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今日の一言 (バックナンバー) '2017年1~12月

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12月31日 ★虐待され、奪われ、中傷誹謗されたのも因果応報なのに、なぜ人を苦しめ、奪い、口汚く悪口を言いふらし、過去の不善業に新たな悪業を上乗せするのだろうか。
 虐げた者は慈しみ、奪った者は与え、名誉を傷つけた者は賞賛し、真逆の行為で悪業を解消するために生まれてきたのではなかったか・・。

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12月30日 ★たとえ怒るのが当然の文脈でも、怒り返すのは悪である、とブッダは言う。
 怒る瞬間、不善業が形成されるからだ。
 そのように、いかなる理由があろうとも、たとえ自分が正しくても、欺けば、悪口をいえば、人の関係を壊す離間語を語れば、その報いがあるだろう。
 今、自分は何をしつつあるのか・・と問い続ける。

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12月29日 ★ヴィパッサナー瞑想者にとって、五戒の中で最も重要なのは嘘の戒律かもしれない。
 器に残った水が捨てられた瞬間、容器が空っぽになるように、故意に嘘を吐く者に聖なる修行を完成させる可能性はない。
 戯れにも嘘を吐くな、とブッダは説く。
 偽る者は、あるがままを観る瞑想に耐えられない・・

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12月28日 ★第4コーナーを走り切ればゴールに達し、そこで人生は終わる。
 ラストスパートをかける前に、最大の残務整理だった「ヴィパッサナー瞑想大全」を完成させなければ区切りがつかない。
 最終段階だったのだが、この期に及んで構成を大幅に変更してから遅々として進まず、この仕事から解放されるにはまだ時間がかかる。

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12月27日 ★人生の第4コーナーを走っている自覚が痛切に感じられていく一方だ。
 いつまで瞑想を教えられるだろうか。
 死ぬ瞬間まで修行を続ける覚悟だが、己の不善業と徳の力がどのような展開をもたらすのか。
 死を意識すれば、何事もこれが最後かもしれないという決意が新たになる・・。

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12月26日 ★心身に苦受を感じる瞬間、不善業が現象化して消えている。
 辛く苦しいほど、強力な悪業が解消され、過去の負債が返済されているのだと考える。
 苦しむだけの人生にも意味がある。
 苦受に襲われても、心は病まず煩わず、ただ自分の上を通り過ぎてゆく因縁の流れを淡々と観じきっていく瞑想・・。

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12月25日 ★本当に自分の自由意志で選んだのか、情況に強いられた因縁の流れの中で、いかんともしがたく選ばされたのか。
 あらゆる存在が相互に関連し影響し合う中で、否応なく正解を選ばされてしまう展開になっていくのが「徳」の力だとも言える。
 サティを入れ、よく気をつけて、断固として悪を避け、善をなす道を行く・・。

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12月24日 ★夢があり、希望があるから、生きていけるのだろうか。
 愛する人がいて、どんなことがあっても信頼し支えてくれる人がいるので、生きていけるのだろうか。
 全てを手放し、一切の拠りどころが無くなった絶望の果てに、束縛からの究極の解放と寂けさがあるのだろうか・・。
 真の自由と悟りへ突入していく恐怖!

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12月23日 ★体調が抜群でも、深刻な悩みや苦しみがあれば、良い瞑想はできない。
 在家者が常に、人間関係や仕事の苦悩をゼロにすることができるだろうか。
 凶事が起きても心が乱れないように「達観」しない限り、いつまで経っても瞑想はできない。
 嫌なことが起きなくなる日を待って瞑想するのではなく、我が身に起きているネガティブな事柄を、エゴの視座を離れて視る練習が瞑想・・。

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12月22日 ★瞑想で最も大事なものの一つは、体調である。
 体が整えば心がスッキリとして意識が明晰になり、集中が深まりサマーディに入りやすくなる。
 サティが自然に連続して、客観視の視座が安定する。
 心地よい体感に貫かれ、心身の状態が万全になれば、良い瞑想が向こうから静かに到来してくる。

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12月21日 ★ゴミは喜んで捨てるが、大切なものを自分から手放すことは難しい。
 かけがえのないものを否応なく奪い取られるのは最悪の人生の流れのようだが、むしろ慶賀すべきではないか。
 一切の苦しみの原因は、「渇愛」という名の執着だと説かれる。
 その自分を縛っていた最強の鎖から解き放たれ、怖れるものが何もなくなったのだ。
 失うものが何もなくなった状態は、不幸の極みではなく、何ものにも束縛されない究極の解放ではないか・・。
 因縁の流れに従いきって、捨(ウッペカー)の心で、我が身に生起していく事象を淡々と、静かに、観じきっていく・・。

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12月20日 ★聖者の食を踏みにじり悪態を吐いて冒涜した悪業の報いによって、修行僧だったブッダは地獄へ堕ち、諸々の苦を気の遠くなるほどの長きに渡って受けた。
 やがて王子に再生し悟りを得たのだが、わずかに残った業の結果、托鉢から空の鉢で帰ることになったという・・。
 たった1回の過ちで地獄とは・・。

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12月19日 ★過去世でブッダが修行僧だった時、托鉢で何も食が得られなかった。
 同じ家で独覚の聖者が托鉢をすると美食が得られた。
 それを見たブッダは怒りに駆られ、聖者の鉢を叩き落とし食物を踏みにじったという。
 仏にもそんな時代があったのか、と驚く。
 凡夫のわれわれにも、希望がある・・。

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12月18日 ★嘘を吐けば、ダマされるだろう。
 罵詈雑言を浴びせれば、口汚く罵られるだろう。
 推測と思い込みで作り上げたストーリーを事実であるかのように流布させた者は、どんな斧で自らを斬るのだろう。
 自分の語った言葉どおり、粉飾された心ない風評を流されデタラメな悪口を言われ、苦しむだろう。
 物理学の作用・反作用の法則のように、天に向かって吐いたツバが自分の顔に落ちてくるように、やったとおり、言ったとおり、思ったとおりのことが、今度は我が身に降りかかってくる。
 人の世が続く限り、業のババ抜きには終わりがない・・。

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12月17日 ★順風満帆、連戦連勝しながら傲ることなく、自らを深く反省し向上に努めるのは難しい。
 人生のどん底に堕ちきった時こそ、自分自身を根本から対象化し、問題点を根絶するチャンスになる。
 傲慢な人もさすがに我が身を振り返り、反省モードになるからだ。
 鍛練する人に三日会わざれば刮目して見よ、と言う。
 非を改め、新たな方向に飛躍し、最悪を最高に転じていく・・。

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12月16日 ★「人が生まれたときには、実に口の中に斧が生じている。
 ひとは悪口を語って、その斧によって自分自身を斬るのである」
 (『スッタニパータ』657)(『感興のことば』ウダーナヴァルガ第8章2)

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12月15日 ★日々経験するあらゆる出来事が、因果の法則どおり、自分の作った業として帰結している。
 苦受を受け楽受を受けた瞬間、現象化して消えていったのだと心得る。
 始まりがあったものには終わりがあるのだから、 心を汚さず、舞い上がることもなく、淡々と「捨」の心で見送っていく・・。

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12月14日 ★反応する瞬間、何かを実行する瞬間、能動的な心のエネルギーが出力されている。
 その「チェータナー」と呼ばれる「意志」が業を形成していく。
 行為する瞬間、話す瞬間、思い込む瞬間に放たれる心のエネルギーが、「行(サンカーラ)」と呼ばれる現象生起力となって因果を帰結させていくのだと理解される。
 自分が何をしたかしなかったか、何を言ったか言わなかったか、何を思ったか思わなかったかを明瞭に自覚し、心得ていなければならない・・。

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12月13日 ★自分とそっくりな人よりも、異なる点が多い人ほど、こちらの姿をくっきりとあぶり出してくれる。
 ものの見方も感覚も価値観も、認識の仕方も異なる他人からこそ刺激を受ける。
 孤独が余儀なくされているなら、意識的に視座を転換させてみる。
 一点に集中する。
 身体全体を観る。
 六門の知覚全体を観る。
 環境と情況全体を観る。
 自分自身を上空から俯瞰する。
 エゴの視点ではなく、「他者の視座」から自分自身を対象化して視る・・。

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12月12日 ★他人という名の鏡に映さなくては、自分自身の姿を見ることはできない・・。

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12月11日 ★集中に特化したサマタ瞑想は、独りで修行を深めていくことが比較的やりやすい。
 ヴィパッサナー瞑想が難しいのは、果たして自己客観視が正しくできているか否かのチェックが心もとないからだ。
 他者の視点から指摘されないと、エゴの強い者ほど自分を対象化できていると思い込む・・・。

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12月10日 ★自分自身の観察に徹底するサティの瞑想。
 一方、集中に絞り込むサマタ瞑想では、対象に没入し、雑念が消え、心が静かになるが、どこかに「瞑想しているのは私・・」という印象が残りがちだ。
 自己保存を至上命令とする遺伝子や本能のプログラムによって、自己中心的になるよう設計されている私たちには、自分を客観視する瞑想が必要不可欠ではないか・・。

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12月9日 ★一日に何億万回の雑念が脳内を去来していくのだろう。 
 嫌なことやくだらないことをチラチラ考えて、心をどんより汚しながら。
 イメージも思考もすべて自己中心的なエゴの視座から発想されていることにも無自覚だ。
 瞑想をしなかったら、どうやって自分を客観視するのか・・。

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12月8日 ★少年の母親が蛇に咬まれて死ぬと、父親の異常な暴力が始まり、4歳の少年は森に逃れた。
 ベルベットモンキー達によって守られ、バナナが分け与えられ、共に暮らした。
 3年後、人間社会に連れ戻されたが、話をせず、誰とも目を合わさず、水を恐れ風呂に入らず、食べるのが異常に早く、しゃがんで寝た。
 献身的な女教師が母親同然の愛を少年に注いでくれたお陰で、再び人間に復活でき、後に猿の優しさを語った・・。

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12月7日 ★群れで生きる猿や霊長類には、いち早く弱者を認識し、傷ついた仲間を助けようとする傾向がある。
 そんなベルベットモンキーに守られて3年間、森の中で暮らしたウガンダの少年がいる。
 いかに猿が優しかったかを伝えている。
 苦しむものを憐れむ「悲」の心は人類以前にその起源があるようだ。

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12月6日 ★講習が終わり、盲導犬と全盲の方を食事会へ案内した者がなんと道に迷い、通りすがりの人に尋ねると、訊かれてもいない他の人が親切に教えてくれた。
 のみならず、「わかりません」と答えて立ち去った人が戻ってきて、一緒に歩いてお店を探してくれたり・・あり得ない感動の嵐だったという・・。

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12月5日 ★初心者講習の瞑想会に、全盲の方が盲導犬と共に北海道から参加された。
 瞑想会場の空気に「応援してあげたい。助けてあげたい」というひそやかな「悲(カルナー)」の波動が感じられた。
 障害のある方々は、静かに存在しているだけで、周囲の者に優しい思いやりの心を目覚めさせている・・・。

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12月4日 ★「無」の体験は、2つの意味に解釈される。
 ①色なし形なし想念なしの無のイメージに合一するサマーディ。
 ②知覚を司る「想」も「受」も機能停止となる滅尽定。
 いずれも禅定の極みではあるが、ヴィパッサナー瞑想では、「戒→定→慧」の「定」の修行に過ぎない。
 空っぽになるだけで解脱できるなら、「戒→定」の力だけで良いことになり、サティを連動させて「智慧」の発現を目指すヴィパッサナー瞑想は不要になる。
 もし「慧」の修行が不要なら、ブッダは「戒→定→慧」の三学を説かなかっただろう。
 原始仏教では、完成した定力によって、概念世界も現象世界も超越する「涅槃」の体験に向かう・・。

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12月3日 ★若い頃、カトリック神父でもあり臨済禅の老師でもあったエノミヤ・ラサール師の高潔な人格に打たれ、何度か接心に参禅したことがある。
 「マリアやイエスを見る見神体験は、それほど深いものではない。
 <無>を体験し、完全に空っぽになることが真実の神体験である」
 という見解に深く共感していた・・・。

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12月2日 ★ミャンマーのウ・パンディタ・サヤドウは、瞑想者に1分でも長く禅堂に留まることを求めた。
 禅堂には多くの目があり、怠けることができないからだ。
 一方、ウ・ジャナカ・サヤドウは、禅堂でも寝泊まりする各自のクーティでも、一日中どこでも同じ密度のサティを入れ続けることを強調した。

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12月1日 ★心のモード変換と、正確な技術のおさらいをしなければならない。
 初心の情熱を甦らせるために、感動を新たにする。
 何よりも人の力だ。
 優れた瞑想者と語り合う。
 その姿を見るだけでもよい。
 それが叶わぬなら、情報の力を活用する。
 瞑想とダンマについての新たな情報に触れる。
 かつて感動した本の再読でもよい。

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11月30日 ★瞑想が頭打ちになる原因のダントツ1位は、マスターしていたはずの基本が甘くなっていることだ。
 音楽の演奏やスポーツの修練と同様、脳内記憶をたどりながら繰り返しているだけでは、技術的にも原理的な理解も劣化していく。
 新鮮さも感動もないマンネリ化状態を、いかにして乗り超えるか・・。

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11月29日 ★長年続けた瞑想インストラクターの仕事量を半減させた結果、限定された仕事への集中が良くなったかもしれない。
 自分自身の瞑想する時間が増えた結果、浄化と力の賦与を実感することもできる。
 自らの自由意志で決定しているようだが、諸々の要因に決定させられていくのが実情だろう。
 それを「諸法無我」と言うこともできる。
 三宝に任せ、天にゆだねて、流れのままに従っていく・・。

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11月28日 ★エゴ妄想で括った「自己」ではなく、法としての自己、あるいは法が顕わになった自己・・と観ることができないか。
 視座が換われば、我が身に経験されるいかなる事象も、縁に触れたカルマが帰結していくプロセスにしか過ぎない。
 AさんもB子もC君も、かけがえのない人も憎むべき輩も・・、しょせん因縁因果の集合体に過ぎないではないか・・。

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11月27日 ★「慈悲」と「捨」に共通するのは、あらゆるものを公平に、無差別平等に観る視座である。
 愛する者をエゴ妄想で見た瞬間、渇愛が生じ苦が始まる。
 エゴの視座が脱落すれば、ただ無常に変滅する「因縁因果の縁起」が浮かび上がってくる。
 ブッダは言う。
 自己を拠り所とせず、法を拠り所とせよ!

