執着できるのは、心の中のイメージと妄想に対してだけなのだと知られる……。

 

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12/16(土) 普通に生きているかぎり、本当のことは何もわからない無明のシステムならばこそ、ものごとをありのままに観るサティの訓練……。

 

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12/15(金) 黒白がいちだんと明確化され、善悪も快・不快の度合いも誇張され、単純化され、漫画や絵本のように変質した記憶の集積……。
  過ぎ去ってしまえばすべてが夢のような事柄ばかりなのに、なぜ、鬼のように激怒し、身を焦がすほどに恋着し、烈しく号泣慟哭してしまうのだろうか。
  未来の経験事象を規定する、業のエネルギーをほとばしらせながら……。

 

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12/14(木) 物事をありのままに如実智見するのがいかに難しいことか……。
  ヴィパッサナー瞑想を実践すれば、誰でもが思い知らされることだ。
  自分自身の諸々の喜怒哀楽の経験を、自分は果たして正しく認識し、正確な記憶として留めてきたのだろうか……。
  誤解と錯覚に満ちた一瞬一瞬の認識が、さらに歪んだ記憶に変形していくとしたら、自分の人生とは何だったのだろう……。

 

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12/13(水) 価値あるものが手に入った時には、同じ重さの徳(善業の集積エネルギー)が費消されたのだと考える。
  かけがえのない大事なものを失った瞬間は、失う原因となった負のエネルギーが消えた瞬間でもあり、負債返しなのだという理解……。
  獲得すれば喜び、失えば悲しむのが世間だが、本当は、エネルギーの収支が吊り合った現象が転変しているだけではないか……。

 

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12/12(火) 強盗や詐欺集団に布施をしても世の中全体が悪化するだけだが、衣を着た聖者への供養は、ダンマの伝播を通して必ず世の人々を利益することになるだろう。
  その比丘がもし返礼やお返しをすれば、在家の供養はただのギブ・アンド・テイクになり、徳を積んだことにはならない。
  田植えをすればやがて米の収穫が得られるように、一方的に供養のエネルギーを受け取ってくれる有徳の存在は、在家の未来に「幸福をもたらしてくれる稲田」の意味で<福田(ふくでん)>と言われる。

 

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12/11(月) 初めてミャンマーで修行したヤンゴンの瞑想センターでは、寺の修理やクーティの工事に出入りする労働者の、貧しい服装に眼を奪われた。
  ボロボロに擦り切れて布地が半分以上失われた、雑巾のような汚いシャツをまとっていた。これなら、裸のほうがマシではないか……。
  そんな貧しい人々が、自分たちには口にもできないような美麗な食物を、托鉢の比丘に捧げているのだ、という話を何度耳にしたことだろう。
  そのように供養する人々の存在と、また、それだけのものを平然と受け続けてきた福田(ふくでん)としての比丘という存在によって、私たちの手に伝えられてきたヴィパッサナー瞑想……。

 

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12/10(日) タイの僧院でインストラクターだったドイツ人比丘Sは、誰からも好かれ、托鉢に出ると毎回、持ちきれないほどの供養を受けていた。
  面接が終ると、「ランチの時に食べなさい」と、お裾分けに預かることもしばしばだった。
  同様に出家されたDという比丘は、隊列を組んで同じように托鉢に出るのだが、なぜか、いつも鉢の中は乏しかったという。
  過去世の徳のちがい、波羅蜜の差が現れているのだろうか……。

 

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12/9(土) 豪雨の飛沫が霧のように漂い、水墨画のような夕暮れの光景だった。
  寺に布施をし、比丘を供養し、仏教を人生の指針としてこのように徳を積み重ねてきた者が、やがて波羅蜜(善行の集積)の熟した生涯で、出家の機会が得られるのだろう。
  何度か出家を勧められ、またこちらから申し出たこともあったが、いつもなぜか話が流れてしまう自分には、それだけの徳がなかったのだ。
  背水の陣で、瞑想に取り組むほかなかった……。

 

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12/8(金) ミャンマーの森林僧院で、3ヶ月の雨安居の瞑想修行に専念していた。ある日、地上を叩きつけるような激しい豪雨の中、夕刻のジュースを届けるために、比丘のクーティ(独居坊)を一軒一軒訪れていく男の姿を目撃した。
  無給で寺の調理を担当している足の悪い方だった。大きなヤカンを提げ、黒い蝙蝠傘を差し、一歩ごとに体を大きく揺らしながら、ぬかるみの中を懸命に歩いていた。
  自分は比丘になることも、瞑想の修行をすることもなく、ずぶ濡れになって、こうして比丘に篤い供養を捧げながら生涯を終えていくのか……と、一瞬の思考が流れ、胸を打たれた。

 

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12/7(木) 無理に諦めれば、悲しくなったり、投げやりになったり、喪失感に襲われるだろう。
  「もう、これは、いい……」と心から手放せた瞬間、喪失感ではなく、身も心も軽くなるような解放感がある。

 

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12/6(水) 戒の修行が進めば、心が乱れなくなる。
  思考が止められ、一瞬一瞬の事実のみがダイレクトに確認されていく……。 
  閃きの瞬間、脳のさまざまな領域が一斉に賦活状態となり、その結果の確信的な理解が、ラベリングによって心に刻み込まれる……。

 

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12/5(火) エゴレスの感覚、客観視、正確なサティの持続、集中の高まり、閃きの瞬間……。
  理解した瞬間に言葉が浮かんだのか、言葉が浮かんだ瞬間に理解されたのか……。

 

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12/4(月) 認識が確定すれば終りにすることができ、離れることができる。
  モヤモヤしていたものに、明確な言葉が与えられた瞬間……。

 

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12/3(日) 自分が今、何を経験しているのか……解らないのだ。
  圧倒的な出来事、混乱した出来事、まったく未経験の初めての出来事、上の空の出来事、反射的に眼を背けたい出来事……。
  事象の本質を洞察する力は、訓練によって得られる。
  経験の意味を正しく認識できるのも訓練による。
  サティを入れ客体視する訓練、最適切なラベリングの言葉を選ぶ訓練……。

 

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12/2(土) 思いやりや優しい動機に端を発しているのだろうが、相手の心が見えていないのではないか。
  ……一方的なエゴの立場に立っている自分に気づく、対象化する、客体視する。

 

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12/1(金) 無理やり押しつけられる善意は、ほとんど悪意に近い。

 

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11/30(木) <彼らは過ぎ去ったことを思い出して悲しむこともないし、未来のことにあくせくすることもなく、ただ現在のことだけで暮らしている。
  それだから顔色が明朗なのである。
  ところが愚かな人は、未来のことにあくせくし、過去のことを思い出して悲しみ、そのために萎れているのである。―――刈られた緑の葦のように>(サンユッタニカーヤT(神々との対話)1−1−1−10)

 

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11/29(水) 何も夢見ず、求めず、静かに、力強く、慈悲の実践に徹しながら、生き生きと輝いている聖者たち。
  どのような環境にいても、ただ与えられたものをことごとく受け取りながら、悠々と、至福の日々を生きている……。

 

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11/28(火) 目標が設定されなければやる気が出ないし、夢や希望がなければ生きられない
ではないか……。
  だが、目指したものが得られなければ、失意、失望、幻滅、挫折、落ち込み、絶望……に打ちのめされる。
  夢が叶った感動も、達成した瞬間から色褪せて、終りなき不満足性が出現してくる……。

 

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11/27(月) 夢の実現に向かって全力をつくせば、そうなれるかもしれない……。
  なれないかもしれない……。
  自己嫌悪の淵源は、「あるべき」理想の自分とありのままの自分とのギャップにある。

 

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11/26(日) 意味のないものが来ることはない。
  良いものであれ、悪しきものであれ、自分に与えられているものをことごとく受け取っていく覚悟。
  私よ、幸せであれ……。

 

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11/25(土) 本当に人を愛したいのなら、いや、本物の慈悲の心を発露させたいのなら、まず自分自身を赦し、受け容れ、愛さなければならない。 
  自分を責め、自分を嫌悪し、舌打ちしながらダメ出しするのを止めなければならない。
  自分を嫌っている人からは、素直さも優しさも安心できるあたたかみも伝わってこないよ……。

 

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11/24(金) 残酷なまでのエゴイズムが生命の根源に組み込まれているのも確かなことだが、人のためになりたい、皆を喜ばせたい、皆が喜ぶのを見たい……という利他的衝動も心の深い階層に組み込まれている。
  純粋な慈悲の心が発露するのは至難の業だが、もし存在になんの根拠も持たない絵空事のコンセプトであるなら、お釈迦さまにも阿羅漢の聖者にも誰にもできないものとなるだろう。
  どんな人の心にも、慈悲の発露する可能性がある……。

 

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11/23(木) 謙虚な心、へりくだる心、自己を省みる心、謝る心、懺悔する心、感謝する心……に自然になれた時、人のためになりたい、善いことをしたい、徳を積みたい、心をきれいにしたい……と素直に思えた時、なんとなく優しい心でいっぱいになった時……。
  ピュアな慈悲の瞑想ができる……。

 

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11/22(水) ああ、自分は今まで、人の幸せを祈るようなことなどまったくしてこなかったな……。
  そんな感慨が心に沁み入るような気持ちになると、慈悲の瞑想がうまくいく……。

 

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11/21(火) 苦を回避すれば、安楽に生きられ、安楽に死んでいける。
  苦を引き受ければ、智慧が磨かれ、心が成長する……。

 

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11/20(月) これはたまらん……と逃げ出したくなることもあるだろう。
  敢えてドゥッカ(苦)を引き受けることもない。
  だが、到底回避できないと判明した時点で、心は一転、どうしたらこのピンチを乗り切れるだろうか、と全力で取り組み始める。
  ……そうやって、生きものは進化してきたし、人の心は成長していく。

 

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11/19(日) 3ヶ月間の集中瞑想によってもたらされた体験が、初心者のわずか2泊3日の短期合宿でも起こり得るとは驚きだった。
  新鮮な興味と好奇心から生まれる初々しいエネルギー、言われた通りに淡々と実行する素直な心、たまさか維持された善心所モード……等々がもたらしたビギナーに特有の快事かもしれない。

 

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11/18(土) 短期合宿に参加された、別の初心者の方からのメール。
  「……本の裏表紙に書かれていた、人脳コンピューターのバージョンアップ状態をそのままに体験しています。日常のあらゆる場面でサティを入れる意識を続けていましたら、思考が見えてきたり、集中力がムチャクチャ上がったりとかして、日々驚きの連続です。潜在能力が開花したような感覚です。
  内観の視点も日常に組み込んでいるのですが、目線が完全に変わり、たえず感謝の気持ちが湧き出てきます。今まで知識として持っていたバラバラの内容がきれいに整理、連結されて、発想として浮かんでくる連続です。
  ヴィパッサナー瞑想は、瞬間の感覚に集中させることによって、<今ここ>に自分を連結させる究極の実践方法なのですね。毎日自分がどんどん変化していってるのですごい楽しみです……」

 

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11/17(金) ヴィパッサナー瞑想の短期合宿に参加された、超初心者の方からのメール。
  「……合宿から帰った翌日、仕事の処理能力が驚くほど早く、頭の回転が速くなっていました。それはまさしく『ブッダの瞑想法』にも書いてあった、<人脳コンピューターのCPUがバージョンアップされ、処理速度が格段に速くなったような印象>そのものでした。
  このまま続けば私はすごく仕事が出来る人間に大変身を遂げることとなったのですが、残念ながらそれは1日しか持ちませんでした。しかし、私の中の芯に変化の兆しが今なお残っており、今後の修行次第ではそれが持続できるのではないかと思っています」

 

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11/16(木) 幸せな楽受の連続の中で、おもしろおかしく日々を過ごして死んでいくのが果たして良い人生なのか……。
  不幸な出来事も悲しい出来事も、事の由来を正しく見究め、学ぶべきを学ぶことによって、かけがえのない宝になる。
  心が変われば、心の中の「事実」が変わる。

 

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11/15(水) 自己愛と自己嫌悪の愛憎並立、やりたい心とやりたくない心の矛盾、事実に気づく心と隠す心……。
  自分自身の中で対立し、打ち消し合っていた心のエネルギーを、生産的に、建設的に、善行の実践のために、自己変革の仕事のために、100%出力する。
  私よ、幸せであれ……と心から祈り、自分自身と和解する……。

 

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11/14(火) 心の中で繰り返される葛藤のために、どれほどのエネルギーが費消されてきたことだろう。
  嫌な自分から眼を背け、心の底に抑圧していく仕事には、さらに多大なエネルギーが費やされる。
  起きた出来事をありのままに認めた瞬間、自滅に向かっていた負のエネルギーが終滅する……。

 

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11/13(月) どうしても赦せなかった自分を赦すことが出来たならば……
  何も変わらないダメな自分、醜い自分、弱い自分をありのままに受け容れることが出来たならば……
  否定する心、拒む心、嫌う心、怒る心が、解放されていないだろうか。
  手放せば、軽くなる……。

 

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11/12(日) 手放す瞬間、与える瞬間、身も心も軽くなる……。 

 

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11/11(土) お世話をし、ケアする立場や情況に身を置けば、慈悲の瞑想が熟していく。
  受け取る側から、見守り与える側への意識の転換。
  地位や情況が人を作り、心を育てる。
  気をつけて、環境を、選ぶ……。

 

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11/10(金) 悶々と葛藤している状態も、眼前のものを叩き潰そうという戦闘モードも、厖大なエネルギーを出力させる 。
  なにも反応せず、ただありのままの状態に気づく受身の心でいれば、すべてはその瞬間にひとりでに崩壊し、変滅していく……、無常の法則に貫かれて。

 

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11/9(木) 一瞬一瞬にサティを入れ続ければ、混乱は治まり、心は整理されていくだろう。
  乱心乱想が鎮まって、心が静かに統一されていくと、五感の官能レベルを超越した喜と楽に満たされていく……。
  瞑想がもたらす、透明に澄みきった喜悦の世界……。

 

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11/8(水) 心を混乱状態にしなければ、貪りの煩悩に耽ることはできない。
  知覚→妄想…、知覚→妄想…、知覚→妄想…の連続状態で、快楽を貪る……。

 

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11/7(火) 体を整え、心を整え、環境を整える……。
  美味よりも食材の栄養素を重視することによって。
  心に悔いることや責めを負うところはないか、ダンマに照らし合せて愧じるところはないか、常にスッキリと爽やかな印象が保持されているか……等々を点検することによって。
  戒を守り、クーサラ(善行)を積み重ね、カルマを良くすることによって。
  ……良い瞑想のための心得は、幸福の条件。

 

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11/6(月) <悪魔パーピマンが言った、
  「子女のある者は子女について喜び、牛のある者は牛について喜ぶ。人の執着する拠りどころのものは喜びである。執着する拠りどころのない者は、実に喜ぶことがない」
  師は答えた、
  「子女のある者は子女について憂い、牛のある者は牛について憂う。実に人の執着する拠りどころのものは、憂いである。執着する拠りどころのない者は、憂えることがない」>
  (スッタニパータ第1章 第2節33、34)

 

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11/5(日) 貧しいのも、汚いのも、低いのも、不快なのも……嫌だ。
  豊かなもの、美しいもの、より高いもの、快適なものを、豊富に獲得すればするほど幸せの度合いが増すのだというこの世の幸福原理……。
  本当に、そうだろうか。
  捨てられない、大事なものが増えれば増えるほど、ズッシリと肩の荷が重くなるのではないか……。

 

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11/4(土) なんの価値もなくなり、打ち捨てられて、虚しく収納スペースを増やしていただけなのに、
  「これ、イイな。素敵!……ね、ちょうだい、頂戴!」
  と言われた瞬間、急に惜しくなり、
  「ダメ。あげない……」
  脳の中でテープが巻き戻され、初めて出会った頃、眼にくっ付けていたウロコがもう一度、再付着する……。

 

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11/3(金) 手に入れるまでのハラハラ・ドキドキ・ワクワク感も、達成した瞬間に終滅する。
  あんなにスリリングで、蠱惑的で、甘美だった妄想が、ただの現実になりさがる。
  もはや甘くチクチクと刺戟されることもない、退屈な、当たり前の、変哲もない日常性に降格してしまう。
  達成したら、妄想続けられないじゃないか……。

 

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11/2(木) 食べれば排泄しなければならないように、存在するものには必ず負の側面がある。
  際限のないイイトコ取りも、不快要素のお望みどおりの捨象も、何デモアリの妄想世界。 
  今、眼前に存在しないものが、欲望を生む……。

 

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11/1(水) 欲の貪りも怒りも高慢も手放し、執着を捨てていく瞑想に足を踏み入れたのだ。
  この世の価値を捨てたのだから、瞑想だけは誰にも負けたくないと命懸けの修行に励む……?!

