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今日の一言 (バックナンバー) '2010年1~12月

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12/31(金) もう何年も前のことだが、合宿が始まる前日、上京した母と駅から徒歩6~7分のレストランで待ち合わせをした。
 母は、何を勘ちがいしたか、西へ向かうべき駅前の大通りを北へ向かって歩き出してしまった。
 行けども行けども目的地のレストランは現れない。
 困って、家路を急ぐサラリーマン風の人に道を訊ねた。
 すると、「自宅がすぐそこだから、ちょっとお待ちください」と言って、なんと鞄を家に置くや、自家用車に母を同乗させて私の待つレストランまで母を送り届けてくれたのだという。
 それなりに善行を重ねた母の徳の力なのか、人の善意に自然にスイッチを入れてしまう母の純朴さなのか……。

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12/30(木) 末っ子だった母は、優しい姉たちや両親から可愛がられ、愛されてきた。
 そのせいか、人の好意や優しさを受け取る態度が自然で、素直で、悪びれたところがない。
 してもらって当然という傲慢さや尊大さは、微塵もない。 
 甘えたり、媚びたり、直球で要求したりすることも、まったくない。
 なよなよしていたり、か弱い感じがするわけではないのだが、なんとなくしてあげたくなる雰囲気があるのか、見知らぬ人から思いがけない好意や親切をいただいた逸話も少なくない。
 何ごとも経験が豊富か乏しいかで上手と下手、プロとアマの差異が生じるように、やさしく愛されてきた経験が多ければ、水が流れるような自然さでやさしさを受け取ることができるのだろうか……。

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12/29(水) 尿で汚れた下着を、庭のバケツですすぎ洗いをしてから洗濯機に入れる。
 汚れたものを洗うために、手はあるのだ。
 サティを入れて一切の妄想を止めれば、淡々と確認されていくただの動作にしか過ぎない。
 お望みなら敢えて思考やイメージを浮かべてみれば、心が即座に反応するのがわかるだろう。
 自分の心を最も深く傷つけた宿敵のだったら……。
 幼いわが子のだったら……。
 便で汚れた父のオムツを毎日換えていたことに比べれば……。

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12/28(火) 心の清浄道にとっては、ネガティブな煩悩反応で心が汚れるのか汚れないのかが問題だ。
 心がきれいになっていくのであれば、サティが入ってもよいし、入らなくてもよい。 
 なぜ、何のために、サティを入れるのか……?

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12/27(月) 布団を干さなくてはと母の寝室に入ると、本棚の端に下着が丸められているのに気づいた。
 尿失禁をした後の処理をどうしてよいのかわからず、置いたものらしい。
 洗濯機の中に入れるか、屑カゴに捨てるか、そんな判断もできなくなっている……と絶望的な気持ちになる向きもあるだろう。
 だが私は、小鳥や犬などが生活用具を思いがけないところに運んで置いたままになっているのを発見したような可愛らしさを感じた。
 現象は常に、ただありのままに起きているだけであり、それをどのように受け止め、どのような印象が心に形成されていのくか……。

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12/26(日) 記憶と認知に深刻な障害が生じる認知症を、「痴呆」と同一視する人も少なくない。
 智慧を重んじる仏教の立場からも、認知症という病は致命的な疾患にも見える。
 『あのスーパーウーマンだった母が……!』と、昔の面影を重ね合わせていた時には、母が壊れていく…という焦慮に駆られていた。
 しかし、母と同居を始めてから、現在の母とかつての母を比較するのをきっぱりと止めたのだ。
 たとえどのような状態になろうとも、私の母をしてきてくれたお方ではないか。
 ただ、ありのままに、一瞬一瞬の母の全てを受け容れていった時、母の可愛らしさが輝いて見えてきた……。

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12/25(土) 黙ってただそこにいるだけなのに、なんとなく優しいおだやかな感じがするのは、怒りの少ない人に共通の特徴だろう。
 何を話しかけても母が否定語を使うことはなく、必ず「そうだね」と肯定の言葉から始まる。
 情緒が安定してきた昨今では、不安や恐怖や怯えなどの内向性の怒りの心もまったく見られない。
 認知症になってからは特に、黙っていても、話していても、いつの間にかこちらが癒されていることに気づいて驚く。
 人に好かれ、愛されるには、「対象を嫌う心」を一掃していくことではないか……。

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12/24(金) 若い母親が赤ちゃんを守ろうとするように、どんな時にでも無意識に母を護ろうとしている自分にも気づいた。
 いつ転倒するかわからない足取りを見守り、髪を梳かし、爪を切り、腰を守るサポーターや衣服の着脱の介助をしていると、保護者的な感覚や親心を強く刺激される。
 また、素直におとなしくしてもらっている母の態度が、まるで童女のようなのだ。
 ただ老いただけであったなら、老衰した体の中にはこれまで通りのエゴを持った心が収まっているのだ
から、基本的に普通の成人と同じスタンスを取るだろう。
 母の認知症は、明らかに私と母との距離をよりいっそう縮めてくれたようである。

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12/23(木) 認知症になる前の従来の母よりも、認知症になってからの母の方がもっと好きになっている自分に気づいた。
 なぜなのだろうと考えた。
 決定的なのは、母のあまりの無防備さ、素直さ、計らいのなさ、赤ちゃんのような可愛らしさ……など、認知症がもたらしてくれた天然系の無我感覚のゆえである。
 エゴも我執も、左脳の思考プロセスから生じてくる証左と言えるのではないか……。

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12/22(水) 心身を患い病んだ人にとっては、健康状態への回帰こそが生きる目的そのものになる。
 その健康な体に恵まれ、人に迷惑をかけながら、自分のことしか眼中にない、最低の生き方をしている人々……。

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12/21(火) 「はい、お母さん!」と言いながら、百円ショップで購入したピンクのビニール・ボールを、居間の座椅子に座った母に投げる。
 すると、笑いながら両手で受け止め、投げ返す。
 繰り返しているうちに笑顔が普通の顔にもどってくる。
 「では、大きい声で! あ・え・い・お・う・あ・お!」
 口筋が衰え日増しにロレツが悪くなっていくのを阻止するために日課にしている活舌のプログラムを加える。
 「あ・え・い・お・う・あ・お……」とレロレロの発音で必死に唱えながらボールを受け止める母。
 「はい、もう一度言いながら、投げ返して!」
 自分のレロレロの発音に大笑いしながらボールを投げ返す。
 「次は、か・け・き・こ・く・か・こ!」
 二人でゲラゲラ笑い続けながらのボール投げは、運動機能、反射神経、活舌との二重課題の処理など、脳活動は全体的に真っ赤に発火していることだろう。
 「荒城の月」やDSゲーム機など及びもつかない認知症リハビリ・プログラム……。

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12/20(月) 「お母さん、一番好きな音楽は何?」
 「そうだね……」
 「これは、どう? 一番好きかもよ」
 ピアノとバイオリンの演奏による「荒城の月」を母と一緒に聴いた。
 随所に変奏曲風のアレンジが施されており、別の楽曲と聴き違えてもおかしくはない。
 聴いたこともない新しい音楽に対しては興味索然となるはずなのだが、母は聴き入った。
 「荒城の月」のモチーフが現れ、新奇な別の曲と見紛う変奏の旋律が展開し、また「荒城の月」のモチーフが再現されて……と、ピアノにもバイオリンにも音楽的な新旧の情報が混在した音の流れにしばし聴き惚れ、終了すると「いいねえ……」と少女のように感情を込めて呟いた。
 歌舞音曲は八戒に触れ、出世間を目指す瞑想者のたしなむ世界ではないが、認知症という病にこんなアプローチもあろうか……。

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12/19(日) 新しいことが記憶できなければ、興味が失われていくのも無理からぬことだ。
 テレビも音楽も馴染みのないものにはボンヤリしてしまう母だが、一方、長期記憶に納められた遠い日の思い出にアクセスしていくと、急に脳が活性化してくる。
残存している旧い情報と、入力されてくる新しい情報とを上手く一つにつないで脳全体を賦活できないだろうか……。
今の一瞬を受け止めるとは、過去の情報群がスキーマとなって新奇なものを迎え撃つ体制なのだから。

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12/18(土) 苦から解脱するために設計された教えであり、システムである。
 苦があれば修行し、なければ遊ぶのも当然だろう。
 苦がどこにも見当たらず、完璧な幸福をひたすら満喫する日々だったなら、ブッダも王宮を後にはしな
かっただろう。
 苦の中にいて、苦が見えなくなる無明……。 

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12/17(金) 苦しい人生をなんとか乗り超えたくて、必死で戒を守り善行に励み、心の清浄道を目指して瞑想修行に専念してきたのだ。
 その甲斐あって、当面の苦しみから抜け出すことができ、やれやれと一息つける日が訪れるや、忘れていた煩悩の思考パターンがむらむらと甦ってくる。
 苦の泥沼から這い出した嬉しさで、隣の泥沼に転がり落ちていく……。

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12/16(木) 不可能が、人を酔わせる……。
 心に撃ち込まれた事実が、妄想のプロセスに入った瞬間から、嫌悪と怒りの純度が高くなる。
 どのような出来事を経験しようとも、あるのは、ただ苦楽の受だけなのだが……。

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12/15(水) なぜ、妄想は、切ないほど甘美なのだろう。
 見るだけ、聞くだけ、触れるだけ、味わうだけでは、けっして甘美さの極みに達することはないのだ。
 知覚した情報に想像力が働いて、妄想が関与した瞬間から、ただの現実に過ぎなかったものがキラキラと変貌し、甘く、美しく、切なく胸を締めつけてくる……。

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12/14(火) 苦しいほど腹いっぱい食べたのに、どことなく満たされないのだ。
 買ってきたものがそれほどでもなかったかな……と思った瞬間、もう別のものが欲しくなっている。
 憧れていた人なのに、いつでも一緒にいられるようになると、もっと凄い人がどこかにいるような気がしてくる。
 ああ、おいしい水が飲みたい……。

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12/13(月) 何が正しいのか。正しかったのか……。
本当に良い結果とは何なのか。
「人間万事、塞翁が馬」と言われるように、幸福と感じる一瞬も不幸と感じる瞬間も確かに存在はした
が、時が流れれば、全ての評価が一変してしまうではないか。
 サル知恵で判断した人生の禍福に一喜一憂しながら、新たな業を作り続けて、いつまで輪廻転生を繰り返していくのだろうか……。

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12/12(日) 泣いてもらわなければならない時もある。
 仕方がない。
 泣いてもらうしかないのだから、その痛みを忘れることなく、償うべきは必ず償っていく……。

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12/11(土) この世のことだ。
 壊れていくものもあれば、始まっていくものもある。
 事を自然に展開させていく力に従っていけばよい。
 法のみを拠りどころとし、たとえどのような強い力であっても、不善業の悪しき因縁には流されない。
 自分を捨て切って、なすべきことをなし、捨てるべきものを潔く手放していく……。

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12/10(金) 毎日、一瞬一瞬、何を選び、何を捨ててきたのか。
 何も変わらないように見えても、自分自身に自覚されなくても、心に降り積もっていくものがある。
 厖大な日々の印象の集積が、心の地層に折り重なって、人の心に意志決定をうながしていく。
 真(まこと)でも真似事でも、よい。 
 ただ、ひたすら、悪を避け、善をなし続けていく志……。

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12/9(木) 六門から流れ込んでくる情報が次々と脳内に転送されていくプロセスで、判断も評価もほぼ自動的に定まっているのだ。
 リレーのアンカーであるエゴの自覚にのぼった時には、ただ結論を通達されているだけに過ぎない。
 悪しき判断がくだされる脳内過程も、理のごとくにマナシカーラが働いて正しい判断がくだされる脳内過程も、過去のすべての経験と取り込まれてきた全情報とによって構築されている。
 どうやって浄らかにしていこうか……。 

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12/8(水) 生きとし生けるものが幸せであるようにと日々祈りを捧げるものの、命のいとなみであるがゆえに、餌食となるものも、嘆き苦しむものも、悲痛な叫びを上げるものも、けっして絶えることはない。
 そんな、生命の世界なのだ。
 一時の満足を得るものはいるが、完全な幸福が永続することはあり得ない世界に放り出されたのだから、達観できる心境をめざしていく……。