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11月26日 ★大震災のような不幸があると家族の絆が見直され、婚姻率が上がるという。
 だが、愛する者への依存と執着の深さに比例して、喪失の悲しみや苦悩は耐えがたいものとなる。
 「愛する人を持つな、愛さない人も持つな」・・。
 愛と怒りを捨て、「慈悲」と「捨」を生涯を説き続けたブッダ・・。

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11月25日 ★それだけの業があれば、やさしく手を差し延べ目をかけた者に突然、闇討ちされたりもする。
 それも不善業が消えていくただの現象に過ぎず、因果論を心得る者にどうして怒りや遺恨があるだろう。
 誰もが反応する瞬間に新たな業を作り、そうして種が蒔かれ続ける限り、苦も楽も永遠に無くなることはない・・。

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11月24日 ★ブッダとアングリマーラは、遥かな過去世から伯父と甥の関係を数え切れないほど繰り返したという。
 ブッダの命を狙ったデーヴァダッタとブッダとの仇敵関係も、遠い過去世から執拗に続いてきた。
 離合集散は人の世の常だが、決定的な人の絆を形成しているのは宿業の力である。
 今世で足し算される因果関係など微々たるもので、無限の過去から累積してきた業の強力さの比ではないだろう。

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11月23日 ★背中が曲がり手が震え老残の身となった86歳の大道芸人が、「母さん!」と泣きながら踊っている映像を観た。
 何歳になろうとも、人の心の最深部には「母」がいるのだ。
 逝去して5年の歳月が流れたのに、いまだに私の亡母を忘れず、命日に花を手向けてくださった方々がいる。
 その盛花の花勢が、いまだに衰えず保持されているのを、眩しい陽光の中で見つめている・・・。

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11月22日 ★類は友を呼び、スポーツチームも、宗教の信者も、テロリストも、集団の自己同一性の要となっているのは、共同幻想だ。
 薄汚れた者は暗く貧しい世界を共有し、天人は至福幻想を共有する。
 人は真の孤独には耐え難く、必ず共同幻想を拠りどころに共感し合い群れなければいられない。
 稀なことだが、法を拠りどころとして犀の角のように歩む者同士が邂逅すると、師友もしくは法友となる・・。

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11月21日 ★人間の目には河の水が流れているだけなのに、餓鬼界の住人には腐った血や膿の汚水が流れているとしか見えず、天人にはキラキラと燦めきながら流れゆく金粉や砂金に見えるという。
 法としての対象は唯一つなのに、各人各様の認知ワールドではかくの如く異なった現象にしか見えないのだということ。

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11月20日 ★生物が集団を形成する能力は脳容量によって決まっていて、人類は最大で150人と言われる。
 ところが現状では、何十万人もの都市や国家が形成されている。
 何ゆえに、そのような巨大な集団化が可能となったのだろう。
 夢や妄想や虚構(フィクション)を信じる力が、無数の人々をまとめ上げているのだ。
 国家規模の大集団を形成することができたのは、シンボリック(象徴的)な妄想を共有する共同幻想の力だったと言える。
 それは同時に、聖戦を、民族の大量虐殺を、魔女狩りの血祭りを、一丸となって実行させていく原動力にもなった・・。

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11月19日 ★人の美点と欠点を公平に、客観的に描写しながら悪口を言う人はいない。
 ネガティブな印象だけを編集すれば、どんな極悪人でも作り出せる。
 相手の欠点を明晰に、正確に見抜きながら恋愛する人もいない。
 脳内に拡がっていく妄想が事実をおおい隠して、自分の見たいものだけを心に形成していく・・。

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11月18日 ★黒い者ほど自分から目を背け、相手を典型的な悪者に仕立てあげて激しく叩きのめそうとする。
 邪悪な者に制裁を加える自分がいかに正義であるかに陶酔できるからだ。
 「相手のしたことしなかったことではなく、自分のしたことしなかったことを見よ」と説くブッダの真逆を行なう愚かさ・・。

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11月17日 ★「地獄への道は、善意で塗り固められている」と言われる。
 善意よりも恐ろしいのは「正義」だろう。
 正義の名をかぶせれば、どんな極悪だろうが、なされない悪はない。
 正義と正義の激突が戦争であり、リンチも大量虐殺も、「害悪を除去する」という大義名分によって正当化されていく・・。

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11月16日 ★疑い深く「信」の定まらない人は、エネルギーを一点に集約できず、迷いと不安が多くなる。
 一方、信仰型の人は、自分の脳内イメージにのめり込む度合いが強い。
 現実は常に劣化していくのに、執着が強ければ一度つかんだものを放さず、目に鱗を貼り付ける。
 信仰→盲信→狂信→とエスカレートすると、「宗教は阿片だ・・」と批判されるだろう。
 その瞬間は真実だったとしても、常にリニューアル(更新)していない限り、昨日は事実だったのに今日は妄想と同じになり下がる・・。

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11月15日 ★時代考証の結果、「ユダの福音書」を書いたのがユダではないことは確からしい。
 同様に、マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネの福音書も彼らの手になるものではない。
 いずれも真実と虚構がいかようにか混じり合い、厳密な史実は藪の中だ。
 となれば、内容の「真実性」を見抜いて判断するしかない。

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11月14日 ★古代ローマは多神教だったが、4世紀に唯一絶対の一神教が国教となって以来、同じキリスト教の分派も異端審問で排除されていった。
 もしグノーシス派が正統派になっていたら、神人合一を目指す自己実現型の系譜となり、梵我思想や中国思想にも通じる東西融合の歴史が展開したかな・・という妄想。

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11月13日 ★心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして人類の罪を贖い、磔刑に処された神の子キリストを信じよ。
 さらに、そのキリストを使わした天の父への究極の信仰を求めよ・・という公認正統派キリスト教。
 一方、グノーシス派では、人には自らの内部に神と直接つながれる神性があり、それを顕わにする真理の知識が重視される・・。
 原罪を背負った人類は、神にひれ伏すしかない・・と考えるのか。
 煩悩に汚れた人類の深奥には、神人合一の境地に達し得る神性が宿る・・と考えるのか。

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11月12日 ★複数の教義と信仰に分派していたキリスト教を一本化して国教としたのは、コンスタンティヌス帝がローマ帝国を政治的に統一するのに好都合だったからだと言われる。
 以来、正統派以外は徹底的に排除されてきたが、中でもグノーシス派が最も厳しく弾圧されたのは、なぜだったのだろう・・・。

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11月11日 ★正統派も異端もいずれもユダが密告した事実を認めている。
 キリストには古来から預言された磔刑に処される覚悟があり、事前にユダの裏切りを予告もし、「おまえのしようとしていることを、今すぐ、しなさい」とユダに告げた、とヨハネも記す。
 ユダがキリストの命令に従った可能性が高いのかもしれない・・。

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11月10日 ★ユダは後悔して自殺した」とマタイは言い、「ユダに悪魔が入った」とルカは記し、使徒行伝では、神罰で真っ逆様に落ちて内臓がすべて飛び出して死んだことになっている。
 まちまちの記述が多いが、「ユダの福音書」には、ユダは、キリスト自身が命じた密告を忠実に実行したに過ぎないと記されている・・・

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11月9日 ★キリスト教初期には多くのセクトがあり、4世紀にローマ帝国のコンスタンティヌス帝がキリスト教を公認した際に、膨大な数の福音書の中から現行のものが正統派とされ、群雄割拠していた他宗派は駆逐された。
 その一つだったグノーシス派の「ユダの福音書」には、衝撃的な記述が見出される・・。

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11月8日 ★キリストの言行録として忠実に記したはずの4つの福音書は、互いに微妙に異なっている。
 人間の認知の不正確さと、無意識の取捨選択が働いてしまう証左だろう。
 ユダの裏切りについては、1600年間エジプトの砂漠に眠っていた「ユダの福音書」の発見が世界を震撼させることになった・・。

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11月7日 ★ユダの裏切りがなかったら、全世界に広く布教された今日のキリスト教は存在しなかっただろう。
 彼こそが、キリスト教の教えの核心となる「十字架行為」を成立させた立役者ではないのか。
 破壊があるから創造があり、残虐があるから優しさが発露し、裏切りがあったから世界最大の宗教となり、煩悩があるから悟りへの道がある・・。

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11月6日 ★お世話にもなり、多くの学びも得たであろうに、なぜユダは師のキリストを銀貨30枚で売り渡したのだろう。
 ユダは、本当に「生まれなかった方が、彼のために良かった」卑劣な極悪人なのだろうか。
 どんな人も物も、宇宙のすべての存在と相互に関連し合い、何らかの役割を果たしているのではないか・・。

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11月5日 ★風が、自分では知らずに花粉を運び花の受粉を助けているように、人もまた、無自覚にどこかで人を助けているし、苦しめてもいる。
 助ける意志も苦しめる意志もないただの行為なので、当人の業にはならない。
 諸法無我の宇宙網目に織り込まれたものが調和し協同し、因縁によって起きるべきことを生起させていく・・。

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11月4日 ★独裁主義国家、カルト教団、マインドコントロール、自己チューの共通項は、情報と視座の一元化である。
 人の脳内世界が一方通行の情報で支配されている状態は、あるがままの客観世界から遠くかけ離れる。
 観察の瞑想は、自分の中にエゴ以外の視座と多角的な観点を持つことから始まる・・・。

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11月3日 ★事の全容を完全に客観視できる人は皆無に近く、語られる事実と語られない事実がない交ぜになるのを「編集」という。
 悪意がなくても人の認知は必ず歪むのだから、伝聞情報は言うまでもなく、情報が一方通行であればエゴの立場から提示された認知の一つに過ぎなくなる。
 複数の視座・視点からの情報と物的証拠が必要不可欠と心得なければならない。
 ヴィパッサナー瞑想の大前提である。

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11月2日 ★人には、集団の秩序を乱す悪者を見抜こうとする「裏切り者検出モジュール」があり、制裁を加える瞬間に快感ホルモンを感じるシステムが組み込まれているという。
 事実上のイジメであっても、正義の名が付けばバッシングが快感になる。
 のみならず、自分自身の心の闇と同じものを持っている「悪者」を叩くときの怒りの強さは、自己嫌悪の裏返しであり、破壊的な怒りのエネルギーを放出しながら同時に、正義の制裁を行なっている快感にも陶酔できるのだ・・。

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11月1日 ★自分の認知が歪んでいると自覚している人は少ない。
 そして、自分が正しいと信じ切っている者が、最もよく怒る・・・。

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10月31日 ★たとえ外界の対象がありのままに心に飛び込んできても、反射的に愚かなエゴに編集されて歪む。
 修羅系の人の情報は怒りで歪み、おっとり系はおめでたく歪み、無知系は混乱して歪む。
 エゴからエゴへの伝聞情報は、必ず伝言ゲームになる。
 真実からかけ離れた妄想を共有し合って生きる世間・・。

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10月30日 ★心を空っぽにしなければ、客観的に、ありのままに観ることはできない。
 修羅系の人の認知は、常にものごとの否定的な側面に吸い寄せられ、嫌悪し、争い、怒りのエネルギーをほとばしらせようとする。
 ひどく片寄った歪んだ認知なのに、自分は真実を見ていると滑稽な自信に満ちている・・。

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10月29日 ★人の人生を壊し、絆も関係も壊し、組織を崩壊させ、全てを破壊する修羅の人もいる。
 500回の過去世が全て修羅道だったら、今世で慈悲の人になるのは難しい。
 習い性となった破壊的な業を作ってしまうし、自己変革しようとする心が折れるからだ。
 それでも、貫き通せば、やがていつの日か・・の希望はある!

