尋ねたかったこと(3)

 

Aさん:梵我思想とブッダの説かれた教えとの違いをわかりやすく説明してください。

 

アドバイス:
  梵我思想は、ヒンドゥー教の根本原理であり、広義には中国思想のタオイズムや大乗仏教思想の根幹にも関わってくるものです。一方、ブッダの教えである原始仏教は、梵我思想と解脱観が異なります。
  それは、現象世界を肯定するか否か、煩悩を否定するか否かという問題です。
  ブッダが亡くなられて約五百年の後、インドで大乗仏教が興起してきますが、時代を経るにつれ、その教えの根幹が梵我思想と重なり合うようになりました。それと並行していわゆる菩薩思想というものが現れ、この世に仏国土を作ろうということになりました。しかし、その考え方では煩悩を否定し完全に消滅させていく教えとはどうしても矛盾が生じてきて、やがて巧妙に煩悩を肯定する思想が出てきたのです。
  それは「空(くう)」の思想に基づき、「存在というものは本来、実体が何もないのだから煩悩そのものにも実体はない。ゆえに実体のない煩悩をなくして得られる悟りもない」という考え方でした。原始仏教と対比した時に、梵我思想の特徴は、現象世界の肯定論と言ってよいでしょう。
  全ての煩悩を滅尽させ、現象の世界に生存を続ける輪廻転生の流れから解脱していくのが原始仏教の悟り観です。一方、ヒンドゥー教の根本思想である梵我思想では、存在の究極原理である梵(ブラフマン)が万物万象に顕現していると観ますので、現象=存在の世界は絶対肯定されるべきものとなります。全ての現象が肯定されるならば、現実に私たちが悩まされ苦しめられている煩悩の存在も肯定されることになります。「空の思想」は、巧妙な論理を用いて、煩悩を全否定する原始仏教に反する思想を正当化するものでした。
  そうするうちに、大乗仏教のヒンドゥー化が進んでいきました。密教がその究極と言われています。密教はヒンドゥー教とほとんどイコールと学問的にも考えられているのです。
  インド思想の根幹でもある梵我思想の「梵」は、大乗仏教では「仏性(ぶっしょう)」と名称が変わりました。ですから、大乗仏教の悟りの究極は、宇宙=全存在と一体であるということになっているでしょう。これは、ヨーガの根本思想「存在・意識・至福」ということなのですけれど、原始仏教に当てはめれば「存在(色法)・意識(名法)・苦」になります。「存在は至福」v.s.「存在は苦」ですから、正反対です。
  このように、梵我思想では存在は至福とみなされているために、何回でも生まれ変わって来世はもっと人を救いなさいと説いたりしています。つまり、心と体の存在の世界を至福と考えているのが梵我思想で、それを苦と観るのが原始仏教です。存在の世界はドゥッカ(苦)だから離脱しようという方向になります。きわめて要点のみを申し上げましたが、このようなわけで、梵我思想とブッダの説かれた教えとは現象世界の否定論と肯定論ということで決定的に分かれてしまうということです。
  私も修行時代は、なかなかここのところに気づけなく、長い間同じだと思っていました。たとえば、高尾山は1号路から6号路まであるのですが、頂上は一つだからどの路を選んで登攀しても同じという感じですね。大乗仏教の道もタオの道もヒンドゥーの道も、根本的には万教帰一なのだから同じであるということです。
  自分は原始仏教という路を歩んでいる。他の人はほかの道を歩んでいる。でも最終的には同じ頂上に行くのだろうと思っていたのですが、実際にはそうではありませんでした。原始仏教から枝分かれしていった大乗仏教の変遷史がわかって、なぜ同じ仏教であるのに異なった考え方があるのか納得しました。

 

Aさん:仏教は、インドにおいてすでに本来のブッダの教えから変容してしまったということですが、なぜなのでしょうか。

 

