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 以下の日記は、人気サイト「臨死体験・気功・瞑想」の作者である石井のぼる氏がヴィパッッサナー瞑想に出会い、グリーンヒル研究所の1日瞑想会、合宿瞑想会に参加して瞑想についての理解を深めていく過程です。ご本人の了承を得て、先のサイトから抜粋、掲載させていただいたものです。
 実際の本文は「臨死体験・気功・瞑想」にアップされています。

 ■2001/07/30 (月)  サティが自動的に飛び出していった

◆ヴィパッサナー瞑想・グリーンヒル瞑想研究所を調べていたら、こちらも8月10日から19日まで八王子のグリーンヒル研究所で瞑想合宿がある。その前に

一日瞑想会 :平成13年8月4日 土 代々木八幡区民会館 p.m2:00~p.m7:00

というのがあったから、まずこれに参加できるかどうか、問い合わせてみようと思いメールを送った。

 このサイトの参加者の体験記は非常に印象的だ。たとえば、

 『精魂尽き果てるように、自室の畳の上に横たわってしまい、それでもサティを入れ続けるつもりが、とうとう微睡んでしまっていた。20~30分もウトウトとしてしまっていただろうか、突然、小さな物音とともに意識が戻ってくるのがわかった。
 同時に、サティが飛び出した。(音が耳に触れる)→「聞いた」→「(誰かが身を起こす音だと)思った」→(別の音が耳に触れる)→「聞いた」→「(足音だと)思った」というふうに、わずかの間ではあるが、サティが次々と連続した。思わず、はっとして身を起こしてしまった。サティはすぐに途切れてしまった。
 再び意識が薄れて行くのを感じていた。
 しばらくすると、また物音を知覚した。(音が耳に触れる)→「聞いた」→「(布団がこすれる音だと)思った」→(別の音が耳に触れる)→「聞いた」→ 「(誰かが布団をたたむ音だと)思った」→(さらに別の音が耳に触れる)→「聞いた」→「(誰かの足音だと)思った」→「(起きなければと)考えた」。
 パタパタとサティが自動的に飛び出していった。
 ほんの数秒のできごとではあったが、鮮烈な一瞬間であった。現在の事象のあるがままをひたすら観察し続ける、というヴィッパーサナー瞑想の基本に、ようやく一歩踏み込めたような気がしたのだった。』

◆『呼吸による癒し』の訳者、井上ウィマラさんに、本の読書ノートの文を添えてメールを送る。覚醒・至高体験の事例集に入れた橋本創造氏、臨死体験事例集に入れた赤峯勝人氏に、それぞれメールを書く。

◆今日は、自転車に乗っていると時などは、ひたすら呼吸にサティ。シャワーを浴びているときは、細かい動きにかなりサティを入れ続けた。

 ■2001/07/31 (火)  瞑想合宿キャンセル待ち

◆ 昨日書いた、グリーンヒル瞑想研究所の所長、地橋秀雄〈ちはし・ひでお〉氏からお返事をいただく。4日(土)の瞑想会は、OKとのこと。10日間の合宿は、今のところキャンセル待ちとのこと。地橋氏は「滝行、断食、ヨーガ、大乗仏教諸宗、心霊科学、工学禅、他力全託、内観、クリシュナムルティ等の修行遍歴の末、原始仏典に基づくブッダのヴィパッサナー瞑想が解脱を完成する道であると理解」したという。ご指導をうけるのが楽しみだ。

 ■2001/08/02 (木)  瞑想合宿参加OK

◆ グリーンヒル瞑想研究所より、「キャンセルがあったため8月10日からの合宿への参加が可能となった」とのメールが来た。私自身の日程も問題なしなので、これで「入山」が決定。同じ時期に行われる熱海合宿との選択肢はあったものの、結局そちらは調べるまもなく、迷うまもなくとんとんと決まった。

 ■2001/08/04 (土)  ヴィパサナー瞑想一日瞑想会

◆2時より、代々木八幡で行われたグリーンヒル瞑想研究所主催のヴィパサナー瞑想一日瞑想会に参加。かなり広い和室に35名ほどの人々が集っていた。
 プログラムは、最初地橋先生のダンマトークが1時間ほど。それから初めての参加者は、部屋の後ろで入門的な指導をうけた。十数名はいただろうか。
 歩行瞑想は、本の解説などを読んでやって見たときは、あまりピンとこなかったが、実際に指導を受けてやってみると、これはやはり座禅して瞑想するのと同じように大切だなあと実感する。
 そのあと全体の瞑想に参加。

 興味深かったのは、瞑想の後かなりの時間をかけて、参加者一人一人の疑問に地橋先生が、丁寧に答えていった、その内容だった。
 全体として彼の話は、これまで私が疑問に感じていたいくつかの問題に納得のいく答えをいただいているようで、すっきりする思いだった。