 

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10/30(月) 球技も格闘技も水泳や陸上のどんな競技も、初歩的な基本をマスターし、段階的に技を習得しながら高度な段階に進んでいく。
  究極を極めるには、多大な時間とエネルギーを捧げて日々の研鑽を怠らない。
瞑想を究めていく場合にも、同じプロセスを経なければならないのは自明なはずなのに、すぐに結果を求めたり、高度なことをやりたがる人が多いのはなぜなのだろう。

 

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10/29(日) 失敗しても失敗してもねばり強く繰り返してきたものが、深く静かに醗酵し、突如、踊り出る……。 

 

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10/28(土) 「眠気」とサティを入れていたが、眠気に伴った頭重感に対して「嫌悪」というラベリングが浮かんだ瞬間、すべてが雲散霧消したという。
  自分の意志とは無関係にラベリングが飛び出していた。
  その一瞬の「視座の転換」……。

 

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10/27(金) 何度聞いても右の耳から左の耳に抜けていた事柄が、ある日突然、ピンと閃き、心を直撃する……。
  概念世界が展開している領域とは別次元の深層で、本心のプログラムを管理している司令塔が情報を受け取ったのだ。
  いささかも思考が投影されていない、法の世界に触れることによって……。

 

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10/26(木) 本を読み、人の話を聞く。
  知識と情報を基にして、自分の頭で考察し、納得のいくように理解する。
  だが、時間が経てば印象が薄らぎ、忘れてしまう。
  思考回路から来る認識は、心の深層に響かない。

 

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10/25(水) 本物のサティが入った瞬間、眠気という現象も嫌悪という心的状態も突然、終りになる。
  事象を次々と相続していく心の流れに楔が撃ち込まれ、後続が断ち切られるからだ。
  思考プロセスが停止した瞬間、意識にダイレクトに提示された事象の真相……。
  その洞察の智慧は、心の深い階層にまで衝撃を伝えるだろう。

 

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10/24(火) 「眠気」や「嫌悪(痛みに対する)」といくらサティを入れても、相変わらず眠いし、痛みを嫌う心は一向に変わらない……。
  そんな空振りのサティを、何度繰り返してきたことだろう。
  ところが、突然、自分の意志とは関係なくラベリングの言葉が勝手に飛び出していくと、劇的に眠気も痛みも消失していた……。
  そんな本物のサティの威力に、当人がビックリする。

 

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10/23(月) <善いことをした人は、この世で喜び、来世でも喜び、ふたつのところで共に喜ぶ。かれは、自分の行為が浄らかなのを見て、喜び、楽しむ>【「ダンマパダ(真理のことば)1−16」岩波文庫】

 

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10/22(日) 「……面接で歩行瞑想の具体的で綿密な指導を受け、え!?という驚きとともに雲が晴れたようにすっきりとしました。
  よし!やってみよう!これならできそうだと感じました。それからは自然に集中することができ、妄想が極端に少なくなり、頭がすっきり、クリアーになっていきました。
  座る瞑想も、おなかの膨らみ始めるその瞬間、縮み始めるその瞬間に注意を集中してみると、格段に集中力が変化するのを感じました。
  また、五戒は自分自身を守ってくれるものであると確信しました。方向が定まると本当にすっきりしてくるものだと感じています……」

 

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10/21(土) 「…合宿後、仕事に戻ってから、なにか流れがスムーズで、すべてがスラスラと流れていきます。
  採血しても赤ちゃんが泣かなかったり、逆子の子が直ったり、産後の多量出血のときの対応がとても迅速かつ的確にできて大事に至らなかったり、ひっかかりがなくなったようで、軽く、さわやかなのです……」
  センセーションに集中するとはこういうことか……と、感動の連続で初めての短期合宿を終えられた方からのメールです。

 

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10/20(金) 快楽の後の虚しさとドゥッカ(苦)を熟知しながら、なぜ、性懲りもなく甘美な誘惑にハメられてしまうのか。
  目くるめく快楽の陶酔は、眼耳鼻舌身の五感から得られた情報とその刹那に飛び交う厖大な妄想イメージのゴッタ煮状態に由来するのだという事実……。
  厳密なサティの瞑想で存分にその消息を検証し、快楽を貪る虚妄を捨てて、出世間を目指す……。

 

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10/19(木) トラウマもスネの傷も、所詮、因果の必然の力でわが身に生じたことではないか。
  もしネガティブな過去を、ありがたいものとしてことごとく受け容れていくことができるならば、そのとき、色声香味触法の世界に束縛される鎖が外れるだろう。
  出世間を目指す……。

 

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10/18(水) 「過去には諸々の過ちを犯してきたが、今、私は、なんらの悪もしていない」
  堂々と、天に向かって愧ずるところのない心に、きれいなサマーディが生じる。
  色声香味触法の対象を貪ろうとする欲界の心を離れて、出世間を目指す……。

 

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10/17(火) 想いの世界が浄化されていけば、欲望や怒りに振り回されなくなるので、心は安定するだろう。
  心が乱れなくなれば、狙い定めた瞑想対象にすべての注意を絞り込んでいくことができる。 
  集中のファクターが成長し、サマーディが完成に近づいていく。
  瞑想修行は、「もう悪いことはしない。善いことのみを行なっていく」という静かな決意から始まっている……。

 

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10/16(月) 言動において過つことがなければ、立派な社会人と見なされる。
  だが、もし悪い思考が暴れまわり、想念の世界が貪・瞋・痴に汚染されていれば、内面的に苦しい人生を送ることになるだろう。
  悪い想念に素早く気づき、サティを入れて手放していく。
  乱れた心がシーンと静まっていく……。
  ヴィパッサナー瞑想の真骨頂である。 

 

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10/15(日) 言動に何の問題もない、立派な人格に磨き上げてから、本気で自我を乗り超える「無我」の修行に着手する……。
  「戒の修行」から始めるということ。

 

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10/14(土) 劣等感やトラウマから解放される。
  人の心を思いやり、適切な配慮ができる。
  普通に人の話を聞き、自己を表現することができる。
  ……そんな当たり前の「大人になる」ことが容易ではないのだ。
  自我の確立が不全なまま、自我を超越する仕事はできない。

 

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10/13(金) 「われ感じる、故に、われ在り。……われ見る、われ聞く、われ匂いをかぐ、われ味わう、故に、われ在り」
  「見るのは、聞くのは、匂いをかぐのは、味わうのは、感じるのは……私だ。
  諸々の経験をしているのは、僕だ!
  考えている私も否定できない。感じている私も否定できない。
  どうしても、私がいる……!!」
  と、妄想しているのです。

 

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10/12(木) 「われ思う、故に、われ在り」と言ったフランスの哲学者がいる。
  確かに、思考のプロセスからエゴが生まれる。
  サティを入れて、その思考を対象化した瞬間、エゴ感覚も客体化されてしまう。
  ……サティが止まれば、エゴが出る。

 

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10/11(水) 良い瞑想ができると、誰でも嬉しくなる。
  達成感や充実感と同時に、得意な気持ちにもなるだろうし、急に自分が偉くなったような気がするかもしれない。
  この時もし「慢」というサティを入れ忘れると、悲しいほど滑稽なことが起きる。
  心をきれいにするヴィパッサナー瞑想がとてもうまくいった……と天狗になる!?

 

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10/10(火) 最悪の事態を想定して万全の備えをするのは大事なことだが、最後は、心を空っぽにして一瞬の直観と洞察に従ったほうが良い。
  仕込むべきものを仕込んだら、放下して、即興でいく……。

 

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10/9(月) 何が起きるか分からないのが現実の世界だ。
  人は、頭の中で想定されたもので苦しむ……。

 

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10/8(日) 会議が終った。
  雨は本降りの様相を呈し、降り続けていた。
  ザワザワと帰り支度にはなったものの、茶を飲みながら雨足の弱まるのを待っていると、いち早く帰ったと思われた方が、全員分の新品の雨傘を抱えて戻ってきた。
  「皆さま、どうぞお遣いください」
  予想だにしない展開に、鮮烈な印象を受けた。

 

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10/7(土) 先週のことだが、日暮里の事務所で会議中に、雨が降り出し、雨足がしだいに強まっていった。
  「どうしよう。傘を持ってこなかったな……」
  傘を持たない人が多かった。
  「大丈夫です。今までに止まなかった雨はありませんから」
  皆、爆笑した。
  無常論を説かれると、不思議に納得し、受容的になりますね……。

 

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10/6(金) 苦受・楽受は、眼耳鼻舌身意から受け取る刺戟の質と強さによって、六門のセンサーが自動的に提示する検出結果である。
  苦楽の受そのものを、心理的に編集して歪めることはできない。
  一方、<幸・不幸>は心理的印象であり、必ずしも<楽受→幸福>・<苦受→不幸>の矢印通りとは限らない。
  例えば、鍼灸の苦受を心地よい幸福と感じることもあれば、甘美な誘惑の楽受を不幸の始まりと捉えることもあるだろう。

 

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10/5(木) 楽しみも苦しみも、不幸な印象も幸福感も、ただ因縁によって生起しただけのことであり、必ず変滅し崩壊していくのだ。
  そうであるならば、苦受を苦受としてありのままに経験し、楽受を楽受としてありのままに確認して、静まっているのはどうだろうか……。
  サティを入れる……。 

 

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10/4(水) 何ごとも、受けるべきものを受け切ってしまえば、終りになるだろう。
  原因となるエネルギーを、心が再生産しないかぎり。
  苦しみもなくなっていく……。
  幸福もなくなっていく……。

 

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10/3(火) 現象が生滅し転変する世界では、「与えれば、与えられる」法則が働いている。
  愛であれ、怒りであれ、何であれ、与えたものと同じものを、いつか必ず受け取らなければならない……。 

 

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10/2(月) 与えるだけでも、いいではないか……。

 

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10/1(日) 本当に誰も愛してくれる人がいなかったら、子供が育つことはない。
  とっくに死んでいただろう……。
  どんな人であれ、今、生きているという事実が、愛されてきたことの証しだ。

 

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9/30(土) 劣等感やトラウマ(心理的外傷)を始め、悪しき過去、悲しい過去、抑圧しなければいられなかった出来事を、その時、どのように情報処理し、判断し、認識し、記憶のフォルダーに収めてきたのか……。
  自己中心的な思い込みで編集され、歪められてしまった記憶の数々を、もう一度ありのままに正しく追認し、正しいオーダーに再配置する。
  過去から解放されるということ……。

 

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9/29(金) 両親や祖父母、兄姉など、幼少期に接触した人間から刷り込まれたものによって、人間関係の持ち方や感受性の原型が培われていく。
  問題のある反応パターンが幼児期に刷り込まれたのであれば、その修正をライフワークにしなければならない。
  鳥類などの刷り込みは決定的だが、人間の心ははるかに可塑性に富むので、希望がある。

 

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9/28(木) いちばん悪いのは、遺伝情報かもしれない。
  食欲も性欲も嫉妬も慢も闘争本能も、命の根源に組み込まれている情報のほとんどは煩悩ばかりではないか。
  利己的な本能のプログラムを理性の脳でコントロールしないかぎり、ケンカも不倫も万引きも嘘もダマシも、性懲りもなく繰り返されていくだろう……。

 

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9/27(水) 多くの生物が、遺伝的に決められた反応パターンだけで行動する。魚も昆虫も単細胞生物も、ただ遺伝情報の指令を忠実に実行しながら生涯を終えていく。
  哺乳類や鳥類になると、誕生後の一定期間に刷り込まれた情報が心の深層に強力に焼き付けられ、第2の本能となる。
  そして、人間は、遺伝情報と刷り込みを基盤にしながら、一瞬一瞬のすべての経験を通して、その人独自の心の反応パターンを形成していく。
  遺伝情報か、刷り込みか、反応系の心か、どこかに問題がないか……。

 

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9/26(火) いつでも同じパターンで争ったり、惚れ込んだり、別れたりしていないだろうか。 
  なぜ、人は同じ過ちを性懲りもなく繰り返してしまうのだろう……。

 

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9/25(月) 心を浄らかにするためのあらゆる営みに総力戦で臨むことを、<衆善奉行>という。
  心の反応の仕方や認識の仕方を根底から変えていく、清浄道の瞑想……。

 

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9/24(日) 始まりがあれば終りがある。
  癒やしの時間が終れば、またドゥッカ(苦)の現実に帰っていかなければならない。
  気持ちよく癒され、フル充電された心と体で、元気いっぱいドゥッカ(苦)に対処していく。
  これまでと同じ感受性、同じ情報処理の仕方、同じ発想のパターン、同じ反応系の心で……。

 

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9/23(土) 瞑想修行の最も重要なファクターの一つは、散乱する心を一点に集中させることだ。
  一点集中がうまくいけばいくほど、嫌なことを忘れることができる。
  お気に入りの瞑想対象に気持ちよく没入して、甘美な一時を過ごせば、不快な出来事や諸々のストレスが緩和されるだろう。
  お金もかからず、好きな時に、好きな場所で、好きなだけできる最高の癒やし……。

 

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9/22(金) なぜ、誰の人生にもドゥッカ(苦)が発生してしまうのか。
  根本的に問題を解決することもできるのだが、そうする人は少ない。
  嫌なことから逃れるために、さまざまなやり方で快情報や癒やしを求め、あるいは、諸々の強い刺戟や昂奮にのめり込んで気分転換をはかる。
  そんなメニューの一つとして瞑想をするのも、良いのではないか……。

 

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9/21(木) 現実逃避から瞑想に着手する人も多い。
  自尊心と劣等感のはざまに揺れ動きながら、一瞬にして至高の境地に突入できないものかと夢見ている……。

 

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9/20(水) D→個人の内的条件がどのように整おうとも、諸々の環境因子が絶妙のタイミングで結晶し、助けられないかぎり、高度な洞察の智慧が閃くことはないだろう。
  智慧が出るのも出ないのも、最後は各人の<徳>や<波羅蜜>の集積に因る。

 

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9/19(火) C→幅広い知識、正しい情報、正確なデータを蒐集する。
  どのような経験もその意味を究明し、学ぶべきことを学ぶように心がける。
  我執にとらわれない、ウペッカ(捨)の精神で、公平な視座を心がける。

 

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9/18(月) B→明敏な心とは、善心所モードで脳が敏速に活動している状態である。
  善心所をいかに作りキープするかは定番のメニューをこなすとして、脳を速く動かすためには脳の筋トレをするとよい。
  例えば、カシャッとカメラのシャッターを切るように、一刹那に読み取れる情報量を最大にしようと集中する<瞬間視>。
  あるいは、走り去る車のナンバープレートを読み取ろうとしたり、電車の外を流れていく至近風景を読み出そうとする動体視力のトレーニングなど。
  曇りのない俊敏な善心所モード……。

 

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9/17(日) A→エゴに固執すると頑固になる。
  自分を信じていないと、人を信じることができない。
  疑い深くなれば、心は常に揺らいで落ち着かないだろう。
  素直な心は生得的な要素が強く、幼児期の刷り込みの影響も大きいが、永遠に固定したものではない。
  ……心がフッ切れて迷いが晴れた状態を目指す。

 

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9/16(土) @→ネガティブな過去を手放すためには、己の非を認める潔さがなければならない。自分に言い訳をしながら束縛されている愚を覚る。 
  未来に眼を向けるために、二度と同じあやまちを繰り返さないと誓う。
  五戒を守って、これから善をなしていけばよいのだ。
  自分のしたこととしなかったことだけを見て、過去から解放されるために、「懺悔の修行」がある。

 

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9/15(金) 智慧が出るためには、
  @やましさや後悔、後ろめたさ、自責の念、罪業感などの束縛から完全に解放されなければならない。
  A素直な心でなければならない。 
  B明敏な心でなければならない。 
  C豊かな心でなければならない。
  D環境が整い、諸々のタイミングが絶妙に整わなければならない……。
  さて、どうすればよいものか……。 

 