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10月28日 ★意志の力がサンカーラ(行)となって業を形成していくのが現象世界だ。
 諦めてはならない。
 たとえどれほど絶望的であっても、全身全霊で願い続け求め続ければ、やがて具現化する。
 3億回の意志が形成したタイプは、4億回の対抗思念によって正反対のタイプになる。
 サンカーラ(行)と呼ばれる、業の力で形成された諸々の事象は必ず変滅していくのだから。
 諸行無常・・・。

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10月27日 ★「思慮ある人は、見たこと、聞いたことをすべて信じてはならない」とブッダは言う。
 だが、何年ヴィパッサナー瞑想をやろうとも、思い込みの強いタイプは噂や風評にいとも簡単に惑わされる。
 過去世からの集積で何億万回も繰り返して組み込まれた「タイプ」は変えられないのだろうか・・。

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10月26日 ★今の瞬間の自分に気づけなければ、ネガティブなものを抑制することができないマインドレスの状態だ。
 反射的に立ち上がってくる深層の暗い邪なプログラムが愚かなことを言わせ、振る舞わせ、性懲りもなく不善業を作ってしまうだろう。
 「あさはかな愚人どもは、自己に対して仇敵に対するように振る舞う」(ダンマパダ)

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10月25日 ★耳にタコができるほど因果論を聞いていても、土壇場になればブッ飛んで、怒りと保身と愚かさから、人を貶め、傷つけ、恐ろしい苦を与えてしまう。
 たとえ何百回ダンマを聞法しても、宿業の情報や幼少期に刷り込まれた経験、数え切れないほど繰り返した怒りの妄想、等々の力が圧倒的だからだ・・。

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10月24日 ★人の心は必ず変わっていくし、人生の流れも望む方向に転換していくことができる。
 だが、表層の心から深層の心へと時間は緩やかになり、最深部の心が完全に別物に変わるには来世やその先にまで渡る長期的展望が必要かもしれない。
 別表現をすれば、人の本性はなかなか変わらない・・。

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10月23日 ★苦しい人生の流れを劇的に変えていく瞑想者の姿を見ることが、ヴィパッサナー瞑想を伝える原動力だった。
 だが、苦がなくなれば怠け、幸福になれば思い上がり、瞑想が深まれば抑圧されていた心の汚染が見えてくる。
 なかなか心はきれいにならないな・・と多くの人が溜め息をつく・・。

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10月22日 ★どうでもよいことにはサティが入りやすい。
 余裕がある時には冷静な判断ができる。
 だが、執着している妄想にはハメられ、のめり込む。
 土壇場になれば、努力と学習で組み込んだプログラムはブッ飛んでしまう。
 深層の心に刷り込まれた思考パターンと反射的な反応に本性が出て、愕然とする・・・。

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10月21日 ★ヴィパッサナー瞑想が苦しい人生の流れを変え、多くの人の救いになるのは確かだが、その効果は段階的なグラーデーションだ。
 戒を受け入れても、ネガティブな妄想を止めることができても、ダンマ的発想に転換されても、徳を積んでも、苦しかった人生の現場は一変する。
 土壇場での反射的な反応は、どうか?
 

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10月20日 ★人を愛することも信頼することもできずに苦しむ人も多い。
 自分を愛することが苦手で、自信がなく、その反動で傲慢になり、家に帰れば落ち込むのを繰り返す。
 親子関係が悪かった過去への怒りがくすぶり、どんな事実も暗くネガティブな認知世界にまとめられてしまう。
 瞑想は救いになるのか・・。

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10月19日 ★ヴィパッサナー瞑想をすれば、誰でもあるがままに物が見えるようになるのだろうか?
 修行の成果は確実にあるだろう。
 だが、表層の心は変わりやすいが、深層の心は至難の業だと言わなければならない。
 自分の尻に火がつき、心に余裕がなくなれば、生来の資質がマル出しになる・・。

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10月18日 ★不義をした女は石で打ち殺せと、モーゼの律法に命じられている!・・と問われ、キリストが答える。
 「あなた方の中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」
 キリストはまるで「他人のしたことではなく、自分のしたこと、しなかったことを見よ」(ダンマパダ)と教えるブッダのようだ・・。

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10月17日 ★他人の悪や過ちを口汚く罵り、正義を振りかざす人は、黒くないのだろうか。
 自分に向けるべき怒りを他人の中に投影し、バッシングの激しさを増大させていないか。
 吝嗇な者ほど他人のケチを罵り、傲慢な者はふんぞり返った尊大な人を蹴っ飛ばしたくなり、狡猾な者はこすっからい者に容赦がない。
 他人を攻撃する怒りの激しさは、自己嫌悪のエネルギーに比例する・・。

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10月16日 ★「人を裁くな。自分が裁かれないためにである」と因果論を説くキリストは、どこかで仏教の修行をしていたのだろうか。
 人を責め裁く瞬間に出力されたカルマ通りに、今度は自分が責め裁かれるのだ。
 「あなたが人の過ちを赦したように、天の父(→業の法則)も、あなたを赦すだろう・・」と。

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10月15日 ★人を欺く時には気をつけても、自分をあざむく時には鈍感になる・・。
 人を傷つけ、攻撃し、貶める時には必ず、まことしやかな大義を言い立て、後ろめたさや罪悪感をカモフラージュする。
 激情を鎮め、思考モードを離れ、自分を客観視するために瞑想をすれば、後味の悪さが教えてくれる・・・。

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10月14日 ★人を傷つければ、自分の傷が癒されるのだろうか。
 犯人を死刑にしてやれば、死んだ我が子が生き返るのだろうか。
 人に苦を与えてやりたいという怒りと害意が、己の未来に新たな不善業を形成する。
 傷つき苦しむことによって帰結した因果と、消えていった不善業があったのに・・・。

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10月13日 ★瞑想の妨害要因である「五蓋」が一掃されると、借金が完済できたように、重病が快癒したように、牢獄から晴れて出獄できたように、奴隷の身を解放されたように、危険な旅から無事財宝を運び終えたように、身も心も安堵すると「沙門果経」は言う。
 阻むものが何もなくなった時、静かに、自然に、発露するサマーディ・・。

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10月12日 ★瞑想の5つの妨害要因が除去されると、サマーディに入れる可能性があると「沙門果経」には説かれる。
 ①貪欲+②悪意&怒り+③昏沈・睡眠+④散乱した心(掉挙)&後悔+⑤疑い、を「五蓋(ごがい)」と言う。
 価値のある何かを獲得するのではなく、マイナス要因が全て引き算された喜び・・。

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10月11日 ★切断状態だったインターネットにやっと繋がった。嬉しい!
 やれやれ病気がついに完治したよ、良かった!
 借金が完済でき、万歳だ!
 誤解が解け仲直りでき最高!
 でも、いったい何を獲得したのだろう?
 ただ元のフリダシに戻っただけではないか。
 それなら今、普通に暮らしているこのままで、最高に幸福ではないのか!?

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10月10日 ★ボールがバットの真っ芯に当たれば確実にヒットが打てるし、ズレれば凡打になる。
 理想の飛距離や弾道は、当たった瞬間のバットの角度や位置によって力学的に決定している。
 そのように、瞑想も技術的な正確さで習練するのが望ましい。
 瞑想の基本技術が甘くなってはいないか・・。

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10月9日 ★自分に好都合な発想や解釈から自由な人は稀だ・・。
 ネガティブな人も、貪欲な人も、愚かな人も、幼稚な人も・・・。

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10月8日 ★幼少期に甘やかされ、自己中心性が条件づけられた。
 強烈な集中力は、頑固さや執念深さと同根だ。
 物的証拠も、物理的事実の解釈の仕方によって異なった論証があり得る。
 苦しい過去があれば、怒りや攻撃性や復讐心に結びつきやすい。
 原爆も水爆も、不安と怯えの妄想の所産だった・・。

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10月7日 ★一度思い込んだら絶対に諦めず、どんな現実を突きつけられても頑固に初志貫徹する・・。
 世紀の大発明をするか、病的なストーカーになるか、紙一重だ。
 論理的に分析するが、我執が強く、人の意見を聞かず自説を譲らない。
 物証に基づく科学者が、なぜ思い込みの強い超エゴイストなのかの謎・・。

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10月6日 ★1年に最低2回は長期のリトリートに入る心づもりでいたが、それどころではない。
 最大の残務である「ヴィパッサナー瞑想大全」の編集とリライトの仕事が膨大にあり、これを完成しなければ修行に専念することはできない。
 20余年の集大成と心得て専念しつつも、定番の仕事もやらなければならない。
 瞑想とダンマの情報発信を、在家の煩い、とか俗務とは呼びたくないが、・・執筆の合間に瞑想を繰り返す日々・・。

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10月5日 ★妄想を共有する力は、人類に比類なき集団形成能力を与え、祭りを、文化を、都市を、宗教を創造する力の源になった。
 その同じ力が、在りもしないものを信じ込み、愚劣なものを崇拝し、デマに扇動され、戦争に出陣する、諸悪の根源ともなった。
 妄想と事実を峻別する瞑想の必然性!

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10月4日 ★自分の弱さを認めてしまえば、慢が弱められ、誰にでも頭が下げられるし、どんな程度の低い人からも教えを乞うことができる。
 人と比べて得られる自信は、いつ崩れるかわからない。
 本当に自信のある人は、能力が高くても低くても、ありのままにその状態を受け入れて自己完結している・・・。

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10月3日 ★「苦境から救ってあげたのに、裏切られ恩を仇で返された。人助けなどもうやらない」と言う人もいる。
 因果論を心得ている人は、そうは考えない。
 人を救った善業も作られたが、裏切られた不善業の帰結もあっただけだ。
 同一人物の所業とまとめず、個々別々の事象をありのままに視る瞑想・・・。

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10月2日 ★心ない加害者はヘラヘラ笑ってやがて業の報いを受けるだけだが、後悔し自分を責め続けてしまう者もいる。
 起きるべくして起き、なるべくしてそうなったことは、仕方がないのだ。
 因果の帰結したとおり、静かに、ありのままに心に納め、これから生起してくる事象にサティを入れ腹をくくる・・。

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10月1日 ★風評被害に遭った人なら誰でも、世の人々の脳内イメージが事実とどれほどかけ離れているか痛感されていることだろう。
 だがそこにこそ、ヴィパッサナー瞑想の核心部がある。
 風評の実害は、それを被るだけの不善業があったのだから甘んじて受け切るしかない。
 真実とは何か・・のかけがえのない学びを得たのだから、身をもってその代価を支払ったのだと考える。

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9月30日 ★八王子の裏庭に出没した狸にも、320万年前の人類の祖先アウストラロピテクスにも正月はなかった。
 「正月」という概念で、その瞬間の世界を観ないからだ。
 クリスマスだ、七五三だ、と共同幻想に反応し喜怒哀楽の業を作り、自分達の妄想を否定する者と戦争しながら死んでいく「人生」・・。

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9月29日 ★他人には窺いしれない当人だけのリアルな感覚と経験情報がある。
 第三者ならではの客観的視座もある。
 当人には思いもよらない発想が提示され、自己中心性が指摘される。
 そのエゴ性を自ら脱却できたなら、片手落ちだった両者が合体した状態になる。
 その統合が、ヴィパッサナー瞑想・・。

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9月28日 ★たとえ自分自身のことであっても、エゴの心は、不都合な事実を反射的に否定し隠そうとする。
 事実と異なる認知世界を信じ込めば「抑圧」となり、エゴが本心をダマそうとする自己欺瞞になる。
 どこかに矛盾や疑念や強引さがあれば、何となく後味が悪くスッキリしないものだ。
 本心を直視する覚悟・・。

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9月27日 ★かけがえのないものを失った・・と嘆いてはならない。
 縁あって天が与えてくれたものを、天にお返ししただけではないか。
 「私のモノ(我所執)」など、最初から何ひとつなかったのだ。
 失うものが何もなくなれば怖れがなくなり、「所有」の執着から解放されていくことを喜ぶ・・。

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9月26日 ★「世の中は泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ・・」とブッダは言う。
 この世とは、エゴの自分がそのように認識しているだけのパパンチャだからだ。
 認知された概念の世界に、法としての実体はない。
 虚妄なる「この世」に執着し、苦しむのは止めよ・・とブッダは言う。

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9月25日 ★名誉を求め、尊敬を求め、賞賛を、「いいね!」を求める欲求は捨てがたい。
 だが、いったい誰の評価を求めているのだろう。
 この世に存在する人間の数だけ異なった認識と解釈とエゴワールドが出現してしまうのだ。
 「如実智見」にはほど遠い、デタラメな想いの世界で判断された毀誉褒貶に左右され、支配され、一喜一憂するくだらなさと虚しさ・・。
 己の無明を心得て、名誉も汚辱も、賞賛も罵倒も・・虚妄と知り、捨の心を養っていく。

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9月24日 ★もし本当に嫌だったら、現状を否定するのではなく、あるべき姿、理想の未来を強く願い、その状態を肯定すべきである。
 起きてしまったこと、こぼれてしまったミルク、ハメられ陥ってしまった苦境を嘆き、悲しみ、嫌悪する「過去形」&「否定形」を、「これから、何を、どうするか」の未来形に切り換える。
 何事も、望めばそうなっていくのがこの世だ・・。

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9月23日 ★挫折の経験、欺かれた経験、裏切られ、失墜し、転落し、蔑まれ、見下され、打ちのめされた経験・・。
 ネガティブな体験は、素晴らしい。
 人の裏が見え、本性が見え、実態が見える。
 人の優しさが見え、カルマの法則が見え、真実が見えてくる。
 失意のどん底での負の経験は、宝の山・・。