 たとえば、言葉によるラベリングについてはその功罪を何度も指摘し、初心者にとっては確かに必要ではあるが、それが機械的になってしまって、ものの見方を固定化してしまはないようにと再三注意しておられた。ときにはラベリングなして感覚に注意を向けることが必要だとも言っていた。私自身、機械的なラベリングについて疑問を感じる部分もあったので、なるほどと思った。
 ラベリングしていても心の9割は、言葉にではなくセンセイション(知覚)そのものに向けよとか、長く続く同じ動作について、何度も同じラベリングを繰り返す必要はない、というのも納得できる説明だった。
 また、初心者は何でもかんでもサティするのではなく、サティの中心対象を作って常にそれに帰るような形でやるのがいい、という説明も納得。
 この他、かなり細かい技術的な問題にいても、なるほどそういうことなのかと得心できるものが多かった。

 瞑想会のあと、参加したみなさんと駅近くのそばやで食事。地橋所長がすでに私のHPを見ており、この日記も読んでおられたのには、少々びっくりした。
ともあれ、参加して得るところが非常に多かった。

 10日からの合宿は、希望者が多くなかなか参加できないもののようだった。今回私が参加できたのは、かなり幸運だったようだ。これも何かのご縁かもしれない。

 ■2001/08/05 (日) ヴィパサナー瞑想と公案禅の違い

◆昨日の一日瞑想会で学んだこと、考えたことなどを続けて書く。
地橋氏の説明を聞いていて、ヴィパサナー瞑想が方法として非常に理にかなったものであることを改めて感じた。
 私たちは、裸のセンセイション(感覚、知覚)そのものを受け入れているのではない。知覚は、何らかのフィルターがかけられ、再構築、編集、あるいは歪曲されている。あるがまま知覚を編集して歪曲する働きの最たるものが言葉だ。仏教は、言葉による認識、分別知を虚妄として、無分別智こそ真実であると、繰り返し説いてきた。
 サティとは、言葉や、あるいは個人的な囚われで現実を歪めてしまう以前の、あるがままの知覚に、一瞬一瞬少しでも気付き、近づいていこうとする方法だ。一瞬一瞬の気付きの訓練によって、最終的に無分別智に到達しようとする方法だ。
 これに対して、公案禅などは、言葉と密接に結びついた「自己」という枠組みに揺さぶりをかける方法といってよいかもしれない。具体的な知覚から入るか、自己という大前提に揺さぶりをかけるかの違い。

◆次に技術的な面から。
 歩行瞑想の指導で、最初は足を交互に出しながら、「右、左」と確認していく。次は、「上げる、前へ、下げる」と確認していく。さらには、「あげる、前へ、触れる、圧」と、足の裏の感覚だけを確認していく。段階的に確認を細かくして練習していく。
 このとき当然、足の裏の感覚へのサティが外れて妄想が浮かぶ。興味深いのは、この時、心に占める妄想の割合が半分を超えたら立ち止まるなりして、その妄想にサティを入れよと指導されたことだ。逆に妄想が浮かんでも、それがチラリチラリと出るぐらいのものなら、無視して足の裏の感覚にサティを続けよ、とのことだった。
 妄想は限りなく浮かび、それに限りなくサティを入れていたら、肝心の足の裏のサティはどこかへ行ってしまう。どんな小さな妄想にもサティを入れていくのがいいのだろうか、と疑問に思っていた。そういう瞑想もあるだろうが、初心者は、中心的な対象へのサティを主にすべきだというのが、長年の指導経験からの地橋氏のお考えのようだ。これも納得できる。

◆母の肩をもみながら、指先の感覚に注意を保つ。もちろんすぐ妄想は浮かぶが、これまでよりもそれに気付くのが早くなったような気がする。すぐに「~と思った」とサティを入れられることが多かった。

 ■2001/08/06 (月)  雑感

◆また、土曜日の瞑想会で感じたこと。あくまでもヴィパッサナー瞑想について初心者の印象なのだが、地橋氏は、ヴィパッサナー瞑想の仕方の本質的なものをきわめて的確に指導している方と感じた。
 説明の一つ一つが、聞いていて本当に納得できるというのが、理由のひとつ。もうひとつは、瞑想会への参加者の体験記の内容が素晴らしいということだ。最後は、地橋氏が語る態度から感じられる情熱と自信から。