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9/14(木) 智慧が閃く条件は、まず、戒(=徳)の修行が進み、心の反応パターンが本当に浄らかになること。
  ダンマが血肉化すること。
  あらゆる善行をなし、波羅蜜のエネルギーが集積されていくこと。
  要するに、衆善奉行に徹していくこと……。

 

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9/13(水) 力を尽くして精進すれば、思考の干渉が完全に止まり、集中がいや増し、ピュアなサティが切れ目なく連続する状態に達することができる。
  だが、そこから先、洞察や悟りの智慧が閃く人もいれば、閃かない人もいる。
  その差はどこから来るのか。
  どうすればよいのか……。

 

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9/12(火) こうして、無思考状態になってサティに専念する準備が整ってくる……。

 

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9/11(月) 聞法によって理解したダンマを、経験や諸々の具体例に即して、徹底的に考え抜く。
  類似性や共通性を敷衍してみる。
  正反対の立場に立ってみる。
  ……あらゆる角度から考察を深めていくと、やがて、外部から取得した情報なのか、自分の中から自然に発生したものなのか分からなくなってくる。
  ダンマが血肉化する……。

 

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9/10(日) 同じ失敗を繰り返さないためには、現象世界の消息と、心の仕組みと、苦が発生する構造を正しく理解しなければならない。
  仏教が提示するドゥッカ(苦)を超克する道……。

 

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9/9(土) 経験を記憶に留める学習脳を持たず、経験の意味を抽象する能力もない家畜や鳥や魚などは、永遠に同じ苦しみを受け続けるだろう。
  叩かれ、襲われ、餌食にされる苦受を経験するたびに、嫌悪や恐怖や怒りの反応も生じるだろう。
  それが原因となって、さらにエンドレスの苦を未来に受け続けるだろう。

 

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9/8(金) イヤというほど苦渋を嘗めながら、同じ失敗を繰り返すことにも意味がある。
  心底から思い知った時に、すべてが変わり始める……。

 

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9/7(木) 何度痛い目にあっても、今度こそは、と甘美な夢を見ながら年老いていく……。

 

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9/6(水) 手に入らなければ欲求不満やコンプレックスになり、手に入れても、貪欲から、色褪せていく充足感から、失望から、傲慢から、ワガママから、エゴの暴走から……と、さまざまなドゥッカ(苦)のバリエーションがある。

 

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9/5(火) だが、そのドゥッカ(苦)を存分に味わって卒業したほうが、無我を悟る修行に専念しやすいのかもしれない。

 

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9/4(月) エゴが泣いて喜ぶような愛ですか?
  感動も深いだろうが、ドゥッカ(苦)も大きくなる……。

 

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9/3(日) 過ぎ去ってしまえば、夢のようなことばかりではないか。
だからなんの見返りも期待せずに、一所懸命、淡々と、善をなし、慈悲の実践に励んでいく……。

 

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9/2(土) 心を浄らかにする道を歩み抜いていく覚悟……。それが定まってさえいれば、どのような事象からも深い学びが得られるではないか。
  良きことよりも悪しき事柄の方が、多くの価値あることを教えてくれている。
  万物の等価性に得心がいくにつれ、現象世界の一切のものをありのままに受容する度合いと、離欲の度合いが深まっていく……。

 

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9/1(金) 蜂に刺された痛みが長びくことはなく、激しい苦受はその時だけのものだった。
  むしろ、朝日カルチャー講座の直前に顔が腫れ、赤鼻のトナカイのような滑稽な姿を人目にさらすことの方がドゥッカ(苦)だったかもしれない。
  してみると、満座の前で人をやり込めたり、恥をかかせたりしたような不善業の結果、今、「合わせる顔がない」という精神的苦受を受けているのかもしれない、という解釈も成り立つ。
  ……いかなる生命も傷つけない。人に恥をかかせたり、名誉を傷つけるようなことをしない、と誓いを新たにする。

 

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8/31(木) 蚊も羽虫もゴキブリも室内に紛れ込んだ虫たちはすべて、熟練の技(?)で捕獲しては屋外に逃がして殺生戒を守ってきた。その厳密さに比例して、怪我や病気が激減していった。
  それでも成功率は100%にはならず、時には手元が狂い、死に至らしめてしまったこともある。京都の合宿でも、スズメ蜂を捕獲しそこなって即死させてしまい、心が痛んだのを想い出す。殺意はなかったが、アクシデントの可能性も排除しきれないやり方だった。
  ……あるいは、遥かな過去の不善業だったのかもしれない。
  ともあれ、苦受を感じた瞬間に消えていったものがある……。

 

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8/30(水) たとえ最悪の出来事が起きたとしても、ネガティブな反応やマイナス思考の心のエネルギーを出力すれば、事態は今よりももっと悪くなるだけである。
  ネガティブな考えはネガティブな結果をもたらす原因となり、カルマが悪くなる。
  サティが入れば、その瞬間に心はモード変換され、善心所に替わっていくだろう。
  サティが入らなくても、プラス思考の反応が起動すれば、事態は必ず好転していく、と肝に銘じる……。

 

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8/29(火) タイやミャンマーで広く使用されている虫刺されの軟膏を塗った。
  インターネットで、蜂の毒と対処法について必要な知識を得た。
  痛みも腫れも深刻な状態だったが、なんとなく楽しんでいるような気持ちがそこはかとなく感じられ、不審に思った。
  ……心をよく観ると、どうやら、こうして苦受を受けることによって、縁に触れた不善業が現象化して消えていくのを楽しんでいるようだった。

 

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8/28(月) 「激痛→恐怖」「激痛→怒り」など、さまざまな反応があり得ただろうが、本音の反応型が垣間見えた瞬間だった。
  顔面に3ヶ所、手に3ヶ所の刺し傷があり、強い痛みが知覚されていたにもかかわらず、反応系の心が最初に提示したプログラムは、「ああ良かった、この程度で……」だった。
  長年プラス思考を説いてきたが、本心に定着しているようだ。

 

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8/27(日) 「地表に落下してくるベニカナメの一枝」→「ブンブンという羽音」→「眼前に迫りくる足長蜂の群れ」→「顔中くまなく刺されているイメージ」→「鼻と左手に走った激痛」→「ああ良かった、この程度で、という一瞬の思考」……

 

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8/26(土) 庭の枝垂桜が隣家の敷地内に枝を張り出しているので切ってくれと要請され、高枝鋏みで枝落としをした。
  やはり越境していたベニカナメの枝を、ついでに切り落とした。その瞬間、至近距離から蜂の大群に急襲され、顔と手に激痛が走った。蜂の巣を落としたらしい。
  思わず唸りたくなるほどの痛みに耐えながら、高枝鋏みを抱えて逃げ出した。
  カシャッ、カシャッ、と高速スライドがコマ送りされるように、刺された刹那の映像と印象が鮮明な時系列で連鎖していった……。

 

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8/25(金) 理路整然と左脳の知性や論理に訴える話は分かりやすいが、心の表層で情報処理されて、深部にまで達しないことが多い。
  無言のまま何も語らなくても、情動脳や共感脳に暗黙の訴求力で届くものもある。
  本心や本音から発せられている波動は、伝わる……。
  怒りや恨み系の波動も、慈愛系の波動も、偽る心も真実の心も……。

 

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8/24(木) 何も語らなかった「法話」が終わり、立ち去った後、全員のオーラが一斉に変わったのを感じました、と言った瞑想者がいた。
  かすれた小声を振り絞って詫びている時に、泣いている瞑想者もいた。
  多くを雄弁に語った時以上に、ダンマトークができないことを伝えたこの日の「法話(?)」に深く心を動かされ、8日間どうしても開けなかった心の扉が開かれて、抑圧していた記憶の原点が意識化されるという大きな成果を上げた瞑想者もいた。
  最悪の事態が起きたが、最良の結果となったか……。

 

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8/23(水) 瞑想理論や修行の方向などを全員に示すダンマトークがなければ、修行は続けられない。大詰めになって、そのトークができないことは最悪の事態である。
  自分の全責任で、ゴール間近の選手全員を失格させてしまった監督のような気分に陥った一瞬があった。
  しかし、「何事につけ起きてしまったからには、それでよいのだ」という反応が、必ず次の瞬間に起ち上がるように訓練してきていた。
  ヴィパッサナーは、「どのような事象も、ありのままに観よ」「起きた事実を、そのままに受け止めよ」という瞑想ではないか……。 

 

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8/22(火) 断食を続けながらの打ち上げも、かすれた小声を振り絞ってなんとかまとめることができた。
  全員で道場の掃除作務が終り、いつもは遅くまで盛りあがる二次会も、私の体力を気遣って早々に切り上げられた。
  ガランとなった道場で、やっと51時間の断食を解いた。立っているのもやっとだったが、やがて、病菌やウイルスがことごとく滅菌されたかのような、透明な、素晴らしい体感が戻ってきた。体重が3kg減っていた。

 

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8/21(月) 9日目のダンマトークをしようにも、カミソリを呑み込んだように喉が痛く、声が出せなかった。かすれ声を絞って、法話ができないことを皆に詫びたが、不覚にも一瞬、落涙してしまった。
  メール返信や配膳などの業務以外の時間は眠り続けた。
  たとえ短めでも、面接だけはやらないわけにはいかなかった。
  声帯を極力震わせない、ささやくような小声で、発熱と意識の濁りに抗しながら、いつもと同じレベルのインストラクションを終ることができた。6時間が経過していた。
  二度目のメール返信と<今日の一言>をなんとか書き終えて、倒れるように眠り込んだ。
  肉体的に最も辛い一日が終ったが、心には微塵の怖れもなく、いつもより静まり返っていた……。

 

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8/20(日) 喉が炎症を起こし、非常に痛い。38度ぐらいの熱があり、細菌やウイルスが体内を暴れ回っているような体感がある。
  やむなく断食に入った。合宿中の断食は2度目か3度目か……。
  歩くのもシンドイほど体調は芳しくないが、心には淡々とした静かさがある。
  心配も不安も怖れもない。
  三宝にすべてを委ねきっているので、どんなことが起きようとも、ただ与えられたものをことごとく受け取っていく……。

 

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8/19(土) 引力があれば、引っ張られる。
  斥力が働けば、押しやられて離れていくだろう。
  因果の流れをありのままに観て、悠々と従いきっていく。
  心が汚れないように見守りながら……。

 

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8/18(金) 善いこともしただろうが、悪いこともしてきたのだ。
  不善業のエネルギーが現象化した瞬間、苦受を経験することに意味がある。
  悪業のエネルギーが一つ終わって消えていったか。
  ありがたい、これでひとつ軽くなれた、と感謝する……。

 

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8/17(木) 常日頃から情報の布施をしてきた自分に、情報を失うようなことがなぜ起きるのか……と、いぶかった。
  思えば、情報を失ったことよりも、休む暇もない過密スケジュールの中で原稿を書かなければならない労力と、費消されていく時間に苦受を感じている出来事であった。
  してみると、例えば遅刻をしたりして他人の時間を奪ってはこなかったか。徒労に終る無駄な仕事をやらせてきてはいなかったか………と反省すべきことかもしれない。

 

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8/16(水) 合宿中のハードスケジュールをなんとか緩和するため、せめて<今日の一言>だけは書き溜めておこうとモバイルのPCにストックを作った。
  2日後、そろそろ保存しようというところでフリージング状態となり、完全に固まったままとなった。いかんともしがたく、リセットした結果、原稿はすべて消えた。
  書くまでは心に滞留していたものも、書き終われば、心を離れてしまう。
  こうして、毎夜、面接が終ってから、ペチャンコの絵の具を絞り出すように書いております。

 

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8/15(火) 一度落ち込んでしまった不善心所の状態を脱出して、善心所モードの心に切り換えいくのは容易ではない。
  だが、どんなクーサラでもよい、体を動かし、善行のアクションを開始してしまえば、心は、行為の基本波動に「巻き込まれて」その色に染められていく…。

 

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8/14(月) クーサラ(善行)の実行は最も強力に心を変えるものであり、未来に生起する事象を左右するだろう。
  物質的エネルギーの移動がともなう善行は「財施」と呼ばれる。
  人のために、世の中のために、身体的エネルギーを提供してなされる善行は「身施」と呼ばれる。
  価値ある情報の伝達がともなう善行は「法施」と呼ばれる。

 

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8/13(日) 煩悩が立ち現れる心も、法としての存在を直接知覚する心も、それらをありのままに観るサティの心も、因果関係の所産として、刹那に生じ、刹那に滅していく……。
  それゆえに、心はままならないものだが、因縁の消息をよくわきまえて、悪を避ける心、善をなす瞬間の心、それらを確認するサティの心が生じやすくなる原因を組み込んでいく……。

 

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8/12(土) 無我が確認される一瞬がある。
  『なるほど、こうして瞑想の修行現場で無我を検証するのが、本物の仏教なんだ』
  と、感動する瞬間がある。
  『それにしても、ここまでやれる瞑想者が何人いるんだ……』
  と、慢が出る瞬間がある。

 

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8/11(金) 痛みを感じた瞬間、間髪を入れず「痛み」とサティが入れば、「痛み」と「私」をミックスする思考が働かないだろう。
  嫌悪を感じた瞬間、電光石火、「嫌悪」とサティが入れば、「嫌悪している私」というエゴ感覚はあり得ない。
   痛みを知覚する心と、その知覚に気づくサティの心以外に何も存在していない……。
  嫌悪する一瞬の心と、その嫌悪を確認した一瞬のサティの心だけが存在していたという状態……。

 

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8/10(木) 六門からの情報が知覚された瞬間に、サティを入れる。
  間に合わなければ、エゴが出た瞬間に、サティを入れる……。  
  欲望という名のエゴに、嫌悪という名のエゴに、嫉妬という名のエゴに、慢という名のエゴにサティを入れて対象化する……。

 

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8/9(水) サティが途切れた瞬間、エゴが出る……。
  眼耳鼻舌身意からの知覚情報を解釈し始めた瞬間、エゴが出る……。
  何かが概念化された瞬間はよいのだが、その概念が次の概念と連結し始めた瞬間、エゴが出る……。

 

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8/8(火) ヴィパッサナー瞑想を独習する真の難しさは、まだエゴの残っている者がそのエゴを対象化し、自己客観視を徹底していかなければならない危うさにある。
  孤独な修行者の盲点に入ってしまった部分は、誰かに指摘されない限りいつまでも経っても気づけない……。

 

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8/7(月) たとえ基本原理が分っても、修行をしていくと、この場合はどうしたら良いのだろう……と次々と疑問が生まれてくる。
  原理が分っても現場での応用が効かない間は、インストラクションが必要だろう。 

 

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8/6(日) <考えごと瞑想>に陥っているのに自覚のない人が跡を断たない。
  短い思考や主観的感想に厳密なサティを入れるのは至難の技だからだ。
頭で考えたダンマを拠りどころとし、思考プロセスから生まれたエゴを拠りどころにし、慢が増長されていく……。

 

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8/5(土) 自らを拠りどころとし、他を拠りどころにしてはならない。
  自らを拠りどころとするためには、ダンマとダンマの実践法を正確に、厳密に体得しなければならない。
  自らの中に顕わになってくるダンマがすべてを教えてくれるし、正しく導いてくれるだろう……。

 

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8/4(金) 無意識の依存心は、ヴィパッサナー瞑想の妨げになる。
  アドバイスを聞く耳を持つのは良い。ダンマについて語り合うのも良いだろう。
  しかし、ヴィパッサナー瞑想にカリスマは必要ない。
  どのような人の言葉であろうとも、それを「信仰」してしまえば、<ありのままに観る>基本姿勢が崩れていく……。

 

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8/3(木) もし、ヴィパッサナー瞑想のやり方を完璧にマスターしているのであれば、法友や指導者に恵まれた理想的な修行環境よりも、孤立無援の悪条件のほうが良いのかもしれない。
  「自らを拠りどころとし、法を拠りどころとする」には……。 

 

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8/2(水) そこまでの情熱と意欲を支えていたものは何だったのか、と訊いてみた。
  苦があったこと、その苦を何とかしたかったこと、怒りが激減したことなど、ヴィパッサナー瞑想の鮮やかな実効性が検証できたからだった、という。
  さらに深いドゥッカ(苦)を超克したいとほのめかしていたが、その詳細を語り合う時間はなかった。
  苦の超克がヴィパッサナー瞑想を実践する最大のモチベーション(動機づけ)であり、苦の認識の深さがその意志を不動のものにしていく……。

 