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9月22日 ★苦しい人生であっても、肯定しなければならない。
 否定する心があれば、嫌悪があり、怒りの煩悩が出力され、未来が悪くなるからだ。
 輝くために、偉大になるために、苦の力をお借りしているのだと考える。
 苦しかったこれまでを受け入れ、肯定することができれば、未来は必ず光り輝く・・。

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9月21日 ★果実を見れば、どんな樹木か分かる。
 子供を見れば、どんな親か推測がつく。
 弟子を見れば、師匠の程度が知られる。
 日々出会っている周囲の人間を見れば、自分が映し出されている・・・。

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9月20日 ★倫理的な生き方に関する「戒」の修行は、普遍的な宗教に共通して説かれている。
 殺すな、盗むな、欺くな、邪淫するな・・等々。
 仏教以外の教えであっても、悪を避け善をなす修行に資するなら活用してよいのではないか。
 若い頃、イエスの言行から多くを学び、「戒の修行」の一環にしていた・・。

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9月19日 ★「神の御業なくして、雀が一羽、地に落ちることもない」とイエスは言う。
 「神の御業」を「因縁因果」と言い換えれば、仏教の言葉のようだ。
 「神」=「現象世界の法則性」と理解すると、聖書が身近に読めてくる。
 パパンチャ(概念世界)を形成しない狸は、落ちていく雀をどう見ているのか・・。

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9月18日 ★「自分で復讐をしないで、神の怒りに任せなさい」とイエスは言う。
 「神の怒り」を「業の帰結」と言い換えると、まるで隠れ仏教徒のようだ。
 イエスは言う。
 「誰に対しても悪をもって悪に報いず、全ての人に対して善を図りなさい。
 悪に負けてはいけない。善をもって悪に勝ちなさい」

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9月17日 ★残酷な人、えげつない人、愚かな人、狡猾な人・・に出会ってしまうのは、こちらの不徳のなせる業である。
 苦受を受けたことによって消えていった不善業がある。
 その同じ不善業を新たに作った相手もいた。
 悪業のババを引いて汚れ役をしてくれた相手に、心から感謝し「悲」の瞑想をする・・・。

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9月16日 ★ある時、ブッダを口汚く罵ったバラモンに向かって、仏はこう問われた。
 「お前の招いた客が饗応を受けなかったら、 残された食事は誰のものか?」
 「私のものとなる」
 「そのように、お前の悪態を私は受け取らない。
 お前が悪態を吐いた瞬間の怒りと悪意は、すべてお前のもとに帰っていくであろう」

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9月15日 ★人を貶めてやろう、傷つけ、破壊してやろう、と悪口を言いまくる者に向かって言い返してはならない、とブッダは教えている。
 言い返せば、自分も相手と同じレベルになり、同じ不善業を作るだけだ。
 何を言われようが、どう思われようが、黙って耐え忍べばよい。
 「忍耐は最上の苦行である」とブッダは言う・・・。

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9月14日 ★どんなひどいことをされても、卑劣なことを言われても、報復する思想は仏教にはない。
 必ず業の報いを受けるからだ。
 ひどい目に遭うのは、ひどいことをしてきたからだ。
 悪口を言った者は悪口を言われ、嘲笑しハヤし立てた者はあざ笑われるだろう。
 果てしない業のババ抜きから解脱する・・。

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9月13日 ★なぜ、そんなネガティブな歪んだ受け止め方しかできないのだろう・・と首をかしげたくなる暗い認知の仕方をする人もいる。
 心に入った事実が、一瞬にして脳内に暗い概念ワールド(パパンチャ)を拡げていくのだ。
 なぜ、なんの根拠もなくそんな風に楽観的でいられるのか、不思議な認知世界に住んでいる人もいる。
 事実ではなくパパンチャの世界を共有し合える者同士が群れ、対立し、ほとばしらせたエネルギーが意味もなく事象を変化させ展開させていく世界・・。
 ありのままにこの世の真実を観て、ふたたび再生してくるに値する世界なのか否か検証せよ、とヴィパッサナー瞑想はうながしている・・・。

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9月12日 ★1Day合宿の内容はいつも素晴らしく、終了すると充実感と達成感に包まれる。
 ヴィパッサナー瞑想には、人の生き方に影響を与え、人生の流れまで変えていく力があることを多くの方が検証してくれている。
 たった一日でも合宿効果が絶大なのは、順番が良いからだろう。
 仏教と瞑想の知識が入る。
 初心者がマスターすべき瞑想の基本技術が習得される。
 実践を徹底し、さらに瞑想を深めていく流れでの1Day合宿は理想的な展開と言える。
 数日前から心の準備をし、体調を整えて臨めば、たった一日が何日分もの効果に実を結んでいく・・。

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9月11日 ★賞賛であれ侮辱であれ、作為的に並べられた事実の断片をいくら「あるがままに」観ても、事の全容にも真相にもたどりつけない。
 さらに「・・に違いない」「・・のはずだ」が織り込まれてくると、法と概念(事実と妄想)の混同は深刻になる。
 公平に呈示された事実を「あるがままに」観る瞑想。

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9月10日 ★情報の一元化は、カルトの教祖が神格化させる時の常套手段だ。
 粉飾された一方的な情報以外シャットアウトしてしまえば、光り輝くカリスマが出現する。
 一方、人を貶めてやろう、傷つけてやろうという悪意と怒りで語られた情報しか耳に入らなければ、汚れた極悪人のイメージが浮上する・・。

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9月9日 ★ネガティブな未来予測も、楽観的な見通しも、デタラメな妄想世界も、あるがままの真実も、破壊も創造も・・、それぞれ無駄なことをし、必要な役割を果たしながら、一切皆苦の現象世界を無常に展開させている・・。
 この世はそんなところでしかなく、留まりたければとどまるし、出て行きたくなったら修行する・・・。

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9月8日 ★苦しい辛い過去に耐えてきた人が、ものごとをネガティブに悲観的に捉えがちなのは当然のことだ。
 おっとりと天然ボケに育ってきた人が、困った時には必ず誰かが助けてくれるとノン気に楽天的に構えているのも自然な流れだ。
 同じ日に同じ体験を共有しても、別世界が認識されていく・・。
 来し方が違うのだから、経験をまとめ上げる認知の仕方が異なるのは当たり前ではないか。
 人は事実ではなく、エゴが編集した認知ワールドを生きていく・・。

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9月7日 ★蛙の顔に雨滴が当たっても、牛のオシッコが飛んできても、ただの「触れた」に過ぎない。
 「虫を食べた後、しばし春雨に打たれていた」とか「子牛のガキに侮辱された」などと認識してはいない。
 人が生きるとは、一瞬一瞬の出来事を自分好みの妄想でまとめ上げた物語を心に作っていくことだ・・・。

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9月6日 ★世間の賞賛も罵倒も根本的に真実ではない、という直観があった。
 長じて原始仏教を学び、それは「パパンチャ」のことだったと覚った。
 眼耳鼻舌身の対象に触れた瞬間、心に拡がっていく概念ワールドの虚しさ、世間虚仮、唯仏是真。
 如来はパパンチャを離れた者である、という定義を目指す。

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9月5日 ★生徒会長になった途端に、教師も生徒も周囲の大人達も私を見る目が変わった。
 時が経つにつれ、さらに紋切り型の偶像化されたイメージが独り歩きしていくのにショックを受けた。
 神格化された英雄やアイドルも、袋叩きにされているスケープゴートも、嘘っぱちの世間に嫌気が差し始めた端緒だった・・。

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9月4日 ★生き残ろう、幸福になろう・・と、死に物狂いで転がり落ちていく無明の悲しさ・・。
 やられたら復讐し、食うか食われるかなので敵を殲滅するまで叩きのめす。
 勝ったと思い、束の間の幻を見るが、叩いた者は叩かれ、ムシリ盗った物は必ず失われ、なぜそうなるのか解らないまま呆然と立ち尽くし、絶望に打ちひしがれる日の到来。
 業が帰結し、因果が巡る法則性を知らず、自らに対して仇のように振る舞い、奈落の底に堕ちていく人たち・・。

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9月3日 ★「その瞑想を止めろ。仏教を捨てろ。我らの神に祈れ。さもないとお前と家族の命はないぞ!」と脅迫されれば、ほとんどの人が瞑想も仏教も棄てるだろう。
 あるがままを観る真実よりも、集団を統一する共同幻想に従うのが人間だ。
 同調した方が幸福度が上がるなら、戦争も肯定するだろう・・。

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9月2日 ★東大安田講堂が炎上し、デモに行かざる者は人に非ずの時代、学生運動が最も盛んな大学のクラス全員が出陣すると決議したのに、ただ一人逆らった私はあわや殴られそうになったのだ。
 だがその孤立感も後年、社会から完全にドロップアウトし、水をかぶり瞑想するだけの孤独地獄の比ではなかった・・。

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9月1日 ★学園闘争絶頂期のある日、「お前は、なぜデモに行かないのだ!」と、過激な輩に吊し上げられた。
 中学と高校で生徒会長をしたが「政治的変革には限界がある。俺は、人間の内奥の真実を追求するために、この大学に来たのだ」と答えると、何もされずに立ち去ることができた。
 満場一致の中の孤独・・。

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8月31日 ★人は、独りで悪人になる勇気はないが、大勢では善人になる勇気を持てないという。
 独りならサティを入れ、あるがままに観ることができるだろう。
 だが、群れた瞑想者があるがままに観るのは難しい。
 集団の総意に影響されるからだ。
 魔女狩りも集団暴行も戦争も、必ず起きるだろう・・。

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8月30日 ★親というものは、悲しいものだ。
 全身全霊で子供を愛してきたのに、たった一度でも過ちを犯し子供を傷つけてしまえば、全てを否定され、恨まれ、絶対に赦さない・・などと言われてしまう。
 仕方がないことだ。
 自分もまさに同じことをしながら、人の親になってきたのだから・・。

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8月29日 ★かけがえのないものが失われれば、人生最大の悲しみとなり不幸となるだろう。
 しかし、壊れたものが、元に戻ることはない。
 起きたことは起きたこととして、プラス思考に転じていくしかないのだ。
 破壊があるから、新たな創造があるのだし、破壊を司る神もいるらしい。
 壊れれば、生まれる・・ 。

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8月28日 ★ダンゴ虫の見ている世界は、猫の世界とも幼稚園児や死刑囚が見ている世界とも異なる。
 誰もがエゴのまとめた世界を真実と言い張り、親子や兄弟姉妹の当事者同士ですら激しく憎しみ合い、カルマを悪くしながら死んでいく。
 世間虚仮の賞賛や侮蔑に反応する愚かさを心得、仏の真実を目指す・・。

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8月27日 ★カリスマも英雄もアイドルも、断片的な事実を素材に神格化妄想が作り出した虚像に過ぎない。
 稀代の極悪人列伝、火炙りにされた魔女達、ナチスやポル・ポトや紅衛兵に撲殺されていった民衆・・。
 サバンナの弱者が集団としてまとまって生き残るために編み出した「共同幻想」という求心力・・。

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8月26日 ★同じ事実を経験しているのに、宗教や価値観や人生観が異なるとまったく違う事実認識になってしまう。
 事実の流れを編集して、その人の認知のストーリーを作らないと訳がわからなくなるからだ。
 そんな妄想ワールドを「世間虚仮」と言い、概念化されない法としての真実世界を「唯仏是真」と言う。

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8月25日 ★「人が何をしたかではなく、自分が何をし、どう反応したかを見よ」とブッダに教えられる。
 「かけられた迷惑ではなく、自分がかけた迷惑を調べよ」と内観で指導される。
 だが、イザとなれば見事にぶっ飛んで、自分を棚に上げ人を批判しているのに愕然とするものだ。
 エゴの根は限りなく深い。

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8月24日 ★悪いのは相手であって自分は間違っていない、と怒ってばかりいればカルマが悪くなり、人生はますます苦しくなっていく。
 ネガティブな現状が何ひとつ変わらずとも、受容できれば怒りの煩悩は激減する。
 自分の非を認め、ネガティブなものをありのままに受け容れる修行が、懺悔の瞑想である。

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8月23日 ★懺悔の瞑想は、自責の念や自分自身を罰する鎖から解放されるためのものだ。
 非を認めて謝ってしまえば、自分を否定する心と、それをさらに否定し打ち消そうとする葛藤が終息するだろう。
 かくして、タイの森の中で心ゆくまで懺悔の瞑想をすると、妄想が激減し、心はシーンと静かになっていった・・。

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8月22日 ★いくら懺悔の瞑想をしたところで、やってしまったことがやらなかったことにはならない。
 裏切った私は裏切られ、悪口を言った私は悪口を言われ、離間語を語った私は大事な人間関係を破壊されるだろう・・。
 何事も我が身に相応しいものとして、心汚さず、淡々と受け容れていく覚悟のための懺悔。

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8月21日 ★マハーシ・サヤドウの直弟子だった師匠たちとの間に個人的な縁は皆無だったので、学ぶべきものを学べば去るのが当たり前だろう。
 しかるにソンポールは、師弟関係の域を超え、私一人のために特別な指導をしてくださったお方なのだ。
 それなのに、何ということを私はしていたのだろう。
 ・・泣いて、泣いて、泣いて赦しを乞い続け、懺悔の瞑想に没頭するしかなかった・・。

