集中力をつけたい(1)

 

<集中とは>
Aさん:集中の意味について教えてください。集中が良ければ妄想は出ないのではないかと思いますが、もし妄想が出たとしてもそれに常に気づき続けるのも集中と言うのでしょうか。

 

アドバイス:
  前半がいわゆる集中で、後半はサティが機能している状態です。
  結局注意の注ぎ方の問題で、集中とは心を一つのことに向け続けることです。
  例えば、「離れた」「進んだ」という足の感覚、お腹の「膨らみ」「縮み」、そこに狙いを定めてすべての注意を注ぎ続けられれば、妄想の出ようはずはないですし、六門からの情報に反応することもありません。このように、一つの対象に完全に注意を注ぎ続けられる状態を集中が良いと言います。
  それと異なり、妄想が出てもそれに気づいて中心対象に戻す、音に心が飛んでも気づいて戻す。これが徹底的に続くとすれば、それはサティがきれいに働いている状態で、とても良いヴィパッサナーの訓練になっています。

 

Bさん:集中力はなぜ必要なのですか。

 

アドバイス:
  今述べたように、心を一つのことに向け続けられる力が集中力です。
  映画や小説、遊びのように、刺激的で面白いものを対象にする時は何の努力をしなくてもそれに惹かれて夢中になるでしょう。しかしそれは、心に集中力があるからという訳ではなく、面白さという引力によって集中した状態になっているだけです。
  一方、もし興味が薄いもの、気の進まない義務的な仕事などに対しても集中できていれば、それは、集中力があると言っても良いでしょう。
  私たちの心は常に六門からの強い刺激を追い求めています。その時々の刺激的なもの、強い印象を与えるものに意識を向ける、それはおそらく生命が生き抜くための危険回避行動の一環でした。強い身体的な刺激、あるいは普通ではない光や音があったら、先ずはそれを真っ先に認識しないと危険だったからです。このように、心は基本的に強い刺激には飛びついていくように出来ているために、結果的には落ち着いた状態になりにくいと言えます。つまり散乱するのが常態なのです。
  煩悩も刺激の一つで、強ければ強いほど心は散乱します。この状態を掉挙(じょうこ)(uddhacca:ウダッチャ)と言います。心が浮き騒ぐのです。常に飛び回って散乱していれば正確な事実確認は出来ません。真実を知るというような大事な仕事はなおさら不可能です。
  実は、あらゆる不善な行為には必ずこの掉挙が関わっています。「共一切不善心所」と言って、怒りにも欲にも嫉妬にも、あらゆる煩悩に共通してこの散乱というファクターが入っています。ということは、もし掉挙が無いのであれば、それは煩悩が無いというのと同じことになります。心の散乱状態を鎮めて統一する瞑想がなぜ煩悩を無くしていくのか、心をきれいにするのかという理由の一つがここにあります。
  ですから、私たちにとって先ず必要なのは、心を静めて集中する訓練です。それによって、心はよりきれいな方向に確実に進んでいくからです。また日常的には、心はいつも鎮まって統一された状態にあって、自分の狙った通りにスッと注意が向けられるようにスタンバイしていましょう。心が十分に集中力を発揮できる状態になっていたら、何をやっても良い仕事が出来るはずです。逆に言えば、そうでなければものが良く見えないので仕事の効率も悪くなり、ひいては間違いも多くなってしまうことでしょう。
  集中によって心を鎮める訓練は、サマタ瞑想でもある程度可能です。サマタ瞑想では、概念的なものであれ何であれ、一つの対象に集中統一をかけますから掉挙は鎮まるのです。その点では、オーソドックスなサマタ瞑想は素晴らしい修行であることは間違いありません。
  ヴィパッサナー瞑想は、そのような集中力の訓練を前提にした上で、観察モードでさらに次の仕事をやっていくのです。ぜひ頑張って修行してください。

 

<集中を高めるには>
Cさん:集中を高めていくにはどのようにしたら良いのでしょうか。

 