アドバイス:
  その理由の一つは、原始仏教の教えに忠実に従っていくと、結局富や愛欲や名声など諸々の煩悩を捨てなさいという話になってしまいますので、特に当時の南インドの富裕な商人たちがそれだと不都合だと考えたせいでしょう。仏教も大事にしたいが、この世の幸福も満喫したいという本音を統合させたかったのではないでしょうか。キリストも、金持ちが神の国に入るのはラクダが針の穴を通るよりも難しい、と言っています。
  富や財産に対する執着はとても強烈なので、それを手放すことは至難の業になります。ところが、原始仏教の実践に向かうとそれを最終的に手放していく方向に行かざるを得ないので、それは無理だということになって、それなら富を持ったまま悟りたいと考えたのでしょう。
  その根拠として、『観普賢菩薩行法経(かんふげんぼさつぎょうほうきょう)』という大乗経典の冒頭部分は、仏弟子が「お釈迦様、煩悩を持ったまま悟るにはどうしたらいいか教えてください」と説法を願い出て、それにブッダが答えて「はい。では、しっかりとお聞きなさい」と原始仏教からは腰を抜かすような経典さえ出てきています。
  もう一つ考えられることは、原始仏教では出家して死ぬほど修行しないと悟れない構造になっているという点です。そうすると、出家が不可能な在家の人たちは昼間は仕事をしていますから、それが終わった後では瞑想の修行も十分にはできません。それでは絶対に今世では悟れませんね。もしどうしても悟りたいとなったら仕事をやめて出家しなければならなくなります。あるいはまた、出家するほど徳がないのだったら、今世では徳を積んで来世に備えるしかないということになってしまうでしょう。それでは不満だった人たちがいろいろ考えたからだと思います。
  もう一つは、今のアフガニスタンあたりにとんでもない比丘がいて、布施をすれば修行しなくても悟れるというようなことを説いて信者を増やそうとしたことが挙げられます。
  私は、そのあたりから崩れてきたのではないかと見ています。修行しなくても悟れるとか、お布施の力で悟れるとか、徳を積めば悟れるとか、あるいは在家のままで悟れるとか、だんだん安易な方向に流れていますよね。(笑)
  『維摩経(ゆいまきょう)』になるとさらにエスカレートします。この経の主人公である維摩は世俗の人で、有名な居士でもあり実業家でした。その維摩が十大弟子のサーリプッタやモッガラーナ尊者よりも優れているという役まわりになり、出家より在家の方が偉いと言いたいような経典です。あるいは『勝鬘経(しょうまんぎょう)』といって、在家の王妃である勝鬘夫人がブッダに許されて出家に対して教えを説き、ブッダがそれをその通りだと承認されるという経典までが現れます。
  ただそうはいっても、大乗仏教は哲学としては素晴らしく深いものがありますし、原始仏教の八正道や四諦、縁起などの根本的な教えまで否定している訳ではありません。仏教の枠内に留まってはいるのですが、ただ、どうしても「無常・苦・無我」の「苦」は認めたくない。なんとか省きたくて「諸行無常・諸法無我・涅槃寂静」が三宝印だ言い出し、「苦」を抜いてしまったりしました。
  テーラワーダでは「無常・苦・無我」は揺るがせようのない根本原理です。存在の本質は無常であるがゆえに、存在を現象の流れとして捉えているのです。存在するものはすべて一瞬一瞬変わっていってしまうのですから、永遠の天国や仏国土なんてあるわけがない。また、あらゆるものが相関関係の中で生きているし存在している。相互に支え合いつながり合っている宇宙網目の因果性が諸法無我であり、それが刻々変化しているのですね。
  この無常と無我を悟ったところに涅槃寂静がある、というふうに大乗仏教ではもってきて、「苦」を抜いてしまっているのです。でも、さすがに気が引けたのか、後には「苦」をプラスして四宝(法)印などという言い方をしていたりもします。これは原始仏教から言えばとんでもない話です。存在が「苦」であることが見えなくなった時点で、仏教の衰滅が始まるとさえ言われています。
  たしかに、一瞬の幸せというのはあるかもしれません。夢が叶った瞬間とか、愛する人と結ばれた瞬間などに幸せだと感じる時はあるでしょう。しかしそれも一時的なものに過ぎず、瞬く間に変化していってしまう。幸福がたちまち崩壊していくのです。同一の状態を保つことの不可能性が「苦」なのだということです。つまり、幸福や快楽には苦の側面が常に内在しているという現実を見るのです。だからこそ、幸せに執着があればあるほど、苦しみは大きくなるということです。