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12/7(火) 楽受に溺れず、苦受に呑み込まれないように、理法を心得て、一瞬一瞬の現状をありのままに気づいていく……。

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12/6(月) 苦労して積み重ねてきた徳のポイントを費して、幸運な出来事にめぐり合い楽受を得ているのだ。
 手放しで喜んでばかりもいられまい。 
 失敗し失意のどん底で学び得たことこそ、やがて、かけがえのない財産になっていくのも定番ではないか。
 ラッキーな出来事に出合おうが、凶々しい出来事に巻き込まれようが、どちらもただそれだけのことであって、淡々とあるがままに受け容れていくならば、何をか望もうか……。

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12/5(日) 六門から入ってくる情報は、どのように読み取られていっただろうか。
 どのような判断基軸が、心の中に設定されているのだろうか。
 遺伝情報、刷り込み、諸々の価値観のオーダーや優先順位……。
 夢があり、劣等感があり、衝動的な反応と理性的抑制があり、本音とタテマエのツジツマ合わせがある。
エゴの望みのままに意志決定がなされているのではない……。

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12/4(土) 過去に出力され、組み込まれた原因エネルギーによって、一瞬一瞬の情況は止まることなく展開していく。
 ものごとは必然の力で進行していくだろう。
 その流れに逆らうことなく、現れたもの、与えられたものをことごとく受け容れていこうか。
 それとも、新しいエネルギーを傾注し、たとえわずかであっても、情況の流れを望みの方向へ変えていこうか……。

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12/3(金) 乱れているなら、乱れるままに捨て置き、ただその状態にありのままに気づいていればよい。
 迷いがあり、想いが乱れている現状をしっかり眺めれば、必然の力で展開している事象の流れが視えてくるだろう。
 因果を正しく読み解くことができれば、問題は解決していく。

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12/2(木) エゴも、プライドも、究極の拠りどころとなる神も、思考のプロセスから生まれてくる概念であって、法として知覚される実体は存在しない。
 実体のない妄想が傷つけられ、踏みにじられ、冒涜された時、人は最も怒る……。
 「怒り」の煩悩が、思考から生まれてくる所以である。

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12/1(水) 絶対的な神と神とが擁立されて戦となった時、我が身を委ねた超越的な存在は各自の「スーパーエゴ」となって君臨する……。

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11/30(火) 神仏に我が身を捧げきる信仰に没入できれば、当然のことながら、エゴ感覚が立ち働く余地はなくなるだろう。
 その瞬間の仕事に爆発的なエネルギーを集約させ、我の力にあらざる威神力が発揮されて、自分の限界を越えたかのような印象となる。
 絶対的な存在に身を委ねきって迷いを払い、脳内環境を整えていく古来からの普遍的な方法である。

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11/29(月) たとえ短い時間であっても、イメージとイメージ、思念と思念とが連鎖し、つながり合う「思考モード」から来るアイデアなら、当てにはならない。
 答えを得るのに躍起になっていれば、エゴの期待する閃きが、思考のプロセスから巧妙に浮かび上がってくるだろう。
 厳密なサティの持続と法の直接知覚が、思考の知恵とは別次元の叡智をもたらす……。

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11/28(日) 行き詰まり、判断に迷ったなら、正しい答えが得られるように、自分自身の内奥に向かって祈るとよい。
 そして、一人になって、脚を組み、体の微細な感覚に耳を澄ませて、心が鎮まっていくのを待つ。
 体感の知覚に没入することができれば、やがて雑念が完全に姿を消し、静けさに包まれていくだろう。
 時を忘れ、淡々とサティを入れていくうちに、何かが、体の最深部からキラリと浮上してくる一瞬が訪れる。
 天の声として、それに従っていく……。

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11/27(土) 相手のマイナス部分は完全に無視して、ただ一方的に自分の非のみを見る。
 この極端なまでの不公平さが、とてつもなく身勝手な自己中心性を修正してくれる。
 自分を好きになれず、不当に自分をおとしめて苦しむタイプの人もいる。
 あるがままに物事が観えれば、そこまで過度に自罰的な傾向にはならないものだ。
 自己愛ゆえに、自分自身に目が眩んでしまう。
 エゴイスティックに傾くのも、自己嫌悪に傾くのも、我執の強さだと心得る。

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11/26(金) 非は自分にあることに納得がいき、傲慢の鼻がへし折られれば、少しは優しくなれるかもしれない。
 お世話になるばかりだったことを忘れ果て、どれほどの迷惑をかけてきたことか……。
 せめてもの償いに、身を捧げてなすべきことをなしていく……。

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11/25(木) だが、孤独と不安に耐えながらの脳トレに、どれほどの意味があるのか。
 愛する人も、信頼する人も、誰ひとり自分に向き合い、寄り添ってくれていなかったら、心も脳も委縮し、凍りつくだろう……。

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11/24(水) 機械音痴の母は、ビデオの予約はおろか携帯電話の操作も苦手で、ラジオのスイッチを切り忘れて電池を空費させてしまうこともしばしばだった。
 そんな母にDSの脳トレゲーム機など使えるわけがないと誰もが言ったが、諦めずにサポートしてなんとか教えることができた。
 一人暮らしの母に兆し始めた認知症の進行を食い止めようと必死だったからだ。
 同じ間違えを繰り返してはつまづく母に何回電話サポートをしたか数え切れないが、おかげで脳トレゲーム機は母の楽しみの一つとなり、開始すると1~2時間は夢中で遊んでくれる。
 母を一人にしておける稀有な時間となり、私は仕事や買物に専念できることになった。
 諦めずに、必ずできると信じて見守ることができれば、覚えられないことも、伝えられないことも、無い……。

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11/23(火) 長年住み慣れた町だが、歳月とともに区画整理が進み、道路は拡張され新築のビルや駐車場が増え、代替わりした人家は昔の面影を留めることなく建て替えられていく。
 そんな町並みを散歩しても、母にとっては知らない町を彷徨っているのも同然である。
 シルバーカートを押しながら、「どこを歩いてるんだか、わからないよ」と浮かぬ顔で訊ねることもしばしばである。
 しかるに、昔のままの店舗や旧家、時間が止まったかのような廃屋の多い上町を散歩すると、母の表情が活き活きしてくる。
 「お母さん、ほら、ツクバネ万年堂、憶えてる?」
 「憶えてるよ。昔のままだね……」
 「この道を歩いて、毎朝、小学校に通ったんだよ」
 「そうだね……」
 新しいことを覚えられなくなった認知症の老人が、住み慣れた故郷で暮らすことの意義を改めて感じた。
 思い出を語り合いながら散歩する回想法……。

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11/22(月) 認知症に回想法が有効なのもつとに知られている。
 幸せだった時代、楽しかりし日々の、懐かしい追憶が、脳を活性化させていく。
 女性には、命をときめかせる「恋ばな」が特に良いという。
 ある日、母が心から好きだった初恋の人の名を突き止めることができた。
 女学校時代の母の写真が収められている古いアルバムに、出征前の凛々しい軍服姿の写真も残っていた。
 「お母さん、Kさんに初めて手を握られた時のこと憶えている?」
 「覚えているよ」
 「じゃあ、初めてキスした時のことは?」
 「忘れた……」
 と、母は澄ましたような顔で答えて微笑していたが、どこか少女の面影を宿していた……。

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11/21(日) 今でこそ無邪気で穏やかな表情に安定してきたが、8カ月前に同居を始めた頃の母は、私が東京や大阪へ仕事に行くのを理解できなかった。
 「この家で、お母さんが死ぬまで一緒に暮らすからね」と説明するたびに泣いて喜ぶのだが、すぐに忘れてしまい、「帰るの?……また来てね」と寂しそうな顔で私を見送っていたのだ。
息子と一緒にいられるのはしょせん束の間のことで、自分は孤独に生きていくしかないと頭に焼き付いてしまっているようだった。
 認知症の方は皆、とてつもなく寂しく不安なのだ、と専門家は言う。
 あなたは一人ではない。私たちがあなたを必ず守り抜くから、何も心配はいらない……。
 何度でも力強くそう伝えて、心の底から安心しきって情緒が安らぐこと。
 それが、認知症対策の第一と確信している……。

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11/20(土) 記憶力が悪くなり、何でも忘れていく病だが、夕方、私が買物に出かけると門灯に電気を点けておくのを忘れたことは一度もない。
 夕食後、食器を洗っていると母がやって来て、「悪いねえ……」と済まなさそうに言う。
 「何、言ってるの……。電気毛布、電源入れといたからね」と言うと、母は声を詰まらせて「ありがとう」と嗚咽する。
 母がヘルパーさんからも誰からも好かれるのは、こうしたさりげない配慮と「ありがとう」と「はい」の返事を忘れないからだろう。
 料理が美味しければ必ず「美味しいねえ」と言葉にするが、まずい時にはただ黙っていて、決してダメ出しをしない。
 昔からそうだったが、認知症になってからは特に、批判も悪口も不平も不満も……否定語をいっさい口にしないことが好感を与えているのではないか。
 教えられるばかりで、私などには、及びもつかない……。

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11/19(金) よく晴れた秋の一日、母の米寿の祝宴を張った。
 「これが最後だから、米寿のお祝いをやってね……」と何度も繰り返し頼まれていたので、周到な準備をしてその日を迎えた。
 「今日は何をするの?」と母が訊ねる。
 「今日は、ホテルでお母さんの米寿のお祝いをやるんだよ」
 「え! 本当?!……ありがとう」と母は泣いて喜んだ。
 10分も経たないうちに、また同じ質問をする。
 同じ答えを返すと、母は涙を浮かべて全身で喜んでくれる。
 何度でもその瞬間、新鮮な喜びと感動を繰り返すことのできる認知症も悪くないではないか。
 悲しみや怒りではなく、感謝と喜びの反復に導く……。 

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11/18(木) その瞬間、確かに存在した事実が、次の刹那には、ただの印象となって概念世界の素材になり果てていく。
 しがみついて苦しんでいるのも、手放してドゥッカ(苦)を終滅させるのも、しょせん心の中の印象に過ぎない。
 過ぎ去ったことではないか。
 捨て去れば、赦すことができる……。

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11/17(水) 何を失ったのだろうか。
 何が、それほど悲しかったのだろうか。
 何ゆえに、屈辱と感じているのか。
 頭の中で、どんな自己イメージが崩れていったのだろうか……。

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11/16(火) 起きた事実は、もう変わらないのだ。
 赦しがたい怒りの対象が、こちらの都合のいいように変わってくれることもないだろう。
 すべてはそのままだろうが、これからも焼かれた石のような心になって、恨み続け、怒り続けていくのだろうか……。

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11/15(月) 心の底に、怒りがよどんで残っていないだろうか……。 
 身近な人に対して。
 自分自身に対して。
 聞こえない低音で鳴り響いている怒りが、現れようとする優しさをブロックする……。

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11/14(日) 乳を与えられ、お風呂に入れてもらい、言葉を教えられ、箸の使い方をしつけてもらいながら受け取った、優しさの集積が原点となって、慈悲の瞑想が祈り出されていく……。

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11/13(土) 痛切に、孤独を感じてきたかもしれない。
 何も良いことがなかった、苦しいだけの人生だったと思うかもしれない。
 だが、自覚していようが、自覚していなかろうが、無量無数の方々から優しさをもらって生きてきたのだ……。

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11/12(金) 犬やイルカや鷹などの動物と信頼関係が築かれると、その忠誠心や優しさの純度の高さに心を打たれる。
 種を超えた命の普遍性への共感……。
 生きとし生けるものに対する慈悲の瞑想が深まっていく……。

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11/11(木) 凝り固まっていた自分の考えにハッと気づいた瞬間……。
 直前の状態が、次の心の対象として気づかれるサティ。
 自らの状態を客観的に眺める……自覚の構造。

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11/10(水) 朝、目が覚めた瞬間から夜、眠りに落ちる瞬間まで、考え事や連想、脳内の独り言が間断なく続いていると、魚には水が意識されないように、一日中概念の海の中を泳ぎ回っていることに無自覚になっていく。
 止まることのない川の流れのように、思考モードに明け暮れているなかで瞑想が始まる。
 どんなイメージや思考も、意識に浮かび上がった瞬間にサティを入れていく。
 思考モードを離れてみると、自分自身を対象化し、客観的に観るということがどういうことなのか、実感とともに迫ってくる……。