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8/1(火) 平均的なサラリーマンと同じような日常リズムなのに、毎日2時間も瞑想ができるのはなぜか、と訊いてみた。
  夜は非常に早く就寝する。午前3時ごろに起床する。朝食まで瞑想して出勤する……という。 
  法友からの鼓舞も、瞑想会でのダンマの刺戟も得られないのであれば、自ら律していくほかはないし、やるしかないのだ、と覚悟を定めてきた、ともいう。
  お見事ですね。

 

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7/31(月) 1年半ぐらい前から、歩行瞑想を1時間、座る瞑想を1時間、毎日続けてきた方が7月の短期合宿に参加された。北海道からだった。
  瞑想会に参加されたことは一度もなく、瞑想関係の法友も皆無、『基本マニュアル』を頼りに、文字通り「ただ一人犀の角のように」修行を続けてきた。
本当に正しいやり方で瞑想できているのか不安になり、合宿参加を決意したという。
  もし間違っていたら……とこちらも心配になったが、どこにも問題はなく正確だったのは、嬉しい驚きだった。

 

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7/30(日) 好ましい楽受の現象が起きた背景には、善業のエネルギーが原因として出力されていたのだと考える。
お金や物質の次元で善果が得られたのであれば、物質的エネルギーのレベルで善行がなされていたのであろう。
困った時に人に助けられたり手伝ってもらえる好ましい現象が起きたのであれば、ボランティアをしたり、無償の行為として人のためになる善行をしていたからにちがいない。
  価値ある情報がもたらされる幸運に恵まれるのは、こちらが世のため人のために情報の布施をした証しであろう。
  財施・身施・法施の、衆善奉行……。

 

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7/29(土) 2ヶ月前、腕時計のソーラー充電に不具合が生じ、大手電気店に修理に出したことがある。
  電池交換、モジュール調整、電池バネ交換、センターアップ防水検査、といくつかの修理がなされた。
  修理完了の通知があり、受け取りにいくと、カウンターの担当者が言った。
  「今回は、メーカーさんの好意により、無料です」
  この時も、保証書は2年前に切れていたのに、なぜだったのだろう……。

 

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7/28(金) 故障したパソコンを、1ヵ月も待たされる工場修理に出すわけにはいかなかった。
  最短修理の出張サービスが来た。
  パソコンが完全に解体され、問題箇所の部品やメイン基板が全面的に交換されていくのを、慈悲の瞑想をしながら見守っていた。
  2時間を要した修理と再設定が完了した。
  部品代、技術料、出張費など5〜6万円の仕事なのだが、今回は無料扱いで報告することも可能なので、それでよいと言う。
  耳を疑った。
  保証書は5年前に切れているのに、なぜ……?!!

 

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7/27(木) <世の中は泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。世の中をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない>【真理のことば「(ダンマパダ)13−170」岩波文庫】

 

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7/26(水) パソコンに深刻なトラブルが発生してしまい、やむなく物置きに死蔵されていた「Windows98」を取り出して最低限の仕事をこなしている。
  ガラクタ同然に見なされていた「98」だったが、今やただ一つ頼りにできるかけがえのない存在に一変した。
  見下されていたつまらぬものが、何ひとつ変わらないそのままで、輝かしいものに変貌する。
  心の中に形成される印象と概念的な認識がとどのつまり人生の正体であり、この世が一場の夢にしか過ぎないと見なされる所以であるということ……。

 

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7/25(火) 見下す気持ちは微塵もなく、投げやりになっているのでもまったくないが、この世のことなど、どうでもよいではないか、という達観。
  誰に会っても、無言で慈悲の瞑想をする。 
  何事にも全力投球のエネルギーを放出するが、心の中は醒めている……。

 

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7/24(月) 成功も失敗も、ただの状態に過ぎないと観る視座の取り方が、渇愛の根本を滅ぼしていく。
  現象世界の一切のものに対する聖なる無関心……。

 

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7/23(日) 失敗しうまくいかない時にこそ、その状態をありのままに客体化して、淡々とサティのモードをキープできるかどうか……。
  うまくいっている成功の状態も、まちがえたり勘違いをした失敗状態も、それに気づいて対象化できた瞬間、等価になってしまうのがヴィパッサナー瞑想のユニークなところでもある。

 

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7/22(土) 今日の瞑想は良かった、ダメだった…と一喜一憂するが、何を基準に、どのような瞑想理論の、どんな立場に立っての判断なのか……。
  根拠のない主観的印象や断片的知識によって、得意になったり、落ち込んだり、高慢と自己嫌悪を往来していないだろうか。
  ヴィパッサナー瞑想の全体像を把握していないかぎり、正確な判断や評価をくだすことはできないのだと心得る。

 

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7/21(金) 頭の中のイメージや思念が、心のエネルギーによって具現化していくプロセスが業の世界だ。
  しかし、ありのままの今の状態を無視して、闇雲に理想を具現化しようとすれば、事態がこじれて葛藤が生じる。
  そのダメな状態をありのままに認め、客観視ができれば、何をなすべきかが正しく観えてくるだろう。

 

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7/20(木) 合宿の生活パターンに慣れておくために、1ヶ月前から朝5時に起床されていた。
  合宿の1ヶ月前から、瞑想を毎日1時間以上行なうように努力した。
  瞑想中に頭の中で音楽が耳を離れなくなるため、2ヶ月前から趣味の音楽鑑賞を控えた。2週間前からはテレビも控えた……。
  素晴らしい!
  瞑想者の鑑と言うべきだが、これだけの準備をされれば、期待が欲の心となって、現状の承認を拒んでしまうのも無理からぬ……。

 

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7/19(水) 過剰な期待や心の中の理想イメージが、うまくいかない現実と戦って苛立ち、焦り、自己嫌悪にまみれながら昏沈睡眠に陥るのは、定番の流れだ。
  「参りました」と、ありのままに現状を認めてしまえば、こうした一切の葛藤が終わる……。
  ありのままに気づいて受け入れるだけでドゥッカ(苦)が消えていく、ヴィパッサナー瞑想の原点である。

 

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7/18(火) 久しぶりに参加した合宿だったが、執拗な眠気がどうしてもなくならなかった方がいる。
  「参りました」と、心の中で全面降服し、その眠気を認めた瞬間、劇的に眠気が消えたという。

 

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7/17(月) 価値観が変わり、ものの見方が変わり、心が本当に変われば、意識モードの変換が容易になるだろう。
  反応系の心のプログラム書き換えである。
  一瞬にしてモード転換を可能にする技術もある。
  <サティ>という。

 

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7/16(日) 思いつめる…。執われる…。
  いずれも、その対象世界がすべて、それしかない……という勢いでのめり込んでいる。
  意識モードが変換される瞬間に、すべてがある。
  対象化も、手放しも、客観視も…。

 

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7/15(土) 最終的な解決案が浮かばなくてもよい。 
  堂々巡りの思考が手放せる程度の納得感が心に与えられれば……。

 

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7/14(金) 気づこうとする心があっても、本心が対象を掴み、執われてしまえば、ラベリングの言葉だけが虚しく空回りして、実質上の対象化ができなくなる。
  同じことの繰り返し状態から脱け出せなくなったら、いったんサティを離れて、固執している気がかり事項をきちんと考察し整理したほうがよい。

 

………………………………………………………………………

 

7/13(木) ハッ、と我に帰った瞬間、その気づいた内容を次の心がしっかりと掴んでしまう……。
  それにサティを入れないと、再び、ハッ、と我に帰るまで、自己嫌悪や後悔モードに浸ってしまう。
  『ああ、なんてことをしていたんだ……』
  『これは大変だ。これからどうしたら良いのだろうか……』等々。
  それ故に、サティを切らすことなく、持続せよ、と説かれる。

 

………………………………………………………………………

 

7/12(水) 欲望の対象であれ、恐怖や怒りの対象であれ、無我夢中に掴んで、のめり込み、執われ、巻き込まれてしまうと、破滅に向かってまっしぐらになる。
  ハッ、と我に帰る瞬間が訪れるまで……。
  我に帰るその一瞬に、<サティ>という心所(メンタル・ファクター)が働いている。

 

………………………………………………………………………

 

7/11(火) 『気づこう』『サティを入れよう…』と、思った瞬間、自己中心的に張りめぐらされていた意識の体制が幾分なりとも変化する。
  たとえサティが入らなくても、がんばる気持ちがあるだけで心は成長の方向に向かっている……。

 

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7/10(月) ランダムなサティとは、例えば、「見ている」→「乗っている」→「ペダル感覚」→「音(電車の)」→「緑色(←不正確なラベリングだが、気にしないでよい)」→「雑念(ラッシュ時の駅の情景)」→「連想(地下の駐輪場)」→「ブレーキ感覚」→「蒸し暑さ」……。

 

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7/9(日) 周辺の情況と心の余裕次第で、臨機応変にサティのレベルを変えていく。
  <「右」「左」……とペダル感覚の実感が取れる>→<実感無視のラベリングだけ>→<「(右左に分けず、ただペダルを)踏む」「こぐ」>→<「(自転車に)乗っている」「走っている」>→<意識に強く触れたものをランダムにサティを入れる、六門開放型>。

 

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7/8(土) 日常生活や仕事をしながらのサティは、六門開放型にして中心対象を設定しないほうが望ましい。
  例えば、駅に向かって急ぐ自転車のペダル感覚に集中し過ぎれば、咄嗟の危険回避がおろそかになる。
  ……中心を定めず、意識に強く触れたものをランダムに気づく態勢がよい。

 

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7/7(金) 日常生活では、どんな大雑把なサティでも入るだけでよい、と考える。
  身体動作のセンセーションを実感してラベリングする余裕はないので、動作と重なった現在形のラベリングでよい。
  行為であれ、感情であれ、浮かんだ思考であれ、何であれ、自覚の意識、確認する意識があるだけでも、人生が変わっていく。
  <自覚のサティ>と言う。

 

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7/6(木) 日常生活ではなかなかサティが入りづらい。
  大事な家事や仕事をしている時には、何よりもその目的が優先されるからである。
  しかし、<集中=のめり込み>の状態よりも、たとえ断続的であっても今、その瞬間の状態を自覚する一瞬のサティが入ったほうが良い。
  冷静な集中、落ち着きの伴った集中になる。

 

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7/5(水) とは言うものの、心が折れそうなら、逃げた方がよい。
  現状をありのままに観て、正確に判断すれば、頭で考えたことを強引に押し切ろうとする愚は回避されるだろう。
  無理をし過ぎれば自滅する。
  何事もちょっと背伸びをする程度の頑張りの方が長続きする……。

 

………………………………………………………………………

 

7/4(火) 怨憎会苦から逃げ出せば、ストレスはなくなるが、学ぶものも何もない。
  因縁を解こうとチャレンジすれば、大変なエネルギーを放出することになるが、心は磨かれ成長するだろう。
  嫌なものを乗り超えて、嫌ではなくなっていくプロセスを経ない限り、度量の広い大きな心にならないのではないか……。

 

………………………………………………………………………

 

7/3(月) 抑圧された記憶は、ヴィパッサナー瞑想の<心随観>の技法によって姿を現すだろう。
  だが、やっと陽の目を見た元凶の記憶も、そのまま元のフォルダーに保存されてしまえば、心は何も変わらない。
  同じ事実が、法の立場から再配置されるとき、<解放>が起きるだろう。
  どれほど悲惨な過去であっても、ダンマの力で乗り超えていく……。

 

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7/2(日) 事実がありのままに想起され、正しく意味づけられ、トータルに受容されない限り、手放すことも解放されることもないだろう。

 

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7/1(土) 夢と理想の追求に駆り立てているのは、不幸な過去とドゥッカ(苦)の現状と気に入らない自分を乗り越えたい衝動ではないか。
  ……と、<補償>の心理がないかを疑ってみる。
  劣等感やトラウマから眼を背け、「価値あるもの」の獲得によって「補償」しても、最終解決にはならない……。

 

………………………………………………………………………

 

6/30(金) 夢をかなえるためには、理想の具現化に向かって強烈なエネルギーを放たなければならない。
  理想を追求する情熱がありのままの自分を否定し、現実から逃避させていないか……。

 

………………………………………………………………………

 

6/29(木) ありのままを見るための厳密な技術が、サティの瞑想。
  自己中心性を弱めるための無償の善行。
  「サティの瞑想」+「徳の修行(善行)」→「智慧」

 

………………………………………………………………………

 

6/28(水) なす術もなく振り回されてしまう欲望や怒りには、わけの分からない混乱の要素がある。
  どのような煩悩も、そのありのままの現状、展開していくプロセス、原因や由来、激しく出力されたエネルギーがいかなる結果を未来に惹き起こすかにいたるまで、完璧に把握し、理解されていれば、コントロールすることができるだろう。
  智慧は力であるということ。

 

………………………………………………………………………

 

6/27(火) 完璧に理解すれば、コントロールする能力も与えられるのが<智慧>の特性である。
 ありのままに、正しく知られれば、どのように乗り超えるべきかも必ず見えてくるからである。

 

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6/26(月) 嫌悪すべきイヤな自分になっていった消息を正確に理解すると、自分を受け容れることができるかもしれない……。

 

 *9月15日からの合宿の予約受付日は7月30日の午後1時からです。

 

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6/25(日) サティの精度を上げていくと、「私が…」「俺が…」の我執の実体は思考プロセスから生まれてくる偽の印象だという消息が見えてくる。
  無常の構造を観ることによって突き崩されていくエゴ妄想……。

 

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6/24(土) 【グリーンヒルWeb会】からのお知らせ。
  <『ブッダの瞑想法』(春秋社刊)が品切れになっている書店が多いらしく、ご迷惑をおかけしております。
  間もなく版元より重版が配本されますので、第2刷の入荷までもうしばらくお待ちください。
  なお、【グリーンヒルWeb会】には『ブッダの瞑想法』初版の在庫がございますので、本ホームページからご購入いただけます。
  お急ぎの方は、メールでお申し込みください。>

 

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6/23(金) 自己嫌悪をいかに乗り超えるか……。
  ありのままの自分自身をいかに受容するか……。

 

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6/22(木) 似すぎているが故の「近親憎悪」が最も激烈になる。

 

………………………………………………………………………

 

6/21(水) 大嫌いな人の欠点が、なぜそれ程までに赦せないのか……。
  こだわって激しく嫌う、こちらの心に何かが潜んでいないだろうか、と視線を逆転させて見る……。

 

………………………………………………………………………

 

6/20(火) 自分には才能がないと思っても、挑戦しなければならないだろう。
  真の智慧は、瞑想の実践からのみ生じることが腑に落ちたときに……。
  自分の心が本当に解放されてはいないと痛感したときに……。
  わが身をもってドゥッカ(苦)を思い知ったときに……。

 

………………………………………………………………………

 

6/19(月) 心底から限界が痛感されれば、現状を超えようと発心する……。

 

………………………………………………………………………

 

6/18(日) 瞑想ができないなら、ダンマの知識と信仰だけでもよい……。

 

………………………………………………………………………

 

6/17(土) 不善心だらけの、この世の者同士が付き合うのだ。
  欠点や汚れがあまり見えない距離感を保ったほうがよいのではないか……。

 

………………………………………………………………………

 

6/16(金) 本当は、多くの人に守られながら、生きている……。

 

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6/15(木) 小賢しいエゴの猿知恵で企画した夢を実現させて、どこまで幸せになれるのか。
  損をしてもよいのだ、と最初から決めておくと、事象の流れが公平に見えてくるだろう。
  ありのままに観じきっていく厳密なサティの技術と、反応系の達観……。 

 

………………………………………………………………………

 

6/14(水) 今世でやれることは、ほぼ決まっている。
  その宿業に従いきっていこう、と任せる気持ちになると、最良の人生が展開してくる。

 

………………………………………………………………………

 

6/13(火) 新刊本を読まれた方の感想メール。
  「『ブッダの瞑想法』(春秋社)を読ませていただいている間中、心に舞っていた塵が静まり、しんと静かな空間ができたような、心地のよい時間が流れておりました。
  日々の瞑想時間が20分〜30分へと、たった10分ですが、自然に延びていました。
  素晴らしい本を、ありがとうございました」

 

………………………………………………………………………

 

6/12(月) ゴールに到達するのはほとんど不可能に見えるその道を、進めば進むほど苦の分量は減少していく。

 

………………………………………………………………………

 