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8月20日 ★孤独な行者時代には、仕事もせず、どこにも帰属せず社会の一切と絶縁し、ただ独り水をかぶりながら瞑想するだけだった。
 命懸けの背水の陣ゆえに、自分の修行が進むことしか考えられなかった。
 後年、瞑想の指導的立場にたったとき、獲るものを取り学ぶものを学べば、さっさと消えていく人に多く出会うのも当然のことだった・・・。

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8月19日 ★身体に、心に、激しく苦受を受けた瞬間、過去に出力した己の不善業エネルギーが現象化して消えていったのだ。
 世に理不尽な出来事というものは存在せず、一切の事象は因果の帰結と受け止めなければならない。
 ただ苦しむだけの人生にも意味があると心得、ひたすら悪を避け、善をなしていくのみである。

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8月18日 ★恩師を裏切るような不善業を、私は作っていたのだ。
 いつの日か必ず、私は愛弟子に裏切られ、見捨てられ、置き去りにされるだろう。
 自分のやってきた通りのことが、未来の我が身に起きるのが因果の法則である。
 何が起きようと、黙って蒔いた種は刈り取る、と覚悟を定めておくしかない・・。

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8月17日 ★いったいソンポールが私に、どんな害悪を及ぼしたというのか。
 愛する息子を育むように、全てを教えてくれただけではないか。
 それが気に入らない、もう用はないと突然一方的に通告され、雨安居の途中で置き去りにされたのだ。
 ・・再び訪れたタイの森の中で、抑圧していた事実をありのままに思い出し、私はどうしようもない人でなしだった、と慟哭していた。

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8月16日 ★雨安居の3ヵ月間は移動禁止となるので、出家者は慎重にその年の雨安居の居を定めるのが通例である。
 瞑想指導に定評のあるソンポールは、他の寺の誘いを断って、ただ私一人の指導のために待っていてくれた。
 それなのに、2、3日滞在しただけで、私はミャンマーに出立すると一方的に告げて、師のソンポールを置き去りにしたのだ。
 全力で教えた愛弟子に裏切られ、背後からいきなり闇討ちされたように絶句していたソンポール。
 恩を仇で返された師の心を推し量ることを、私は拒んでいたことに気づいた。

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8月15日 ★アチャン・ナエブの瞑想法に活路を見出そうとして、その2番弟子とも称されたソンポールに、私が教えを乞うたのだ。
 これ以上はない最高の指導をしてくれたのだが、最終的に私はこのシステムを見限った。
 それならそれで、数々の恩愛に感謝の意を捧げ、丁重に礼を述べて去るのが人の道であろう。
 ところが、膨大な時間を虚しく費したと感じた私は、あろうことか、自分に向けるべき憤りを師にぶつけていた・・。

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8月14日 ★ソンポールから学ぶべきものを学び、タイでの修行に一区切りをつけた私はミャンマーに渡航しようとしていた。
 歳月が流れ、ソンポールとの別れの日を客観的に思い出すことができ、愕然とした。
 事実を抑圧していたのではなく、相手の立場に置き換えてみる共感を拒んでいたことに気づいたのだ。

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8月13日 ★カボラン寺の70人の比丘に瞑想を教えるほどの力ある尼さんが、不思議な因縁の流れで、私のために特別のマンツーマン指導をしてくださった。
 愛する息子のように、瞑想もアビダルマも修行者のマナーも何もかも教えてくれたのだ。
 その大恩ある師に対し、私はとんでもないことをしていた・・・。

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8月12日 ★タイの寺に入山すれば、タイで修行していた日々が驚くほど鮮明に浮かんでくる。
 矢のような連想の流れに一瞬ブレーキがかかるのは、ネガティブな情景や懐かしい人物が情動脳にスイッチを入れるからだ。
 お世話になったアチャン・ソンポールの笑顔が悲しそうな顔に変わった瞬間、心が翳った・・。
 懐かしいソンポールが想起されると、場面が変わり、顔が変わって、何度も何度も浮かぶようになった。

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8月11日 ★何年か前の夜、座禅中にゴキブリが部屋の隅に現れ様子を窺ってから、微動だにしない私の膝の下の影に隠れた。
 刺激反応系で生きているゴキブリには、「瞑想する人間」ではなく、ただの物体なのだと解った。
 人もまた「現実」を生きているのではない。
 自分の認知した世界を生きている・・・。

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8月10日 ★ボクサーのKO勝利シーンのみを編集しまとめた録画を観た人と、ノックアウト敗けした試合だけを観た人が、互いに自分の見た「事実」に基づいて議論したらどうなるだろうか・・。
 ある意図の下に、事実の一部のみが切り取られ編集された世界を眺めた者同士が、互いに明確な根拠を提示しながら自説を言い張るのだ。
 さらに思い込みが加わり、好き嫌いが強調され、価値観が、立場が、ネットの情報が、エゴが投影されてまとめられ、編集をかけられていく「事実」とは何か・・。

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8月9日 ★瞑想を教え、後から来る者のために情報発信する時間ばかりが増大し、修行時間が激減していく一方だった。
 久方ぶりにリトリート入りした1年前のタイの森林僧院で、意識の矢印が逆転していくのを感じた。
 この20余年、自分が完成したものや到達したもの、既に手にしているものを拠りどころに、胸を張って瞑想を教えていた。
 しかるに一介の修行者に戻ってみると、自分の欠点や弱点、程度の低さ、いまだ至り得ぬ未踏の領域ばかりに目が行き、その未熟さに打ちのめされていた・・。

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8月8日 ★修行が終わった翌日、アチャンが寺の周辺を案内してくれた。
 豊かなタイ人の家に托鉢に行く比丘もいるが、アチャンは極貧のカレン族の集落にしか行かない。
 布施を受けて徳を積ませてあげなければ、救われようがないとの慈悲心からだという。

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8月7日 ★寺の歴史を知り、腑に落ちるところがあった。
 ここはタイで最も貧しい山岳民族、カレン族が全て人の手だけで建立してきた寺だった。
 ただの山の斜面を切り開き、整地し、信仰の山に創り上げてきたのだという。
 貧しさゆえに、機械的動力など使うべくもなく、何もかも人の手で、膨大なのべ人数が動員され、多くの歳月と多大なエネルギーを要して作られていった。
 燃えるような心で一丸となった人々の暗黙の波動が寺の全域に響き渡っていたのだ・・。
 魑魅魍魎など跋扈しようがないではないか。

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8月6日 ★猥雑な紅灯の巷や嬌声の飛び交う歓楽街の一角で瞑想したいと思う人はいないだろう。
 だが、山には物の怪や魑魅魍魎が跋扈する「気」の悪い未開な地も多く、強烈に妨害されて瞑想どころではなくなることも珍しくない。
 1年前のタイの森林僧院では、スリランカの寺のように結界を作ることさらな儀礼的営みもないのに、なぜか、ひっそりと静かさが守られ、一度も邪気を感じることなく瞑想できるのが不思議だった。

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8月5日 ★それだけの儀礼的な営みが毎日繰り返され、比丘衆の力が結集して聖域が作られ、日々守られているのだ。
 初めてスリランカの山頂の僧院で瞑想をした時に、自分の努力とは無縁な、強力な力に引き上げられるかのように瞑想が進んでいく不思議さに驚嘆したことがあった。
 その目に見えない力強いエネルギーを実感したときに、聖地というものの存在が確証されたように思った・・・。

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8月4日 ★スリランカの森林僧院では、車座になった比丘全員が一本のタコ糸を手に回し持ち、朝に晩に読経がなされ、中央に置かれた何本ものペットボトルの水に経の響きが浸み透っていく。
 読経の響きに震え続けたタコ糸は、翌朝、寺の周囲一帯に張り巡らされ、担当の比丘が経を唱えながら聖なる波動の込もったペットボトルの水を辺りに撒いて結界を作り、凶々しい邪悪なものの侵入を遠ざけていた・・・。

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8月3日 ★風水や地勢、土地の「気」が絶妙に整った、神が鎮座するかのような自然発生的な聖地がある。
 命懸けの山岳修行者達の系譜によって形成された聖地もある。
 みだりに深い森に入れば魑魅魍魎の類から霊的干渉を受けることもあり、未浄化な俗界に対し結界を設けて聖域を守る努力が払われるものだ。

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8月2日 ★「キンキエッー、キンキエッー、キンキエッー」「クワッ、キィーエ、クワッ、キィーエ」「ルルルルルルルッ、ルオッルオッルオッルオッルオー、ルルルルルルルッ、ルオッルオッルオッルオッルオー」
 かつて聞いたこともない鳥の囀りの合間に、風がそよぎ、樹立ちの葉群を揺らし、もの凄い朝陽が樹間の隅々に差し込んでくる。
 見たこともない陰影と木洩れ陽に透き通る鮮やかな葉の緑が圧倒的な美しさで、存在の無意味さと命の虚しさを黙示していた・・・。

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8月1日 ★早朝から真夜中に至るまで、さまざまな鳥の囀りがシンフォニーのようだった。
 低音で木霊するように「オットー、オットー」「ルルルルル、ルルルルル・・・」「ウッポポポポポポポッ、ウッポポポポポポポッ・・」
 素速い運指でピッコロが奏でられるように「ルリ、ルリ、ルリ、ピラピラピラ、ピピピッ、ピラピラリ・・」「イッピッ、イッピッ、イッピッ、ヒョーイ、ヒョーイ、ヒョーイ、ピリッ、ピリッピリッピリッ、ピピピッ、ピピビー」
 鮮明な音色が透明に響き渡っていく様は、天界の極楽浄土で囀ると言われる迦陵頻伽もかくばかりか・・と、自然の豊かさと存在のおぞましさにみなぎり満ち渡っていた・・・。

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7月31日 ★長らく憧れながら果たせなかった修行の日々が到来し、華麗なる孤独に充足していた。
 煩わしい人の世界を離れることは素晴らしい。
 人の心も世俗の構造も自分なりに見るべきものは見たと感じられ、これ以上人の営む世界に興味はない。
 人生の第4コーナーをいかに走り切るかが最後のタスクとなった年齢なのに、修行意欲もエネルギーもみなぎっているめぐり合わせの良さに、なんと感謝を捧げるべきか・・・。

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7月30日 ★タイ北部の森林僧院で瞑想に没頭する日々を送っていたのは、1年前の夏だった。
 長い人生でも、あれほど孤独に徹したリトリートは稀有なことだった。
 面接もダンマトークも共同の作務も何もなく、終日人の姿を見ることも、気配を感じることすらなかった。
 昔から大好きだった樹々の緑がこれほど深い森の中の、温かく見守られている寺の一角で、絶対的な孤独の日々を送れる幸せが現実のものになろうとは・・。
 外界から意識に届いてくるのは、森の葉群を渡る風の音と木洩れ陽と多種多様な鳥の囀りだけだった・・。

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7月29日 ★粒子でもあり波でもあるという二重性を説明するのに、『量子論』の提唱者デヴィッド・ボームは「群盲象を評す」の喩えを使った。
 盲人の方々は、象の足を触った者も、尾や鼻を触った者も、誰も自分自身が直接体験した事実を嘘偽りなく伝えているのだ。
 「自分の体験も信じるな」と言うべきか。

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7月28日 ★「カーラーマ経」の要点。
 風説を信じるな。
 伝承を信じるな。
 又聞きや評判を信じるな。
 聖典でも信じるな。
 理論だけで信じるな。
 公理や哲学でも信じるな。
 常識や伝統でも信じるな。
 熟考した自説に合致しても信じるな。
 賢者の言葉でも信じるな。
 わが師や僧であっても信じるな・・。

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7月27日 ★対象の丸ごと全体を「ありのままに」捉えられるのは、無我の境地に達した人だけかもしれない。
 われわれ凡夫は、エゴの視点で歪めた情報を記憶の鍋でごった煮し、その汁を分け合ってお喋りをしている。
 デマ・伝言ゲーム・扇動演説が共有されると、魔女狩りや民族の大虐殺まで惹き起こす・・。

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7月26日 ★全ての記憶が失われてしまえば、自分の人生が消えてしまったのと同じだろう。
 自我を支えているのも記憶である。
 事実の一部だけを切り取って、エゴの思い込みで編集され歪められた記憶が、やがて脳内発酵し化け物のように姿を変えていく。
 それを拠り所にしている人生とは何だろう・・・。

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7月25日 ★土壇場になったときに本性が出る、のではない。
 ふだんの生きざまも本当だったし、非常時の咄嗟の反応もどちらも本当だったのだ。
 本能の命令と理性のコントロール、煩悩と智慧がしのぎを削り、葛藤しているのが人の心だ。
 どの瞬間も無量無数の因縁の結果であり、個々別々のことだ。

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7月24日 ★瞑想によって、心は変わるのだろうか。
 「変わる」とも「あまり変わらない」とも言える。
 表層の心は短期間にガラリと変わって周囲を驚かせもするが、深層になるほど頑強に初期設定を維持しようとする。
 「瞑想は人生全体」と心得て、総力戦で取り組む覚悟があれば、希望はある・・・。

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7月23日 ★サティの瞑想をすれば、一瞬一瞬マインドフルによく気をつけることができるようになる。
 悪い反応を即座に見送ることも、抑止することもできる。
 だが、そもそも自らに苦を与える愚かな反応をしない心になるには、この世の仕組みを心得て、因果の法則を腹に落とし込まなければならない・・。

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7月22日 ★怒らず嫌わず、ネガティブな反応に気をつければ安泰なのだろうか。
 そうはいかないようだ。
 やっと素晴らしい幸福な状態が到来したのに、「いつでも喜んで手放します」とは言えないからだ。
 しがみつき執着する渇愛の心が、やがて壊れて失われていくものに激しく苦しむ因となる構造・・・。

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7月21日 ★なぜブッダは「存在の世界はドゥッカ(苦)である」と説かれたのだろう。
 人は必ず苦の種をバラまき続けてしまうからだ。
 わが身を守ろうとして切った怒りのカードが、未来の自分を呪う毒矢となる構造。
 苦しい人生を回避するには、今の一瞬に気づく訓練と、因果の法則を腹に叩き込むことだ。

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7月20日 ★嫌なことが起き、苦を受けた瞬間、反射的に怒りが相手や対象に向けられるものだが、その瞬間、悪いカルマが新たに作られたことに気づかない人が多い。
 本当は「苦受」を感じたまさにその瞬間、過去の不善業が消え、負債返しができたのに・・。
 嫌悪した瞬間、未来の自分に毒矢を放っている・・

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7月19日 ★本能の命令を上位からコントロールする脳が搭載されて以来、人類は「やっちゃえ」と「止めろ」の矛盾した命令に引き裂かれることになった。
 常に利己的な衝動を自覚し、どう反応するか即座に意志決定しなければならない。
 行動指針となる倫理的規範(戒)と、一瞬一瞬の気づき(サティ)の瞑想!