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11/9(火) 適正な分量のバランスのよい食事が体内で静かに燃焼し始めると、全身に心地よい体感が拡がっていくのが感じられるだろう。
 体が整うと、ざわついて落ち着かなかった心がたちまちシーンと静まりかえっていく。
 自分の心を淡々と客観視する「捨(ウペッカー)」が労せずして与えられたかのようだ。
 心が乱れないように五戒を守り、設計された食事を注意深く摂取することが、良い瞑想をする秘訣である。

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11/8(月) <この世においては、過去にいた者どもでも、未来にあらわれる者どもでも、一切の生き物は身体を捨てて逝くであろう。智ある人は、一切を捨て去ることを知って、真理に安住して、清らかな行いをなすべきである。>【感興のことば「(ウダーナヴァルガ)1-26」岩波文庫】

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11/7(日) 死を受容する母の達観に触れ、同居を始めた私の目的の一つが果たされたように感じた。
 満ち足りた感覚が拡がっていった。
 「お母さん、これ、とてもいい本だから読みなさい」
 今が絶妙のタイミングだと思われたので、母に一冊の本を勧めた。
 納得できる死の教科書として評判の高かった『死に方のコツ』(飛鳥新社)。
 帯には、「死ぬのが怖くなくなる101の話」と書かれている。
 瞑想の生徒さんが私にプレゼントしてくれた本だった。
 死ぬことがどういうことなのかを正しく理解し、静かに死を受容し、きれいな心で最期の瞬間を迎えるために参考になるだろう。
 身体介護はプロの方に任せることもできるだろうが、人の終末期の心のケアは、恩愛を受けてきた者が感謝と敬愛の念を捧げながらやらせていただくべきではないか……。

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11/6(土) 何でもすぐに忘れてしまう病なのに、かれこれ1ヵ月も前の、死についての会話を母は覚えていたのだろうか。
 「……88年も生きたし、子供たちも立派に育ってくれたし、もうやることもないから、後は死ぬことが最期の仕事だよ」
 楽しかった昔の思い出を語り合うような、静かな安らいだ口調だった。
 「もっと若ければ生に執着するんだろうけど、わたしは、充分、生きたよ」
 いつ頃から母はこのような達観した境地になっていたのだろうか。
 驚きを禁じ得なかった。
 悲壮感も、投げやりな感じも、ネガティブな印象はどこにもなく、現状に満ちたり、やがて訪れるだろう死を確かに受容しているように思われた……。

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11/5(金) 階下におりると、ちょうど母が昼寝から目覚めようとするところだった。
 枕元に座って眺めていると、母は眼をしばたたき、私を確認すると微笑んだ。
 目が醒めてまだ意識がハッキリしないこんな時にこそ、本音が出やすいだろうと思い、訊ねてみた。
 「お母さん……、死ぬの、怖い?」
 すると母はおだやかな優しい声で答えた。
 「怖くないよ」
 「え!? 死ぬのが、怖くないの?」
 「だって、死ぬのは、眠りに就くのと同じだから……。 
 夜、眠りに落ちていくと意識がなくなるでしょう? そのまま目が覚めなければ、それが死じゃない……」
 「偉いな!……驚いたね。解ってるんじゃない、お母さん」
 「永久(とわ)の眠りに就く、と昔から言われてるね……」

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11/4(木) 起きた事実を本当に、ありのままに受け容れることができるかどうか……。
 何もかも音を立てて崩れ去った呆然自失の状態。
 かけがえのない人の迫りくる死。
 確定的となった自分自身の死。
 あいつだけは赦せない、八つ裂きにしてやりたいという人のイメージ。
 トラウマ(心理的外傷)、劣等感、恥ずかしい心の闇が露わになった瞬間。
 サティを入れるその一瞬一瞬の事実、心の真実……。

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11/3(水) 心の反応を止めるだけのサティもある。
 心と物事の本質を洞察するサティもある。
 ヴィパッサナー瞑想の真価に触れるためには、一点の迷いも曇りもない心で正しくきれいに生きていること、智慧を形成する諸々のファクターが仕込まれていること、集中の要素と気づく要素が等しいバランスで連動していくこと……。

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11/2(火) サティの瞬間、心の中で、事象の流れは止められる。
 何度も繰り返され習慣化した反応に従うこともできるし、ブレーキをかけることもできる。
 訓練をすれば、ダンマを受け容れた心からも、そうではない心からも、サティは飛び出していくだろう。
 正しいサティもあれば、邪なサティもある……。

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11/1(月) 17~8年前の父の介護は、毎日戦場におもむくような覚悟がなくてはできないほど過酷だった。
 介護疲れでボロボロになっていたが、サティの瞑想をよすがに、淡々と、冷静に、なすべきことをやり抜くことができた。
 自然に発露する情動に無自覚に身をゆだねれば、煩悩の反応が自動的に立ち上がるように設計されているのが人の心だ。
 ダンマに則して、自らの心を律していくために、サティの瞑想がある……。

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10/31(日) 存分に愛されてきた者には、愛されなかった者の悲しみや寂しさを心底から理解することはできないだろう。
 愛されなかった悲劇の結果、深く心に残った傷痕のゆえに、万感の想いで他人の痛みに共感できる「悲(カルナー)の瞑想」が捧げられていく……。

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10/30(土) 無償の愛を与えてくれた親も、さまざまな確執があった親も、その親との関係を通して自分の全てが作られてきたのだ。
 親子の関係は事実であり、自分の中に生き続けている現実である……。

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10/29(金) 短い距離なら休み休み歩くことができるし、食事摂取もなんとか一人でやれているが、洗髪も爪切りも着衣も……介助される項目が日増しに増えていく母。
 唯一の楽しみであるオセロも、自分が白だったか黒だったか、何度も分からなくなる。
 認知症の進行を遅らせ、寝たきりにならないために、なんとか現状を維持しようと一日一日懸命に生きているが、どのような死を母は遂げていくのだろうか……。
 たとえ完全介護の状態になっても、親だった人がまだ生きてくれている事実は、夢と希望を果てしなく与えてくれる赤ちゃんの存在よりも重く、尊く、かけがえがない……。

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10/28(木) 食べることも排泄も入浴も着替えも、何もかもすべて面倒を見てもらい、まったく自立できていない赤ちゃん……。
 バブバブ呟いてよだれを垂らし、片っぽの足をトントンさせながらおっぱいを飲み、オギャーオギャーと泣いておむつの汚れたのを知らせては、日がな寝たり起きたりしているだけなのだ。
 話すことすらできずにただそこに存在しているだけなのに、家族の中心となって皆に希望と夢と生きる力を与えている……。

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10/27(水) 夜、「ああ、今日も一日無事に終わってよかった……」とおだやかな表情で、母が独り言を言っている。
歳月の流れを感じた。
「(大事な)鞄がない!」と、恐怖におののいたような表情で就寝前に叫び出し、パニックを起こしたことが一度だけあった。
 半年前に同居を開始した直後だった。
 逆らわずに、問題の鞄を探し出し、黙って差し出すと、現物があればやむを得ないという感じで興奮が鎮まっていった。
 日に日に失われていく記憶と認知の乱れが自覚されるがゆえに、不安が極度に募っていったのだろうと思われた。
 金銭の管理も、食事の献立も、自分がいま何をなすべきかも、日増しにわからなくなっていく怖れと、孤独感と将来への不安のただ中にいた母……。

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10/26(火) 夕食後の片づけがいつもより遅れてしまい、庭に生ごみを埋めようと廊下に出ると、パジャマ姿の母に声をかけられた。
 「お先に寝むよ。おやすみね」
 「え!? オセロやらないでいいの? 1回だけやろう。お相手するよ」
 と言うと、母はロレツの悪くなった小さな声で、
 「ほんと? やろう。やろう」
 と、とても嬉しそうにニッコリした。
 一瞬、胸を打たれた。
 唯一の楽しみであるオセロをこれほどやりたいのに、私が忙しそうだと察知すると、けっしてうるさくせがんだりはしないのだ。
 私の提示するどんなことにもまず逆らうことはなく、聞き分けのよい幼稚園生のように素直に従い、何かを強く要求することもない。
 ……施設には入りたくない、この家で死にたい、というただ一つの例外を除いて。

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10/25(月) 息子なら母親と一緒にいるだけで安らぎを覚えるのが当然なのかもしれない。
 だが、なぜか認知症になってからの母のほうが、何もせずにただいるだけでも楽しく、不思議な安らぎを覚えて癒されるのだ。
 アルツハイマー型の認知症になっていちじるしく失われたのは短期記憶の能力だったが、どうやらセットでエゴ感覚もどこかに落としてきたようだ。
 ただそこにいるだけで可愛いと感じてしまうのは、生来の素直さと無邪気さがいちだんと露わになったこともあるが、人への配慮や謙虚さを失っていないからだろうか。
 もともと少なかった不平不満・愚痴・ワガママ・言い張る・怒り・慢……などの不善心所が完全に消えてしまったからだろうか……。

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10/24(日) 失ったものもあれば、新たに見出されるものもある……。

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10/23(土) 善い業も悪しき業も、その因果の帰結を自分から加速させてしまうものだが、相殺させて立ち消えにすることもできる、と仏教は考える。
 闇から光に向かうこともできる。
 光から闇に向かう人は数えきれない……。
 苦しい人生も、楽しい人生も、宇宙にとってはどちらでもよいし、どうでもよいことだ……。

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10/22(金) 情報処理のプロセスのみならず、反応の意志決定がなされる瞬間にも慣れが生じ、勢いがついて累積に拍車がかかる。
 人は何度も同じような生涯を繰り返す……と説かれる。

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10/21(木) 人が自らの意志で選び取った人生は、宿業に組み込まれていた「運命」に合致していく……。

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10/20(水) びゅんびゅん風の吹く日も、霧のような小糠雨が静かに落ちてくる日も、凍てつく日も酷暑の日々も、ただそれだけのことであって、その与えられた条件の中で、自分の人生を生きていくだけだ。
 きれいに、美しく生きることもできる。
 不満と怒りに満ちた人生にすることも、身勝手に無様に生きることも、全てはこちらの心しだいでいかようにも展開していく。
 そのように、知的障害も身体障害も認知症もどんな状態も、あるがままに受け容れてしまえば、ただの現実であり、それ以外にはあり得なかった自分の人生の場所なのだ……。

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10/19(火) 何度聞いても、ああ、それね、そんなの知ってるよ、と右から左にスルーしていく。
 何回同じ経験を繰り返しても、ワンパターンの定型化した解釈で機械的に情報処理がなされてしまう。
 頭の中には各人各様の認識の枠組みがあり、スキーマや概念マップと呼ばれている。
 このパターン化した認知のプロセスが変容すると、突然、目からウロコが落ちる。
 初々しい初心を忘れずに、一瞬一瞬の経験にサティを入れていく……。 

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10/18(月) 苦しい人生をなんとかしようと、必死で瞑想修行に取り組み、できるかぎりの善行にも励む。
 心が変わり、徳を積んでいけば、当然の帰結として、苦境は打破され、人生が好転していくだろう。
 ヤレヤレ……と安心した途端、遊びたい、羽目を外したい、ちょっとだけ悪いことをしたい……と煩悩が蒸し返されてくる。
 苦があれば瞑想し、苦がなくなれば遊ぶ……。
 なぜ、際限もなく同じことを繰り返すのか……。

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10/17(日) 震えるような感動も、達成感も充足感も、どんな快楽も幸福も、やがて崩壊し、色褪せていく……。
 具現化するまでは、キラキラと輝き続ける夢。
 何もかも無常に変滅していく現実。
実現しても 必ず壊れていく幸福への執着……。

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10/16(土) 完全に満足すれば、未練は残らないだろう。
 苦しい人生であっても、終わりが良ければ全て肯定されるものだ。
 いかんともしがたい苦の世界の本質を、いつの日か正しく認識するために、幸福になる……。

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10/15(金) 意味もなく生まれ、訳も分からぬまま本能で走り抜け、無意味に死んでいくのが生命だ。
 ……ミミズも、フンコロガシも、オグロヌーも、イワシの群れの中に突っ込んでいくカツオドリも、戦争で殺し合う人類も……。