  もし愛する人が亡くなったらどうでしょう。その愛が大きいほど、執着が強いほど、失われた時の苦は激しいものになるでしょう。名誉や社会的地位や財産にしがみついていればいるほど、それが奪い取られたときには耐えられないでしょう。だからこそ原始仏教は無執着であることを目指すのです。文字通り、本当に苦の無い世界を。
  ところが大乗仏教のなかには、それを歪めた解釈さえ起きてきてきました。「執着がなければ、何を持とうが、何をやろうが関係ない」と。「大乗無戒」という言葉があるように、事実上戒律が無きに等しい状態になっていった時に、日本仏教の衰微が始まったと言えるでしょう。出家得度式では誰も五戒を誓いながら、酒を「般若湯(はんにゃとう)」と称して飲酒が公然と行なわれています。仏教の根本的な教えが事実上崩れたのは、妻帯を許可して世襲で寺を継ぐということになってからかもしれません。会社にしても権力にしてもお寺にしても、世襲を続けていると必ずおかしなことになって傾いていくのが常です。
  ちなみに、どの世界でもこうした世襲制度を廃止するのは難しいことですが、徳川綱吉はその英断をなし得た好例でしょう。当時は、老中や旗本のような役職は世襲になっていたために、苦労せずにそのまま親から役職を引き継いだので、質の悪い人材が蔓延していました。綱吉は、その世襲制度を撤廃したのです。彼は優れた官僚体制を整備した最初の改革者でした。そしてこの改革が、後の明治維新を成功に導いた一つの大きな原動力になったとさえ言われています。
  自分の役職を愛着のある子孫に継がせたいという欲はたいへん強く根深いものです。そうした人たちに恨まれた綱吉が『三王外記(さんのうがいき)』でひどく貶められ、後世まで「犬将軍」などと暗愚な将軍にデッチ上げられた理由だとされています。世襲制がなくなって利権を奪われた守旧派の人たちは綱吉憎しだったのです。
  関が原の戦いが終わって徳川幕府が開かれたといっても、島原の乱までは武断派の時代で、武士は平気で人を殺していました。大きな戦争はなくなったけれど、命が粗末にされていた野蛮さは凄まじいものでした。若い頃の水戸光圀が、辻斬り同然の刀の試し斬りを平然と行なっていたり、病んだ旅の者が宿屋の裏に生きたまま捨てられたりしていたのです。その時代を大きく動かし、日本人の優しさの原点を築いたのは綱吉の「生類憐れみの令」が発端だったとも考えられるのです。
  武断派から文治派へと、時代が推移していったのも歴史の必然だったのですね。殺し屋の暴力装置だった武芸を、緩やかに切り替えていったのが柳生の活人剣でした。殺さない剣の道が始まったのです。また宮本武蔵の場合も、もはや武の時代ではないと気づきました。武蔵には、三木ノ助(主君本多忠刻に殉死、享年二十三)と伊織という養子が二人いて、立派に仕官させたのですが、武蔵もあれだけ強くなりたかったのは、自分も仕官したかったからなのです。武蔵自身も細川の殿様に客分としてかわいがられたのですが、その殿様は短命でした。そのために『五輪書(ごりんのしょ)』を記したという流れだったのですが、驚いたことに、息子には兵法を教えませんでした。それは、時代を読んでいたからなのです。自分がどれだけ武術を極めたところで、島原の乱で石を投げられて足に怪我をしたら歩けないし戦えないと悟って武蔵は転身したのですから。転身後には、武蔵は絵も描くし文も書くという文人になりました。
  実際に、武蔵は細川の殿様に御伽衆(おとぎしゅう)という役職を与えられたのですが、文人としての才能も素晴らしいものでした。武蔵が描いた絵の中で一番有名なものに『枯木鳴鵙図(こぼくめいげきず)』がありますが、その筆さばきなど本当にすごいと驚嘆いたします。枯木の一直線のサーッとした流れなどは、超一流の剣豪ならではのものだと思いますね。たしかに才能があったから文人にもなったのですが、その背景には、時代の流れを読んでいたこと、それを知り尽くしていたからこそ自ずから変わっていったのでしょう。
  このように、それまでのパラダイム転換ということでは、私の修行にも当て嵌まるところがあります。つまり、梵我思想も素晴らしいものでしたが、私の求めていた道からは、どうしても無理があると感じてしまっていたのです。梵我思想と原始仏教では悟り観・解脱観が根本的に違うことが解ってきたのです。
  私はそれまで、老子や荘子にも傾倒していたのですが、そのタオを梵我思想の梵に置き換えれば、そして大乗仏教の仏性に置き換えれば、本質的にすべて同じなのです。ですから、原始仏教もそうだろうと思っていたのですが、それが違っていたのです。そのことを知って受け容れる時は相当ショックでしたね。