 瞑想の時間は、少し長めにとれた。立禅、歩行瞑想、座禅と交互にやるとそれほど時間を長く感じない。また、立禅はちょっとした空き時間にもできるので好都合だ。

 ■2001/08/07 (火)  立禅

◆朝起きてすぐ、10分ほど立禅を行う。右足の足裏の感覚に注意を向ける。瞑想会では、これは言葉によるラベリングなしでやってみようと指導された。しかし、ラベリングがないと注意が散漫になりやすいので、今回はラベリングした。
 ラベリングすれば、感覚の鈍い足裏でも注意が向きやすい。これが、ラベリングの功罪のうちの功の方だ。
 「足の裏」とだけラベリングしてもかなり注意の向き方が違う。その他「圧、感じた、痛み、(親指下のふくらみの)右側」などと、ラベリングしながら感覚の変化を観察。ラベリングによって知覚をパターン化してしまい、微妙な変化を知覚できなくなれば、こればラベリングの功罪のうち罪のほうになる。
 「しっかりと知覚したものをラベリングするのだから、言葉は過去形がよい」、また「たとえば痛い、痛いと繰り返すのは、ラベリングではなく、嘆きと同じになってしまうから、ラベリングは『痛み』『かゆみ』など、名詞形がよい」などの、地橋先生の指導を参考にしながらやった。しだいに感覚の変化をしっかり捉えられるようになる。
 足の裏の観察している部分のイメージが出てきて、それに支えられながら感覚に注意を向けているようなことが何度かあった。しかしできるだけイメージに頼らず、純粋な感覚そのもの注意を向けるのが良いとも言われた。イメージも生のままの感覚を歪めるフィルタになってしまうのだろう。
 こうして感覚そのものに注意を向けていると、浮かんできたちょっとした妄想もすばやくサティしやすくなるという。感覚を持続的に捉える流れに対して、思念は異質なものとして際立ちやすくなるからだろう。

 ■2001/08/08 (水)  やっと出逢う

◆談話室(掲示板)の方に「やっとヴィパッサナー瞑想に本当の意味でめぐり逢えた気がする」と書いた。なぜ、そう思うのか自分の気持ちを整理してみる。
 まず、私は生活そのものを修行ないし瞑想にしたいといろいろやって来たが、定着したとは思えなかった。「いまここで自分のすべきことに集中して」といっても、そう簡単にはできなかった。ヴィパッサナー瞑想は、日常生活の中でのサティというきわめて具体的でとっつきやすい方法をもっている。
 しかもそれは、一瞬一瞬のナマの感覚に気付き続けるという、修行の方法として非常に納得できるものだった。文化的・社会的な条件付けや言葉や個人的な無意識に汚される前の真実に出逢うことが悟りであるとするなら、サティはそのためのきわめて具体的な第一歩なのだ。第一歩であると同時に本来の認識の姿を示している。
 この瞑想法によってどのような変化が起こるのかを何人かの人の事例で確認できたことも私にとって重要だった。しんえもんさんの書き込みが最初にあり、ローゼンバーグ、鈴木一生氏、そしてグリーンヒル瞑想研究所のHPの体験記などで、この方法を続けることが、確実に知覚レベルでの変化をもたらすということが、よくわかった。
 それでもなお、幾つかの疑問が残っていたが、地橋氏の説明で自分としてはかなり納得できた。どんな風に納得できたかは、これまでの日記ですでに書いた。
 また、座禅や歩行瞑想を含めたヴィパッサナー瞑想の全体が、日常の中や時々のリトリートによって無理なくできるということも、うれしいことであった。これなら自分でも続けていける思えることは、大切なことだ。
 充分語れたような気がしないが、あえて言葉にすればこんなところかもしれない。また、気付いたたら書きたい。一番大切なところを文章化していないような感じが残る。

◆今日も立禅は30分以上やっただろうか。歩行瞑想は10分くらい。座禅も10分。

 ■2001/08/09 (木)  私=掃除機が感じる

◆ たとえば掃除機をかけながらサティをする。最初「押した、引いた」などとラベリングしていた。これだと何に注意を向けているのかはっきりしない。それで同じラベリングをしながら腕の筋肉の動きに注意したが、どうもピンとこない。次いで掃除機を握っている手の感覚に注意したがこれもいまいち。最後にゴミを吸い取っている掃除機の先端に注意を向けることで、サティがうまくいくようになった。
 掃除機の先端が、まるで自分の体の一部ように畳のでこぼこやフローリングの感触を感じとっている。実際は、先端の振動が手に伝わったものを感じているのだろうが、まるで「私が」掃除機の先端で何かを感じ取っているように感じられる。
その感じを、「感じた、感じた」とサティし続けた。

 実際には、私=掃除機が感じていると感覚してしまうのは、すでにナマの感覚ではなく、作られた身体イメージ,あるいは拡張した身体イメージなのだろう。これを分離して知覚するのは、ちょっと難しいしいかもしれないが、次は注意してみよう。

◆立禅は、30分ほどする。足裏の感覚はかなりはっきり感じとれる。妄想へのサティも入りやすい。「足裏、感じている、圧」などとサティを入れるが、その微妙な感覚の変化は、ほとんどまったく言葉ではラベリングできない。

 ■2001/08/09 (木)  10日間の瞑想合宿

◆明日からいよいよグリーンヒル瞑想研究所での10日間の瞑想合宿に参加する。
19日までダイアリーは、休みになる。

 ■2001/08/19 (日)  瞑想合宿を終えて

◆グリーンヒル瞑想研究所での10日間の瞑想合宿を終え、午後5時半ごろ帰宅。実に中身の濃い10日間だった。
 ここで体験したことは、このダイアリーに少しづつ書いていって最後にそれをまとめたものを独立したページにしようと考えている。
 今日は、この合宿でどんなことを感じ、何を学んだかをかんたんにまとめておく。