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10/14(木) 考えられ、意味づけられ、価値を与えられた世界に執着し、喜怒哀楽の情動で熱く反応しながら業を作り、業の結果に縛られていく……。
 意味も概念も形成される以前の、法としての事実を知覚する瞬間、世界はただありのままに存在し、滅していく……。

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10/13(水) 人類700万年の歴史になど何の価値もなければ意味もない、……ミミズにとっては。

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10/12(火) 何かにエネルギーを注ぐことは、他の何かを犠牲にすることだ。
無常に変滅する業の世界では、何をしてもしなくても、さしたる違いはない。
しょせんこの世のことなのだから、必然の力で与えられた情況を淡々と引き受けていく……。

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10/11(月) 家族に見守られ、良い人生だった……と、幸福を感じながら人生の幕を引かなければならない。
 この世に未練を残すことなく、経験すべきものを経験し、味わうべきものを存分に味わう……。

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10/10(日) 小刻みに震える手でボタンを掛けきるのに驚くほど時間がかかる母。
 背中に引っかかったシャツを自分でおろすことは、もうできない。 
 靴下を履くのにも介助の手が必要になりつつあるが、どれだけ時間がかかっても、見守って自立を支援していく。
一度人まかせになってしまえば、もう戻ることはできないだろう。
 毎日一緒にスクワットをして寝たきりを防ぎ、失禁対策として肛門括約筋の筋トレをする。
 迷いの生存を繰り返すことの無意味さと、その生存からの解脱に人生を懸けてきたが、こうして、ただ生きているだけの母に拍手喝采をしてあげたくなる日々……。

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10/9(土) 失われたもの、壊れたものを嘆くよりも、残されているもの、今あるものへの敬愛……。

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10/8(金) 素直な幼稚園生のように、母はあっさり死を受け容れていく。
 明るい陽射しのリビングに横たわり、外国旅行の計画を立てるように死について語り合った。
 死後の法名も納得のいくものを自分で決めておこうということになり、二人でアイデアを出しながら考えた。
 修正を重ねながら最終的に母が決めたのは、「慈生院妙徳瑞光善女」というものであった。
 とても良い!と思いっきり褒めると、母は「そうか」と言って子供のように微笑んだ。
 こんな風に明るく、楽しく、笑顔で死について語り合えるとは思いもよらなかった。
 神様がくれたような、不思議な、充実した時間が日だまりの明るさの中に流れていった……。

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10/7(木) 「……そう。死ねばすぐに再生してしまうのだから、上手に、きれいに死ぬのが、人生の最後の仕事なの。
 来世でも仏教に出会えるように、光り輝ける仏のイメージをしっかり心に抱いて安心して死ねばだいじょうぶ。
 僕らが必ず側にいて、お母さんの死に水を取るから心配ないよ」
 「お迎えに来る、というけど……」
 「お迎えに来ても来なくても、僕らが見守っているからだいじょうぶ。安心して旅立つんだよ。死ぬのは、怖くないからね。
 来世に生まれ変わるための旅立ちなんだよ……」

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10/6(水) 「……お母さん、死ぬ時はね、きれいな心で死ぬんだよ。きれいな心で、安らかに死ねば、良いところに再生できるから心配ないからね。
 怯えたり、恐れたり、不安や恐怖心で死ぬと、悪い処に堕ちてしまうし、きれいな心で死ねば幸せな良いところに生まれ変われるの。
 夜、眠りに落ちると、意識がなくなるでしょう? でも朝になると、また一日が始まるよね? 眠りに落ちるのが死で、翌朝目覚めるのが再生、と考えてみて。
 死ぬのは、怖くないからね。
 死んで無に帰するわけではないの。
 死ぬのは、ただの旅立ちなの。
 死ぬ瞬間の心が、次の再生を決める仕組みになっているので、安心して、安らかに死ぬんだよ……」
 「ああ、そうなの。死ねば、生まれ変わるんだね……」

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10/5(火) 仕事で留守にした翌日、リビングで横になっている母の傍らに座り、寝顔を眺めるとタイミングよく目を覚ました。
 「お母さん」
 と声をかけると、まばたきをしながらニッコリ微笑んで、手を伸ばしてきた。
 握手をするのかと右手を差し出すと、母は両手で花束を捧げ持つように私の腕を取り、
 「よかった…、ひでおさんがいてくれて」
 と言った。
 「だいじょうぶだよ。お母さんが死ぬまで僕が一緒にいるからね。安心して…」
 「ありがとう。よかった……」
 と言って、母は嗚咽した。
 赤ちゃんが安心してお昼寝ができるように守ってあげなければならないように、今は、母に安心感を与えるのが私の仕事だ。 

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10/4(月)  怒りや嫉妬や冷たさなど自分のネガティブな心に気づく瞬間にも、否定する波動が反射的に出てしまう。
 人に対しても自分に対してもいかなる状態に対しても、あるがままに受容する一瞬が、ヴィパッサナー瞑想の根本……。

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10/3(日) 母の記憶の衰えを何とか食い止めようと思っていた時は、状態はゆっくりと右肩下がりに下降していたように思われる。
 身体の筋肉と同様、脳の筋肉も衰えるのは当たり前であり、病状が進行するなら進行したでよいではないか。
 どのような状態になろうとも、母に寄り添って護っていくことに変わりはないのだ、と母をそのまま受け容れる度合いを深めてからの方が安定している。
 良好な状態にこだわれば、ネガティブな現状を否定する波動がどこかに出てしまう。
 否定されているものがあると感じれば、真の安らぎは得られない。 
 良くないものを改善しよう、悪いものをなくそうと考える前に、まず、ありのままの状態を完全に受け容れる重要さを改めて教えられた。

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10/2(土) 認知症を痴呆と誤解している向きも多い。
 人間性が失われ、人格が崩壊していくようなイメージが通念化しているが、まちがっている。
 劣化した記憶力や認知の乱れなど失われたマイナス面に目を奪われ、残存している能力を見落とすので誤った対応になる。 
 認知症という病名に圧倒されると、ありのままの正しい状態が見えなくなる。
 人間の尊厳を傷つけられた失礼な対応に全身で抗議するように、パニック、徘徊、失禁、介護拒否等々の症状が悪化していく。
 記憶も認知も判断能力も徐々に壊れていくことに、誰よりも当人が怯え、恐怖しているのだから、現状のまま、今のあるがままの存在を丸ごと受け容れてあげることが何よりも大事だ。
 安心してよい。あなたは私たちによって守られているのだと確実に伝えてあげること……。

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10/1(金) 海馬という短期記憶を司る脳細胞が萎縮することにより、まず記憶が悪くなることから認知症は始まっていく。
 昨日のことが思い出せなくなり、その日の午前中のことも、数分前のことも、たった今のことまでもが記憶できなくなっていく。
 記憶に障害が出るので、冷蔵庫の中身も食器の置き場所も分からなくなり、認知機能全般に乱れが生じてくる。
 不安感や恐怖など情緒の不安定が認知症を進行させる最大の要因であることもよく知られている。
 衰えていく身体、劣化していく記憶、能力がボロボロと失われていくことに対する叫び出したくなるような恐怖、孤老の寂しさ、独居の不安、得体のしれない死の恐怖……。

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9/30(木) コンスタントに合宿スタッフをしていたならば、母は認知症にならなかったかもしれない。
 八面六臂の多角的な脳の使い方を余儀なくされる合宿をしているかぎり、ボケたりしている暇がないからだ。
 しかし、たとえ頻繁にスタッフ業務を任されたとしても、もうそれを全うできる体力はなくなっていた。
 記憶の衰えも顕著となり、過去の献立を思い出し新たなメニューを考える意欲も徐々に枯渇していった。
 折しも、外部施設での合宿が増え、10日間合宿も往時の3分の1に減少すると、母の独り暮らしの時間は激増していった。それは、息子と向かい合って食事をし、枕を並べて眠れる情緒の安定と、尊い役割を与えられている充足感を失うことでもあった。
 伝承すべきものを後継スタッフに渡すまでは……と、老骨に鞭打ちながら、母は85歳の夏まで仕事をして引退した。
 もし残余の日々が、愛する家族に囲まれた安心感と、家族のために命を燃焼してきた労苦への敬意と、笑いと優しさに包まれたものであったならば、認知症の発症には至らなかったのではないかと悔やまれる……。

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9/29(水) 母は、仕事のパートナーとして息子と一緒に同じ屋根の下で起居を共にすることができるのを心から楽しんでいた。
 元来、強い自己主張をすることも愚痴や不平不満をこぼすことも一切ないタイプだったが、瞑想合宿の仕事は心に何の不満もなく善心所の連続で取り組めていたのだと思われる。
 歳を取ってからも自分は人の役に立てている、という自己有用感と仕事への敬意は善心所モードをより安定させるだろう。
 若い頃から働き者で、家事の器用さと速度感は生来の資質なのか、そのような脳の使い方をしてきた結果なのか。
 善心所モードの安定維持、敬意の伴った高いモチベーション(動機づけ)、好きで得意な仕事、迷いがないこと……。
 結果として現れるどのような状態も、相応した諸々の要因によって織り成されている。

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9/28(火) 多い時には1年に90日、瞑想合宿をしていた時代もあった。
 価値ある仕事を息子と一緒にやれることは、晩年の母の最大の生き甲斐となり、買物、調理、洗い物、掃除、洗濯、サプリメントの仕込み……と、9人の修行者の全生活をたった一人で黙々と賄ってくれた。
 目を瞠ったのは、次々と業務をこなしていくスピードと静かさだった。
 音を消した動画で、急流の流れを見るかのような印象だった。
 瞑想を止めてしまって久しい母なのに、瞑想の達人のごとき立居振舞で諸々の日常業務をこなすことができたのは、なぜだったのか……。

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9/27(月) 仕方がない。
 こういうことになったのだ。
 起きたことは起きたこととして、ありのままに受け入れていくことは揺らぐことのない持論である。
 すべては私の落ち度に端を発している……と考えれば、介護に全身全霊を尽くして償おうという決意につながっていくだろう。
 結果的に手厚い介護を受けることになれば、母の幸福度はそれだけ上がることになり、かえってこれで良かったのだという方向を目指したい……。
 どのような事態も事実としてあるがままに受け容れて、プラス思考で臨んでいく……。

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9/26(日) 合宿スタッフとして同じ屋根の下で暮らしていても、終日沈黙行が布かれる道場では母との会話はわずかなものだった。
 合宿が終われば、母は自分の家に帰り、独居の日々となる。
 母に瞑想を教え、毎日修行が終わると必ず電話でインストラクションをしていたが、1年も経たないうちに多忙を極めるようになり、インストラクションが間遠になるにつれ、母の瞑想も自然消滅していった。
 独居の寂しさや不安、会話の乏しさなど、母を認知症に追いやった要因も私の責任だが、生来の素直さで毎日サティの瞑想をしていた母の修行を持続させることができなかったとは、なんという先生だ……。

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9/25(土) 母に認知症の兆候が見え始めた時には少なからずショックを受けた。
 母が人間として壊れていくのではないか、と気が気ではなかった。
 待ち合わせができなくなる。息子の住所が言えなくなる。昨日のことも、その日の朝のことも、直前のことが記憶できなくなり、短期記憶が急速に劣化していった……。
 焦慮と暗澹たる想いに駆られたが、迅速に対応した。
 ただちに認知症の進行を抑制するアリセプトの投与を求め、携帯電話に加入、一日に何度も電話をして会話量を増やし、日記を書く習慣を定着させ、脳トレのゲーム機に取り組めるよう根気よくサポートした。
 母の認知症は私の責任だ……と自責の念を禁じ得なかった。

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9/24(金) 毎日何度も訴える母の腰痛の苦しみをなんとかしてあげたいのだが、整形外科の所見では、もう治しようがないのだ。
 レントゲンに映し出されている脊髄の変形はいちじるしく、腰椎も胸椎も前面が短くつぶれてしまい、椎間板もすり減ってしまっている。
 骨粗鬆症が全身に及んでいるので、曲がった腰や猫背を無理に正そうとすれば骨折しかねない。
 人に好かれる優しい性格の母だったが、怒り系の不善業も作ったろうし、庭の菜園を荒らす昆虫に殺生戒を犯したこともある。
 老いのドゥッカ(苦)に耐え、住み慣れた我が家で、愛する家族に見守られ安らかに死を迎えて旅立っていく最後の仕事……。 