アドバイス:
  技術的な面から言いますと、お腹のセンセーション、この盛り上がって次々と変化していく感覚を徹底的に追求します。精細に緻密に知覚して確認するという作業に限りなく集中してサマーディという定力が発揮されると、本当に腹部の一瞬一瞬の動きだけが浮き彫りになって、あとは何もないという印象になります。
  具体的には、今までは「膨らんだ」「縮んだ」と大まかに感じていたのを、その動きのプロセスも段階的に細かく感じよう、一瞬一瞬の感覚の変化を観てみようなど、良く感じ良く観ようとするのです。そうすると、例えば、聞こえてくる音に意識的に耳をそばだてると、そこから得られる情報量が増えるのと同じで、お腹からの情報量が増え、感じ方も変わってきます。
  こうして、中心対象が鮮明に観えるようになるのは、心の集中が進んでいることの証です。そしてそれは知覚がアップしていく過程であり、定の完成から観察、洞察が進んでいく道筋なのです。大まかに感じているままでは、なかなかそこまで進みません。問題は中心対象をどれだけ知覚できるか、その集中力にかかっていると言えるでしょう。やるべき努力はどこまでも中心対象に100%の集中をかけること、対象そのものをより詳細に観ようとする努力です。そうすれば必ず結果はついてきます。
  戒→定→慧という順序はいわれなく示されているわけではありません。定がなければ真のパンニャー、解脱の智慧は出てこないのです。中心対象を設定しているのは、そこに強烈に集中かけて定力を完成させる作業のためです。
  ただ一つ注意すべきなのは、強力な集中力を養うためにあまりに強引に特訓をやってしまうと、かえって弊害を生じる恐れもあるということです。もし集中を阻んでいる不善心所系の心を抱えているにもかかわらず、むりやり蓋をして集中を狙う、サマーディを狙うということになると、ヴィパッサナーという清浄道の瞑想としては正しい方向ではなくなってしまうからです。
  集中が良いのも良くないのも、すべては偶然ではなく因果関係によっています。集中の良さやその完成状態のサマーディも、無秩序に起きるのでなく、精密に心の要素に分析され、仏教では研究し尽くされています。不善心所系の妄想など、なんらかの散乱の要素が身体的、精神的にあれば、集中や統一はとうてい望むべくもありません。そういった因果関係は厳然としてあるのです。
  そうであれば、修行者にとって技術的なやり方をしっかり体得できるかどうかは、根本的な所では、集中できない要因を排除し、集中を可能ならしめる要因をたくさん作るかどうかにかかっていると言えます。戒を守る、善行をする、過去の捉われから解放される、そういったことが多くなればなるほど、集中が良くなりサティは鋭く明確になっていきます。
  ですから、良い瞑想をしようと思えば、心をきれいにし、生き方もきれいにせざるを得ないのです。特に初めのうちはあまり集中にこだわらないで、むしろ集中出来ない要因を自覚してそれらの問題の解決をはかる方がはるかに大事です。少なくとも集中を阻む要素を一つ一つ消していけば、自然に集中できる状態に変わっていきます。ヴィパッサナー瞑想としてはこちらの方がお勧めです。
  定力の完成、つまりサマーディは一朝一夕には成りません。条件が揃って初めて可能になるということです。なので、先ずは気づきの力を成長させることに専念しましょう。妄想が出たら「妄想」とサティを入れて捨ててしまうという訓練は、ヴィパッサナー瞑想修行では最初から最後まで常に一貫しているからです。

 

<妨害要因を手放す>
Dさん:瞑想を始めて4年目になります。多少雑念が減ったかなあとは思いますが、それほど集中力がアップしているとも思えません。2月21日の先生の今日のひとことに「今に集中しているのは、負の要因を引き算した結果ではないのか」とあって、この引き算というのは要するに、自分の怒りとか妬みとかそういう自分の汚い心に気がついてそれをきれいにすることかなと解釈しました。それによって集中力が高められる、そういうふうに受け取ってよろしいのでしょうか。