①まずグリーンヒル瞑想研究所長の地橋氏について。地橋氏のことを予めを知っていてこの瞑想合宿への参加を決めたわけではない。しかし一日瞑想会でお会いしたときに感じたことが、この合宿でさらに深く実感でき、結果的にこの合宿に参加できて非常によかったと思っている。
 地橋氏は、瞑想修行にひたすら人生を賭けて来た人であり、しかもその体験は並々ならぬ深さであると言葉の節々から推察できる。にもかかわらず、てらいやけれんみが少しもなく、ご自身は瞑想の「インストラクター」に徹しておられるところが素晴らしい。
 しかも営利や名利に関係のないところでヴィパッサナー瞑想の指導に情熱を燃やしていることが、10日間寝起きをともにしてますますよく分かった。
 さらにヴィパッサナー瞑想を少しでも効果的に指導するご自身の方法を工夫・開発しており、その多くの指導例によって自信をもっておられる。

②ヴィパサナー瞑想では、妄想に捉われずに無視してただ何かに集中するのではない。心が妄想を起こせばその妄想に気づき「妄想」とサティするというところに特徴がある。そういう方法の素晴らしさに感銘を受けて、合宿に参加することを思いたったのだが、そのことの深い意味を地橋氏の指導や体験の中で思い知った。

③深いサマーディの体験とまでは行かなかったが、徐々に瞑想が深まって行き、非常に透明でクリアな意識を体験した。その過程では、眠気や妄想、イメージと戦ってしまったり、適切なサティが入って瞑想が進んだりという、いくつかのプロセスがあった。

④毎回毎回の食事と瞑想状態との関係について、地橋氏のこまやかで目の行き届いた指導によって実感的に学ぶことができた。

⑤大乗仏教的な考え方に共感を抱いている私にとって、ヴィパッサナー瞑想の背景となっているテーラワーダ仏教の世界観には納得できないものがあり、これが最後まで私の修行のブレーキになったかもしれない。両者の違いをどう捉えるかが、今後の私の大きな課題になりそうだ。

 ■2001/08/20 (月)  瞑想合宿の一日

◆グリーンヒル瞑想研究所での10日間の瞑想合宿について、しばらく書いていく。まずは一日のスケジュールを見る。
 八王子の緑多い団地の一角にある研究所は、背後に森が広がり、きわめて静か。参加者9人が6畳の3部屋に3人ずつ寝泊りし、昼はそれぞれの部屋が座禅室や瞑想歩行用の部屋になる。
 毎日ほぼ以下の日程で10日間の修行が行われた。食事は朝と昼の2回。

4:00  起床、部屋の掃除、洗面、瞑想            
5:10  朝食
6:00  瞑想
7:30  ダンマトーク(所長の講話)
8:30  瞑想
11:30 昼食
12:30 瞑想
14:30 個人面接または瞑想
17:00

 入浴または瞑想
21:30 寝具用意
22:00 消灯
 希望者は夜座

 以下、毎日の修行がどんな風に行われたか、特徴的なことを列挙する。

☆初日にオリエンテーションがあり、瞑想、サティの仕方、その他修行に必要なことが説明され、また実地の指導がある。

☆参加者同士の会話は一切許されない。これは文字通り完全に守られる。(どうしても必要な事務的な話を10日間の間に一言二言話してしまったことはあったが。)

☆修行は、座禅、歩行瞑想、立禅、作務、食事、喫茶などで、要するに一日のすべてを瞑想としてサティを入れていくことが要求される。座禅、歩行瞑想、喫茶などは自分自身で自由に組み合わせてよい。
 たとえば座禅だけを集中して何時間もやらされるのは辛いが、ここでは自分の体の状態と相談しながら歩行瞑想等と組み合わせられたので、肉体的な苦痛はほとんどなかった。

☆一切の行動にサティを入れるということは、一切を非常にゆっくりと行うことである。たとえばトイレのドアの開け閉め、スイッチを押す行為まで、「(手を)挙げた、(ノブに)触れた、まわした、押した」などと、いちいち完璧にサティを入れながら、ゆっくり行うことが要求される。
経験者になればなるほど、ゆっくりと完璧にサティを入れながら行っているようであった。一日の一切の立ち居振舞が瞑想なのである。

☆ということは、食事もサティの訓練のためのものと位置付けられ、食べ物を噛む、飲み込むなどの一切にサティを入れ続け、集中を切らないことが要求された。私にとっては、この食事中のサティの訓練がとりわけ学びになり、好きであった。

 ■2001/08/21 (火)  妄想には妄想の働きがある

◆グリーンヒル瞑想研究所での10日間の修行が、毎日どんなスケジュールでどんな風に行われたか、昨日その特徴的なことを列挙した。スペースの都合でいくつか書けなかったことがあるので続けてかく。

☆一日のすべてにサティを入れることが要求されるということは、トイレの最中も入浴中も例外ではない。ただ風呂やトイレであまりゆっくりしすぎることはできないので、どうしてもサティは甘くなった。時にサティをすっかり忘れて便器に腰掛け妄想にふけることもあった。
 喫茶コーナーで補給をするときも、もちろんもくもくと厳密にサティをした。私は、ここではどうしても食事中ほどの集中はできなかったが。