 

Aさん:日本には原始仏教の経典はあったのですか。また、なぜ大乗仏教が主流になったのでしょうか。

 

アドバイス:
  中国の天台大師智(ちぎ)が説かれた『天台小止観(てんだいしょうしかん)』の止観というのはまさにサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想のことですから、知識としては知られていたでしょう。また、『阿含経(あごんきょう)』という漢訳の経典も伝来していて原始仏教の経典は一応あったのですけれど、それが中心的に取り上げられることはなく、重視されなかったようです。
  日本では聖徳太子が仏教の父とされていますが、太子自ら多数の経典の中から『法華経』『勝鬘経』『維摩経』を選んで講義するとともに、またその注釈書『法華義疏』『勝鬘経義疏』『維摩経義疏』を著されたほどです。これらはすべて大乗経典です。『法華経』はご存じの通り、また『維摩経』も『勝鬘経』もさきほど申し上げたとおりです。
  おそらくそこには、原始仏教よりも大乗仏教の方が政(まつりごと)には良いという判断が働いていたのだと思います。しかし大乗仏教ではどうしても戒律厳守が徹底せず、平安時代になるとあまりにも仏教界が乱れてしまいました。そこで仏教を立て直そうとして、鑑真和上(がんじんわじょう)がお弟子さんとともに唐から招かれ、それなりの成果はあったのですが、鑑真和上が亡くなってからは元の木阿弥になってしまいました。
  私も昔は『維摩経』を読み感動していたのですが、実際の修行現場で心から納得するのは難しいですね。怒りがまったく起こらずに心の底から爽やかな時と、ムカッとした時が同じであるとは到底思えませんね。怒りや欲が立ち上がった時には、どうしても束縛されている印象が消しがたいでしょう。
  それで、大乗仏教で言っている「煩悩即菩提」というのは嘘ではないかと思いながら修行を続けていたのですが、原始仏教に出会ったことで決定的になりました。そうか、全部捨てるしかないんだということに確信が持てたのです。原始仏教も厳しい道には変わらないのですが、こちらがブッダの本当の道だと得心がいきました。
  我々のレベルでは、実際には全てを捨てるところまでには至らなくて、強欲が少欲となり、だんだん無欲に近づいていったあたりで幸福度が上がって、それで死んで、来世でまた続きをやるという展開になるのが関の山でしょうけどね。(笑)
  ただ私は、原始仏教の教えを知った時には、立ち直れないくらいショックでした。それまで十年以上やっていたことは何だったのかと打ちのめされました。「ええッ!!・・違っていたのか」と。でも当時の私には、もはや他にやるべきものが無くなっていたので、原始仏教の道を歩み抜くしか選択肢がなかったのです。
  それまで十年以上、ヨーガやヒンドゥーや莊子や大乗仏教を命がけでやってきて、また幼稚園生から今度は原始仏教をやり直さなければならないのか・・という感じでした。それまでの歳月が水泡に帰したかのような徒労感や虚しさで、起ち上がれないほどショックを受けていました。なんとも辛いものがあったのですが、でもこっちが本物だという確信がありましたので、タイやミャンマー、スリランカなど外国の寺を訪ねて修行を重ね、それで今原始仏教を教えているということです。
(文責:編集部)