6/11(日) エゴを滅ぼせ、無我を目指せという総論。
  殺生しない、盗まない、欺かない……、等々の各論。
  敵味方なく、あらゆる生命に対して発せられる慈悲のバイブレーション。
  生命のシステムそのものを超えよ、という解脱論。

 

………………………………………………………………………

 

6/10(土) 自己保存の衝動を最強のプログラムとして組み込んだシステム同士が激突し、しのぎを削るのが生命世界。
  必然的な結果として、まき散らされるドゥッカ(苦)の種。
  そのドゥッカ(苦)をなくそうとする仏教の試み。

 

………………………………………………………………………

 

6/9(金) 夫婦仲の良いことでは、たぐい稀なるコーサラ国王パセーナディは、宮殿のバルコニーに座り、妃マッリカーに訊ねた。
  「そなたには、自分自身よりももっと愛しい人はいるかね?」
  マッリカーは、王をこよなく愛してはいたが、正直に答えた。
  「王さま、私には、自分よりももっと愛しい人はいないのです。
  王さま、あなたはいかがですか? ご自分以上に愛している方はいらっしゃるのですか?」
  「マッリカーよ、実は私も、自分よりももっと愛しい人はいないのだよ……」

 

………………………………………………………………………

 

6/8(木) <どの方向に心でさがし求めてみても、自分よりもさらに愛しいものをどこにも見出さなかった。そのように、他の人々にとっても、それぞれの自己が愛しいのである。それ故に、自己を愛する人は、他人を害してはならない>(サンユッタ・ニカーヤT第V篇第8節 岩波文庫)

 

………………………………………………………………………

 

6/7(水) 何もかも水と油の、気に食わない人であっても、その存在を認め、受け容れないかぎり、仏教にはならないのだ、と知る。
  好き嫌いの裁きをしている「私のエゴ」が大事なのは、誰も同じなのだ、という原点の確認……。

 

………………………………………………………………………

 

6/6(火) 思想も、文化も、生活習慣も、あらゆる点で自分と敵対し、相容れない存在をいかに受け容れることができるか……。

 

………………………………………………………………………

 

6/5(月) 物事の本質を抽象する訓練や、要素に仕分けられたものの異同を見抜く訓練をすると、カンが冴えてくるだろう。
  しかし、自分自身を対象化して、客観視する能力が磨かれていかないかぎり、因縁を読み解くことは難しい。
  分析能力も自己客観視も、ヴィパッサナー瞑想には、どちらも包含されている。

 

………………………………………………………………………

 

6/4(日) すべてが必然の力で展開しているのだが、事象を読み解く能力がなければ、因果論が分からなくなる。
  わが身に起きた出来事の意味と由来を正しく知るためには、私心を捨て、ありのままに観るサティの瞑想。

 

………………………………………………………………………

 

6/3(土) 時代の流れや、個人の思惑を超えた否応のない力で、人生が展開していく不可思議さを感じて、人は「運命」と呼んできた。
  強烈な願望や愛執や怒りや怨念などのエネルギー形成していく業と、同様に過去世で組み込んでしまった宿業の力のハーモニーなのだが……。 

 

………………………………………………………………………

 

6/2(金) 戒を守り、徳を積み、心を浄らかにして、幸せになるための瞑想。
  わずかな不善心所も見逃さず、慈悲の心の体得を心がけ、想いの世界を浄化しながらサマーディを完成させて、すべてが悟りの一瞬に収斂する、解脱のための瞑想。
  世間の苦を乗り超えて、出世間を目指す……。

 

………………………………………………………………………

 

6/1(木) 幸せになるために徳を積むことが、立派な「戒の修行」に相当する。
  堂々と幸せを実現しながら、ヴィパッサナー瞑想の正しい道筋を歩んでいく。
  幸せになり、幸せが変滅してしまうものであることを正しく知り、業の世界に生起する一切の事象が、無常の法則に支配されていることを知る……。

 

………………………………………………………………………

 

6/30(金) 夢をかなえるためには、理想の具現化に向かって強烈なエネルギーを放たなければならない。
  理想を追求する情熱がありのままの自分を否定し、現実から逃避させていないか……。

 

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6/29(木) ありのままを見るための厳密な技術が、サティの瞑想。
  自己中心性を弱めるための無償の善行。
  「サティの瞑想」+「徳の修行(善行)」→「智慧」

 

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6/28(水) なす術もなく振り回されてしまう欲望や怒りには、わけの分からない混乱の要素がある。
  どのような煩悩も、そのありのままの現状、展開していくプロセス、原因や由来、激しく出力されたエネルギーがいかなる結果を未来に惹き起こすかにいたるまで、完璧に把握し、理解されていれば、コントロールすることができるだろう。
  智慧は力であるということ。

 

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6/27(火) 完璧に理解すれば、コントロールする能力も与えられるのが<智慧>の特性である。
 ありのままに、正しく知られれば、どのように乗り超えるべきかも必ず見えてくるからである。

 

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6/26(月) 嫌悪すべきイヤな自分になっていった消息を正確に理解すると、自分を受け容れることができるかもしれない……。 

 

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6/25(日) サティの精度を上げていくと、「私が…」「俺が…」の我執の実体は思考プロセスから生まれてくる偽の印象だという消息が見えてくる。
  無常の構造を観ることによって突き崩されていくエゴ妄想……。

 

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6/24(土) 【グリーンヒルWeb会】からのお知らせ。
  <『ブッダの瞑想法』(春秋社刊)が品切れになっている書店が多いらしく、ご迷惑をおかけしております。
  間もなく版元より重版が配本されますので、第2刷の入荷までもうしばらくお待ちください。
  なお、【グリーンヒルWeb会】には『ブッダの瞑想法』初版の在庫がございますので、本ホームページからご購入いただけます。
  お急ぎの方は、メールでお申し込みください。>

 

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6/23(金) 自己嫌悪をいかに乗り超えるか……。
  ありのままの自分自身をいかに受容するか……。

 

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6/22(木) 似すぎているが故の「近親憎悪」が最も激烈になる。

 

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6/21(水) 大嫌いな人の欠点が、なぜそれ程までに赦せないのか……。
  こだわって激しく嫌う、こちらの心に何かが潜んでいないだろうか、と視線を逆転させて見る……。

 

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6/20(火) 自分には才能がないと思っても、挑戦しなければならないだろう。
  真の智慧は、瞑想の実践からのみ生じることが腑に落ちたときに……。
  自分の心が本当に解放されてはいないと痛感したときに……。
  わが身をもってドゥッカ(苦)を思い知ったときに……。

 

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6/19(月) 心底から限界が痛感されれば、現状を超えようと発心する……。

 

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6/18(日) 瞑想ができないなら、ダンマの知識と信仰だけでもよい……。

 

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6/17(土) 不善心だらけの、この世の者同士が付き合うのだ。
  欠点や汚れがあまり見えない距離感を保ったほうがよいのではないか……。

 

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6/16(金) 本当は、多くの人に守られながら、生きている……。

 

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6/15(木) 小賢しいエゴの猿知恵で企画した夢を実現させて、どこまで幸せになれるのか。
  損をしてもよいのだ、と最初から決めておくと、事象の流れが公平に見えてくるだろう。
  ありのままに観じきっていく厳密なサティの技術と、反応系の達観……。 

 

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6/14(水) 今世でやれることは、ほぼ決まっている。
  その宿業に従いきっていこう、と任せる気持ちになると、最良の人生が展開してくる。

 

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6/13(火) 新刊本を読まれた方の感想メール。
  「『ブッダの瞑想法』(春秋社)を読ませていただいている間中、心に舞っていた塵が静まり、しんと静かな空間ができたような、心地のよい時間が流れておりました。
  日々の瞑想時間が20分〜30分へと、たった10分ですが、自然に延びていました。
  素晴らしい本を、ありがとうございました」

 

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6/12(月) ゴールに到達するのはほとんど不可能に見えるその道を、進めば進むほど苦の分量は減少していく。

 

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6/11(日) エゴを滅ぼせ、無我を目指せという総論。
  殺生しない、盗まない、欺かない……、等々の各論。
  敵味方なく、あらゆる生命に対して発せられる慈悲のバイブレーション。
  生命のシステムそのものを超えよ、という解脱論。

 

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6/10(土) 自己保存の衝動を最強のプログラムとして組み込んだシステム同士が激突し、しのぎを削るのが生命世界。
  必然的な結果として、まき散らされるドゥッカ(苦)の種。
  そのドゥッカ(苦)をなくそうとする仏教の試み。

 

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6/9(金) 夫婦仲の良いことでは、たぐい稀なるコーサラ国王パセーナディは、宮殿のバルコニーに座り、妃マッリカーに訊ねた。
  「そなたには、自分自身よりももっと愛しい人はいるかね?」
  マッリカーは、王をこよなく愛してはいたが、正直に答えた。
  「王さま、私には、自分よりももっと愛しい人はいないのです。
  王さま、あなたはいかがですか? ご自分以上に愛している方はいらっしゃるのですか?」
  「マッリカーよ、実は私も、自分よりももっと愛しい人はいないのだよ……」

 

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6/8(木) <どの方向に心でさがし求めてみても、自分よりもさらに愛しいものをどこにも見出さなかった。そのように、他の人々にとっても、それぞれの自己が愛しいのである。それ故に、自己を愛する人は、他人を害してはならない>(サンユッタ・ニカーヤT第V篇第8節 岩波文庫)

 

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6/7(水) 何もかも水と油の、気に食わない人であっても、その存在を認め、受け容れないかぎり、仏教にはならないのだ、と知る。
  好き嫌いの裁きをしている「私のエゴ」が大事なのは、誰も同じなのだ、という原点の確認……。

 

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6/6(火) 思想も、文化も、生活習慣も、あらゆる点で自分と敵対し、相容れない存在をいかに受け容れることができるか……。

 

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6/5(月) 物事の本質を抽象する訓練や、要素に仕分けられたものの異同を見抜く訓練をすると、カンが冴えてくるだろう。
  しかし、自分自身を対象化して、客観視する能力が磨かれていかないかぎり、因縁を読み解くことは難しい。
  分析能力も自己客観視も、ヴィパッサナー瞑想には、どちらも包含されている。

 

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6/4(日) すべてが必然の力で展開しているのだが、事象を読み解く能力がなければ、因果論が分からなくなる。
  わが身に起きた出来事の意味と由来を正しく知るためには、私心を捨て、ありのままに観るサティの瞑想。

 

………………………………………………………………………

 

6/3(土) 時代の流れや、個人の思惑を超えた否応のない力で、人生が展開していく不可思議さを感じて、人は「運命」と呼んできた。
  強烈な願望や愛執や怒りや怨念などのエネルギー形成していく業と、同様に過去世で組み込んでしまった宿業の力のハーモニーなのだが……。 

 

………………………………………………………………………

 

6/2(金) 戒を守り、徳を積み、心を浄らかにして、幸せになるための瞑想。
  わずかな不善心所も見逃さず、慈悲の心の体得を心がけ、想いの世界を浄化しながらサマーディを完成させて、すべてが悟りの一瞬に収斂する、解脱のための瞑想。
  世間の苦を乗り超えて、出世間を目指す……。

 

………………………………………………………………………

 

6/1(木) 幸せになるために徳を積むことが、立派な「戒の修行」に相当する。
  堂々と幸せを実現しながら、ヴィパッサナー瞑想の正しい道筋を歩んでいく。
  幸せになり、幸せが変滅してしまうものであることを正しく知り、業の世界に生起する一切の事象が、無常の法則に支配されていることを知る……。

 

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5/31(水) もし自分の本心が、悟りなどよりも、この世の幸せを求めているのではないかと気づいたならば、ありのままに認めて受け容れていくのが、ヴィパッサナー瞑想です。
  この世で幸せになるためには、何はともあれ、徳を積むことと感謝の波動を心底から発信できるようになることです。
  不善心所でブータレながら、幸せになった人はいません。

 

………………………………………………………………………

 

5/30(火) 「瞑想ですか?」
  「その通りです。抑圧された本心を浮上させる王道は、ヴィパッサナー瞑想です。
  50対50(フィフティ・フィフティ)の法則に厳密に従うと、本当は眼を背け、隠すために追及しているエゴの働きが止まります。
  すると、かまえば逃げるけど、無視すると逆に擦り寄ってくる猫のように、強い力で抑圧されていた問題が自分から浮上してチラリと姿を垣間見せてしまうのです。
  これが、自覚にのぼらない本心を対象化していくコツです」 

 

*グリーンヒルWeb会の携帯サイトで、2006年1月からの<今日の一言>が読めます。更新は不定期ですが、電車の中やお昼休みにもご覧いただけます。携帯URL、http://satimeiso.jpにアクセスしてください。

 

………………………………………………………………………

 

5/29(月) 「本当に自分の本心なのか影武者なのか、はどう判別すればよいのでしょうか。
  本心を抑圧しているという自覚は起きないわけですよね?」
  「はい。自意識の及ぶ範囲のものは、すべてエゴが管理しています。
  そのエゴが抑圧して、必死で眼を背けているのだから、思考モード(=エゴ)でどのように追及しても、抑圧された本心は、かくまわれてしまいます。
  じゃあ、どうすればよいのか、わかりますよね……?」

 

………………………………………………………………………

 

5/28(日) 7歳で阿羅漢になるケースもある。
  幸福も成功も、過去世で何度も味わいつくしてしまっているなら、今世で同じことを繰り返す必要はないでしょう。
  最初からドゥッカ(苦)の真実を観て、その苦を乗り超える修行に専念する流れの方々もいる。

 

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5/27(土) この世のことが人並みにうまくできないのに、出家したいとか出世間を目指すとか言うのはお門ちがいです。
  喉から手が出るほど欲しくてならないものを抑圧しながら、離欲の修行だとか、万物の一切を等価に観るのだとか、粋がっても、うまくいくわけがないでしょう。
  お釈迦さまほど完璧にはいかなくても、納得のいくように成功し、幸せにならなければ次のステップには進めない場合がほとんどです。

 

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5/26(金) 本当は欲しくてならない葡萄の房を見上げながら、
  「どうせ酸っぱくて、まずいのだから、いらないよ。こんなもの、必死で求めるには値しないさ。美味の快楽も無常、腹を満たした満足感もしょせん無常でしょう?」
  と自分に言い聞かせてはみても、心の奥底で執着しているものは抑圧されていくだけである。
  全力で努力しながらまっとうすべき人生の事柄に対して投げやりになり、怠惰の言い訳にされる、負け惜しみの無常論……。

 

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5/25(木) 人生の通過儀礼をクリアーしてから、先へ進んでいくのが、一応の順番です。
  夢をかなえ、成功し、本当の幸福を心ゆくまで体験しなければ、万物の無常性が心に沁みてこないのではないか……。

 

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5/24(水) 成人すれば、老いなければならない。
  勝ち続けていても、必ず負ける日が来る。
  成功を極めてしまえば、待っているのは衰微と落日。
  勝ち負けも、成功・失敗も、賞讃と非難も…どうでもよいではないか、という発想。
  与えられたものをことごとく受け取りながら、やるべきことを「一所懸命、淡々と」やり抜いて、この世から出て行く……。

 

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5/23(火) 目先の優勝劣敗に本気で反応していたのでは、ドゥッカ(苦)は絶えないだろう。
  勝利→得意→優越感→傲慢→出る杭は打たれる……。
  敗北→失意→劣等感→自己否定感覚→落ち込み……。
  勝っても負けてもドゥッカ(苦)になる世界を乗り超えていく。

 

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5/22(月) 謝ってしまえば、それで終りになって、後に何も残りません。
  謝らないと、いつまでも後悔し、心の中で自分に言い訳をしたり、居直りの言葉を繰り返したりしながら、疲れていく……。

 

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5/21(日) <人の快楽ははびこるもので、また愛執で潤おされる。実に人々は歓楽にふけり、楽しみをもとめて、生れと老衰を受ける><愛欲に駆り立てられた人々は、わなにかかった兎のように、ばたばたする。束縛の絆にしばられ執著になずみ、永いあいだくりかえし苦悩を受ける>【真理のことば「(ダンマパダ)24−341、24−342」岩波文庫】

 

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5/20(土) 不幸な状態や苦しい情況にいれば、必ず脱出しようと努力して善業を積み、やがて幸せを勝ち取っていくだろう。
  栄華を極め、幸福が安定すれば、必ず贅沢に慣れ、傲慢になり、貪愛をエスカレートさせていくだろう。
  不幸からの脱出劇と、至福からの転落、天人の五衰……。 

