日常の場面で(2)

 

Aさん:95歳の祖母が亡くなって以降、瞑想が全くできなくなってしまいました。

 

アドバイス:
  夭折された場合の死は受け容れがたいものですが、高齢者になれば死んでいくのは当たり前なので、比較的その死が自然に受け容れられるようです。もし95歳の祖母の死によって心が乱れ、瞑想ができないのであれば、故人に対する特別な思い入れがあったのではないでしょうか。両親以上に自分を可愛がってくれたとか、苦しかった時に祖母の優しさが救いになっていたとか、何か背景があるものと思われます。
  それが何なのかを詳らかにしないと心が整理されず、死が受け容れがたいものとなって、喪失感に心が混乱して苦しむことになるでしょう。
  私が20歳の頃、86歳の祖父が亡くなり、私は異常に落ち込み、なぜなのか自問自答しました。すると、実の父親の中に父性の欠片も感じることができなかった私にとって、尊敬する祖父は理想の父性像を託す存在になっていたことに気づきました。敬愛する祖父の死は、私の中では父性の喪失だったのです。もう絶対的に頼れる人はいなくなった・・という絶望感に近いものでした。その謎が解けた時、やっと私の中で悲しみが溶解し、祖父の死を受け容れて終りにすることができました。
  一人の時に、悲しみをきちんと味わって心おきなく泣いて、来し方を総括しながらお二人の間の関係性を読み解いていかれるとよろしいのではないでしょうか。

 

Bさん:善行のつもりで他人の仕事を手伝うと、何でも頼んで来られて自分が手一杯になり困っています。

 

アドバイス:
  善行をしながら困った状況になるのであれば一考の余地があります。結果的に心が汚れる善行は、真の善行とは言えません。
  善行をやろうとする時も、やりつつある時も、やった後も、常に善心所モードだったか否かが問われます。心からやってあげたい、やらせてもらいたい、という気持ちで相手を思いやる善行が本来です。相手のことは考えず、ただ自分の徳のポイントが貯まりさえすればよいという「劣善」はいずれ卒業していくべきものです。
  また相手の方にとっても、いいように人を利用してやろうという気持ちを助長することになっているなら、果たしてどれほどの善行になっているのか疑問です。相手の心は推測の域を出ませんので、ともあれ善行をしながら自分の心をよく観察し、不善心所モードに陥っていたら問題です。
  何事も後味が良いのは善心所モードだった証しです。本物の善行だったか否かは、爽やかな後味の有無でも判断できます。善行をしながら心随観の瞑想ができれば素晴らしいですね。

 

Cさん:仕事上や子供の問題などが一度に起こり、優先順位をつけられずパニックになることがあります。

 

アドバイス:
  大事な問題が一度に起きても、意志決定の判断基軸が明確であれば、即断即決で優先順位を付けられるはずです。生きていく上で自分は何を一番大事にするのか、という価値判断の序列をつけることが普段からなされていないと、とっさの時にも当然できません。自分の人生では何を重んじて生きていくのか、人生観を見直しておく必要があります。
  迷いの多かった人が仏教に出会い、五戒を必ず守ると決意してからは意志決定が速くなった、という報告はとても多いです。人生のどんな局面でも、絶対に五戒を破ることだけはしないという明確な軸を持ったからです。
  人生観や価値観を確立するのは大変なことです。30代が終る頃までは何かと迷うのかもしれません。だから「四十にして惑わず」と古来から言われてきたのでしょう。
  取りあえず具体的な方策として、一つ提案いたします。
  自分が生きていく上で最も大事なものを列挙し、ベスト5のランキング付をします。紙に書き出すかパソコンの画面上に入力してください。心の中で曖昧だったものを文章化することで対象化され、客観視できます。その順位付けをしたら、さらにその理由を書き出します。なぜ、それがそんなに大事なのか。それを失ったらどうなるのかを検討します。
  次に、生きていく上でこれだけは嫌だ、絶対やりたくないと思うものを列挙し、ワースト5のランキング付けをしてその理由を書き出します。
  これだけで、かなり心が整理されてくるでしょう。思いつくものを全て列挙する。文章化することによって対象化する。守るべきものと、それだけはゴメンだというものの両方に順位付けをする。その理由を明確にし自覚する。
  自分に自信がないと何かと迷いが多く、決断できなくなります。これも難しい問題ですが、自信のなさが何に由来しているのかを究明する必要があります。
  親がまったく褒めてくれなかったので自分の無価値感に苦しみ、自信が持てなくなったケースがとても多いです。「愛着障害」と呼ばれる親子関係の問題を自覚し、乗り超えていく必要があります。
  迷いや不決断が劣等感に由来するのであれば、大変でも劣等感と正面から向き合って受容する仕事に着手しなければなりません。瞑想が大きな助けになるでしょう。思考で考えた猿知恵の判断とは次元の異なる直観や洞察が得られるのが瞑想だからです。思考を止めなければ、本当のことは解らないのが原則です。思考で決めたことはコロコロ変わるし当てにならないのです。
  本当の自分を直視していくのがヴィパッサナー瞑想です。五戒を守り、善行を重ね、瞑想の智慧を得ることができれば、人生のどんな局面においても正しい判断ができるようになります。