☆スケジュールに「個人面接」とあるが、これは地橋氏が参加者のひとりひとりを充分な時間をかけて毎日面接する時間である。なんと一人数十分から一時間もかけて、その日の自分の瞑想のレポートをし、地橋氏のアドバイスを受ける。
 この面接のために地橋氏が費やす時間は、毎日7時間におよぶ。ここで助言を受け、励まされることによって参加者は10日間を乗り切っていく。
 あとで書くが、私にとってもこの面接が、いくつかの気付きの大切なきっかけとなった。

☆私自身は、この一日のスケジュールがきついとは思わなかったが、しかしいろいろな人に聞くと、ミャンマーその他の国での一般的なリトリート、日本での他の瞑想合宿に比べると、はるかに厳密にしっかりやる充実した合宿であることは確かなようだ。たとえば無言行がそれほど厳密に守られないところが多いそうだ。

◆ということで、そろそろ私自身の体験に入っていきたい。
 地橋氏に「妄想には妄想の働きがある。妄想は妄想でしっかり仕事をしてくれるので、サティによってしっかり妄想を気付いておくことが大切だ」と言う意味ことを個人面接で言われた。これに私はハッとし、深い感銘を受けて、それをきっかけにして瞑想がぐっと深まっていったと感じている。
この点については、明日にでも詳しく書きたい。

 ■2001/08/22 (水)  集中と瞑想はフィフティ・フィフティ

◆グリーンヒル瞑想研究所の10日間合宿レポート④
 瞑想で何かに集中し、浮かんできた来た妄想を払いのけるのは、結局妄想を抑圧することではないか、というのが私にとってずっと疑問だった。ところがヴィパサナー瞑想では心が妄想を起こせばその妄想に気づき「妄想」とサティするという。ヴィパッサナー瞑想に引かれた一つの理由はここにあった。

 ところが合宿でいざ座禅をし、またそのつどの動作の感覚(センセーション)にサティしようとすると、限りなく思考・妄想が湧いて悩まされた。それは合宿に入って2日目、3日目のことだった。

 4日目の朝、目覚めた瞬間に「要するにすべての思考にサティを入れればいいんだ」という思いが浮かんだ。思考が浮かんだらそのつど「‥‥と思った」あるいは「思考」などとサティを入れる。それだけのことじゃないか。よし、やってやろう。

 そう思って座禅に入ると不思議に集中できた。思考にはすぐにサティが入り、妄想は少なくなった。しかし、5日目になると座禅の前半は集中はできるものの後半は眠気が襲い、再び妄想やイメージに囚われはじめた。腹の動きへの実感も遠くなった。もしかしたらこれは、ヴィパッサナー瞑想の背景となるテーラワーダ仏教に共感しているわけではない自分の意識がブレーキになっているためかと思った。

 その日、先生との面接のなかで一つ大切が気付きがあった。先生は言われた、「ヴィパッサナー瞑想では、どんな妄想であろうと、妄想が出てそれにサティを入れること自体にも大切な意味がある。妄想には妄想の働きがある。妄想にサティを入れることによって気付きが深まっていく。集中も妄想もどちらも大切、フィフティフィフティなのだ」と。

 私は、これにハッとした。「要するにすべての思考にサティを入れればいいんだ」と思ってがんばり始めたとき、私は知らず知らずのうちに思考や妄想を排除しようとしていたのだ。私がヴィパッサナー瞑想に引かれたのは、妄想にも意味があるとし気付き続けるという点であったのに、いつのまにか妄想を排除すべき対象にしてしまっていたのだ。この気付きが瞑想を一歩進めた。

 ■2001/08/23 (木)  集中の瞑想が、そのまま自己観察である

◆グリーンヒル瞑想研究所の10日間合宿レポート⑤
さて、面接で先生に「集中も妄想も、ともに大切なのだ。両方に同じ重みがあるのだ」と言われ、私は「そうんだったんだ、だからこそヴィパッサナー瞑想は素晴らしい」と、非常に感動した。
 その後の座禅は、妄想が出てもそれを断ち切るためにサティを入れるのではなく、それに気付くためにサティを入れるとう感じにした。2・3度そんなことをするうちに妄想は消え、眠気も消えていった。
 最後の夜座でも、湧き上がる妄想やイメージをやたらに排除しようとするのではなく、「これが出るのも私にとって大切なこと」と思って、「イメージ、イメージ」とサティを入れると、すぐに消え、腹の感覚への集中に戻れた。

 たとえば腹のふくらみ、縮みという中心対象にサティを入れ続けることが、自動的に心の観察につながる。それが、方法としてしっかりと自覚的に確立されているとことがヴィパッサナー瞑想の素晴らしいところだ。禅の瞑想でも、同じようなことが起こるかもしれないが、方法的に自覚化されているわけではない。
 中心となる感覚にサティを入れ続ければ、おのずと「妄想」が生じてくる。その妄想にもサティを入れることによって、自分の心の真実を見るチャンスが生まれるのだ。

 先生が挙げていた例だが、中心対象になかなか集中できなかった人が、「あせり」→「いらいら」→「執着」→「高慢」と、次々自分の気持ちに気付きサティを入れていったという。最後に「高慢を認めていない」という自分に気付き、そうサティを入れたとき、あせりやイライラが消えていったという。
 このように正確に自分の気持ちを言い当てるラベリングをすると、一瞬にして大きな変化が訪れることが多いようだ。