 

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5/19(金) ウミウシやアメフラシなどでも、同じ刺戟が繰り返されれば異なった反応をし始める。
  どんな幸福にも、飽きが来る。
  逆境が続けば必ず暗転し、落ち込み、さらに絶望的になっていくだろう。
  人の心は変わってしまうのだ。
  同じチェータナー(意志)を、同じ密度や強度で、出力し続けることはあり得ない……。

 

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5/18(木) もし同種同類の原因エネルギーを出力し続ければ、延々と同じ結果が現象化してくることも理論上は考えられる。
  永遠に続くかのような至福千年の極楽世界。
  無限に繰り返されていくかのような地獄の苦しみ……。

 

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5/17(水) どれほど辛く、苦しい、悲惨な状態も、永遠には続かない。
  どんなものにも必ず終りが来るし、情況は変わっていく。
  黙って耐え忍んでもよいが、積極的にクーサラ(善行)をして、不善業のエネルギーを相殺するほうが賢明だろう。

 

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5/16(火) 得体のしれない怯えや不安感、モヤモヤ感、体の震え、鈍い痛みや凝り…などの「症状」が雲散霧消し、スッキリと、爽やかな心で生きていくことができるだろう。
  事実をありのままに認め、真実を拠りどころにしていくならば……。

 

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5/15(月) 自分を永遠にダマし続けることは出来ず、真実をどこかで察知している本心は、偽りと矛盾を暗黙のうちに指摘し続ける……。

 

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5/14(日) 不都合な事実に対して、反射的に眼を背けてしまうのは、自我の防衛反応なのだ。
  エゴとプライドを守ろうとして、偽の心理的印象にしか過ぎない「自我感」が、人生を屈折したやっかいなものにしてしまう……。

 

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5/13(土) 否定しない。隠さない。眼を背けない。抑圧しない。
  現状をありのままに認めるからこそ、乗り超えていく決意が生じてくる。 
  ダンマを拠りどころにするからこそ、正しい方向に修正していくことができる。

 

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5/12(金) 事実なら、仕方がないではないか……。

 

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5/11(木) 他人との比較を止めただけでも、人生のドゥッカ(苦)の大半をなくすことができるだろう。
  「わが道を行く…」と腹が据わったら、次に、自分との比較を止める。 
  幸福だった頃の自分、成功した時の自分、美化されたセルフイメージの自分、プライドの拠りどころになっている自分、未来に期待している自己像の自分……。
  過去も未来も、今、この一瞬に存在している現実の自分ではない。
  真実の自分自身を、ありのままに受け容れる……。

 

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5/10(水) 自分の程度の低さをありのままに認め、対象化できることが、心の成長である。
  他人と比べて優越感を覚えようが、劣等感を感じようが、自分の実力や人格は何も変わらない。
  たとえ1ミリづつであっても、自分の心が浄らかになり、立派になることだけを考える。

 

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5/9(火) 修行がマンネリ化する人もいれば、淡々と日々の瞑想を続けながら少しづつ進歩していく人もいる。
  限られた瞑想時間しか取れないのは、在家の瞑想者なら皆同じである。
  両者の違いは何だろう。
  初体験の感動やビギナーズラックの余韻が消えると、過大な期待と現状とのギャップなどから、無意識の不満、苛立ち、投げやり、等々の不善心所が忍び寄る……。
  微かであっても、不善心所に気づき、対象化して、見送っていかなければならない。 

 

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5/8(月) 8ヶ月ぶりに再開した合宿が終った。 
  初参加者が多かったが、朝日カルチャー講座や一日瞑想会を何度も受講し、ヴィパッサナー瞑想に対する信頼の定まっている方がほとんどだった。
  初々しい真剣さで、朝から晩まで瞑想に専念し、セオリー通りの見事な成果をレポートされる方が多かったのは、嬉しい驚きだった。
  初心、忘るべからず……。

 

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5/7(日) 自我感を意識した途端に、見えないオーラの膜のようなものが自分と外界とを分断し、エネルギーが内側に閉ざされていく。
  内と外とを隔てるその妄想の「膜」を取りはずして、存在の世界全体をまとめている和合性のエネルギーと同調しながら、慈悲の瞑想を発振する……。

 

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5/6(土) 解脱の修行が佳境に入ってくれば、他人をおもんぱかる余裕などなくなるのが通例である。他を寄せつけない内閉的な雰囲気を漂わせる瞑想者も少なくない。
  お釈迦さまは、どうだったのだろうか。
  驚くべきことに、解脱するまでの修行時代、終始一貫、慈悲の心を片時も忘れることがなかったと経典の中で述懐されている。

 

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5/5(金) 苦を知り尽くし、苦の原因を究め尽くして解脱された方々である。
  一切の衆生、生きとし生けるすべてのものたちは、互いに緊密な相関関係の中でしか存在し得ないことも熟知されている方々である。
  たとえこの世のことなど、どうでもよくなった境地に達したからといって、苦しんでいる人たちに無関心でいられるだろうか。
  ドゥッカ(苦)から解脱するにはどうしたらよいのか、何をすべきなのか、自ら体得し、精通している道を人々に示さないはずはないのではないか……。

 

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5/4(木) 善行によって良いカルマを作り良い結果を得よう、などという発想は微塵もなくなっているはずなのに……。
  因縁によって生起し因縁によって滅していくこの世のことになど、興味も関心も執着もなくなっているはずなのに……。
  なぜ、聖者たちは、世の人々のために、生きとし生けるものの救済のために、命を懸け、身を粉にしてすべてのエネルギーを傾けつくすのだろう……。

 

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5/3(水) よい人生であっても、悪しき人生であっても、平等に老いが訪れ、死んでいかなければならない。 
  この世のことを完全に超越した聖者たちは、虚無的にも、投げやりになることもなく、世の中のために、人々のドゥッカ(苦)の減少のために、残余の命を捧げつくして消えていくと言われる……。

 

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5/2(火) 失敗が人を育て、敵対する者が最も多くを教えてくれていると分かるまでには、苦い経験を重ねなければならない。
  いや、経験そのものよりも、経験の意味を正しく理解する力が必要だろう。
  いつも同じ怒りの反応を繰り返すだけで、虚しく年老いていく人もいる。
  イジメに遭った経験などから、幼くして学ぶべきことを学ぶ聡明な子もいる……。

 

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5/1(月) たとえ自然な流れで、「命を奪ってほしい」「盗んできてくれ」などと依頼されても、戒を受け容れている仏教徒なら、言下に断るだろう。
  そのように、揺るぎない判断基軸が確立しているからこそ、何も考えず、ただ流れにまかせて、「すべてを受け容れていく」ことができるのです。

 

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4/30(日) 刃物を持った狂人が切りつけてきたのに、逃げずに「受け容れ」刃にかかる……などというバカな話ではない。
  当然、逃げるべきだし、危険な道を選ばない配慮もしなければならない。 
  それでも回避しきれず、受難に遭遇してしまったときには、それも運命と心得て、不善心所を出さずに「受け取っていく」ということです。

 

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4/29(土) 必然の力で生起してきたことはすべて受け容れる覚悟ができれば、人生はシンプルになり、判断に迷うことがなくなる。
  与えられたものを、ことごとく受け取っていく……。

 

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4/28(金) 幸福であれ不幸であれ、どちらであっても、そこから下落していく人もいれば、学びを得て上昇していく人もいる。
  幸福と不幸、成功と失敗、名誉と屈辱、幸運と不運……等々、二元対立するものに執われているかぎり、ドゥッカ(苦)が終滅することはあり得ない。
  この世のことはすべて一時的であり、変滅し、崩壊していくだけではないか……。
  良い現象も悪しき現象も、どちらでもよいのだ、と達観していく。

 

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4/27(木) 幸せな境遇で、明るい肯定的な成功回路を組み込むかもしれない。
  スポイルされ、鼻持ちならない傲慢さを助長するかもしれない。

 

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4/26(水) 逆境に押しつぶされるかもしれない。
  ドゥッカ(苦)を乗り超えていく智慧を学び、苦しんでいる他者の心に共感する能力を体得するかもしれない。

 

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4/25(火) 何事も過ぎ去ってしまえば夢のようだが、総じて、幸せな経験よりも、辛い、悲しい、苦しい経験の方が、心を成長させ、人格を磨き、人を立派にさせているのではないか……。

 

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4/24(月) <身体による悪い行ないを捨て、ことばによる悪い行ないを捨て、心による悪い行ないを捨て、そのほか汚れのつきまとうことを捨てて、>
<身体によって善いことをせよ。ことばによって大いに善いことをせよ。心によって善いことをせよ。―汚れのさまたげの無い、無量の善いことを>【感興のことば「(ウダーナヴァルガ)7−4、7−5」岩波文庫】

 

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4/23(日) 幸せになるのにも、解脱するのにも、やるべきことはまったく同じ清浄道です。
  欲望や怒りや嫉妬に駆られて、諸々の悪をしない。
  戒を守り、あらゆる善行を行ないながら、徳を積んでいく。
  カルマが良くなれば幸せになれるし、カルマが良くなれば理想の環境設定がなされて、解脱の条件が整っていく。

 

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4/22(土) 究極を目指しながらも、自分の現状をよく把握し、切実なドゥッカ(苦)を一つづつ乗り超えていくのが正しい道の歩き方です。
  満たされない境遇にいるなら、まず存分に幸せにならなければならない。
  心おきなく幸せに酔い痴れて、幸せの無常性、変滅性を正しく理解していく……。

 

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4/21(金) 反射的に、衝動的に、盲目的に、無自覚に生きていくかぎり、ドゥッカ(苦)が避けられない構造の世界にいるのであれば、理性的に、自覚的に、マインドフルに、生命エネルギーそのものである欲望や怒りの煩悩を抑止しながら、浄らかさの究極を目指して行く……。

 

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4/20(木) あらゆる生物が、生きる意味も目的も何も分からずに、ただ生き永らえるために食べ続け、命がけで生殖をして死んでいく。
  一瞬の快楽とその10倍、100倍のドゥッカ(苦)に耐えながら、その子や孫も、まったく同じことを繰り返して死んでいく……。
  何億万回生まれ変わっても、同じことをえんえんと繰り返している生命の世界……。

 

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4/19(水)  幸せを求め、快楽を求めて、本能のプログラムと生の原理に従っていくかぎり、貪りと怒りと無知のエネルギーがほとばしりドゥッカ(苦)の種をまき散らす。
  物理学にエネルギー不滅の法則が存在するように、命のエネルギーも形を変えながら転生し存続していくと仏教は考える。
  苦の原因エネルギーをまき散らしながら一つの生涯を終え、相応した苦の環境に再生していってよいのだろうか……。

 

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4/18(火) 死んだら死んだでいいじゃないか、どうせ輪廻転生のメカニズムで再生しなければならないなら……。
 いやいや、そんな風には思えない、と、たとえ輪廻を否定し、死を厭い、どれほど巧妙に立ち回って生き永らえたところで、老衰も死も100%確実にやってくる。
 その老いと死をどのように受け止めるのか。
 残された命をどう生きればよいのか……。

 

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4/17(月) 損をしたら損をしたでいいじゃないか、と腹がくくれれば、嘘や言い訳をしないですむ。
  損をしても、得をしても、それはそれだけのことであって、巨視的なタイムスケールで見れば、ただのエネルギーの出し入れの問題に過ぎない。

 

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4/16(日) セオリー通り、正確に、淡々と、サティを入れていきさえすれば、システムの力で行くべきところに向かうだろう。
  サティが堅持される限り、道をあやまつことはない。
  法の世界と概念の世界とが厳密に識別され、現象→サティ→現象→サティ……の流れが一瞬も途切れることなく持続されている限り……。

 

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4/15(土) 勝義諦の四番目は<涅槃>だが、体験によって証得すべきものを思考の次元で論議するのは愚かしい。
  解脱の瞬間や悟りの境地、高いレベルの瞑想などについて知れば知るほど、修行意欲の高まるメリットもあるが、むしろ弊害のほうが多い。
  知ってしまえば、イザという現場で必ずその情報が浮上するだろう。
  真実の体験なのか、刹那の思考からくる偽の体験なのか、疑惑の問題が発生してしまう。

 

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4/14(金) 事象を経験する心が生滅し、確認する心が生滅する……。
  それ以外に存在すると感じられるのは、脳内イメージであり、妄想であり、心の中だけに存在する概念の世界……。
  この事象と、事象を認識する心と、その瞬間の心の構成因子(<サティ>など52の心所)のみが、まごうかたなき「法(ダンマ)としての存在」である。
  これをアビダルマでは、勝義諦(パラマッタダンマ:第一義)、と呼ぶ。

 

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4/13(木) 眼耳鼻舌身意から情報が取り込まれた瞬間ごとに、その事実を「見た」「聞いた」「感じた」と確認してしまえば、自我感やエゴ妄想の入り込む余地はなくなってしまう。
  「見た」のは私、「聞いた」のは私……という刹那の思考も、その直後直後に「と思った」「思考」とエンドレスで確認していけば、無我論の世界を検証することになるだろう。
  この技術が、ヴィパッサナー瞑想の「サティ(気づき)」と呼ばれるものです。

 

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4/12(水) エゴがあるという実感や自我感は、感覚的真実ではある。 
  東の空に昇ってきた巨大な満月よりも、眼前の10円玉の方が大きく見えるし、1秒間に30コマの静止画像が速射されているだけなのに、残像効果でリアルな動画に見えてしまう。
  そのように、思考のプロセスが作り出している偽の印象であっても、「この私」という感覚は実体としか思えない……。

 

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4/11(火) 財産、名誉、社会的ステータス、究極の愛……と、命を懸けて求めるものはさまざまだが、「自分という存在を認めてもらいたい」という「承認欲求」は最も根の深いものの一つだろう。
  だが、認めようにも、その「自分」には法としての実体がなく、妄想に過ぎないのだと仏教は説く。

 

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4/10(月) 洞察のサティとは、一瞬にして対象の本質を捉える力がともなったサティです。
  サティのファクターと同時に強力な集中力(サマーディ)が連動して働くので、瞬間的な情報の読み出し量が増大し、理解の度合いがアップするのです。
  また、心の混乱が鎮まれば、情報処理の速度や認識が確定されるまでのプロセスが敏速になります。
  かくして、思考の智慧とは別次元の、瞬間的に対象の本質を直観し、洞察するヴィパッサナーの智慧がもたらされます。

 

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4/9(日) 法の確認のサティとは、いささかも思考や概念が混入しない、情報の直接知覚の段階でのサティです。
  六門を介して対象(情報)が意識と接触した瞬間に、電光石火のサティが入ると、思考プロセスが起動しないので、ムキ出しのありのままの状態が確認されます。
  この、法(ダンマ)として存在する事象を確認するピュアなサティが、ヴィパッサナー瞑想の原点です。

 

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4/8(土) 自覚のサティとは「今、自分は何をしているか」に気づいていることです。日常生活の中でおおざっぱでもサティを入れ、自覚できてさえいればOKです。
  「伸ばす」→「掴む」→「持ち上げる」…とか、「歩く」→「音」→「見る」→「批判している」…… 
  などのように、動作と重なった現在形のラベリングでかまいません。
  日常生活のサティでは、あまり高いレベルの仕事はできなくてよいのです。

 

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4/7(金) 大丈夫です、と言いながら、顔が引きつってしまうように、何事も、本音や本心のエネルギーが物を言います。
  ラベリングをしても、執着する心は簡単に握り締めているものを放そうとはしないものです。
  本気でその対象を手放す気持ちがあれば、言葉だけのラベリングが上滑りするといった空振りのサティにはなりません。
  かくして、サティを入れることは、一瞬一瞬、執着する心を捨てていくトレーニングになる……。

 

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4/6(木) サティが入れば、後続切断の作用により、不善心所系の思考の流れは止まるのです。
  止まらなければ、サティが不完全であったか、サティの直後の心が再び不善心所を起動させてしまったか、どちらかでしょう。
  サティが不完全という意味は、対象化作用が弱かったのです。ラベリングの言葉だけが上滑りして、本心は不善心所の妄想を手放す気がなかったということです。

 

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4/5(水) 何となく沈んできて、暗くなりかけた時は、不善心所モードになっているはずです。
  もやもやとネガティブな思考や記憶に巻き込まれ始めている……。
  「あ。暗くなりかかってる」「重くなってきた」と気づいた瞬間、ネガティブな思考の流れがプラスに転じています。
  気づく心(サティ)自体が善心所なので、サティが入った瞬間から心の流れが変わります。

