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なぜ瞑想するのか?

たとえ貨幣の雨を降らすとも、

欲望の満足されることはない。

「快楽の味は短くて苦痛である」

と知るのが賢者である。

   ……ブッダの言葉より


  苦しい状態は永遠になくならないのですか?

 生きるのが、なかなかうまくいかないので、だれも苦しいのです。
 もちろん楽しいこともありますが、楽しければ楽しいほど、アッという間に終ってしまいます。
 終ったときに充実感もあるのですが、たちまち実感が遠のいて色あせてしまいます。  
 あの楽しさをまた味わいたいと思い、同じ条件を必死でそろえても、なぜか前のようにはトキメキが得られません。
 なぜ満たされないのだろう…。

 シェークスピアの『十二夜』という劇は次の一節で始まります。

 『…あの旋律をもう一度、奏いてくれ。
 あれには何か、絶え入るような響きがあった。
 川岸一面に咲き誇るスミレの芳香を運んでくる南風のように、
 甘く切ない調べに私には聴こえた。 ……

 ……もうよい。奏くのは止めてくれ。
 なぜか、前ほどは美しく思えなくなった。…』

 最初は感動したのに、次には同じ感動が得られないのです。
なぜでしょうか?
 初めとは心の条件が違ってしまったのです。
 最初は無心に聴いていたのに、今はその最初の感動的な印象、比較、期待感、予測など、いろいろな想念・イメージが頭の中をかけめぐっています。

 心が変ってしまったので、もう同じ経験はできないのです。

 手に入れば飽きてしまうのに、心はいつでも渇いていて、なにかを欲しがっています。
どんな欲望も、実現するまでは、この上なく甘美に思えてたまらなくなるのです。
 それなのに、いや、それ故に、手に入った瞬間、急激に色あせて、幻が崩れていくような幻滅感を味わいます。
 「あんなに欲しかったのに、この程度のものだったのか…?」
 「…もうよい。なぜか、前ほどは美しく思えなくなった…」
 不満足感に失望しながら、心はさらに渇いて次のものを欲求します。
 どれほどお金があっても、もっと欲しい…。どんな素敵な人と一緒になれても、「もっと稼いでもらいたい」「もっと愛して欲しい…」と心の欲求性(渇愛)はエンドレス(終りなき)なのです。

 なぜなのでしょう…。

 「事実の脳内コピー」である記憶は、いくらでも美化され、現実以上の甘く美しいイメージに肥大しながら変形していくものです。いわんや自分が好きでやる想像や妄想になれば、「イイとこ取り」「イイとこつなぎ」のキンキラキン、なんでも「アリ」です。
 現実は一瞬にして変化してしまうのに、妄想の世界でならズ-ッと同じ状態が保たれ、永遠に甘く美しいままです。だから欲しくてたまらなくなり、手に入ったときの感動と幸福で頭がいっぱいになります。
 妄想すると欲望が生まれ、欲望が生まれると、現実とのギャップから失望と不満足感が生まれてきます。
 この心のシステムで生きていく限り、生きる仕事は苦しいのです。

 快楽妄想だけではありません。イヤなことの不快記憶も、頭のなかで化け物のように変形しながら成長し、鬼婆のような母親、悪魔のような上司などのイメージになって一人歩きを始めます。
 「あの嫌なヤツ!」は、なぜかズーッといつでも同じ「嫌なヤツ」の状態を保っているような気がしてしまいます。生きている人間なのだから、ときには立派なことをやったり、家では優しい心になったりしている筈なのに、こちらの頭の中では永久に同じ「あの嫌なヤツ」なのです。
 のみならず、「嫌なヤツ!」を思い出すたびに、心が反応し、血圧が上がり、怒りのホルモンを体内に分泌して、自分の体に攻撃をかけて病気になったりします。

 人は、イヤな出来事に出会うので、苦しむのでしょうか。
 それとも、自分で苦を発生させているのでしょうか。
 対象を嫌う心が反応を起さなければ、本当はただ裸の事実がありのままに転がっているだけではないのでしょうか。

 苦しみを抜く医者であったブッダは、もし人が、一切の妄想を離れることができれば、あらゆる苦(ドゥッカ:Dukkha)から完全に解放される、と説きました。
 苦の原因は渇愛という欲望であり、その渇愛は妄想からスタートして生まれてくるからです。

 無自覚でいる限り、妄想→欲望→執着→何ガナンデモ……とエスカレートしていくのが心です。欲望が達成されても達成されなくても、人は失望と不満足感に陥ります。心のシステムが変らない限り、苦しい状態(ドゥッカ)は永遠になくならないでしょう。

 わずかな「楽」と、膨大な「苦」。
 その「楽」も一瞬にして変滅してしまう……。
 弱者が容赦なくイジめられる残酷な子供の世界。
 お金もあり優しい父母なのに、過剰な期待で子供の心を圧しつぶす。
 死ぬほど好きになり、いくら想いを寄せても、結ばれることができない……。
 この辺でいいかと妥協の結婚をすれば、感動のない不完全燃焼の日々になる。
 「アイツさえいなければ…」が、どうしても消えてくれない。
 命をかけて求めても手に入らないものは、やっぱり入らない無念さ。
 男も女もある日、失われていく若さに激しく打ちのめされ、自分の時代が終っていく心細さと寂しさにふるえながら老いていく。
 病気になり、迫りくる死の恐怖に、目の前が真っ暗になる……。

 このように、物事を思いどおりにしようと考えている限り、苦しみが絶えることはありません。起きてしまった現象は、誰にもどうしようもないのです。人の心と関係なく、この世の事象はそれ自 体の因果法則で生滅していきます。
 これを≪諸法無我≫と言います。

なぜ、人は瞑想をするのでしょう?

 それは生きるという苦しい仕事から解放されるためなのです。これが原始仏教の立場からの答です。
 なかでもヴィパッサナー瞑想は、心のシステムを組み替えることによって、一切のドゥッカ(苦)を滅し去る技法です。
 ブッダが説かれたとおりに、非法の≪妄想世界≫を離れていくと、本当にドゥッカ(苦)が消えていきます。苦が苦ではなくなっていくのです。
 ヴィパッサナーでは、一瞬も切らさずに現在の瞬間を捉え続けることによって、妄想を捨てていきます。
 この現在の瞬間に気づく心の働きを《Sati:サティ》と言います。体の現象にも、心の現象にも、すべての瞬間に気づいていくのです。

 人はいつでも過去か未来のことで頭をいっぱいにしながら生きています。
 聖者は、現在のことだけで暮らしています。
 それが妄想を離れた状態です。
 苦(ドゥッカ)が滅ぼされています。

ヴィパッサナー瞑想を始めてみましょう。

 毎日たった10分間以上、この瞑想をするだけで、苦しみから解放され、束縛から自由になれた人が大勢います。
 生きるのがラクになっていきます。
 心がきれいになっていくのが、ハッキリと分かるでしょう。
 妄想が停止すると、欲望と嫌悪と盲目状態がいつのまにか消えていることに驚くにちがいありません。
 物事がありのままに観えてくるので、正しい反応行動が取れるようになります。
 生きとし生けるものに対する、優しい心も生まれてきます。
 シーンと静かになった心は、どんな微細な現象も一瞬にして正確に観ることができます。
 万物の真実の姿が、ありのままに正しく洞察されるでしょう。
 思考の知恵とは異なる本当の≪智慧≫のひらめく瞬間がおとずれ、 悟りの心が現れます……



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