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7月18日 ★瞑想が広く世界的なブームになったのは、「集中」と「気づき」に特化して「戒」(倫理&道徳性)を外したからだろう。
 エゴは常に倫理を嫌うが、「戒・定・慧」に則った正統派の瞑想こそ実践されるべきではないか。
 個体間では利己的な者が勝利するが、利他性を重んじた集団の方が繁栄する・・・。

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7月17日 ★集中型の瞑想がストレスに効果的なのは脳科学で立証されている。
 その集中力がない人でも、一瞬一瞬に気づく訓練で雑念モードを離れ、安らかになれる。
 マインドフルネス系の瞑想がブームになった所以だ。
 そうした全てを包含する巨大な智慧のシステムが、ヴィパッサナー瞑想という原点・・。

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7月16日 ★瞑想が世界的ブームになり、日本でもテレビで何度も紹介され、瞑想する人たちが急速に増えている。
 火付け役になった気づき系のマインドフルネスもさまざまな集中型瞑想も、源流をたどるとヴィパッサナー瞑想の巨大システムに由来する。
 あらゆる瞑想の母胎になってきたヴィパッサナー瞑想・・。

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7月15日 ★10人の部下に基本方針を説明している顔、子供とご飯を食べている顔、妻の文句を黙って聞いている顔、通勤電車で思わずムカついた顔、習い始めた瞑想の先生に質問する顔・・。
 どの瞬間も本気の人生であり、本当の自分だったのだ。
 一瞬の顔なのに、それがその人の全てであり、全体だと錯覚する・・。
 法としては存在しない「エゴ」が妄想である所以・・。

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7月14日 ★事実が、人を苦しめるのではない。
 事実をネガティブな体験として受け止めた瞬間の「認知」で苦しむのだ。
 脳内に形成された印象に反応し、人は舞い上がり、悲嘆に暮れる。
 「認知」と「認知」が激突し、言い争い、差別し、排斥し、戦争し、ドゥッカ(苦)の生存を繰り返してきた・・。

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7月13日 ★事実をありのままに如実智見できないのは、「考える力」を持ったからだとも言える。
 概念を形成する力、事実を記号化し情報としてやり取りする力が、人類の妄想する能力を完成させた。
 在るものが無視され、ありもしないものに苦しむ歴史が始まった。
 認知システムの構造的欠陥である「無明」・・・。

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7月12日 ★嘘や捏造の誤情報を検証もせずに信じきってしまう第1の「無明」がある。
 偽造ではないが、情報全体を客観的に提示せず、事実を部分的に繋ぎ合わせ片寄った編集がかけられると、真実とはほど遠い姿が浮かび上がる。
 エゴの立場から事実を都合よく編集し、全体像を歪ませる作為的なものの見方や解釈のプロセスで発生する第2の「無明」がある。
 如実智見を導くのは、「サティ」+「智慧」+「非エゴ性」+「悪意の欠如」である。

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7月11日 ★実在する物のイメージが鮮明に、極めてリアルに浮かぶのだから、法(事実)と概念(妄想)が混同される「無明」が起きやすいのも当然だろう。
 それゆえに実在する物に「見た」とサティを入れ、閃いた瞬間「解った!」とサティを入れ、「良いサティが入った」とサティを入れ、全ての印象、全ての経験を対象化しながら「客観視」を維持していくのがヴィパッサナー瞑想である。
 これが「如実智見」と言われるものだ・・。

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7月10日 ★ヴィパッサナー瞑想では、徹頭徹尾「現在の瞬間の事実」にサティを入れ、客観視しようとする。
 なぜだろうか。
 厳密な事実確認が苦をなくすための技法だからである。
 ありもしないものを在ると錯覚し、リアルな現実と妄想世界を取り違えてしまう「痴」の心や「無明」の心。
 そこからあらゆる悪がなされ、不善業が作られ、人生の苦しみが始まっていくからである・・。

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7月9日 ★サマタ瞑想の究極であるサマーディとは、瞑想者と瞑想対象とが一つに融け合い、もはや事実なのかイメージなのか判別がつかないほどの生々しいリアル感に没入することだ。
 サマーディに没入すれば、「神を体験した」「宇宙と一つになった」など、外在する事象と妄想世界が混同されるのは常態である。
 では、ヴィパッサナー瞑想はどうだろう・・。

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7月8日 ★問題が2つある。
 脳内で生まれた考え事のイメージも、外界の物理的存在が知覚された瞬間も、どちらも同じ脳神経細胞の発火と興奮に過ぎないこと。
 もう一つは、集中が高まりサマーディ状態に近づくと、脳内イメージが外界に存在しているかのように極めてリアルな現実感を帯びてくること・・・。

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7月7日 ★原始経典には神霊や悪魔や鬼霊が頻出し、そのものズバリ「神々との対話」や「悪魔との対話」という名の経典もある。
 果たして外界に実在するのか、脳内イメージに過ぎないのか。
 ニュートリノ検出装置のようなもので物証が得られない限り、外在なのか妄想なのかを科学的に検証することは難しい。
 となると、不確定要素は残るものの、知覚した瞬間の印象で見極めるしかない。

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7月6日 ★瞑想に影響を及ぼす要因が5つある。
 ①瞑想の知識と情報、
 ②心の状態、
 ③体調、
 ④周囲の物理的環境、
 ⑤土地の気やスピリチュアルな超感覚的環境。
 鈍感な人でも瞑想が進み心が澄みきってくると、⑤への感受性が高まってくる。
 集中型のサマタ瞑想はことのほか環境に左右されやすい・・。

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7月5日 ★深い森の中ではヤッカ(鬼霊)や餓鬼(ペータ)などの霊的干渉が時にあるので、仏像をお借りして祀った。
 ただ優しいだけの慈悲系の仏よりも、凛とした厳しさを湛えたこの仏に魅了された。
 黙して語らぬ仏の前で祈り、ひたすら座り、歩き、喫茶の瞑想をし、食事の瞑想をした1ヶ月だった。

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7月4日 ★誰からも見捨てられ見向きもされない孤独地獄に陥れば、ヘトヘトになって自滅していくのが人間である。
 独房の監禁同然の私を常に見守ってくれている二人のお方に支えられたリトリートだった。
 これ以上はない配慮をしてくださったアチャンと、四六時中私の修行を黙って見ていた漆黒のブッダ・・・・。

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7月3日 ★良好すぎる関係は、時に愛着や執着を生むかもしれない。
 積極的な関係性が求められると言うよりも、ネガティブな感覚を心から一掃しなければならないのだ。
 居場所のない不安定感は、心に葛藤を生む。
 他人から拒まれ否定され、自分で自分を責めたり嫌悪している状態では、瞑想の深い仕事はできないだろう・・。

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7月2日 ★夜も更けてからこの寺にたどり着き、与えられたクーティに入ると、ピカピカに掃除され、茶器や蜂蜜、綿棒等々がさりげなく用意されていた。
 その特別な配慮に、自分がどれだけ温かく迎えられているかが伝わってきた。
 自分はここにいて良いし大切にされているという安心感が、瞑想三昧の華麗なまでの孤独を支えているのだ。

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7月1日 ★母親に愛され守られている子供が安心して独りで遊べるように、慈父のごときアチャンの存在が森の中の孤独を華麗なものにしていた。
 寺を貫いているのは慈悲の波動である。
 男女関係や家族の愛に特有のベタついた濃密さが濾し取られ、互いに清潔な距離感を失うことのない淡交の世界・・・。

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6月30日 ★この寺の食事は最悪、学ぶべき瞑想法も指導者もいないのに最高の修行場と感じられたのは「華麗なる孤独」が得られたからだ。
 広大な敷地に常住するのは8名の比丘と私だけ、アチャンの完璧な気配りとかつての愛弟子の暗黙の配慮ゆえに、恐ろしいほど孤独なのに温かく見守られている安心感があった。

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6月29日 ★森の中でわが身を守り、ただ食べて生存するだけで、どれほど膨大なエネルギーを消費しなければならないだろう。
 それが孤独というものだ。
 誰かに支えられていればこそ、瞑想が続けられ、自分に向き合う「華麗なる孤独」が成り立っている。
 網戸のあるクーティに住し、日々温かい食事が届けられる。修行が全うされるように、見守ってくれている方々の存在がある・・。

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6月28日 ★この寺の最大の魅力は完全に隔離された孤独が保証されていることだったが、一度だけ隣の無人クーティにふらりと若い比丘がやって来た。
 人の気配がすれば、情況が把握されるまでの束の間、意識が外界に奪われる。
 自分自身と徹底的に向き合うためには、「孤独」でなければならない所以である。

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6月27日 ★存在の本質を洞察した瞬間の衝撃が、心の深部で煩悩の構造を瓦解させていく。
 こうした方向に悟りの智慧が向かうには、混沌とした現状を分析し、他の何物にも還元できない「自性」を見極めていく具体的なラベリング(マハーシ式)が有効である。
 自分の中に生存を良しとして喜ぶ心が残存するのかを見極め、その正体をつまびらかにするのに、一本化や「全捨て」の撤退型のサティは適さないということ。

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6月26日 ★遺伝情報と潜在意識の刷り込みと自覚的な意志がきれいに一本化されるのは稀有なことだ。
 生存を欲する心がわずかでも残れば再生が起きてしまい、輪廻転生が続いてしまうと説かれる。
 存在の世界を出ようとする意志が、細胞の末端にまで及んでいないことの証しだろう・・。
 まだ残されていた矛盾・・。

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6月25日 ★「(唇が器に)触れた」のサティはただのニュートラルな接触感だったが、次に、口唇が暖かい珈琲の液体面と接触した瞬間の「触れた」には快感系の印象が微かに伴っていた。
 生存の維持に益するものと結ばれ、対象と繋がるのを喜んでいるように感じられたのだ。
 反射的なその反応に、裏切られたような違和感を覚えた。
 この世に咎を見て、存在の世界を解脱することを目指してきたのではないのか・・。
 存在の持続に終止符を打つために、絶対的な孤独と向き合っているのに、矛盾する方向に心が反応したことに微かな衝撃を覚えた・・。

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6月24日 ★その日、これ以上はあり得ない丁寧さで喫茶の瞑想をしていた。
 「(唇がカップに)触れた」とラベリングし、次に「(珈琲の液体を口に)含んだ」とサティが入るのが通例なのに、なぜかこの時は「(唇と舌の先端が珈琲の液体表面に)触れた」とラベリングされた。
 その瞬間、心に触れるものがあった・・。

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6月23日 ★終日修行をしていると意識状態も行動も変化するので、時に六門確認、時にマハーシの具体的ラベリングを使い分けることになる。
 具体的なマハーシ・システムのラベリングは、ぼんやりした意識をキビキビと目覚めさせ、あるがままの自分自身の実状と現象世界の本質理解へとうながす力があるだろう・・。

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6月22日 ★夜空に乱射される打上げ花火のような断片的記憶の合間に、懐かしき人達が浮上し亡き母の顔も去来するが、 今は全て夢のまた夢だ。
 この何億もの印象の集積が完全に初期化されたら、私の人生は「全捨て」されるだろう。
 「どうせ死ぬんじゃないか・・」というリフレインが過り、また過っていく・・・。

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6月21日 ★なぜこんな記憶が・・!
 60年間一度も思い出さなかったような過去の断片が浮上してくるのは衝撃的だった。
 デタラメに氾濫する雑念のようだが、木立を渡る風の音やその印象から次の印象へと必然の力で展開していく一貫した法則性がある。
 「対想起ニューロン」の連想の仕組みと、心に刻み付けられた印象の度合い、こだわりや執われの有無、生命としての本能的反射など、さまざまな要因が展開させている脳内現象を他人事のように見物していた・・。

