ヴィパッサナー瞑想の基本(3)

 

Aさん:禅宗の坐禅に対して、ヴィパッサナー瞑想の坐る瞑想の特徴は何でしょうか。

 

アドバイス:
  禅とヴィパッサナーでは、そもそも悟り観が違うので行法も異なりますが、共通点もあります。禅宗の中でも、例えば臨済宗では数息観から始まって公案を用いるし、曹洞宗ではひたすら坐り抜く只管打坐ですね。どちらも思考モードを離れることが最大のポイントで、概念の世界から来るものはしょせん妄想であって真実ではないという立場です。この点は、ヴィパッサナー瞑想とまったく同じと言ってよいでしょう。
  思考を止めるために、ヴィパッサナー瞑想ではサティという技法を使いますが、臨済禅では思考モードでは絶対に答えが出ない公案に取り組ませるし、曹洞宗では妄想を歓迎もせず嫌悪もせずひたすら坐り抜いていくようです。
   エゴを手放して無我を目指すところも共通点といえるでしょう。他力本願ではなく、自力の修行によって究極を目指すのも同じです。
  禅とヴィパッサナーが決定的に異なるのは、悟り観です。ヴィパッサナーでは、輪廻転生から解脱して存在の世界から全面撤退しますが、禅では輪廻転生を問題にしない立場のようです。存在の世界からの撤退とは、現象世界否定論と言うこともできます。一方、禅宗では万物万象と一如になる方向で、根本は現象世界肯定論であり、梵我思想と軌を一にすると言えるでしょう。
  禅の場合には、坐禅のやり方をあまり丁寧に説明しないところがあるようです。かつて八王子でグリーンヒルの合宿をやっていた頃、禅宗のお坊さんたちが何人も参加されました。ヴィパッサナー瞑想では、坐る瞑想のやり方を始め、歩く瞑想や立つ瞑想、喫茶や食事の瞑想など、どのようにサティを入れるか、詳細に徹底的に説明します。禅の修行を深めるのに、ヴィパッサナー瞑想の説明がとても分かりやすいし参考になる、ということで、いろいろ壁にぶつかっていた出家の方がかなり来られました。
  しかし坐禅の深め方や修行論でいくら参考になっても、そもそも解脱観が異なるので最終的には禅かヴィパッサナー瞑想か二者択一を迫られることになります。そのまま禅の修行を続けていくお坊さんもいましたが、なんらかの迷いがあって来られた方も多く、しだいに原始仏教に傾倒し、ヴィパッサナー瞑想に鞍替えして、禅僧の黒い衣から原始仏教の赤い衣に宗旨変えしたお坊さんも少なくありません。

 

Aさん:禅とヴィパッサナー瞑想では最終的なゴールが異なるということですか。

 

アドバイス:
  そうです。今も申し上げましたように、両者の間には悟り観や解脱観の明確な違いがあります。それはどちらが優れていて上だとか下だとかと考えるのではなく、総合的に検討し自分に合っている道を歩んでいくのがよいでしょう。
  優劣を問題にすれば喧嘩になるし、古来から宗教戦争までしてきたのが人類の歴史です。お互いの立場を尊重し合い、自分の求めている道に通じると感じる方を選んで他宗教を批判しないのが原則と心得ましょう。
  ヴィパッサナー瞑想はサティの技法を訓練していきますが、ご存知のように、サティはたんに思考を止めるだけではなく、気づき→観察→洞察→という方向に悟りの智慧が発現するように設計されています。
  その智慧は苦しみの元凶である煩悩を無くしていくためのものであり、智慧の深まりがそのまま心を浄らかに成長させていく営みになります。
  智慧の修行は反応系の心の修行と重なりますが、その具体的方法については、拙著『瞑想のフシギな力』という文庫本を参照してください。
  ヴィパッサナー瞑想の特徴を整理すると、

 

  @存在の世界を輪廻転生する流れから完全に解脱するための行法である。
  A存在の世界は一切皆苦であるから、あらゆる苦を乗り超え滅尽させていった究極に解脱がある。
  B解脱の瞬間は、存在の世界や生存そのものに対する完全な離欲であり、渇愛(執着)が絶え果てた状態である。
  C解脱はサマーディなど特殊な変性意識状態の一時的な所産ではなく、心底から渇愛が手放され安定している状態である。
  Dそれには、日常の通常意識モード時や土壇場の正念場でも諸々のこだわりや執着から解放されていなければならない。
  Eつまり、知的にも情緒的にもあらゆる意識レベル時に安定して無執着の離欲の状態が完成している。
  Fヴィパッサナー瞑想とは、この智慧の完成を目指して、まず存在の世界の本質を洞察し一切皆苦の構造を検証する。
  G苦の原因となる欲望や怒りなどの煩悩は、不正確な対象認知に端を発するので、事実を正確に、あるがままに観て、その本質を洞察する修行の流れになる。
  H事実をあるがままに観るのを妨げているのは、妄想や妄執である。その妄想を排除する必要不可欠な技法をサティと言う。
  Iサマーディが完成し、サティが成長し、智慧が閃き出るのに充分な仕込みがなされると悟りの瞬間に近づく。

 

  以上、ゴールに到達するのは至難の業ですが、原始仏教には明確な悟りへの道が連なっています。

 

Bさん:煩悩から離れるのは分かりますが、良いことでも手放さなければならないのでしょうか。

 