 

アドバイス:
  そうです。この場合、負の要因は妨害要因と言い換えられます。
  一般的に集中力をつけようとする場合にはいろいろなメニューがあります。それらは大抵は集中力トレーニングみたいなことを積極的に行うやり方です。注意力があちこちに分散してしまうのを矯正する一点集中のトレーニング、頑張れば当然その効果はありますし特に間違いではないのですが、仏教には、妨害要因を取り除く引き算の発想がありますよ、と言うことです。つまり、何で集中できないのかと言えば、実はそれを阻んでいる妨害要因が心にあるからであって、その妨害要因を引き算して除いていけば、人の心というのは基本的に、自らしっかりした注意能力を持っているものなのです。
  例えば、速読というがありますね。1分間に何千字、何万字と読んでいくもので、ものすごい集中力が問われます。しかしそれにも限界がきます。そうなると、潜在意識の汚染とかそういうものをきれいにしないと先に進めなくなる、限界を突破するのには心の妨害要因を取り除かなければならないということで、その速読教室の先生が、次々に生徒をサティの瞑想に送り出してきたことがありました。速読組って呼んでいたんですけど、それは正解なのです。
  訓練によって一定の集中状態は実現できても、そのぎりぎりの努力の上で限界に達した時には、壁を打ち破ろうと思ったら、それを妨害するものを除いていく外はないのです。
  具体的に言うと、例えば、もしコンプレックスだとかトラウマを抱えていると、意識していなくても心は必ずそちらの方にいつもアクセスしていますから、心のエネルギーが100%一点に集中出来るはずはないのです。ですから、それを取り除いていけば集中力が上がるのは明らかなのです。

 

Eさん:集中を阻んでいるものを手放すためには、理論的に現象を分析したりすることも必要ですか。

 

アドバイス:
  何が問題になって集中を阻んでいるかは、サティの力で明らかになってきます。抑圧しているものまではっきりと自分に突きつけられるからです。
  しかし、瞑想の最中には思考は一切御法度ですから、それらへの対策は瞑想を離れた状態でやらなければなりません。どう発想の転換をし、解釈を改め、解決していくか、そしてその結果、例えばいままで嫌悪の対象だったものが全くそうではない状態になる、そのような心の作業は別件でやっていきます。
  個々の課題にはそれに対応したやり方が求められますが、基本的に通底するのは「理解する」ということです。人は本当に理解して納得すればそれで終わりにできますが、そうでない限り真の解決には至りません。中途半端に自覚もなく蓋をかけるのではなく、問題に直接向き合って完全に理解し、納得することで初めて受け容れられる、終わりにできるのです。

 

<集中が良くなった時の課題>
Fさん:坐禅の時集中しすぎるような感じで、行きすぎないかどうかかえって不安になることもあります。そうなったら、どうすべきでしょうか。

 

アドバイス:
  ヴィパッサナー瞑想はことさらのことはしない自然展開が基本ですから、その結果として集中がスーッとできたなら、それはそれで起きたこととして放っておきます。
  集中が深くなっていく時の特徴は、膨らみや縮み、あるいは足の感覚がものすごく鮮明に、くっきり、はっきり分かって、観察がどんどん細かくなっていく、クリアーに面白く見えるという感じです。そのように進んでいるならOKです。
  そしてそうなった時の課題は、感覚が発生する瞬間から滅する瞬間まですべてを見届けているかどうか、ということです。細かく言えば、感覚が発生する冒頭のところを見落としていないか、それはどう変化するか、消滅する瞬間は、そして次は、というふうに頑張っていきます。このように、どんどん微分化、細分化して精度を上げていくのは、体の随観を徹底的にやっている状態ですから、とても素晴らしいのです。
  さらに、集中が本当に安定的になった時には、次には中心対象一つに絞り込まないやり方をインストラクションします。ヴィパッサナー瞑想にもいろいろなやり方があるのです。(文責:編集部)