 私は、この話にもとても感動した。これは、私が今までカウンセリングを中心とした心理療法で学んできこととまったく同じではないか。
どんな風に同じなのかは、明日また書こう。

☆PCせんいんさんが、掲示板にとても厳しい合宿だったのですね書いておられた。しかし、主観的には、厳しいという感じはまったくなかった。もちろん参加した9人とも最後までやり通し、それぞれに大きな収穫を得たという。
 また、これまで多くの人がこの合宿に参加したが、脱落者は出ていないとのこと。お一人途中で帰った人がいたが、その後また続けているとのことだ。

 ■2001/08/24 (金)  ぴったりくるラベリング

◆グリーンヒル瞑想研究所の10日間合宿レポート⑥
 たとえばカウンセリング場面でクライエントは、カウンセラーの受容に支えられて、自分の言葉にならない内面をまさぐりながら、自分の気持ちにぴったりした言葉を探し表現しているともいえる。
 自分の内面にぴったりした言葉で表現できた時、クライエントは変わっていく。私自身、カウンセリングの体験学習で自分を語りながら、自分の弱さ・幼さに適切な表現を与えられたとき、自分が変化していった経験をもつ。
 地橋氏は、合宿中の講義(ダンマトーク)で、センセーション(感覚)へのサティでも、内面へのサティでも、自分が感じていることにぴったりくるラベリングをすることがいかに大切かを強調しておられた。
 私は心理療法に関する経験から、ぴったりくるラベリングの大切さということが体感として分かるか感じがした。
 河合隼雄氏が導入した箱庭療法にしても、その他絵画療法にしても、自分の心にぴったりの表現ができたときに、洞察が深まり変化していくといわれる。言葉による表現でも、それ以外の表現でも、そこで起こっていることは変わらない。
 ともあれヴィパッサナー瞑想がラベリングによるサティという具体的な方法をもっていることは素晴らしい。妄想を邪魔者として排除するのではなく、それを生かすことによって瞑想と自己洞察を深めることができるのだ。

 私は10年ほど前にテニスボールの自打球を右目にあて、そのとき出来た角膜の傷がふさがらなくなって再発性角膜糜爛と呼ばれる持病を持つ。最近そのためか右目の周辺の筋肉に時々痙攣が起こる。緊張があるなしにかかわらず起こるときは起こるが、意識すると起こる場合もある。もしや精神的な理由があるのかもしれないと思い、これにサティを入れて続けてもいいかとたずねた。
 地橋氏の答えは、何かを探ろうとして故意に意識的にサティを入れていくのはヴィパッサナー瞑想の方法ではないというもの。気にならなければあえて入れる必要はない。気になって腹に集中できなければ、そのときはたとえば「ピクつき」とサティを入れればよい。そうやって気になったときだけサティを入れていれば、もし精神的な誘因もあるなら、ときに思いがけないイメージがともなうだろう。そのイメージにすかさずサティを入れる。そうやって洞察が得られる場合もある。
 私はこの説明にもえらく感動してしまった。

 ■2001/08/26 (日)  その瞬間サティが入った

◆昨日、外出で時間がなく日記を書かずじまい。今日は亀有で一日瞑想会があったが、弟家族が久しぶりに訪れたため参加はとりやめ。

◆グリーンヒル瞑想研究所の10日間合宿レポート⑦
 右目周辺の筋肉が痙攣する。気になって集中を乱すようなら「痙攣」とサティを入れる。そうやって事実に気付いておけば何か精神的な理由がある場合には、ふと関連するイメージが湧いてくる場合があるかもしれぬ。そうしたらまた「イメージ」とサティを入れる。イメージに感情が伴えば、またサティを入れる。それだけ。

 無理に探る必要はない。自ずから起こったこと、自然に湧き上がったものにサティを入れていくだけで、必要なときに気付きは深まる。あるがままの生起にサティするだけ。この点に深い感銘を受けた。

 集中は大切だが集中しようとすることで逆に際立つ妄想もまた意味がある。妄想を無理に断ち切るでもなく、無理して原因を探るのでもなく、沸き起こるままにただサティを入れることこそが、気付きへの道だ。そう受け取った。

 合宿6日目・7日目・8日目と、座禅は非常に集中できる時と、あまりできない時が交差しつつ、徐々に良い瞑想が多くなっていった。サティが入ることで妄想やイメージが跡形もなく消えていくことも増えていった。

 8日目の夕方の座禅中、黒いマントを見につけた巨大な男女に取り囲まれるイメージに囚われた。夢うつつの世界に入るか否かの瞬間に「イメージ」とサティが入った。その瞬間にイメージは消えた。
 次にこの合宿のテーブルに豪華な夕食のご馳走が並んでいるイメージが出現した(腹は正直だ)。そのイメージの世界に入る込む直前に「ちがう、イメージ」とサティすると、イメージは消えていった。
 最後はイメージは伴わず仕事関係の同僚の言葉が話しかけてきてその世界に入りかけたが、一瞬「「話、話」とサティが入って妄想は消えた。 
 この一連のサティのあとは、もうほとんど妄想は出ず腹の感覚に集中した。