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9/23(木) <蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起ったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世をともに捨て去る。―蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである>【「スッタニパータ(ブッダのことば)1-1-1」岩波文庫】

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9/22(水) サティを入れれば、ただ一瞬の情動が去来していっただけのことになる。
 思考モードを続ければ、妄想が妄想を呼び、情念が飛び火し、苦が生まれ、業が形成されていく。
 悲しみがあり、気づきがあり、離脱する心があり、捨(ウペッカー)がある……。 

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9/21(火) 悲しみも、怒りも、嫉妬も、高慢も……煩悩というものは、複数の門からの情報が重なった瞬間に発生する。
 目前の現実と過ぎ去った日、今の状態と想定された未来、あるがままの自分と他人の存在、一つの考えとより優れた考えや劣った考え……。
 2つのものが比べられ、一つの情報が他の情報と比較され、評価され、混じり合い、編集されていくプロセスで喜怒哀楽の情動にスイッチが入る。
 エゴ感覚が鎌首をもたげる。
 煩悩の反応が立ち上がっていく……。

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9/20(月) 秋の日差しが一日一日短くなっていくように、母の心身の衰えが目に見えるようになってきた。
 口筋が衰え、ろれつが悪くなってきたので、「あ・え・い・お・う・あ・お」と滑舌の練習をする。
 寝たきりを防ぐために毎日一緒にスクワットをする。
 家事の能力を維持するために、必ず台所の手伝いをしてもらう。
 だが、日に何度も長時間の昼寝をするのに加え、何か一つのことをするたびに横になって休まなければならなくなってきた……。
 誰にも真似のできないスピードで長年合宿スタッフの仕事をしてくれた、あのスーパーウーマンだった母が……と、回想の思考が過ぎった瞬間、悲しみに胸を焼かれた。

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9/19(日) 「お母さん、一緒に暮らせてよかったね。ずっと、独りでがんばってきたからね」
 と言うと、母は顔をクシャクシャにして嗚咽した。
 孤独に耐え、夕暮れ時の寂しさ、夜の独り寝の不安に黙って対峙してきた歳月が脳裡を過ぎっているような気がした。
 孤独への耐性は遺伝子で決まっていると言われるが、何よりも孤独を嫌ってきた母が、独居の愚痴をこぼしたことは一度もなかった。
 申し訳なかった…と償いたい気持ちに駆り立てられるが、何をどのようにしようとも、母からいただいた愛情の1億分の1も返せはしない……。

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9/18(土) 例えば、同じ遺伝子の配列を持った一卵性の双生児でも、Aは乳癌で早世し、Bは免れて長寿を全うする。
 ライフスタイルによって、遺伝子の働き方が変わるからだ。
 遺伝子が常に働いてしまえばメチャクチャになるので、遺伝子に蓋をかけて働きを抑えながら、遺伝情報を適宜読み出していくのが命の設計図だ。
 これを、遺伝子のメチル化という。
 人生の過ごし方がちがうと、メチル化も異なる……。

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9/17(金) 自分のためだけに生きている人の寿命は定まっているが、人のため世のために生きている人の命は護られる……。

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9/16(木) 誰もが幸せになりたいと願っているのに、そうなれる人もいればなれない人もいる。
 不幸になるのはゴメンだ、寝たきりになんかなりたくない、と思わない人はいないのに、なぜそうなってしまう人とならない人がいるのだろう。
 どうしようもない力で情況は展開してゆき、絶妙のタイミングで救われていく人もいれば、全ての歯車が狂い何もかも失っていく人もいる。
 有無を言わさず怒涛のように呑み込んで押し流していく運命の力も、一つひとつ丁寧に分析していけば、はるかな昔から今にいたるまで自分が集積してきた諸々の業の総和……。

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9/15(水) 「本心」は、あらゆる情報を心得て判断をくだし、その一部を裁量権とともにエゴに伝えて任せている。
 何でも心得ているとはいえ、遺伝的に組み込まれた無明の煩悩も生存への渇愛も立派に持ち合わせた最高司令塔。
 身勝手な猿知恵で苦の種をばらまき続けているエゴのお粗末さ。

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9/14(火) 自分は正しいことをしているといくら言い聞かせても、得体のしれない不安に襲われ、悪夢にうなされ、夜中に目が覚めてしまうのはなぜだろう。
 エゴにとって都合の悪いことを、まったく意識にのぼらないように抑圧しているのは誰だろう。
 エゴが自覚している部分は氷山の一角に過ぎない。
 水面下の本心が腐ったまま、仏教の知識だけが増えていく虚しさ……。

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9/13(月) 意味のないことは起きないのだから、流れのままに従っていく原則。
必然の力で展開していく現実を正しく読み取り、与えられた人を受け入れていく……。

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9/12(日) 誰もが独居し、瞑想と祈りとダンマを互いの拠りどころとし、熱烈でもない、冷淡でもない、見放すことも近寄りすぎることもない、静かな沈黙の優しさで結ばれた寺の絆もある……。

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9/11(土) 何もせず、何も話さず、ただ一緒にいるだけで心が通じ合い、安らげる、最愛の家族と一緒に暮らせる幸福。
 だが、愛が深ければ、悲しみも深い。
 揺るぎのない絶対的な絆で結ばれている感動。
 老いによって、情況の変化によって、死によって引き裂かれていく絶望と喪失……。

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9/10(金) 純度の高いサティが入る一瞬一瞬に、「捨」の心がある。
 だが、サティの技術だけで「捨」の心が定着するのは難しい。
 ものごとを達観する精神が根づいていかなければならない。
 自分に与えられた人生の現場で、ひとつ一つ因果の理法を検証し、納得し、血肉化していく日々の集積……。

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9/9(木) 諦めた瞬間、一抹の悲しみが胸を過ぎらなかっただろうか。
 手に入れたいものが手に入らない怒りがあるので、悲しみが接続する。
 絶望にも、怒りがある。
 パワーレスになった怒りを、「投げやり」と呼ぶこともできる。
 望みのものであれ、ネガティブなものであれ、その瞬間の状態を、起こるべくして起きた必然の結果なのだと、明晰に、静かに、受容する精神を「捨(ウペッカー)」という。

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9/8(水) 漠然とした期待や、はやる心を制するのは難しくはない。
 まったく予期せぬときに、たまたま素晴らしい瞑想経験に恵まれたりすると、その後が問題だ。
 夢よもう一度と期待し、執着し、同じ体験の再現を必ず狙ってしまう。
 いつでも黄金の記憶がチラつき、現在の瞬間をあるがままに観ることができない。
 もうあの体験は二度と起こらないだろう……。
 それで良い。
 一度だけでも体験できただけでありがたい……と心の底から諦めることができるまで。

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9/7(火) 頭が冴え、体調もよく、やる気が満々の時に限って、良い瞑想ができないものだ。
 絶好調であるがゆえに、期待に胸が高鳴り、欲が出て、我執が強くはたらいてしまうからだ。
 「(冴えている)と思った」「期待している」「胸がワクワクしている」「欲」……とサティを入れ、何も狙わずに、受動性に徹し、現れてくる事象や状態に淡々と気づいていく……。

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9/6(月) 善であれ悪であれ、条件しだいでどんなものでも具現化してきてしまう悲しさ……。
 放置すれば真っ黒に汚れていくのが自然な成りゆきである。
 混沌とした無秩序に向かっていく流れに逆らい、浄らかさを目指す……。

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9/5(日) 底なし沼のような人類の煩悩のどろ深さと量りしれない悪の可能性を爆発的に開花させてくれたのは、農耕の開始だった。
 定住生活がもたらした土地への執着、穀物の備蓄が激化させた果てしない所有欲と貧富の差、肥大していくエゴイズム、悪化の一途をたどる格差、上下関係、身分制度、階級社会……。
 農耕の技術的進展によって育まれた知的創造力は文明を創り、悪魔の兵器も作り、豊かさと人工爆発と地球エネルギーの独占的収奪と絶滅危惧種をうなぎ上りに増大させ、人類を地球に最も害毒をもたらした史上最悪の存在にした……。
 人類がいなくなってくれると、地球の全生物と自然環境がどれほど喜ぶことだろう。

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9/4(土) 狩猟と採集で暮らしていた人類の祖先たちの生活水準は、現代人とは比べものにならないつましいものだっただろう。 
 だが、子供を可愛がり、単純な遊びに打ち興じ、仲間を思いやり、日々の恵みへの感謝と公平な分配が実現していた生活の満足度はどうだろうか。
 欲望の肥大化も貧富の差もエゴイズムも存在しなかった小さな集団には、優しさと共感と炉辺の幸福があった。
 アマゾンやボルネオの奥地に生き残っていた未開部族の生活様式は、人間本来の姿を暗示している……。

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9/3(金) 左脳の働きをOffにしなければ、法としての事象をありのままに視ることができない。
 だが、脳卒中の状態で至福の静寂に包まれているわけにはいかない。
 悟りの智慧にも凶悪な悪知恵にも機能する左脳の神経細胞群。
 そのネットワークに電機信号が走ってOnになる瞬間と、Offになる瞬間と交互に点滅させていくヴィパッサナー瞑想……。

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9/2(木) 完全な静寂が私の中に訪れた。今、この瞬間、私は全てのものとひとつにつながり、欠けているところは何もなく、完全で美しい存在だ……。
 ある朝、脳血管が破裂し、左脳の言語野が破壊されていくプロセスで、深い心の平和を感じながら、悟りの場所を見つけたかのような至福の一体感に包まれた脳科学者がいる。

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9/1(水) 野生動物や猛禽類のような速度と正確さで対象を認知するには、左脳を止め、妄想を排除し、一瞬の白紙の心でダイレクトに知覚しなければならない。
 だが、鷹もハヤブサも、本能の命じるプログラムを正確に実行しているマシーンに過ぎない。
 行為の意味を理解し、情報の本質を洞察する仕事が完成するには、左脳の論理回路が発火しなければならない。

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8/31(火) 悪知恵は、左脳から来る。
 ずる賢いのも、大量虐殺を指令する残酷さも、果てしのない強欲も、差別をするのも、ギラギラしたエゴ意識をもたらすのも、左脳の言語と論理を司る領域の仕事だ。
 だが、その人間の極悪部分を司る脳がなければ、無常や無我の真理が洞察されることもない……。

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8/30(月) やれ全託だ、荘子だ、無我だ、とワンワン吠えている犬もいれば、黙ってその実質を体現している人もいる……。

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8/29(日) 「はい、お母さん、DSやりましょうね」
 スーパーへ買物に行っている間、ゲーム機で脳トレをやってもらう。
 こちらが提示したことに逆らうことなく、母は即座に開始してくれる。
 着替えも、食事も、入浴も、体操も……。
 昔から謙虚で我を張ることのない人だったが、老いてますます顕著になる母の素直さ、性格の良さに、自分の心が真っ黒に思えてくる。 

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8/28(土) 鰹節とホタテと椎茸のだしに、牡蠣エキスを合わせた豆腐と魚のスープを一口飲み、母は「美味しい」と言って指でマルを作った。
 午前も午後も夕食前にも、なぜこんなに眠るのだろうと訝るほど昼寝をするようになった昨今だが、急に元気になり、デザートのメロンがとても甘かったので、喜びが頂点に達した。
 生ごみを庭に埋めてから、母の唯一の楽しみであるオセロの相手をした。
母が負けたが、満足して幼女のようにおとなしく就寝した。
残された時間がどのくらいあるのだろうか……。
幸福な最期の日々と最良の死近心のための看取り……。

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8/27(金) 無明があり、生の執着があり、希望の明日があり、来世につなぐ夢がある……。

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8/26(木) 明日への希望が、今日の現実になる。
 夢も、希望も、理想も、期待も、願望も、思惑も、展望も……、現実でさえなければ、どんなドゥッカ(苦)も甘美に見えてくる……。
 幻があり、幻滅がある……。

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8/25(水) もし輪廻転生が存在しないとなると、最後の一滴まで燃え尽きていくロウソクの灯火のように、自分の存在が絶無に帰していく恐怖はいかばかりだろう。
 体も心も老いさらばえ、死が迫りくる不安の中で、どのように明日への希望をつなぐのか……。