 

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4/4(火) <つまらぬ快楽を捨てることによって、広大なる楽しみを見ることができるのであるなら、心ある人は広大な楽しみをのぞんで、つまらぬ快楽を捨てよ>【真理のことば「(ダンマパダ)21−290」岩波文庫】

 

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4/3(月) <天上の快楽にさえもこころ楽しまない。正しく覚った人(=仏)の弟子は妄執の消滅を楽しむ>【真理のことば「(ダンマパダ)14−187」岩波文庫】

 

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4/2(日) <たとえ貨幣の雨を降らすとも、欲望の満足されることはない。「快楽の味は短くて苦痛である」と知るのが賢者である>【真理のことば「(ダンマパダ)14−186」岩波文庫】

 

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4/1(土) <快楽から憂いが生じ、快楽から恐れが生じる。快楽を離れたならば憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?>【真理のことば「(ダンマパダ)16−214」岩波文庫】

 

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3/31(金) <すべて悪しきことをなさず、善いことを行い、自己の心を浄めること、―これが諸の仏の教えである>【真理のことば「(ダンマパダ)14−183」岩波文庫】

 

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3/30(木) <怒りを捨てよ。慢心を除き去れ。いかなる束縛をも超越せよ。名称と形態とにこだわらず、無一物となった者は、苦悩に追われることがない>【真理のことば「(ダンマパダ)17−221」岩波文庫】

 

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3/29(水) <善をなすのを急げ。悪から心を退けよ。善をなすのにのろのろしたら、心は悪事をたのしむ>【真理のことば「(ダンマパダ)9−116」岩波文庫】

 

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3/28(火) <善いことをした人は、この世で喜び、来世でも喜び、ふたつのところで共に喜ぶ。かれは、自分の行為が浄らかなのを見て、喜び、楽しむ>【真理のことば「(ダンマパダ)1−16」岩波文庫】

 

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3/27(月) <修行僧が人のいない空屋に入って心を静め真理を正しく観ずるならば、人間を超えた楽しみが起こる>【真理のことば「(ダンマパダ)25−373」岩波文庫】

 

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3/26(日) <忍耐・堪忍は最上の苦行である。ニルヴァーナは最高のものであると、もろもろのブッダは説きたまう。他人を害する人は出家者ではない。他人を悩ます人は<道の人>ではない>【真理のことば「(ダンマパダ)14−184」岩波文庫】

 

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3/25(土) <怨みをいだいている人々のあいだにあって怨むこと無く、われらは大いに楽しく生きよう。怨みをもっている人々のあいだにあって怨むこと無く、われらは暮らしていこう>【真理のことば「(ダンマパダ)15−197」岩波文庫】

 

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3/24(金) <修行僧は堅く戒めをたもち、心の念いと明らかな知慧とを修養すべきである。つねに熱心に、つつしみ深くつとめはげむならば、苦しみを消滅し尽すに至るであろう>【感興のことば「(ウダーナヴァルガ)6−8」岩波文庫】

 

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3/23(木) どのようなことを行うにしても、まず自分の情況を客観的に把握し、正確に対象を認識することから始めなければならない。
  そのためには、心が静かに統一されていること、混乱がないこと、冷静であること、そして、正しい行動プログラムが必要不可欠となる。
  ヴィパッサナー瞑想は、そのすべてをもたらしてくれる……。

 

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3/22(水) <鞭をあてられた良い馬のように勢いよく努め励めよ。信仰により、戒しめにより、はげみにより、精神統一により、真理を確かに知ることにより、智慧と行ないを完成した人々は、思念をこらし、この少なからぬ苦しみを除けよ>【真理のことば「(ダンマパダ)10−144」岩波文庫】

 

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3/21(火) <実に心が統一されたならば、豊かな智慧が生じる。心が統一されないならば、豊かな智慧がほろびる。生じることとほろびることとのこの二種の道を知って、豊かな智慧が生ずるように自己をととのえよ>【真理のことば「(ダンマパダ)20−282」岩波文庫】

 

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3/20(月) なぜ、そんな難しいことができるのか。
  まずサマーディの力を完成させて、いつでも安定して定力が発揮できる状態にする。
  次に、サティの技法を完全に身につける。
  そうすると、矛盾した要素が見事に統合され、強力な智慧を発現させることができる。
  ……これが、ブッダの時代には一般的だったやり方です。

 

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3/19(日) 強力に集中して一つの対象をよく見る仕事と、あらゆるものに無差別平等に気づく仕事が両立したなら、どうでしょうか。
  まさに、それがヴィパッサナー瞑想です。
  サマーディの集中の仕事と、公平に気づいていくサティの仕事が、二頭立ての馬車のように同時進行していく。
  やがて洞察の智慧が閃く大きな要因です。

 

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3/18(土) 集中が高まりサマーディに近づいていくにつれ、中心は鮮明に見えるが、周囲は見えなくなる……。
  サマーディは諸刃の剣。

 

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3/17(金) 悪を命じられる情況に巻き込まれるのは不善業の結果で避けられないだろう。
  その悪を実行するのもしないのも自分で決める自由が残されている……。

 

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3/16(木) 悪に向かって堕ちていくカルマもあるだろう。
  出来事も出逢う人たちも不善業のラッシュのような流れに呑み込まれていく日々……。
  事実は甘受するしかないが、事実を受け容れた次の瞬間の反応する心は、ダンマに基づく正しいものであれ、ということです。
  至難の業かもしれないが、できないことではない。
  受容と反応は2つのことです。

 

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3/15(水) 自由に裁量できるのは、どうでもよいことばかり。
  人生の大事は、否応のない力で怒涛のように押し流されていく……。
  変更しようもないほどの業が作られていたのであれば、甘んじて受けいれていく他はない。

 

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3/14(火) 心が変わるとは、反応系の心のプログラムが書き換えられることです。
  瞬間的な情報処理の仕方、入力情報が既存の脳内データに結びつけられていくやり方、出来事の解釈の仕方、立ち上がっていく反応パターンの順番、全体を通じて自己中心的な立場から客観的な立場へのシフト等々が、いかに実行されるかの問題です。
  知的に納得するための考察が終ったら、これらのすべてのプロセスに関わるヴィパッサナー瞑想を試してみてください。

 

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3/13(月) 考察の結果、まちがったバッティング・フォームだと分かっても、それでフォームが直るわけではない。読書も考察も、なすべき正しい行動指針を得るためである。
  本当にフォームを直したければ、正しいプログラムの反復練習が繰り返されなければならない、腰や腕の筋肉に対してではなく、指令を発している脳の運動野に対して。

 

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3/12(日) 素晴らしい考えやアイデアが浮かぶたびにサティを中断し、結論が出るまでしっかり考察したり、メモを取ったりしていた人がいた。
  「ヴィパッサナー瞑想は凄いですね。いろんなことが分かりました」
  なるほど。「膨らみ・縮み」と言いながら、考えが浮かぶのを待つわけですね。
  考えを整理するのも大事ですから、そのように考察の知恵をめぐらせるのもよいでしょう。
  しかし考えごとで心が根底から変わるなら、瞑想は要らなくなる。

 

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3/11(土) 「思えば、多くの人たちに支えられて、ここまで来ることができた……」
  心を成長させ、浄らかにしてくれる思考が浮かんだ瞬間でも、「考えた」「思考」と即座にサティを入れ、中心対象にもどっていく潔さが、すべてを等価に見る「ウペッカ(捨)」の心を養います。
  悪いものにも、善いものにも、公平に、淡々と、気づいていく道…。

 

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3/10(金) 誤認するな、まちがえるな、というのではない。 
  錯覚かもしれない、法と概念が混同されているかもしれないという自覚と、実際に推定し補いながら認知していたという自覚が、反応系の心に冷静さ、公平さ、客観性をもたらすだろうということ。

 

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3/9(水) 六門から入力された情報が知覚される瞬間、まだ情報の内容が読み出される直前の状態で、「見た」「音」「匂った」とサティが入れば、「法としての存在」が直接知覚の状態で確認されています。
  次の瞬間、「想(サンニャー)」が働いて、見えたものや音の内容が分かります。
  分かったつもりでも、誤解や錯覚、勘違いが多々あるのだから、知覚した内容は当てにはなりません。心に形成されていく概念の世界であり、夢や幻と同質の不確かな世界です。
  アスファルトの路面に揺らぐ陽炎のようなものに執着すると、ドゥッカ(苦)が発生する……。

 

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3/8(水) <世の中は泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。世の中をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない>【真理のことば「(ダンマパダ)13−170」岩波文庫】

 

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3/7(火) 深手を負った心の傷やトラウマを、ひとつひとつの出来事に即しながら検証し直し、プラスの価値に変換して受容する「再配置」の作業を思えば、途方に暮れる。
  現象世界を実体視する「無明」や「痴」が働いている限り、経験される「出来事」に本気でのめり込んでしまうのは避けられない。
  やがては跡形もなく死んでいく身ではないか。
  この世のことは、すべて一場の夢のように捉える視座もある……。

 

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3/6(月) 何百回も考え抜いて、十二分に解っていることであり、とっくに終ったと思っていても、深層意識の底に燠火のように残存している場合も珍しくはない。
  それが本当に腑に落ちて息の根が止められたときには、ガラガラと音を立てて崩れ去っていくような、大団円の終了感があるものです。
  疑念や迷いが1ミリでも残っているのなら、まだ因縁が解け切ってはいないのかもしれない。

 

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3/5(日) ブレーキを持たない、アクセルとエンジンだけの車が横行する社会では、装甲車のような車が幅をきかせ、餌食にされる弱小車は膨大な大量生産によって辛うじて生き残りにかけるだろう。
  ブレーキをかけてコントロールできる立派な装置が搭載されたからには、使いこなせるように修行して、力が支配する野蛮な時代には戻らない…。

 

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3/4(土) 敏速な心の人は、六門認知の初期段階でサティを入れ、煩悩プログラムがOffのまま発火させずに見送ることができるだろう。
  鈍速な心の人は、強力なサティの対象化作用によって、煩悩の指令を一蹴する。
  サティのない人は、煩悩の声をしっかり聞いてしまうが、理性的判断で無視していく…。

 

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3/3(金) 心が浄らかになっても、利己的遺伝子が命じるプログラム内容は変わらず、本能を司る旧い皮質の脳も、組み込まれたプログラム通りの情報処理と行動命令を伝達してくるだろう。
  遺伝情報と旧皮質の脳が機能する限り、ドゥッカ(苦)を発生させる煩悩の地雷の上で暮らしていくようなものだ。

 

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3/2(木) 正しい情報が知識として蓄えられれば、純粋な経験によって得られたデータによって検証され、脳内醗酵しながら情報としての質が変化していくだろう。 
  正しい情報によって反応系の心が整理されていくと、曇りのない意識状態を形成しやすくなる。
  深い階層の意識まで浄らかになった心の状態でサティを入れると、物事の真相を見究める洞察の智慧が閃きやすくなる…。

 

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3/1(水) どのような最悪の情況にも、必ず終りが来る。
  「忍耐は最高の修行である」というブッダの言葉を支えに、嵐が過ぎ去るのを待つ…。

 

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2/28(火) 子供の頃からイモムシが大嫌いで、見つけると踏み潰していた人がヴィパッサナー瞑想に出逢い、厳密に殺生戒を守り始めた。毎日10分間のサティと並行して、慈悲の瞑想も日課として続けていった。
  ある日、大きな公園のなかを散歩中に、イモムシが丸まっているのが眼に入った瞬間、「見た」→「連想」→「微笑」→「優しい気持ち」とサティが入った。
  無類の犬好きだったこの人がイモムシを見た瞬間に連想したのは、自宅の玄関先で尾っぽの中に顔を埋めて丸まって眠る愛犬の寝姿だった。
  一番嫌いだったものを認知した次の瞬間、一番好きなものが連想され、優しい心になっていたのだ。イモムシに対する嫌悪も苦手意識も完全に卒業できたのだ、と思った。
  ゆるやかに、確実に、人の心は変わっていく…。

 

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2/27(月) 優れた記憶力や論理的思考力、カンの良さ、創造性など、諸々の能力を発揮して悪事をする人たちもいる。
  頭が良いことと、心が浄らかであることはまったく関係ない。
  我が身に苦を招くであろうことをするのは、智慧がない証しです。

 

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2/26(日) 心が空っぽになれば、先入観や思考の干渉がないので、一瞬の直感的な判断が正確になる。
  情報処理→認識→反応というプロセスが、非常な速さで進行しているのだが、直感のメカニズムがいくら正確になっても、仕込んだ情報の内容、判断基軸の拠りどころ、目指している目的意識などによって結果はさまざまに異なるだろう。
  反応系の心を浄らかにする仕事は変わらない……。

 

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2/25(土) スポーツも舞踊も音楽の演奏も書も、あらゆる演技や格闘の技は、やり直しのきかない一瞬の美と力を競い合っている。そうした世界で、神技と呼ばれる最高のパフォーマンスに共通するのは、<無我の感覚>です。
  勝ちたい、良く見せたい、負けたくない、期待に応えなければ…どのような類の思考であれ、一瞬でもそのパフォーマンス以外のことに心が飛べば、何かが崩れます。千分の一秒の妄想によって、隙が出る。ミスが誘発される。張りつめた美の流れが、瞬間的に翳る…等々、完全性にヒビが入るのです。
  技術的習練は言うまでもないが、<無我の感覚>を具現するためには、無思考状態を作ることが不可欠となり、それには、思考を止めていく瞑想が最高に効果的だ。
  サティの瞑想をやりましょう。

 

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2/24(金) 托卵で孵化したカッコーのヒナは、背中に触れた宿主の卵を必ず巣外に落下させて、里親の育児のエネルギーを独占しようとする。
  そんな卑劣な利己的プログラムまで遺伝情報に組み込んでしまう無明の心……。
  仏教のダンマは、その無明の超克を説く教えであり、ヴィパッサナー瞑想はその実践法である。
  その困難な仕事をやり遂げることが可能であることを証した聖者達の系譜がある限り、その道を歩き続けよう…。

 

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2/23(木) 人体を構成している諸々の臓器や器官は、見事な連携プレーで生命活動を営み、一個の細胞の中ですら諸々の構成因子が相互に関連し合った小宇宙を作っている…。
  個体の仕組みも、それを取り巻く環境も、この世のあらゆる存在が、諸法無我の真理に貫かれているのに、なぜ、我執が生まれ、エゴの殻の中に閉じこもる意識が発生してしまうのか。
  万物の真実のあり方に反しているのは明白なのに、自己愛と自己保存の衝動に衝き動かされた生命エネルギーをほとばしらせていく無明…。

 

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2/22(水) 真紅に咲き誇る薔薇の美しさを支える茎があり、茎を貫く維管束があり、養分を吸い上げる根と根毛の拡がりがあり、地を潤す雨が降り、蒸散していく水分があり、光合成をする葉があり、降り注ぐ陽光がある…。
  この世の一切の事象は、あらゆるものと相互に関連し合った宇宙規模の網目なのだということを忘れない。
  常に無量無数の存在に支えられ、助けられている実情を無視して、エゴの私が独り輝いているかのような妄想に巻き込まれないように…サティを入れる。慈悲の瞑想をする……。

 

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2/21(火) <生じたもの、有ったもの、起ったもの、作られたもの、形成されたもの、常住ならざるもの、老いと死との集積、虚妄なるもので壊れるもの、食物の原因から生じたもの、-それは喜ぶに足りない><それの出離であって、思考の及ばない静かな境地は、苦しみのことがらの止滅であり、つくるはたらきの静まった安楽である>【感興のことば「(ウダーナヴァルガ)26−22、23」岩波文庫】

 

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2/20(月) 正確な記憶の遡行は事実に属するが、でたらめなイメージや概念の組み合わせは妄想と呼ばれる。
  第四禅定に入り過去世の記憶を想起する<宿命通>という神通は、妄想とはまったく異なる意識状態だが、ブッダのこの能力は空前絶後の比類ないものであった。
  そのブッダの通力を以って、何百億劫(カルパ)もの過去に溯り、さらに限りなく、果てしなく、どこまで溯ろうとも、この世の始まりというものは見られないのだ、というのがブッダの結論だった。
  始まりも終りもないこの世には、ただ苦と苦を癒やす道だけがある…。

 

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2/19(日) 妄想する能力を発達させた人類の、どのような民族にも創世神話があり、最初の生命やこの世の始まりが空想されている。
  仏教では、<成・住・壊・空>と呼ばれる「宇宙の誕生・維持・破壊・破壊後の空虚」の状態が無限に繰り返されている、と考えられている。
  これもまた、すべての神話の成立同様、想像力の産物なのだろうか。
  ある時、ブッダは無限の過去にまで溯り、世の始まりを視ようとしたことがあった…。

 

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2/18(土) 陸上に進出したのが植物だけであった時代は、まだ良かった。
  光合成によって植物が整えてくれた環境に、動物たちが暮らすようになってからというもの、自分が生き延びていくためには他の生命を殺して餌食にするという、怖るべきシステムが地上を席捲し、生の基本原理になってしまった。
  たえず自分が殺されることに怯えながら、殺し続け、食べ続けなければ、生きていくことができない……。
  なぜ、こんなシステムなのだ……?