 ところが翌日の瞑想で、妄想はさらにたくみに人をたぶらかす事実を知った。地橋先生の講義のイメージを借りて妄想がはじまるのだ。地橋先生の講義だから思わず聞いてしまい、一瞬サティを忘れる。すると妄想の展開がはじまる。それでも昨日の経験が生きているのか、巻き込まれる瞬間にサティが入った。

 こうして瞑想は深まっていった。

 ■2001/08/27 (月)  瞑想と食事

◆グリーンヒル瞑想研究所の10日間合宿レポート⑧
 ここで合宿中の食事のことに触れておく。合宿中食事は、朝と昼の2回のみ。毎回、もち米の玄米が味噌汁のお椀に三分の一程度だ。あとは味噌汁と数種類のおかずが少量づつ。
個人面接での最初の話題は、食事の量と瞑想との関係についてであった。食事と補給をどの程度、いつとるかが瞑想の状態に大きく影響するから、早く自分の適量を把握するようにとのことであった。
 最初は、その意味を実感できなかったが何日か経つうちに瞑想への食事の影響をいやというほど感じるようになる。

 私の場合、いい瞑想ができたのは、起床し掃除などをしてすぐ4時半前後からの瞑想と、朝食後すぐの瞑想、そして夕方の瞑想であることが多かった。
 食事の量が多すぎれば眠気が襲うし、少ないと体力がなくなってやはりいい瞑想ができない。適度な補給をすることによって瞑想にとってベストの状態を作ることが、いかに大切かを10日間で痛いほどに実感した。

 私は毎晩就寝前、9時過ぎにココアにたんぱく質の粉を匙に一杯くらい溶かして飲んだ。先生によると、それが朝の瞑想にとって最適だったのだろう、とのことだった。つまり夜の補給によるエネルギーがまだ体に残っていて、瞑想に活かされるのだろうとのことだった。
 最初の二日目までは、出された玄米のご飯を全部食べたが、三日目からはセーブして少し残すようになった。おかずも少な目にした。その方が眠気のない、いい瞑想ができるようだった。しかし、実際はもう少し少量にすれば、もっとクリアな瞑想が出来たかもしれない。食事の美味さの誘惑に勝てなかった。
 ある日、おかずで出た手の親指ほどの卵焼きを全部食べた。その日の午前中の瞑想は、強い眠気に襲われた。個人面接で先生は、私に一言注意しようかと思ったが、目を離している間に全部た食べてしまった、それが原因だろうと指摘された。高たんぱくの卵は、消化に時間がかかり、必ず眠気をさそう。先生のこれまでの経験からも明らかだとのことだった。
 ちなみに先生は、毎回の参加者各自の食事の量と内容を必ずチェックされ、それを頭に入れた上で面接でのアドバイスをされていた。

 合宿中の食事については、もう一つ二つのエピソードがあり、その中で食事と瞑想の関係を体で学んでいったが、一日分の字数制限をオーバーしてしまうので、また明日にする。

 ■2001/08/28 (火)  瞑想と食事②

◆グリーンヒル瞑想研究所の10日間合宿レポート⑨
 昨日に続き、瞑想と食事の話。
 ある夕方、座禅中に妄想と眠気に悩まされた。30分ほどで切り上げ場所を変えてまた座禅をはじめた。すると今度は、さっきの眠気とは打って変わって非常にクリアな意識で30分瞑想ができた。
 午後3時ごろ、補給で野菜ジュースを2杯飲んだ。そのエネルギーがちょうど体を活性化させ始めたとき、眠気と妄想状態がクリアな瞑想に変わったのではないかと、先生は指摘された。

 10日間の間、瞑想は良い状態と悪い状態を繰り返しながら、全体として徐々にクリアな瞑想へと変化していった。最初は何が影響して大きな差が出るのか分からなかったが、先生のアドバイスから振り返ると、やはり食事の影響が大きいと実感するようになった。食事だけではないが食事の影響も無視できない。

 瞑想の背後にある様々なことが瞑想に微妙に影響を与えているのだろう。先生は、だからこそ五戒を守る必要を何回も強調しておられた。

 地橋先生は、瞑想者の実力はどんな食事をしているかを見れば、だいたいわかる、そういう人はみな小食だとも言っておられた。私は168センチ、72キロ。痩せているとは言えない。もっとも10日間が終わった時点で67キロに減少。今は再び70キロに近づいたが。

 以下は余談。普段に比べると信じられない小食だったにもかかわらず、空腹感はまったくなかった。しかし体は正直なもので食べ物に関する不思議な「妄想」に囚われ続けた。
 誰かが何かの袋をあけるカサカサという音が、ことごとくお菓子の包みを開ける音や、せんべいや菓子類を食べる音に聞こえてしまうのだ。そんなはずはありえないと分かっていてもそう聞こえた。