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8/24(火) 輪廻転生が存在すると想定すれば、たとえ何歳になっても、前向きの努力を続けることができる……。
 今日の努力が来世につながっていくのだから。

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8/23(月) 心血を注ぎ、生涯を懸けて励んできたものは、その強烈なチェータナー(意志)の集積のゆえに、確実に来世に持ち越されるだろう。
天才や神童の天賦の才能も、長い輪廻転生の中でつちかわれてきた血の滲むような努力の所産にすぎない。
恐ろしいほど不平等な条件の下にスタートさせられた人生も、因果の必然であり、宇宙は公平な理法に貫かれていると言える。

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8/22(日) ドゥッカ(苦)に遭遇しなければ、ダンマの世界に眼を開かれることもなく、普通に心を汚しながら、ひっそりと人生を終えていったかもしれない。
 来世の自分に不善業のプレゼントを残して……。

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8/21(土) 一片のガラス屑の中に射し込んだ陽の光から、虹色のスペクトルが輝き出る瞬間もある。
 なんの痕跡もとどめずに干上がっていく一滴の雫のような生涯であっても、なすべき事をなし、なさざるべき事は断じてなさず、いつの日にかの究極の瞬間を目指して、与えられた束の間の命を全うする……。

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8/20(金) 6550万年前に絶滅した恐竜が地球上に跋扈していた生存期間は約2億年。
 1400万年前にオランウータンと、900万年前にゴリラと、700万年前にチンパンジーの祖先と別れて独自の道を歩み始めた人類の祖先。
 さまざまな猿人や原人が絶滅していく中で進化の最終ステージに立ったホモ・サピエンスは、およそ14万年前から今に至るまで、体の形態や脳容量にさしたる変化がない。
 高度な石器や洞窟芸術、彫刻などから推定される5万年前の祖先の認知能力は、現代人と同等であった。
 生活様式が目まぐるしく変化し始めたのは、農耕が始まった約1万年前だ。
 2億5千万年後の地球では、人類は跡形もなく絶滅していると多くの科学者が推測する。
 収入、プライド、将来不安、恋愛、親子関係等々、ドゥッカ(苦)に圧しつぶされて鬱病になりそうなのですか……?

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8/19(木) エゴで受け止め、エゴで判断するのを止め、日々の出来事をすべて天から与えられたものとして受け容れていくことができれば、ツマらないこともくだらないことも苦しいと感じることもいつの間にかなくなり、淡々と静かに暮らしていくことができる……。

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8/18(水) 垢にまみれて汚れもするが、浄らかな純粋な状態に回帰することもできる。
 瞑想をすれば、欲と怒りと我執に満ちた妄想が停止すれば、崇高な想いで心がいっぱいになっていけば……。

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8/17(火) ギラギラと照りつける夏の陽射しのように、強烈な印象を伴って見えるもの、聞こえるもの、匂うもの、感じられるものには、巻き込まれ、のめり込み、夢中になり、我を忘れて熱くなる……。
 六門の官能を放埒に貪った夏の休暇から帰ると、ワーンと頭の中に鳴り響くようなジョウコに圧倒され、瞑想ができない。
 「よく気をつけておれ」と、ブッダは言う……。

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8/16(月) 全ては、必然の力で、起きるべくして起きたのだ。
 理法が腑に落ちれば、理不尽な出来事など存在しない、とうなずくことができるだろう。
 人を許し、自分を許すことができる……。 

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8/15(日) 「どうしても自己嫌悪がやめられないのです。
 ダメな自分、できない自分、みっともない自分を、許せないのです。
 どうしたら、自分を許せるようになるのでしょうか?」
 「……自分の周りにいるダメな人、嫌悪すべき人、できない人、薄汚い人、みっともない人を許しなさい。 
 人を許せば、自分を許せるようになります……」
 「はい……」

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8/14(土) 全力で取り組むのが悪いのではない。
 我執で突っ走らないということ。
 一挙手一投足にいたるまで三宝に委ねきって、ただ自然な流れで与えられたことに全力で取り組んでいけば、節度も慎みも伴った美しい完全燃焼となる……。

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8/13(金) エゴを放ち忘れ、法の流れに任せきって事に臨めば、なすべきことがなすべき時に過不足なくなされるだろう。
 我執が先行すれば、たとえ善行であっても、破綻をきたす。
 のめり込み、度が過ぎる。
 体を壊し、燃え尽きるまでやり過ぎる……。

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8/12(木) 諦めても、執着し続けても、……終わりの日がやって来る。

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8/11(水) 執着すれば執着した人生が展開し、諦めれば諦めた人生が拓かれていく……。
 手に入れても、見果てぬ夢に終わっても、ただそれだけのことであって、どんな結果からも学びを得ていく人もいれば、堕ちていく人もいる……。

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8/10(火) 何ひとつ変わってはいないのだが、もう求めるのを止めるのだ。
 これからも、何ひとつ変わらないだろう。
 だが、もうこのままで良い……と水に流すのだ。
 欲望と怒りを手放した瞬間、自分をありのままに客観視するスペースが心に生まれる……。
 サティが、正確に決まり出す……。

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8/9(月) 独りになっても、頭の中が雑念や妄想で充満していれば、自分自身を対象化して省みることはできない。
 妄想を止めるためのサティの瞑想。
 見ている自分、聞いている自分、考えている自分、感じている自分、六門の情報を取り込み編集していく自分、瞑想している自分を客観視するサティの瞑想……。

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8/8(日) 家族や友人や気の置けない人であっても、同じ空間に誰かがいれば、意識の矢印は外向的になる。
 独りになる時間を作らないと、自分を見失う……。

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8/7(土) 毎日大勢の人と会い挨拶を交わしていても、生身の人間との関係を避け、孤独でいれば、自分が見えなくなる……。

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8/6(金) 握りしめていた欲望と怒りにサティを入れて、情念の世界から身を退いていく。
 さまざまな言葉とイメージが駆けめぐる思考の世界にサティを入れて、想いの世界から離脱していく。
 眼耳鼻舌身意からなだれ込んでくる六門の情報にサティを入れて、現象の世界から撤退していく。 
 一瞬一瞬の意識の発火に、涅槃の残存印象が折り重なるような果定の瞑想の中に寂滅していく……。

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8/5(木) 愛と尊敬と感謝の念に送り出されて良き再生を果たすためには、わが身を捧げて家族を愛し、悪を避け善をなし徳を積み、カルマを良くするしかない。
 業の世界から業の世界へと輪廻転生を繰り返すことに終止符を打つためには、因果律に支配される現象世界への未練を滅ぼし尽くす瞑想をしなければならない……。

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8/4(水) たとえ娼婦の母親であっても敬え、とヒンドゥーの聖者は言った。
 初めてまみえる阿羅漢のごとく両親に仕えよ、とブッダも語られた。
 煩悩に満ちた凡夫であっても、理想のイメージどおりの親ではなくても、あれだけは今でも赦せない、こういうところが嫌だった、といろいろあるだろうが、自分をこの世に在らしめてくれた方ではないか。
 覚えてはいないだろうが、最高の愛情で抱きしめてくれた瞬間が何度あったことだろう。
 まがりなりにも普通の人間になれた事実が、無限の愛を受けてきた証しなのだ。
 どのような親であっても、最高の礼節をもって報いるべきではないのか……。

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8/3(火) 赤ちゃんは、無償の愛をたっぷりもらわなくてはならない。
 最高の人生に船出していくために。
 最晩年の老人は、無償の愛に包まれて看取られなければならない。
 美しい人生の幕引きのために。
 最高の来世に転生するために……。

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8/2(月) 因果の理法を正しく知る。
 ダンマの命じる行動規範に従い、判断の基軸とする。
 あるがままの自分を客観視するサティの瞑想。
 抑圧されてきた心の闇を浮上させる心随観の瞑想。
 打ち消してきた過去を受け容れ、解き放つ懺悔の瞑想。
 全てのものを和合させる慈悲の瞑想。
 流れを変える原点となった意志(チェータナー)……。 

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8/1(日) 遺伝や生育環境の良し悪しも、幸運に恵まれるのも不運に泣くのも、どんな条件もそれを受けるだけの原因があってのことだ。
人生の苦楽に偶然はなく、心が変われば、遭遇する事象の流れが変わっていく。
暗い不幸な人生も、苦のない爽やかな人生も、設計できる……。

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7/31(土) 宗教とはまったく無縁なのに、宗教にハマっている人以上に人格高潔で、きれいな生き方をしている爽やかな人もいる。
 遺伝的素因に恵まれ、善き家庭や両親に育まれて自我形成をすることになれば、珍しくも不思議でもない因果の必然である。
 煩悩に満ち、我が強く、物にも人にも深く執着し、思うようにいかないとすぐカッとなり、いつまでも恨んだりする自分が嫌で、淋しくて悲しくてならないのに弱みを見せたくないのでつい傲慢な態度を取っては人から嫌われ、ますます苦しい人生になってしまう……そんな人が真に救われていくためのメンタルなトレーニングとしての瞑想……。

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7/30(金) 六門で知覚された事象が、思考のプロセスで脳内編集されていく時に生まれる、甘美さ……。
 一瞬の間断もなく、眼耳鼻舌身意の六門に殴り込みをかけるように乱入してくるこの世の事象。
 一秒ごとに電気を点けたり消したりするように、否応のない強引さで心を惹き起こしておいて、刹那に滅し去っていく……。
 持続することも寂止することもできないドゥッカ(苦)……。

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7/29(木) 現実の事象に感動しているのではない。 
 現実が心の中に湧き起こす幻想が、人を酔わせるのだ。
 常に甘美なのは、妄想だけ……。

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7/28(水) 眼耳鼻舌身から次々と取り込まれる情報に刺激され、間断なく妄想し続けながら死んでいくのが人生だ。
 六門の情報を遮断し、完全な沈黙の中に没入していく瞑想がある。
 乱入してくる六門の情報が知覚される瞬間に離脱し、刹那刹那の静寂を守り続ける別次元の瞑想もある……。

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7/27(火) トラウマや劣等感や過去の抑圧から完全に解き放たれたとき、存在の悲しみに触れる。
 因果のシステムを司るサンカーラのドゥッカ、「行苦」に触れる……。

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7/26(月) 抑圧することはできても、記憶そのものを抹消することはできない。
 ネガティブな記憶も楽しかった記憶も、過ぎ去ったことは過ぎ去ったこととして、等価に達観できる心境……。
 受け容れれば、解放される。

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7/25(日) スラム街も色街も酒に溺れた流れ者の泊る宿も、夕陽のシルエットになって浮び上がれば詩的な情趣さえ漂う。
 どのような街、どのような家庭、どのような環境であっても、幼年時代の持つ意味やかけがえのなさは変わらない。

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7/24(土) 過去を受け容れられなければ、今の瞬間をあるがままに観ることは難しい。

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7/23(金) 私がやられてきたことを、味わうがいい!……とダイレクトに復讐する者もいる。
 爆発的な仕事力に転化させて、出世や成功への執念をたぎらせる者もいる。
 怒りのエネルギーは、その破壊の要素ゆえに、復讐の原点になった不快な出来事を再生産させるだろう……。

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7/22(木) どんなにつまらぬ境遇であっても、そこで自分の最高の人生が開かれていくのだ。
 ゲンジボタルの成虫が発光できる期間はせいぜい7日、長くても10日にすぎない。
 最初の5日間は光らず、最期の2日間にすべてを賭けて求愛の光を放って輝く。
 愛が受け容れられると強烈な同調の光がシンクロし、二匹の体の10数倍もの円周全体をマバユイばかりに明るく照らす……。
 変哲もない川の土手や、ただ雑草が生い茂った舞台で……。

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7/21(水) 無傷な心が、たとえあったとしても、永遠に続くのだろうか。
 無傷なまま、心も体も老衰していくであろう。
 完璧な幸福も、いかなる命の、どのような状態も、因果関係の所産であり、諸々の条件に支配され、一瞬の輝きを放つだけで壊れていく……。