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6月20日 ★情報の断絶した孤独が極まっていったとき、何が起きただろう?
 それはさしずめ人生の総集編とも言うべき記憶情報の氾濫だった。
 昔から法随観が得意だった私は、定力が高まってくると1秒間に10個ぐらいのサティが入り、意識の流れが鮮明に対象化されてくる。
 忘却の闇の底から浮上し、燦然と輝きながら躍動する過ぎ去った人生・・。

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6月19日 ★近辺のクーティは全て無人、蚊が異常に多かったので外に出ることはほとんどなく、まさに独房状態の1ヶ月だった。
 8畳ほどの居室に小さな寝室とバスルームの付いた空間に自ら監禁され、新規情報が完全に断ち切られた孤独に心底から感動していた日々・・。

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6月18日 ★今回ほど「情報断食」が徹底したリトリートはなかった。
 インターネットとメールから完全に遮断され、テレビもラジオもダンマトークも一冊の本を開くこともない1ヶ月だった。
 外界から意識に届く情報は、独房の窓外の千変万化する緑(眼)、圧倒的な鳥の囀りと木立を渡っていく風の音(耳)、室内に立ち込める線香と熱帯の草いきれに突然降り注ぐ時雨の臭気(鼻)、茶&食事の香り(舌)、風や水や陽射しが肌に触れた瞬間と、あらゆる動作のたびごとに感じられる体感(身)だけだった・・。

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6月17日 ★一挙手一投足の経験を逐一言語化して認識確定するラベリング。
 そのラベリングを一つの言葉に一本化する。ノーラベリングにする。
 一切の事象は六門の刺激に過ぎない・・と繰り返し繰り返し叩き込む六門確認のラベリング。
 さらに、対象と意識が接触する瞬間のパッサー(触)そのものにサティを集約させる・・。
 ラベリングが変化するたびに、この世界を認識する角度が一変する驚き。
 修行システムの力によって認識革命をうながし、存在の世界を超越する究極に向かっていく感銘・・。

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6月16日 ★一瞬一瞬変化していくセンセーションの流れに「離れた」「進んだ」「触れた」・・とラベリングした瞬間、まさに足指が床から離れた経験が認識され、その足が一歩前進した経験が意識に照り映えてくる。
 足が離れたのが先で、進んだのが後、と「時」が前後に際断される。
 認知された世界を出現させるラベリングの威力!

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6月15日 ★妄想を完全に排除してノーラベリングのサティを続けていると、経験の意味が剥奪されるだけではなく、恐ろしいほどリアルなセンセーションが延々と切れ目なく連続していくだけの異様な世界になっていく・・。
 言葉を持たない動物の経験世界が想像される。
 生々しい実感だけが続くカオス状態!

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6月14日 ★ラベリング無しではサティそのものが甘くなり、心の現象を随観することも至難の業となる。
 一瞬一瞬の経験をラベリングする修練が自己客観視の原点である。
 そのラベリングを随念系の言葉で一本化すると、感じる力と観察する力が格段に上がり、サティそのものが高速化し始めるのに驚くだろう。

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6月13日 ★初心者がヴィパッサナー瞑想の基本を習得するのに、マハーシ・システムは最良の一つだが、限界もある。
 その瞬間の自らの経験をどう認識したか・・。
 そのラベリングが具体的行為に特化し、現象世界を説明する傾向なのだ。
 本質理解には最適だが、そこからの解脱に意識が転換されにくい・・・。

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6月12日 ★六門確認のサティを入れながら、繁華な都心の雑踏を歩いた。
 世俗の極みとも言うべき猥雑な世界なのに、タイの森林僧院とまったく同じ修行感覚になった。
 眼耳鼻舌身意の情報内容に入らなければ、俗悪なものも聖なるものも同じ「捨」の心で見送られてしまう。
 法としての存在をかけ離れた妄想と概念の世界で、人は苦しむ!

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6月11日 ★森林僧院での1ヶ月間、もう自分には帰るべきところがどこにもない、と感じていた。
 本を書くのも、瞑想を教えるのも、新しい知識を得るのも・・もう、この世でやりたいことは何もないのだと。
 だが、この世を捨て比丘になっても、在家信者がクーティを訪ねてくれば、その供養を受け、返礼の経を唱えなければならない。
 托鉢や膨大な戒律を守るのは制約でもあり、煩雑な宗教儀礼等々何かをやらなければならない。
 在家には在家の苦があり、寺には寺の苦があり、生存が続く限りドゥッカ(苦)がある・・。

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6月10日 ★上座仏教の比丘集団には比類ない美しさがある。
 エゴ感覚の希薄さである。
 それは、寺の全員が227にも及ぶ「律」を厳守していることに由来する。
 俺はこうしたい、いや自分はこうやりたい・・などと我執を言い立てる余地はないのだ。
 自己中心性を削ぎ落とされた集団が、互いに慈悲の瞑想をしながら、在家の人々に支えられ、またその手本となって、静々と日を送っている美しさ・・・。

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6月9日 ★あれを食べたい、これは食べられない、など小うるさいことは言わず、与えられたものだけで満足するのが比丘の本来である。
 修行最優先のアチャンの配慮で瞑想に専念できたが、「食事は瞑想の基盤。ヨーガや断食で体調を整えるべきだ」等々、瞑想の自由研究をやりたがる私のような者は出家に向いていない。

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6月8日 ★菜食主義が理に叶っているのは、豊富な豆類、乳製品、スパイスが摂取されるからだ。
 ところがこの寺では、肉も魚も卵も乳製品も動物性の蛋白質が皆無の上に、豆類も1週間に1~2回しか出ない。
 栄養学の常識が無視された異常な食事だった。
 過敏に反応する私の体には、即効で悪影響が現れてしまった・・。

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6月7日 ★過酷な環境の森林僧院が多い中、今回の寺は最も修行しやすい申し分のない修行場だった。
 だが食事が私の体にはまったく合わず、栄養が偏り、火傷の水泡のような吹き出物が全身30ヶ所以上に出て苦しみ抜いた。
 特別の食事を配慮していただき修行を続けたが、この寺で比丘の生活をするのは到底無理だと判明した。

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6月6日 ★もうこの世のどこにも帰るべきところはなく、留まるべきところもない、と痛感した1ヶ月だった。
 この世に私の居場所はなく、俗でいることも僧になることもできない寄る辺なさの中で、現象世界の全捨てを目指していた。 
 なぜ、至福の日々を過ごしたこの寺に出家して留まることができなかったのか・・。

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6月5日 ★タイ北部に位置する森林の寺を去り、帰国した。
 法話も面接も無い、完全に孤独な修行に徹しきったこの1ヶ月は人生最高の日々だった・・。
 「少年の顔に戻ってますね」とアチャンに言われたが、こんなにも私は修行が好きだったのだ。
 修行楽しい!と叫びたくなる至福の季節が、今は砕け散った!

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6月4日 ★これが最後のツイートになる。
 次の情報発信は1ヶ月後になるだろう。
 去る者日々に疎し・・と言う。
 沈黙する者は忘れ去られ、出離する者は消え去っていく・・・。

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6月3日 ★飛行機が日本の地上から離陸した瞬間、瞑想とダンマの普及に人生を捧げてきたこの20年が完全に過去形になっていくのに衝撃を受けた。
 体が光り輝くような不思議な感覚に貫かれ、強い落涙感に襲われた。
 すべてが夢まぼろしだった爽やかな虚しさと、神々に祝福され開かれていく印象があった。

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6月2日 ★メールとインターネットから完全に切断される喜び・・。
 もう間もなくだ。
 何事か表現しようと、意志表示する意識モードになることが、サティの瞑想の妨げになるのだ。
 ただ自分に向き合い、自らの中に顕わになってくるダンマに向き合っていく修行が始まろうとしている・・・。

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6月1日 ★毎日1本ツイッターに原稿を上げる原則だったが、表現というものは意識の矢印を外界に向ける営みである。
 修行に入れば、当然のことながら他者に向け外界に向けての情報発信は止める。
 自分以外の外界に向けられていた仕事モードの眼差しが、ひたすら自らを視る瞑想モードに切り替わっていく静かな喜び・・・。

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5月31日 ★悪いことをして苦い現象に叩かれ、善いことをしてその徳の結果である楽受を味わう。
 どんな苦楽の現象が起きようが起きまいが、結局何もかも無常に変滅していく業の世界は、もうウンザリだ。
 家族を持たなかった。
 親の介護は終わった。
 書くべき本も書いた。
 盲点になっていた<瞑想指導への執着>も手放された今、タイへ旅立つ・・・。

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5月30日 ★ヴィパッサナー瞑想の極意は、サティを入れ続け一切の情報を対象化する潔さである。
 眼耳鼻舌身意に飛び込んでくる刺激を、概念でまとめ上げる誘惑に耐え抜けるか。
 技術的に完全なサティが持続すれば、「捨」(ウッペカー)の心が機能し、ほぼ理想的な状態が続くかもしれない。
 だが、最後は、この世を本気で全捨てする「無執着」の心の有無だ・・・。

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5月29日 ★それ相応の知識と経験があれば、人に依らず、自分で自分への瞑想インストラクションができるだろう。
 瞑想に人生を捧げてきた私の最高の宝は、のべ1万人になるだろう方々の貴重な瞑想修行現場を共にしてきた経験則である。
 千差万別の瞑想者が体を張って実証していく瞑想理論と生のデータという至宝!

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5月28日 ★最後の指導を仰ごうと決めていたスリランカの先生の訃報に接したのは何年前だったか。
 今では寺との連絡も完全に途絶え、消息は杳として不明となった。
 のみならず、外国での修行再開は絶望的と諦め、この10余年、英語もまったく喋らなくなっていた。
 日本語で事が足りるタイの森林僧院を選んだ所以でもある。

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5月27日 ★7月から8月下旬にかけて、タイの森林僧院で1ヶ月の修行に入る。
 尊敬すべき清僧のアチャンの下で、たった独りのリトリートの許可が得られた。
 最後はスリランカ・システムと決めていたが、因縁の流れで今回はタイで修行をする。
 「ヴィパッサナー瞑想大全」を完成させてから・・とも思ったが、修行優先を貫く・・。

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5月26日 ★「こんな苦しみに遭遇し嫌な思いをするのも、結局自分の不善業の結果なのだ」と頭では理解できるが、感情の脳は納得していない。
 込み上がる怒りを爆発させてしまうのも無理からぬことだ。
 だが、身を正して座り、真の瞑想モードに入ることができれば、その瞬間、怒りが雲散霧消するのに驚くだろう。
 怒りの妄想を断ち切る瞑想の力・・・。

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5月25日 ★本家の祖父母に愛された私の幼少期は、徒歩数分の本家で毎日従兄弟たちと遊び、ご飯を食べ、我が家が2つあるかのようだった。
 15歳から寮生活を始め、春・夏・冬休みに寮から実家に帰ると、別世界に変わった。
 思えば人生の最初期から、心のスイッチを切り換え、ガラリと視座を一変させる感覚は、体の奥深くまで組み込まれてきた・・・。

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5月24日 ★物の見方や発想の転換が自在にできれば、人生苦は激減する、と長年説いてきた。
 私にそれができているとしたら、「生活空間の二重性」が要因かもしれない。
 生活拠点が下館(道場)と日暮里(事務所)にあり、人間関係、仕事、生活環境等、多面的に視座の切り換えが日々訓練されている幸運・・・。

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5月23日 ★100人いれば100通りの認識世界がある。
 スキーマ(経験や知識の集合・認知の枠組み・物の見方の土台)が千差万別だからだ。
 事象を経験する瞬間に情報が歪むのは、欲望もコンプレックスも叶えたい夢も・・エゴのフィルターが人さまざまだからだ。
 「私」の認識している世界と、人の認知している世界との、越えがたい、暗く深い溝・・・。

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5月22日 ★人生のスタートから親に愛されはしたが苦しかった幼少期、その反動の退廃的青春のドン底で苦が極まった頃が第2コーナー。
 そこから一直線に修行者の日々を駆け抜け、第3コーナーで天から与えられた瞑想指導に命を懸け、第4コーナーを曲がった今、ゆくりなくも自身の修行の完成に身を投じていく流れとなった不可思議・・・。

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5月21日 ★指導者を辞め修行者に戻る宣言をしてから最初の朝日カルチャー講座を受けた方に言われた。
 「私が受講してからの5年間、昨日の先生のお姿が最もエネルギッシュであり、言葉が最も鋭く迫ってきた印象を受けました」
 毎回「これが最後」の覚悟で臨んでいる・・・。

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5月20日 ★グリーンヒル発足当時から20年間、歳下の私を師に瞑想を続けてこられた年配の方がいる。
 持病で足元がふらつき、体力も気力も日増しに衰えていくなか、最後まで修行をやり抜こうとされていた。
 その尊い姿を繰り返し目撃したことが、今こそ私は、残余の命を修行に懸けるべきだと決心させたと言える。

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5月19日 ★健康状態は極めて良好、体力も気力も意欲もエネルギーがみなぎっている。
 瞑想指導の知識や経験は今がピークかもしれない。
 だが、今なら若い頃同様、どんな過酷な森林僧院での修行にも耐えられるだろう。
 2つの道を前にして、かたじけなくも修行者の道へと導いてくれた因縁と自らの意志!