 それにしても毎回の玄米ご飯や味噌汁、手作りのおかずが何とおいしかったことか。毎回小一時間をかけて、噛むこと、味覚の広がり、飲むこと、その他すべてにサティを入れながら食べる。もっとも、訓練するとおいしいという判断以前にサティが入るので、おいしさも感じなくなるということだが。
 普段の食事が何ときめの荒い、そして本当に味わうといことをしていない食事であるかを、つくづく感じた。

 ■2001/08/29 (水)  裸の感覚への集中

◆グリーンヒル瞑想研究所の10日間合宿レポート⑩
 合宿の前半、腹の動きへの集中がなかなか出来ず意識的に気の感覚を使って集中を高めようとした。丹田に気を下ろして腹から気が出たり入ったりする感覚に集中していたのだ。

 このことを先生に言えばダメと言われる思ったので迷ったが、結局言った。予想通り、ヴィパッサナー瞑想の方法に純粋に従った方がよいとのことだった。テクニックを使って集中を高めるよりは、集中できないなら集中できないで、その状態にサティを入れることが大切。妄想にきちんと働きをしてもらうべきだとのこと。

 ただ状態が良いときは自然に気の充実も感じられ、腹の動きに少し遅れるようにして気の動きが感じられた。
 だいたいこの研究所に入った時から脳内にシーンとしたバイブレーションが響きはじめ、それは10日間続いた。脳内のバイブレーションが気であるのは、手や丹田、眉間の気のバイブレーションと相互に共鳴するので間違いない。

 歩行瞑想では足の裏の感覚をゆっくりと追う。「離れた、移動、触れた、圧」とサティしていく。足をじゅうたんと平行に移動していくとき、足裏に微妙な変化が感じられた。これはおそらく訓練によって感覚が高まったというより、足裏とその周囲の気の変化を感じ取っていたものと思う。
 先生のアドバイスは、それを気と判断するのではなく、感じられるセンセーションそのものにサティを入れ続けよというものだった。これは丹田の気についても同じだろう。どうラベリングするかは別として、感じられるセンセーションそのものに気付き続けるのだ。

 どちらかといえば私は歩行瞑想が苦手であった。参加した皆さんは誰も歩行瞑想に非常に集中していたが、私はなかなか集中できなかった。

 合宿の8日目に初参加者は、2時間サティを切らさない状態を日に2回続けよとの課題を課せられた。座禅は、どうしてもちょっとした妄想でサティが切れやすいので私も歩行瞑想が多くなった。自己申告なので甘いサティなら結構続きそうだが、厳密にやって私は40分がやっとだった。本当のサティがいかに難しいかを実感。

 足裏の感覚に集中するのも腹の筋肉の動きに集中するのも、結局、裸の感覚に触れそれに集中する訓練として同じ意味がある。訓練によって足の感覚が何十倍にも鮮やかになればそれは腹の感覚の信じられないような高まりに連動すると言う。

 ■2001/08/30 (木)  クリアな意識での座禅

◆グリーンヒル瞑想研究所の10日間合宿レポート⑪
 地橋先生は、参加者の持てる力を最後の一滴まで絞り出させるのが好きだと冗談半分に言っておられた。8日目、9日目あたりになると、集中力が切れあきらめる者が出てくる。実はそこでもうひとふんばりすると目覚しい成果があがる。これまでも素晴らしい体験をした人の8割がたは、8日目、9日目だという。

 サティを2時間切らさない状態を日に2回作りなさい、という「達成ゲーム」も、持てる力を最後まで出してもらいたいという、先生の願いから工夫されたようだ。「達成ゲーム」も含めて、10日間で最大限の成果が出るようプログラムや指導法に様々な工夫がなされているのを感じた。先生自身の長い試行錯誤から得られたエッセンスが、この合宿に濃縮されていた。

 事実「達成ゲーム」で力を振り絞ることで、サティが自分の意図に関係なく間断なく飛び出すという「サティの自動化」という現象が起こる人もいるらしい。脳の回路がそう再プログラムされるというのだ。

 私自身は、合宿体験をどうレポートするかという意識が働いたり、この合宿で何とかするぞという悲壮感が欠けていたためか、最後の一滴すら出し尽したとはいえない。それでも、8日には3時間ぶっ続けで夢中で歩行瞑想に取り組んだりした。

 私にとっての成果は、非常にクリアな状態で集中が続く座禅が、最後の数日で頻繁に出るようになったことだ。それは、腹の感覚と一体となって自意識が完全に消える深いサマーディとはいえなかったが、透明な意識状態の中で腹への集中が途切れることなく30分、一時間と続いた。

 途中足が痛くなっても「痛み」とサティを入れると次第に痛みの感覚は消え、そのまま腹への集中が続いた。
 終わりに近い日の座禅中、チリンチリンという鈴のようなかすかな音が耳元で規則正しく続いた。それは座禅を終えてもしばらく続いた。臨死体験者が体験の最初に聞くという異音を思い出したが、何回か「音」とサティを入れた。

 合宿での体験は、もっと深い瞑想への確実な第一歩となった。続けていけばさらに瞑想を深められるという自信につながった。
 日常生活の中でのサティは、合宿で行うサティのようにきめ細かくはできないにせよ、出来限り続けていくことの大切さを実感した。

 

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