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7/20(火) 病んだ人が、必死の努力で健康を取り戻していく。
 自由を奪われた人が、国家が、民族が、宿世の悲願を勝ち取っていく道のり……。
 傷ついた心が癒され、荒廃しきった心に優しさと慈しみの灯が点っていく。
 どこにでもある普通の凡夫状態というゴールに向かって、失われたものの回復の物語が完結して死んでいくのか……。

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7/19(月) 復讐することもできる。
 沈黙することもできる。
 共感することもできる。
ボロボロになった人々に手を差しのべることによって、救いようのなかった自分自身を癒やす仕事が完成していく……。

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7/18(日) 愛を与え、慈しむ心を捧げた報果として、無償の愛に育まれる環境がととのい、無類の優しさに包まれる日々となるだろう。 
 そうして、心のどこかに付着していた悲しみの残滓が完全に溶解していく……。

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7/17(土) 傷ついた人たち、落ち込んでいる人たち、生きる力を失った人たち、絶望した人たちに、優しさの手を差しのべることができるだろうか。
 同じ目線、同じ立ち位置に立って、他人の苦しみに共感できる悲(カルナー)の心は、どのように養われるのだろうか。
 ……失敗をしなさい。挫折をしなさい。敗北感に打ちのめされなさい。
 失意のどん底で、身をもって味わう痛切なネガティブ体験が、優しさの原点になっていく……。

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7/16(金) 仕事を覚えたかったら、瞑想を深めたかったら、匠の人になりたかったら……、失敗をしなさい。
 本気モードにスイッチが入るだろう。
 大失敗の痛切な体験が、創造性の原点になる。
 最悪の現状を分析し、要因を洗い出していくプロセスが、宝の山なのだ。
 偉大なる道は、失敗から始まる……。

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7/15(木) 本当は捨てられないものをヤケクソで捨てれば、またゴミ捨て場に拾いに戻るだろう。
 この世を出て、別次元の世界に入っていくためには、諦めのついたものとまだ未練のあるものを丁寧に分別し、よく確かめて自覚しながらゴミ袋をまとめていく。 
 くだらないことだと分かっていても、執着があるのだから、愚行を繰り返すことにも意味がある……。

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7/14(水) 人の心は、解らない。 
 不都合な真実を本能的に抑圧する自分の心は、もっと解らない。
 心の真実がありのままに洞察されれば、熟した果実が落下するように生存の世界から解脱していく……と仏教は言う。

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7/13(火) つき合いがなくなれば、情報がリニューアルされることもなく、いちど作られたネガティブなイメージはそのまま凍結していくだろう。
 そんなある日、突然の訃報が舞い込んでくる……。
 すると、その瞬間から、あんなに嫌だと思っていたのに、なぜか次々と美点が思い出され、懐かしい情感に包まれていく。
 どの道もう会うことはないのに、生きていると思えば赦せないが、死ねば水に流せる怨念……。

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7/12(月) 濃密な愛が一転、強烈な怒りに変わり、打ち上げ花火のように爆発して終われば結構だが、多くの場合、恨みとなって持続する。
関係が深ければ、思い出の分量も膨大なものとなる。
いきおい、ネガティブなものばかりが自動選別され、良い思い出は封印され、あれも嫌だった、これも気に食わない……と、怨みのエネルギーがトロトロと我が身を焼く……。

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7/11(日) 見知らぬ野犬に咬まれればただそれだけのことだが、可愛がってきた飼い犬に手を咬まれれば、反応が激烈になるだろう。
 裏切られた無念さ、恩を仇で返された怒り、今までの愛情が水泡に帰したかのような徒労感、信頼を失った喪失感……。
 手を咬まれた瞬間の苦受だけで終わらないのだ。
 愛情が深ければ深いほどネガティブな妄想がグチャグチャに心に絡まって、憎しみや怒りが真っ赤に燃え上がる……。

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7/10(土) 家族が大嫌いになるのは、共有するものがあまりにも多く、自分と似すぎているからではないか……。
 他人からは逃げることができる。
 義絶すれば肉親からも離れられる。
 しかし、自分をゆるすことができず、劣等感に苛まれ、自己嫌悪にまみれているかぎり、その自分からは逃げることができない。

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7/9(金) 子供も孫もいるのに、家には帰らず、入院先の病院で正月を迎えることにした老女に出会ったことがあった。
 病院の方が、看護士さん達に優しくしてもらえるので居心地が良いのだという。
 世界中の誰よりも強く愛し合い、誰よりも強く憎しみ合うのが家族である。

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7/8(木) 因果は誰の身にも正確に帰結しているのだが、現象の意味を読み取るセンスがなければ、日々、濁流のように混沌としたまま流れ去っていく……。
 なぜ幸福の瞬間に恵まれるのか、苦渋の日々が続くのか……。

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7/7(水) 子供を施設に預けて仕事をする親もいる。
 親を施設に預けて暮らす子供もいる。
 子供を自分の手で育てようとした母が、今、子供の手で介護されながら人生の最後の日々を生きている……。

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7/6(火) 昭和初期の黒い壊れたミシンが画面いっぱいに映った瞬間、DVDを一時停止にして、しばし母と昔話をした。
 戦争が終わり、希望に充ちてはいたが焼跡と闇市の拡がる時代、必死にミシンを踏んで洋裁をしながら子育てをしていた母。
 幼い子供が帰宅したとき必ず家にいてあげるために、ミシンの仕事を選んだのだという。
 回想が深まるにつれ、しっかりした口調となり、輝きが失われていた母の両眼に強い光が甦ってきた……。 

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7/5(月) 失禁で汚れた母の下着をバケツに入れ、庭の水道で手洗いしてから洗濯機に入れた。
 その昔、私が垂れ流したオシメを、母は何度こうして洗ってくれたのだろうか……。

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7/4(日) 悟りの第3段階である不還果の境地に至ると、死後、身体(ルーパ)のない意識だけの領域(無色界)に再生すると言われる。
 肉体がなければ食欲と性欲から完全に解放される。
 いかにも、怒りの煩悩を根絶した聖者のおもむく世界にふさわしい……。 

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7/3(土) 死にたくない。自分の存在を抹消されるのはゴメンだ……。
 たとえこの体は死滅しようとも、自分の存在を未来に繋ぎたい……。
 生き残ろうとする本能的衝動と、自分の子孫を残そうとする衝動以上に強い煩悩はない。
 食欲(生存欲)と性欲(生殖・自己複製・エゴのコピー)がある限り、この世界からドゥッカ(苦)がなくなることはない。 
 その起源は、初めて他の個体と接合し染色体の減数分裂を行なったゾウリムシの時代、約6~8億年前ということになろうか。

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7/2(金) 大腸菌のように2倍、4倍、16倍……と、細胞分裂を繰り返しながら増殖していく限り、常に新しくコピーされた個体が生まれてくるのだから、事実上の不老不死となる。
 だが、最初に分裂を始めた1匹の個体に注目すると、永遠に分裂し続けているわけではない。 
 約700回を上限とし、やがて分裂できなくなり死んでしまうのだ。
 新しいシステムは、個体の死を乗り超えようとする生存欲のあがきに由来するのだろうか……?

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7/1(木) 生命の歴史上、画期的だった有性生殖と多細胞化の起源と見なされるモデル生物は、ゾウリムシらしい。
 なぜ、どのようにして、それまで存在しなかったシステムが生まれてきたのか?

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6/30(水) 細胞分裂を繰り返し、同じ遺伝子がえんえんとコピーされていく無性生殖の時代はまだ良かったのだ。
 雌雄の性に分化し遺伝子を交配させる有性生殖が始まってから、ドゥッカ(苦)の基本が出そろったと言えよう。
 性の交配によって生まれた様々な個性が自他を分別するエゴの起源となり、より強い遺伝子を残そうとして弱肉強食の淘汰が基本原理になっていく……。
 有性生殖の宿命として、個体の死と新たな命の誕生がシステム化され、老死の問題が発生した……。

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6/29(火) 誰もが土中の養分と水と熱と太陽光を得て自生できるなら、真に平和な世界だったろう。
 自分が生きるために他を餌食にしよう、と考えた最初のエゴイストは誰なのか。
 以来、生きとし生けるものが全員そろって幸せになれる可能性は絶たれてしまった……。

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6/28(月) 日々、瞬々刻々、膨大な数の命が悲鳴を上げながら食べられていく中で、生きとし生けるものが幸せであれと祈っているのだ……。

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6/27(日) 自分が生き残るために、他の生命を殺して食べるのが原則となった地球では、自分を守り、家族を守り、群れを守ろうとして日夜、死闘を繰り広げるのが当たり前のことになった。
 昆虫も魚も爬虫類も哺乳類も人類も、生きていくために毎日、どれほどの命を殺して食物にしているのだろうか。
 地球を覆いつくすように営まれている、恐ろしい命というシステム……。 

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6/26(土) 見たのは私、聞いたのは私、味わったのは私、考えたのは私……と、六門で知覚される全ての経験を一つに統合した方が良かったのだ。
 我が身を守り、自分に所属するものを守るためには……。
 電撃的な反応で敵対するものや獲物に襲いかかるためには……。

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6/25(金)  なぜ、これほどまでに、あるがままに視ることが難しいのだろう。
 客観的に、公平に、正しく観ることを妨げている元凶は、自己保存の本能に根ざしている。

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6/24(木) 魅了される妄想と幻滅する妄想……。 
 妄想の素材となった情報が心に取り込まれていく瞬間に、最初の歪みが発生する。
 自己中心的な視座ゆえに……。
 何を見ても聞いても真っ先にからみ着いていく劣等感ゆえに……。
 どうしても手に入れたいという執念が作られた幼少期の体験ゆえに……。

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6/23(水) この人だ!……と、勝手な妄想で神格化し、崇めたてまつる。
 ネガティブに絞り込んだ目撃情報の断片と伝聞を妄想でまとめ上げて幻滅し、崩れた偶像に激しい怒りを叩きつけて去っていく。
 恋愛でも宗教でも政治でも企業でもどの分野どの業界でも、日々盛り上がっていく妄想と崩れ去っていく妄想が、寄せては引いていく波のように繰り返されている……。

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6/22(火) ポストを見た時に、前提となる手紙や郵便制度についての知識が何もなければ、「何やね、これは……」とキョトンとするだろう。
 雀や鳩に、ポストの認識が生じないのと同じである。
 目の前の事実を理解するためには、そのことに関する何らかの既有知識(スキーマ)がなければならない。
人は、先入観や思い込みで必ず事実を誤認し、自分の妄想の世界を作り上げてしまう所以である。

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6/21(月) 智慧の閃く時もあれば、煩悩にまみれてドス黒くなる時もある。
 どの一瞬一秒もそのとおりの真実だった。
 点描画やモザイクの点の集合のように、刹那刹那の真実が一つの印象に束ねられまとめ上げられていく妄想のプロセス……。

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6/20(日) 暴れまわる思考が終息すれば、なぜこんな愚かなことにとらわれていたのだろう……と我に返る時が来る……。

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6/19(土) 敬愛し頼りにしてきた人が倒れれば心は悲しみと絶望におおわれ、悪い体制が変われば一気に希望が生まれてくる。
 諸々の事象に反応して、人の心は変わっていく。  
 そしてまた、物事は心に基づき、心を主とし、心によって作り出されていく……。

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6/18(金) 急激に心の変わった人がそのままブレずに安定するケースは稀である。
 やがて海に注がれていくにしても、数学の直線のように流れる川は存在しない。
 引き潮になり満ち潮になるのも確かなことだが、引いては寄せ、寄せては引きながら緩やかに潮の流れも変わっていくではないか。
 行きつ戻りつ、迷いもためらいも同じ過ちも繰り返しながら、徐々に変化していくのが自然の律動だろう。
 揺るぎない決意があれば、いつか必ず、全てが変わっていく……。

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6/17(木) 後続を断ち切るだけが、サティの威力ではない。
 知覚した事実に気づく力は、現状をありのままに把握し、さらにその本質を見抜く洞察の智慧へと発展する。
 「気づき」と「洞察」によって、煩悩の対症療法も根本治療も可能となるヴィパッサナー瞑想。

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6/16(水) サティが入れば、その瞬間の心はプッツリと立ち消えになる。
 そのまま煩悩に流され不善業が集積されてしまうことを思えば、なんという救いだろう。
 まだ根治はできなくても、どんな症状もその瞬間に消すことができるのだ。