 

Dさん:家にネズミが入ってしまい、殺生戒との関係で駆除に困っているが、猫を飼うのも問題でしょうか。

 

アドバイス:
  タイやミャンマーのクーティには膨大な蚊や虫が侵入してきますが、翌朝ほとんどいなくなっています。ゲッコーという小さなトカゲが次々と捕食してしまうのです。殺す者と殺される者がいる。それが生態系です。どちらに加担することもできず、「捨」の心でただ静観するだけです。
  ネズミを殺してくれという強い意志(チェータナー)を持って猫を飼うと、後味が悪いかもしれませんね。さまざまな複合要因が最終的に一つの意志決定としてなされていきます。ご自分の心をよく観てください。
  在家者の戒の守り方に対して、あまり過激なことを教え過ぎるなと忠告してくれたお坊さんもいました。在家者は、出家と同じような厳しさで戒を守ることはできないのだということです。捕鼠器を仕掛けたり、毒殺の餌を撒いたりするのはアウトですが、必ずネズミを狩る保証のない猫を飼うのはセーフにしてよいのかもしれません。

 

Eさん:多忙で不調なために不善心所の状態になり、「今日は瞑想したくない」という時にはどのようなことを心がければ良いでしょうか。

 

アドバイス:
  心が汚れてくると瞑想や善行をやりたくなくなります。不善心所モードでいれば体調も悪くなってくるし、何をやってもうまくいかなくなり、ますますムシャクシャしてくるという悪循環に陥ってしまいます。こうした泥沼から脱出するには、一刻も早く善心所モードに切り換えるしかありません。
  このことを肝に銘じておいてください。瞑想をやりたくない時が、最もやらなければならない時なのです。感情的にはちっともやりたくない瞑想や善行をやらなければ、被害が大きくなるばかりだと知的に理解できれば、どうすればよいか、技術的な問題になります。
  軽症なら、瞑想を始めるだけで最悪の状態が対象化されて気持ちが切り換わります。しかし重症だと、そうはいきません。不善心所の状態で無理やり瞑想を始めても上手くいかないのです。妄想だらけでサティは入らず、瞑想ができないことに怒りが出てくるかもしれません。瞑想が瞑想にならない時は、心のモード変換が先です。
  そんな不善心所の泥沼にハマってしまうと自助努力で抜け出すのは難しいので、外側の力を使うしかありません。いちばん良いのは、共に瞑想をしている仲間やダンマフレンドに会うことです。自分より高い心境の人とコミュニケーションを取れば必ず引き上げてくれるでしょう。
  そうした友がいない時にはどうしたらよいでしょう。心を切り換えるのに最も良いのは、感動することです。これまでに読んだダンマブックやブッダの言葉など、感動して傍線を引いたページを読み直すとよいでしょう。真理が説かれた言葉は何度読み直しても感動を新たにすることができます。ダンマの世界に心のチャンネルを合わせることができれば、瞑想してみようという気持ちが高まってきます。
  瞑想合宿の最中ですと、仏像磨きの作務やトイレ掃除などをしているうちに気持ちが切り換わる方が多いです。不善心所モードに陥ると利己的な発想に傾きますので、敢えて利他行をやると心のモード変換ができるものです。
  昔、若い頃によく使ったテクニックは音楽を利用することでした。クラシックが好きだったので、聴けば必ず崇高な気持ちになるバッハの無伴奏組曲などのレコードを聴いているうちに気持ちが切り換わっていくのがわかりました。
  風呂場で冷水を洗面器に20杯ほどかぶる水行もよくやりました。荒行なのでお勧めはしませんが、冷水をかぶった瞬間に煩悩など吹き飛んで、私には絶大の効果がありました。
  不善心所モードから必ず脱出できる自分用の危機管理マニュアルを日頃から作っておくことが大事です。何も対策を講じないと、だらだら食いをしたりテレビを観たり、不善心所がいかにも喜びそうな情報を好んで求めてしまい、ますます泥沼にハマる悪循環を脱することができなくなるからです。悪友、ポン友、煩悩フレンドに会うのは最悪です。どうしようもなくなったら、「愚かな私を赦してください」「正しく修行ができるように導いてください」と三宝に祈ってください。祈りには力があります。