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5月18日 ★関東では瞑想指導を受けられる可能性が残ったが、関西の瞑想者の方々にはお詫びのしようがない。
 自分達を置き去りにし、どこかへ旅立っていく親の後姿を見つめながら、呆然と立ち尽くす幼子の姿が連想される。
 死に別れなら悲しみだけだが、遺棄されての生き別れとは・・・。

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5月17日 ★瞑想の基本を教える朝日カルチャー講座と、マンツーマン指導で完全に体得する1Day合宿。
 その合宿の参加資格を取得する「初心者講習」が、3ヶ月に一度の朝カル初回のみになってしまい、あまりにも狭き門となってしまった。
 そこで考案されたのが、「初心者のための瞑想基本技術講習会」だった。
 手前味噌になるが、「歩く瞑想」+「座る瞑想」+「立つ瞑想」+「超スロー歩行瞑想」+「慈悲の瞑想」を一日で習得できる濃密な瞑想会となり、当初の予想を超えた優れもののプログラムとなった。

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5月16日 ★元来、引き受けたことは最高のものに仕上げたくなる、完全主義の傾向があった。
 こと瞑想やダンマの仕事になれば、全身全霊を注ぐのは昔も今も変わらない。
 これからも全力投球で瞑想を教えるだろう。
 だが、自分の修行の完成が第一義となり、私は修行者に戻ったという宣言・・・。

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5月15日 ★1年に何度か外国の寺で修行に入る予定だが、極度の集中も高いテンションの維持も長くは続けられない。
 疲弊しきったら、リトリートを終え帰国するだろう。
 日本での瞑想指導は当面、「朝日カルチャー講座」とそれを補完する「1Day合宿」と「初心者のための瞑想基本技術講習会」だけにする。
 何かを得るためには、何かを失わなければならない・・・。

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5月14日 ★目下のところ、外国での出家は考えていない。
 戒律と経典の学びや行事、儀礼が多い寺の生活をしたいのではない。
 修行を極める瞑想に専念したいのだ。
 いきなり瞑想指導を全廃してしまうのは信義にもとるだろうと心得ている。
 当面、日本と外国を往来しながら、森林僧院での修行に命を懸ける最終章にしたい・・・。

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5月13日 ★及ばずながら、瞑想の指導に全てを捧げてきた20年だった。
 もうこの辺でよいだろう。
 どうせいずれは死んでいく身ではないか。
 始まりがあったものには終わりがあり、いずれ別離の日は必ず来るのだ。
 人生の第4コーナーに差し掛かった今、私は修行者に戻ろうと思う・・・。

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5月12日 ★30歳で修行を始めた時、絶対に口舌の徒にだけはならないと心に決めていた。
 経典やダンマを学ぶのは「聖なる修行の完成」のためであり、実践に不可欠だからだった。
 私が教えることに関わったのは、瞑想修行のやり方に特化していた。
 その修行をする時間が激減していった指導者という矛盾・・・。

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5月11日 ★心の汚れに目を光らせ、ありのままに気づいて除染と浄化に徹する修行者。
 あるべき姿や方向性を示すためにダンマを説く指導者のタスク。
 考察と表現に腐心し、概念の嵐に巻き込まれていく情報発信。
 直接知覚される法としての事実に気づき、思考でまとめ上げる世界を手放す修行現場。
 引き裂かれていく矛盾とディレンマ・・・。

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5月10日 ★後進の方々の修行を助ける善行の集積が、やがて私自身のゴールに導いてくれる波羅蜜になるだろう。
 年期が明けるまでは、自身の修行と「恩返し」の二足のわらじでいくしかない。
 瞑想を教え始めて最初の5年間は、ミャンマーやスリランカで長期の修行に入ることができた。
 その修行者のわらじがいつしか消え、ほぼ指導者のわらじだけになっていた・・・。

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5月9日 ★自分から望んだことは一度もなかったのだが、頼まれるままに講座や瞑想会の数が増え、合宿も引き受けることになり、原稿の執筆も増えていく一方となった。
 それに比例して、自分自身の修行時間は右肩下がりに減少の一途をたどり始めた。
 修行者と指導者のジレンマに苛まれていくことになった。

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5月8日 ★スリランカの森林僧院で強く出家を勧められ、飛びつきたかったが、修行時代を支えてくれた方々に何の恩返しもせず、このままこの世を捨てることはできないと感じていた。
 頼りにされ乞われるままに瞑想を教え、本も書き、人も育った今、及ばずながら私の責務は果たせたのではないだろうか・・・。

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5月7日 ★瞑想を教えることになったのは、朝日カルチャーCtr.から講座を依頼されたからだった。
 なぜ私のような無名の修行者に声がかかったのか、まったくもって謎だった。
 奇しくも、タイでの長期修行から帰国した翌日のことだった。
 以来、流れに従って瞑想指導を続け、20余年の歳月が流れた・・・。

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5月6日 ★NHKでも民放でも、ストレス対処法の切り札として瞑想が普通に紹介される時代となった。
 ヴィパッサナー瞑想から派生した「マインドフルネス」が世界的に実践されるようになり、そのトレンドが日本でも広がり始めたのだろう。
 20余年前、瞑想の普及を旨として教え始めた当初の目標が達成されたかのような気がした・・。

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5月5日 ★一瞬一瞬推移していく「現実」というものは、常に不満足なものへと劣化していく。
 新鮮だったものがたちまち古臭く感じられ、変化と新しさを求めて、また夢と理想を追い求めたくなるのだ。
 ネガティブな事柄として知覚された瞬間に心の中で打ち消され、あるべき姿が妄想されている。
 否定的に認識された「あるがままの事実」が、一瞬にして理想イメージと混同されていく「痴」の構造・・・。

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5月4日 ★生きていくことは、自分に与えられ期待されている役割を演じていくことだ。
 男らしく、女らしく、「制服」のイメージ通りのあるべき姿を全うしなければならない・・等々。
 「**なんだから、**らしくしなさい!」と幼い頃から、あるがままの自分ではダメだと教えられてきた者たちが、苦しんだあげくにサティの瞑想にたどり着く・・・。

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5月3日 ★ひとつ一つ丁寧に納得しながら、二度と同じ幻想が甦らぬよう、確実にトドメを刺さなければならない煩悩もある。
 執着が深くなっていったのには背景があり、そのような来歴だったのだから、手放すのにコストも時間もかかるだろう。
 ・・だが、最後は、現象世界を全捨てにする一瞬が結晶するか・・だ。

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5月2日 ★失敗も成功も、それはただ、諸々の因果が帰結していくプロセスに過ぎず、しょせん一時的な状態でしかない。
 失敗すれば反省し、成功すれば傲慢になりがちだが、傲慢の末路である転落と失意のどん底が人生最大の転機にもなっていく・・。
 苦楽も、得失も、成否も、捨の心で等価に見ていくサティの瞑想!

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5月1日 ★自分の放った意志が業を形成し、やがて現象世界を左右する事象の流れを形成していくことになる。
 事が成就するか否かは、その瞬間のささやかな自分の意志に加えて、無量無数の諸力が働いた総合的な結果である。
 初志貫徹すべき判断もあり、無謀さを自覚し潔く諦める流れもある・・・。

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3月21日 ★継続する力は揺るぎない決意から生まれ、決意は正しい理解から生じる。
 理解は情報と体験による検証、つまり修行によって支えられている。
 修行を継続する力は、モチベーションを高める情報の更新にある・・・。

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3月19日 ★心が変わるとは、脳神経細胞の新しいネットワークが脳回路として安定化していくことだ。
 集中と強度と繰り返しによって定番化されるが、時の経過が必要だ。
 誤作動もある。
 反動もある。
 緊急時や非常時など条件が変わればブッ飛んでしまうだろう。
 修行を続けなければならない・・・。

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3月18日 ★人の意志が関わろうが関わるまいが、無量無数無辺の現象が日々生じて滅していく。
 その瞬間、眼前の事象をどう認知したかによって、次の瞬間の反応と行動が決定されていく。
 折れやすい心も、それまでしがみついてきた「認知」が変更されれば、逆境をハネ返す強靭な心に変わり、再起力が生じる・・・。

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3月15日 ★それまでの状態に執着があれば、破壊は最大の苦痛と悲しみをもたらすだろう。
 だが、何もかも全てが同じ状態を保っていれば、新しいものは何も生まれてはこない。
 破壊は無常の本質であり、再生の原動力ではないか。
 再起力(レジリエンス)は、破壊を受け容れる瞬間にある・・・。

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3月14日 ★マインドレスな天然ボケ状態でも、二度と悪しき言動も暗愚な発想もしなくなれば・・・。
 忌まわしいトラウマも毒親への憤りも完全に消滅し、赦すことができれば・・・。
 むしろ、それこそが自分を成長させてくれた宝物だった、と心底から納得し感謝できれば・・人生最大の勝利ではないか。

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3月13日 ★最近作られたパターンは心の表層に、三つ子の魂は奥の院に保存されている。
 正しく組み込んだ修正プログラムを練習すれば、心も態度も生き方も変わるだろう。
 奥の院に刷り込まれたパターンは、上書きしても容易に消えないようだ。
 死ぬまでに完全削除ができれば、成功した人生といえる・・。

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2月23日 ★修行をすれば人の心は変わっていくが、一筋縄ではいかない。
 簡単に変わった心は、あっさり元に戻ってしまう。
 よく分かっているのに、イザとなると初期設定で反応してしまう。
 「刷り込み」や生得の「タイプ」を乗り超える仕事は、絶望せず、遠大な計画でやり遂げていくしかない・・。

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2月22日 ★何もしなければ、エゴの視座から編集された世界が自然に認識されていく。
 サティを入れても、ネガティブな考えの人と智慧ある人の最終的認知は微妙に異なってしまう。
 たとえダンマ的に正しく認識された事実も、一瞬後には過去形になり、現象も意味も異なった世界に変容し 始めている・・・。

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2月21日 ★他人のことなら冷静に分析し正確に捉えられるのに、なぜ自分のことになると見えなくなるのだろう。
 自分もこれでなかなか大したものだ、と自画自賛にのめり込む瞬間。
 自分は最低の虫ケラ以下だ、と自虐モードに入る瞬間。
 妄想で肥大した自己像に呑み込まれていくのに気づけない悲しさ・・。

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2月4日 ★体の一部が病んでいれば、人の気分や意志決定までもが左右されてしまう。
 一方、心が揺るぎなく定まっていれば、病気も体調不良も消えたかのようになる。
 脳は末端に命令を発しているが、その末端からの情報が脳の最終判断をうながしている。
 自ら作った集団エゴに支配される個人のエゴ・・。

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2月3日 ★脚光を浴び万雷の喝采に酔いしれる一瞬のために、歯を食いしばりガンバってきたのだろう。
 家族や裏方や諸力に支えられたお陰さまでその瞬間があったことに思いは至らず、「俺様妄想」でまとめられていく。
 諸法無我の理が心底腹に落ちるのは、敗因を分析し、懺悔の瞑想をする時かもしれない。

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1月23日 ★決意は強い意志のことであり、意志(チェータナー)は「行(サンカーラ)」となって業を形成していく。
 やっぱり、心も性格も変わらない・・と諦めれば、そう命じられたかのように全てが現状のままとなるだろう。
 人の心は、緩やかにしか変わらない。
 失意から再び立ち上がらせる決意の力・・。

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1月19日 ★たとえ概念の嵐に巻き込まれボロボロの状態であっても、サティを入れようとする気持ちがある限り、 修行の時間は続いているのだ。
 どんな意識モードも無常に変滅していくし、悪い状態も良い状態も崩れる瞬間が訪れる。
 サティを入れようと意欲し続けてきた者には、浄らかな心が接続するだろう。

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1月15日 ★自己中心的な振る舞いに歯止めがきかず、人生が苦しくなって瞑想に着手したはずなのに・・・。
 渇愛や執着が強ければ、対象にのめり込み、俯瞰や鳥瞰の視座が取れなくなる。
 入らないサティをそれでも入れようと、絶望的な努力を続けていくうちに、やがて突破口が開かれてくる・・・。

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1月12日 ★瞑想中に雑念が浮かんできたら、その内容に食いつかず「考えた」「妄想」とラベリングして見送ればよい。
 さらに、自分の心をより高い視座から俯瞰する余裕があれば、どんな妄想がどんな風に現れて消えていくかの消息が客観視されるだろう。
 雑念が生滅する背景に、自分の本心が見え隠れする・・・。

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1月4日 ★そもそも、煩悩の世界に浸って本当に幸せになれるか否かを検証してみよう・・という発想だった。
 それに際し、五戒だけは絶対に守ると制約を定めたのも素晴らしい。
 瞑想ブームに敏感に反応している若い世代の中に、本物の瞑想者が育ち始めていると考えたい。

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1月2日 ★欲望を無理に抑えていることに気づいた若者が、煩悩の世界を試したくなった。
   バイトで金を貯め、高価な家具を買ったりグルメをしてみたが、すぐに色褪せる 達成感や愉悦感にはキリがなく、脳内が汚染される感覚が残ったという。
 清々しさと静けさの価値を検証し、瞑想会に帰ってきた・・。

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1月1日 ★一人でも出来ていた瞑想が、調子が崩れると、失墜する。
 そんな時は、情報の力、場の力、環境の力、人の力を借りなければならない。
 素晴らしいものを知る。
 よいお手本を眼に焼き付ける。
 ダンマに帰属し、共に支え合っている安心感・・。



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