 

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2/17(金) 生命の基本原理に従って自然に生きていくと、生老病死の苦が待ち受け、愛する者と別離し、嫌悪すべき人に出遭ってしまう苦が避けがたいとは、ひどい話だ。
  生殖する定めなのだから愛欲に執着し、命を維持するために食物にも生活環境にもそれを支える収入にも執着するのは当然だろうに、その渇愛が苦の根本原因となるようなシステムを、いったい誰が設計したのか……。

 

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2/16(木) 自分のことしか考えられなくなれば、心は必ず不善心に傾いていく。
  心が崇高な浄らかさに満ちるとき、たとえ体が病んでいても、また、どのように劣悪な境遇に置かれていようとも、幸福の感覚に包まれていく……。

 

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2/15(水) 苦しければ自分のことしか考えられなくなるのが当たり前なのです。
  しかし、苦しいなかでも何とか視座を転換して、ダンマを想い、慈悲の瞑想に心を向けてみるのです。
  病床からでも、例えば自分よりももっと重病に苦しんでいる方に慈悲の瞑想ができます。
  わずかでも慈悲の瞑想ができれば、心に崇高さが入ってきます……。

 

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2/14(火) 病気になって、体も思うように動かせず、痛みと苦しさに耐えるだけの状態になってみれば、老人や病を得ている方々の気持ちが痛切に理解されるでしょう。
  「ああ、こんなに痛いのだ。不安に心が折れて、無力感と絶望感に襲われてしまうのだ。……自分は今まで、お年寄りや病人の方々に本当に優しく接してきただろうか。冷たくなかっただろうか。忌避する心はなかっただろうか……」と反省し、他者への共感の礎にする。
  共感が深まれば、自他の分別が崩れた一如の感覚で慈悲の瞑想が発信できる。

 

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2/13(月) 純粋に、人のため世のためになされる善行は価値が高く、未来に受けるであろう果報も絶大である。勝善という。
  そう聞いて、「本当ですか。そんなに価値が高いなら、私も善行をやります」と言った人もいる……。

 

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2/12(日) 善行は、カルマの法則を利用して自分のために取り引きするものではない。
  好き結果を求めてなされる善行は、価値が低く効果も減少すると心得る。

 

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2/11(土) 毎日少しづつ汚れていくものは気づきづらい。
  自覚に上ったときには、手遅れのどうしようもない不善心所モードに陥っている。
  心が転換できなくなったときには、思い切って大きなクーサラ(善行)をするとよい。
  「自分のために」の発想に傾いて枯渇してきたのだから、一転して人のため世のために、物を与え、労力を与え、情報を与える、諸々の善行のスケールを大きくすると、劇的に変化するでしょう。

 

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2/10(金) 日々の微かな不快感や嫌悪などが知らぬ間に蓄積されて心が汚れていく。
  在家の者が仕事や生活の現場で確実にサティを入れることは、まずあり得ないだろう。
  『ちょっと傲慢だったかな。素直に喜べなかったのは、嫉妬の心が入っていたのかもしれない。あの言葉にムッとして恨みモードになっていたのか……』等々、一日が終るときに、慈悲の瞑想とセットで反省し、その日のうちに手放すことができれば素晴らしい。

 

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2/9(木) 知識は、何をし何を経験すべきかの方向を正しく示すことができるかもしれないが、脳の深い階層に影響は及ぼさない。
  心に衝撃を与える体験と、体験の意味を理解する智慧が、人の心を変えていく……。

 

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2/8(水) 「ウペッカ(捨)」の無差別平等性について整然と語るだけの人もいる。
  言葉の意味も説明も知らずに、「ウペッカ」の心の実質を体験している人もいる。
  体験によって得られたものが明確な言葉で確認されると、普遍性を帯びやすい。

 

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2/7(火) ヴィパッサナー瞑想者からのメール。
  「……足の痛みを2時間半観察し続けるうちに突然、痛みを苦しみと感じない状態になりました。
  痛み、音、接触感などがすべて等価なものになり、次々と過ぎてゆくのをただ見ているだけで、自分から何かをするということは一切ありませんでした。
  <受身>や<完全な受容>とは、こういうものなのかと思いました。
  その時の心の平安さは他に比べようがなく、今まで経験したことのない、何といったらいいのか分からない出来事でした……」
  素晴らしい体験ですね。

 

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2/6(月) 夢の中でも五戒を破らない人がいる。
  夢の中でもサティが入るという人もいる。
  本心で受け容れていることは、夢の中にも反映する。

 

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2/5(日) わざわいも福も、業の法則にのっとり、行(サンカーラ)の力に催され、次々とこの世に出現し、生じたはなから壊れていく……。 
  夢のように生じては滅していく出来事ばかりではないか…と、他人事のように我が身の経験を達観してみる…。

 

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2/4(土) 受け容れることができず、悪あがきをしても、最後は時が解決してくれる。
  幸せも消えていくが、最悪の情況にもやがて終りがくる……。

 

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2/3(金) 傷ついた者、失敗した者、敗北した者、辱められた者の心を身をもって体験できることをありがたく受け止める。
  他者への共感力も、人を受け容れる懐の広さも、天狗にならないための歯止めも、こうして培われていく……。

 

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2/2(木) 苦の現象を堂々と引き受けていく覚悟があれば、何事も悔いることなく、平然と耐えることができるのではないか。
  悪しき原因を作れば悪い結果を刈り取るという検証結果を肝に命じて、戒を守る決意を新たにする。

 

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2/1(水) 来し方を思えば、スネに傷のない人はなく、愚かにも汚れていた自分の心に暗澹たる気分になるかもしれない。
  しかし、それを悔いて「後悔」という名の怒りの煩悩に陥るのは正しくない。
  今はもう過ぎ去ったことなのだ。
  どれほど悪い過去であろうとも、前を向いて、未来に善をなしていけば、清算されていく。 
  これからは同じ過ちを繰り返さないと誓って、五戒を守り通して生きていくならば立派な仏教徒です。

 

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1/31(火) 五戒をしっかり守って、悪を避け善をなす原則を貫き通して、きれいに生きていくのは容易なことではないが、はかり知れないほどの価値がある。
  晴れ渡った青空のように、何ひとつ愧じることも、やましいこともない心の状態で生きていけるのは何物にも替えがたい。
  やる気が出る。
  心底から自分に自信が湧いてくる……。

 

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1/30(月) 愛欲に溺れるのも嫌悪するのも高慢になるのも、なんと自然にできてしまのだろう。
  善行はなし難く、本能に直結している煩悩は水が流れるようなたやすさでなされていく……。
  なんらのコントロールもされない、ありのままの命の営みが苦の原因になっていく残酷な摂理。
  ありのままの煩悩に居直るのではなく、「ありのままのどうしようもない自分の心」をいさぎよく認めて、理法の智慧と努力と精進のエネルギーで乗り超えていく道……。

 

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1/29(日) 失ったら失ったでよい、と腹をくくれば、恐怖感は減少する。
  警戒しようが、緊張しようが、怖れようが、そうなるべきものはそうなるのです。
  何事もいさぎよく引き受けていく覚悟をする……。

 

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1/28(土) あのとき死んでいてもおかしくなかった。
  そう思ったことが何度もあった。
  これは拾った命ではないか……。
  そう思えば、価値あるもの、崇高なものに捧げ切る覚悟が深まる。

 

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1/27(金) 新しい行動規範(戒)を心から受け容れる。
  引きずってきた過去の問題に、納得のいく決着をつける。全容を理解し、今後どうすべきかに迷いがないこと。
  心グセに反する新規プログラムは簡単には定着しない。何度でも上書きを繰り返し、諦めないこと。
  新しい経験をマインドフルに受け止めて、過去の受け皿とは異なった正しいオーダーに配置する。
  クーサラ(善行)ができるあらゆるチャンスを逃さない。
  必ず自分は変わる。自己変革していく、と揺るぎのない決意を日々新たにする……。

 

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1/26(木) 学習で得た知的情報が、脳の深い階層の反応パターンを組み替えることはあり得ないだろう。
  分かっちゃいるけど、止められない……。
  幼少期に刷り込まれたプログラム、情動脳に直結しているトラウマ、永年に渡って繰り返してきた性向、有分心に持ち越された過去世の反応パターン(宿業)…等々を根本的に組み替えるには、「修行」をしなければならない。

 

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1/25(水) 悲惨なドゥッカ(苦)に苦しむ人たちの声を聞き、映像で眺め、文字情報で読んで、頭をガーンと叩かれるのもよい。
  苦の実相を目の当たりにしても、くだらない己の煩悩に執着したいのかどうか……。 

 

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1/24(火)  仏教がよく分かっていても、煩悩に巻き込まれ、蟻地獄のように自力脱出できなくなることもある。
  低次元にセットされてしまった心の波動を一気に高めるには、ダンマ系情報に感動するのが一番よい。
  徳の高い人物や比丘の姿を見るだけでもよい、と仰っていたタイのアチャンもいる。

 

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1/23(月) <愚かに迷い、心の乱れている人が百年生きるよりは、知慧あり思い静かな人が一日生きるほうがすぐれている。>【真理のことば「(ダンマパダ)8−111」岩波文庫】
  <最上の真理を見ないで百年生きるよりも、最上の真理を見て一日生きることのほうがすぐれている。>【真理のことば「(ダンマパダ)8−115」岩波文庫】

 

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1/22(日) 本当にやりたいことのために、価値あることのために、人のため、世のため、法のために、与えられた命を費やさずに死んでいってよいのだろうか……。

 

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1/21(土) 断食の復食がうまくいくと、空っぽの体に透んだエネルギーが行き渡り、命が輝くのが感じられる。
  60兆の細胞が微細なバイブレーションを放っているかのような「放電感覚」に耳を澄ますと、今この一瞬一瞬に死につつある生命現象なのだという実感が深まる……。
  過食しながら、鈍重な眠気と欲望と嫌悪に埋没していく人生に、どんな意味があるのだろうか…。

 

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1/20(金) 苦受を受ける瞬間が、己の不善業が現象化した瞬間である。 
  同様に、善きカルマが実を結ぶのは、楽受を感じた瞬間である。 
  何もできずにただ苦受を感じるだけであっても、己の不善業が終滅していく意味ある過程なのだと理解する。
  もし、赦すことができ、大嫌いだった人がかけがえのない人にまで変容したならば、解くべき因縁は見事に解けたのだと喜んでよい……。

 

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1/19(木) 出来事が物理的に終焉してもよい。
  情況は何も変わらずとも、ありがたいものとして、心底から受容されていれば、問題は終焉している。
  ドゥッカ(苦)がなくなっているのだから、どちらでも同じことです。

 

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1/18(水) 見るべきものを見、学ぶべきものを学べば、その情況からは不思議に解放されるものです。
  意味が分かれば納得がいくので、与えられたものをことごとく受容することができる。
  最初は不快だったものが、ありがたい、かたじけないものとして受け容れることができたならば、解くべき因縁が解けてチャラにできた証しだと見てよい。

 

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1/17(火) たとえ下らない人間に囲まれた劣悪な環境であっても、それが今の自分にふさわしい最良の情況なのだと心得る。
  己の不善業をチャラにするために、「業の法則」が働いた結果なのだという理解。
  立派な人に出会うのも、下らない人間にしか出会えないのも、自己責任なのだということ。

 

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1/16(月) 誰もが、必然の力に催されて自分のカルマの引き当てた環境にいる。
  今いる場所で、心が乱れなくなること…。

 

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1/15(日) <先ず自分を正しくととのえ、次いで他人を教えよ。そうすれば賢明な人は、煩わされて悩むことが無いであろう>【真理のことば「(ダンマパダ)12−158」岩波文庫】

 

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1/14(土) 人を救いたければ、まず自分が幸せになり、立派にならなければならない……。

 

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1/13(金) 動機の不純な「劣善」ならやらない方がよい、そんなの偽善だ、と言う人がいる。
  誰でも最初から完璧な善はなし難いのです。
  たとえ自分の利得や勲章欲しさからの善行であっても、その善によって救われ、助けられる人がいるなら、それでも良いではないか。
  何もしない人、悪いことばかりしていた人が、たとえ最低の「「劣善」でも始めることができたなら、素晴らしいではないか。

 

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1/12(木) 心はなかなか変わらないが、行動はすぐ変わる。
  直ちに実行する。あるいは止めさえすればよいのだ。
  違和感や抵抗を覚えながらでも、続けていると、心のプログラムの方が行動によって押し切られていく。
  善、なすべし。諸悪を避けるべし…。

 

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1/11(水) 眼に見える成果などは滅多に現れないものです。
  心の清浄道では、全力投球で頑張って1ミリ前進するのが、やっとなのだ。
  歳を重ねるとともに純真さは失われ、心は垢だらけになっていくのが普通なのに、踏み止まって、向上しようとしている自分を祝福してあげる……。

 

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1/10(火) 心が汚染されている人ほど、自分はどこも悪くない、なんて立派なんだ……と思いたがる。
  心が浄らかになればなるほど、わずかな汚染にも敏感に反応し、自分は至らない者だ、心が汚れていると感じるものです。

 

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1/9(月) たとえ心の中の妄想であっても、古いプログラムを思い出せば電気信号が通るので、甦る力を与えてしまうだろう。
  悪いプログラムは、二度と意識にのぼらせないで、抹消したほうがよい。
  長く使用されない脳回路が自然に壊れていくことを「廃用性萎縮」と言う。
  悪いことは見ない、言わない、聞かない、思い出さない……。

 

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1/8(日) 生まれついての資質は、過去世での言動や想念行為の集積した結果です。頑固に固まっていても、しょせん無常の法則に支配される現象世界の業の話です。
  断じて諦めることなく清浄道を目指していく限り、今世でも変われるし、来世の資質に繋いでいくことができる。 

 

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1/7(土) 心を変えるとは、心の反応パターンを書き換えることです。
  生得のプログラムは変わりづらく、後天的にインプットしたものは変更しやすいのだが、12歳、6歳、3歳……と、刷り込みの時期が古くなるほど書き換えが難しくなる。
  階層がどれほど深くても、プログラム書き換えができなければ、心の清浄道も、仏教の悟りもあり得ない。

 

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1/6(金) 心が簡単に変わるものだと誤解すれば、落ち込んでしまうよ。
  怒ってしまう。後悔する。「後悔」とサティを入れる。
  貪ってしまう。悔いる。「後悔」とサティを入れ、後悔は悪なんだよな、と確認する……。
  こんなことを数え切れないほど繰り返して、徐々に心が変わっていく。

 

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1/5(木) 無執着の心で、なすべきことをなす。 
  進むべき道を、淡々と歩み続ける……。

 

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1/4(水) 所有しているもの、執着しているものが我が身をがんじがらめに拘束している消息。
  その束縛から解き放たれていく感動……。

 

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1/3(火) 具現化されたものがことごとく滅していく世界構造の中に生きている真相が骨身に沁みたなら、はかなく消えていくものに対する執着が減少していくのではないか……。

 

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1/2(月) 全力投球で希望を叶えるだけ叶え、そのすべてが夢のように消えていく現象世界の無常を知る……。 

 

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1/1(日) 過去のエネルギーがどれほど強大なものであっても、新しいものが始まっていく瞬間がある。
  初めて着想し、最初にイメージした瞬間から、新しいものが心の中に定着し、やがて現象世界に具現化されていく流れが始まっていく。
  希望は必ず遂げられていく……。