 

Fさん:同居していた姑が亡くなり、遺品の後片付けをしようにも、思い出が詰まっていて整理するのがつらいです。遺品を整理する際にはどんなふうにすればよいのでしょうか。

 

アドバイス:
  亡くなられた方との関係を総括し、その死を受け容れることができ、きちんと決別ができれば、遺品整理もできるはずです。悲しみが深く遺品整理ができないなら、今は存分に悲しみに耽った方がよいのかもしれません。悲しみを押し殺し、泣くべきときに心ゆくまで泣かないと終わりにできないことがあります。
  どんな悲嘆も3年経てば薄らぐとも言われ、時間が必ず解決してくれますが、瞑想者としては、積極的に遺品の整理に着手することによって、混乱した心を整理するという発想もあります。
  遺品の一つひとつと向き合いながら、溢れて出てくるさまざまな思い出を通して故人との関係を総括し、きちんと記憶のフォルダーに納めていくのです。良い思い出であれば、自分の人生を美しく飾ってくれた故人に心から感謝します。ありがとう、さようなら、と心の中で見送るのです。辛いネガティブな記憶であれば、そうして苦を受けることによって自分の不善業が消えていったことに感謝するのです。
  良い思い出もネガティブな悪い思い出もすべて、肯定的な善心所のフォルダーに分類していかないと終わりにできないでしょう。遺恨を残す、と言いますが、ネガティブに捉えられた出来事は赦せないのです。結果的に、嫌う心がなくなるまで握り締め、自分で自分を束縛することになります。清浄道の瞑想をする者は、どんな事象もプラス思考のポジティブな記憶フォルダーに納めて終了させなければなりません。
  こうして、遺品が想起させてくれる膨大な思い出に対し、仏教的な文脈から正しい意味付けをして心の中で完結させ手放していく作業がそのまま修行になります。
  実際問題、遺品の全てを残すことはできません。別れがきちんとできれば、捨てるべきものを捨て、残すべきものを遺品として残す選別ができるはずです。全ては無常に変滅していくこの世ですから、物は残さず、思い出を心に焼き付けておけばよい、と考えることも大事です。
  遺品は後日、大切な思い出を想起させてくれる起爆剤になりますので全ステの必要はありません。迷ったら、スマホで写真に撮影し、物は処分するという発想もあります。
  どんな遺品も永遠にこの世に残ることはありません。残された私たちもやがて死んでいくし、老いて認知症になれば、その思い出すら忘却の闇の彼方に消滅していくのです。過ぎ去ってしまえば何もかも夢のようなこの世に対し、いかなる遺恨も愛執も渇愛も持たなくなる修行がブッダの道です。(文責:編集部)