アドバイス:
  悟りを開くための修行も含めて、生きていくために必要なものを全て捨てることはできません。
  しかし私たちは、無ければ無くてもよいものを貯め込んで執着していないでしょうか。自分の人生にとって本当に必要不可欠なものは手放さなくて良いのですが、シンプルな生活を目指せば今持っている大半は、無ければ無くても何とかなるものばかりではないかということです。
  人は所有しているものに束縛される法則なのです。
  美しいものや価値あるもの、好ましいものを多く持てば持つほど幸福度が上がると、欲望を煽る足し算がこの世の幸福原理です。しかし仏教では、良いものへの執着が苦の発端であると見なします。良いことを掴む欲望も、嫌なことを忌み嫌う怒りもネガティブに執われているので、両者には執着という渇愛があり、苦の原因である渇愛は手放していく方向になります。
  例えば、瞑想中に集中が良くなり、心が静まって好い感じになると、ついその快さを味わいたくなります。しかしこの快い状態も対象化しないと、いつの間にか巻き込まれて欲望や貪りが生じます。欲望や貪りは不善心所なので当然、好い状態は崩れていき、今度は失望や寂しさや失ったものに対する怒りが出るという具合になってしまいます。
  気持ちが良ければ「心地よい」とサティを入れ、静かに落ちついた感じなら「落ちついている」「静けさ」などとサティを入れます。
  これはとても重要なことで、嫌な現象にはサティを入れて見送るが、好ましい現象にはサティを入れずに楽しんでしまうものと心得て、気づきを維持する覚悟が必要です。
  妄想も同じです。嫌な妄想はなるべくサティを入れて消そうとしますが、好い想い出やアイデアなどはサティを入れずにのめり込んでいきたくなるのです。
  実際の現場では至難の業ですが、あらゆる現象に対して等しい距離を保ち、対象化して認知することがヴィパッサナー瞑想の極意です。
  好いものを掴む。執着する。ここからあらゆる苦が始まります。嫌なものを掴む人はいません。好いものを獲得したい。手に入ったら握りしめて離したくない。これが怒りの母親です。
  執着しない人、掴まない人は、何を奪われても別にどうということもないでしょう。捨てようと思っていたものを誰かが持って行っても、どうということはありません。ところが大事なもの、大切なものを奪われたら怒りや悲しみが出てきます。このように、好いものを掴もうとすることで執着が始まります。そしてそれも対象化し認知していくのです。
  あらゆるものを対象化し、「捨」の心で常に気づいていなさいと言うと、それは「私にはできません」となってしまうでしょう。だから、瞑想する10分でも30分でも、その間だけは何が現れても対象化して見送っていく練習です。
  心の中だけでも無差別平等に観ることができれば、少しずつ現実に反映してくるでしょう。そうして心は成長していくのです。

 

Cさん:サマーディが近づいてきた時にはどうしたらよいでしょうか。

 

アドバイス:
  自然展開に任せて、徹頭徹尾サティを入れ続けるだけです。集中がよくなってくれば嬉しいし、期待や欲が必ず出てくるものです。そうした心の現象が明確であれば「喜んでいる」「期待している」「狙っている」など、自覚された通りにサティを入れ続けます。
  サマーディ感覚が高まってきたのは、サマーディの構成因子が自然に出そろってきたからです。意識的な努力もありますが、たまたま全ての条件が整ってきたので、そのような展開になってきたのです。それまでと同じ状態を淡々と続けていけば、さらに深まり完成に近づいていく可能性があります。
  しかるに、多くの方がワクワクしたり、欲を出したり、ことさらなことをして自滅していきますね。たとえ欲や執着が出ても、平然とサティを入れて見送ることができれば問題ないのです。ところが、上手くいっているほど、期待が強くなり、その執着には気づくことできず、大魚を釣り落としたと後悔の臍をかむ人が多いですね。
  サティに徹してください。サマーディ感覚が遠のいても、失望落胆しないで、遠のいていくその状態に淡々とサティを入れることができれば、復活してくる可能性もあるのです。サティに始まり、サティに終わると心得ましょう。

 

Dさん:瞑想を終える時に終了宣言みたいなものは必要ありませんか。

 

アドバイス:
  一点集中型のサマタ瞑想では、瞑想が深くなるほど日常意識とは異なる変性意識状態になるので、「瞑想は終了。日常意識に戻ります」と宣言して瞑想状態を解くことも必要でしょう。しかし、ヴィパッサナー瞑想では、その必要はありません。サティが持続する状態で、通常の生活に戻ることは望ましく、むしろ奨励されるべきことです。
  サティがなければ、我執にとらわれたり自己中心的になったり、さまざまな失敗をするのです。気づきがなく、ものごとを客観的に観られないのが敗因なのですから、常にマインドフルに、普段の生活でもサティが入るのは素晴らしいことです。
  サティの瞑想を終了して、生活にもどる瞬間にも、サティを失わない!気づきを維持する!と決心した方がよいくらいです。
  サティの瞑想に関しては、終了宣言はないと心得ましょう。ついでに言えば、慈悲の瞑想が終わった時も同じです。普段の生活でも、慈悲モードで生きることができるのは素晴らしいことです。
  ヴィパッサナー瞑想は、実生活に瞑想が直結する稀有な瞑想なのです。
(文責:編集部)