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6/15(火) 業論の法則が思い出されてくれば、「蒔いた種を刈り取らされているのだ。仕方がない。すべてを受け容れよう……」という気持ちになれるかもしれない。
 だが、ムカッとした瞬間、ドス黒い想念の渦に巻き込まれて頭の中がいっぱいになる。
 冷静さとともに正しい発想が再帰してくるまでは、「(自分が正しい)と思った」などとサティを入れる……。

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6/14(月) たとえどのような事が起きようとも、それにふさわしい自分だったのだから、甘んじて受けきっていく……。

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6/13(日) 転属された新しい職場では、妄想する暇がまったくないほど、過密なスケジュールを矢継ぎ早に片づけなければならなかった。
 すると、嫌悪や批判など不善心所系の妄想が自由にできた頃に比べて、格段に頭脳が明晰になり、さまざまな智慧が閃くようになったことに新鮮な驚きを覚えた、とレポートされた方もいる。

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6/12(土) 瞑想をして、思考モードをいったん離れた上での決断なら、それで良い。
 その事象を引き受けていく……。
 法としての事象に、元来、意味はないのだ。

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6/11(金) 選択に迷うことはない。
何を、どのように選ぼうとも、ドゥッカ(苦)が伴うのが現象の世界だ。
 そして、どんな苛酷な事態からも、最悪であるがゆえに逆に深い教えと最高の学びを学ぶことができる。
 忌まわしい不幸な出来事も、おめでたい慶事も、どちらでも良いのだ……と考えて、ウッペカー(捨)の道を行く。

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6/10(木) 10余人の修行僧と共に山奥の聖域で経を読み、サティとサマーディに専念する暮らしもあり得たが、欲望と不満が渦巻く猥雑な都会で電車に乗り、在家の初心者に瞑想を伝える日々となった。
 だが、その与えられた里の修行に取り組んで始めて、反応系の心の修行の重要さに目からウロコが落ち、総合的なシステムとして清浄道の瞑想を正確に理解することができた。
 なぜ、ほとんどの修行僧が命を懸け生涯を賭しても悟れぬまま死んでいくのか、その謎も解けてきた。
 情況に強いられるままに、必然の力で与えられた仕事を天職と心得、見るべきものを見、学ぶべきことを体で学び取っていくことが、その人の最良の道となる……。

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6/9(水) スリランカの森林僧院で四六時中、瞑想に没入する生活を選ぶこともできた。
 そうならなかったのは、エゴによる意志決定を排除する「全托」という生き方を拠りどころにしてきたからだ。
必然の力で展開するものごとの流れに身をゆだね、与えられたものをひたすら受け取りながら流されてきた結果、このような人生になっていた。
 日々、満足し、感謝を捧げているが、与えられるままにどこへでも流されていくし、留まり続けていても、どうでもよい、と感じている。
 ……こんなウッペカー(捨)の道もあろうか……。

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6/8(火) たった一日の生涯を終えたおびただしい数のウスバカゲロウが、夕べの河原に死屍累々と連なり、雨が降れば、そんな命の営みがあったことすら跡形もなく流れ去ってしまう。
 形あるものは壊れ、地勢も変わり、そこで営まれた生涯を証しする物が何もなくなり、心に記憶されたものまでもが色褪せ失われていく。 
 それでも日々、怒りの情念がほとばしり、恋情に身を焦がし、死に物狂いで出世を争い、財産を奪い合いながら輪廻を続けていく……。

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6/7(月) もし同じ記憶を分かち合う人がいなかったら、かけがえのない過去が存在したのだという確証をどうやって得ようか。
 記憶は絶えず修正され、まっ白にもまっ黒にも特徴が誇張され、何が本当なのかわからなくなったまま風化し、おぼろに薄らいでやがて失われていく……。
 浪速のことは言わずもがな、妄想の世界も真実の世界も、各人各様に輝いた人生最高の瞬間もまた露と消えゆき、夢のまた夢になっていく……。

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6/6(日) 若い頃、武家点前の石州流で茶道を数年間習っていた。
 小田急沿線の師匠宅の茶室で静かな時の流れに身を置き、しばしば相対で稽古をつけていただいた。
 身辺の変化から稽古を止めて数年後、可愛がってくれた師匠がこの世を去り、その葬儀の日からさらに10年の歳月が流れたある日、当時の稽古仲間と沿線に降り立ったことから、昔日の面影をしのびたくなり、師匠の家を訪ねてみた。
 すると、辺りは区画整理がなされ、茶室も居宅も跡形もなく消え去り、無粋な駐車場と化した空間が広がっていた……。
 愕然として、思わず顔を見合わせた。
 袱紗をさばいた感覚も、師匠の温顔も、茶釜の湯が黒焼きの椀に落下していく水音も、床の間の砂壁も掛け軸も家屋までもが夢のように消え去っていくという、言い知れぬ無常感に立ち尽くしていた……。

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6/5(土) どことなく見覚えのある感じもするが、それにしてもペラペラよく喋るおばはんやな……と思いながらよく見ると、かつて美少女として人気のあった下級生だった。
 50年ぶりに生まれ故郷で暮らし始めて2ヶ月が経った。
 下天(欲界天の最下層)の一日は人間界の50年と言われるが、区画整理され激しく変貌した町並みの所どころに残った幼年時代の路地を歩くと、遠い日の原風景にタイムスリップしていく。
 住人も建物も見知らぬたたずまいが増えたなかに、廃屋となって時の流れの中に封印されてしまった懐かしい家屋や板塀や看板が、白黒映画のように古色蒼然と静まり返っている……。
 邯鄲一炊の夢……。

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6/4(金) 因縁によって始まり、因縁によって終焉する。  受けるべきものを受け、なすべきことがなされれば、苦も楽も善も悪も、あるがまま、あったがままでよいのだと心得る。

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6/3(木) 「は」と我に返り、握り締め執着していたことに気づいた瞬間、心と体のテンションが解放され、苦しかったものが雲散霧消していく……。

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6/2(水) 輝きを放っていた瞬間もあったのだ。
 粛々と、静かに、心の中で見送らなければならない……。

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6/1(火) 苦が続いても苦が乗り超えられても、幸せが続いてもその幸せが崩れ去っても、それはただそれだけのことであって、理法に基づいて淡々となすべきことをなしていく……。

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5/31(月) なぜ、老母の介護をしながら心地よさを感じるのだろう、と分析した。
 ティッシュを取ってあげてもジュースを注いであげても、どんな些細なことに対しても、母は必ず「ありがとう」と言う。
 「お母さん、ちょっと待っててね」
 「はい」
 「お母さん、それは中止して、しばらくこれを読んでいてちょうだい」
 「はい」
 幼稚園生が先生にお返事するように、母は常に「はい」と丁寧に答える。
 ……日々の挨拶や話し方など変哲もないごく普通の態度や仕草や表情の重要さを痛感した。
 心の基本的な波動が表にあらわれ、人に伝わっていく……。 

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5/30(日) 貪瞋痴の煩悩をほしいままにすれば、苦に満ちた人生の原因となる。 
 生存そのものにドゥッカ(苦)が内在する所以である。
 一切皆苦のシステムに逆らって、煩悩から離脱していく清浄道を往く難しさ……。

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5/29(土) 仏教など知らなくても十分に生きていくことができる。
 人間も鳥獣虫魚も、みな仏教など拠りどころにしないで生きている。
 苦に満ちた人生がある。
 ごくまれに、限りなく苦のない人生がある……。

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5/28(金) 本当に嫌だったら、破壊するか、作り直すか、改めるか、逃げ出すだろう。
 その状態にとどまつている限り、やがてそれを容認していくのが人の心である。

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5/27(木) 否定する心は、嫌う心に、怒る心に、恨む心に、憎む心に……エスカレートしていく。
怒りのエネルギーを使わなくては、好きだったものを断ち切ることができない。
怒りもあれば、愛もあるので、未練が残る……。

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5/26(水) 黙って、静かに離れていく人もいる。
 それまでの全てを激しく否定し、強い反動のエネルギーで、これ見よがしに正反対の生き様に耽る者もいる……。

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5/25(火) 何度も何度も同じ失敗を繰り返しては自己嫌悪にまみれる。
 挫折感に打ちひしがれながら、我が身の煩悩の泥深さを痛感する。
 本当に心は変わっていくのだろうか……。
 他の人には真実であっても、自分には当てはまらないのではないだろうか……。
 煩悩を滅尽させていく道を示したブッダに疑念が生じる……。

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5/24(月) 一歩一歩、一段一段、額に汗しながらようやっと頂きにたどり着くのだが、そこから滑り降りるのも舞い降りるのも転げ落ちるのも一気呵成、瞬く間に元の木阿弥になっていく……。

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5/23(日) 道を踏み外した自覚が欠落しているがゆえに、自分の正しさを声高にがなり立てる。 
 ブッダの遺骨やエメラルドで作られた仏像をめぐって戦争でまでした王たちもいる。
 悟りを開けるだけの波羅蜜を具有してこの世に誕生しながら、その徳を湯水のように費消して老残の身をさらした者を見て、阿羅漢のみに特有の笑みを浮かべて黙視するしかなかったというブッダの伝承……。

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5/22(土) 仏教を学び、その知識を増大させていく人たちは大勢いる。
 信じたものに対して強烈にのめり込んでいく信仰の人も多い。
 業論を信じて、何がなんでも良い現象に恵まれようと善行をやりまくっている人も少なくない。
 学び、信じ、実践していても、イザという土壇場になると、煩悩に激しくのめり込んでいくとは……。

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5/21(金) 黒い者はより黒くなり、赤い者はさらに赤くなっていく。
 物ごとには勢いがある……。
 因縁を解くために今回の生が与えられたはずなのに、そうなるだけの徳もありその流れに乗ったかのようにも見えたのに、生来の基本傾向に「あ」と言う間に原点回帰していく人たち……。

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5/20(木) ドゥッカ(苦)の意味を知り、苦から学び、苦を受け容れていく。
 徳を積み幸せになっても、その幸福が変滅し崩折れていくことを、身をもって検証する。
 幸福と不幸の無常性、現象世界の変滅性、生存の世界をグルグルと輪廻していく虚妄さが腹に落ちていったとき、原始仏教の瞑想の仕事が始まる……。

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5/19(水) 「必要」というより「必然」だった、と言うべきだろう。
 泣きっ面に蜂の苦しい日々となったのも、自分自身が過去にその種をばら撒いてきたからであった。 
因果の理法を心得なかった無明を恥じ、因縁の流れに従いきっていくと心を定めてしまえば、どんなことでも淡々と受け容れていくことができるのではないか……。

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5/18(火) 不善業の帰結として襲来する苦難の道こそ、人を成長させてくれる最高の現場なのだ、と覚悟を定めておく。
 本当は必要だったから、そのドゥッカ(苦)が与えられたのだ……。

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5/17(月) 本当に必要なものは、必ず与えられる。
どうしても手に入らないものは、必要がないからであり、そんなものがなくても立派に生きていけるからなのだと考える……。

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5/16(日) 好き・嫌い…と反応する叙情的な世界にこだわる限り、苦は必ず襲来するだろう。
 因縁によって生起し、無常に変滅する現象の世界にどっぷり漬かりながら、何もかも全てを好きになろうというのだろうか……。
 愛しくてならないのも、嫌でならないのも、瞑想が深まった静けさの中ではともに超越され、達観されていく。
 上昇気流に乗って、8000メートルのヒマラヤの山を越えていくアネハヅルの眼には、愛憎に蠢く地表のゴミタメの世界はどのように映るのだろうか……。

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5/15(土) 「私の街」「私の大好きな人」……と言語化された瞬間、ブレていたカメラがぴたりとフォーカスされたように、ネガティブな印象が色褪せ失われていく。
 あんなに嫌で嫌でならなかったのに、心がいったん受け容れると、すべてが肯定されていく。
 何でもない表情や仕草が可愛いと感じられ、変哲もない佇まいに情趣が漂う……。

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5/14(金) よし、この人と一緒にやっていこう。
 この街で生きていこう……と、ひとたび腹をくくれば、その瞬間から人も街も環境も全てが一変する……。

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5/13(木) 過ぎ去ってしまえば、絶対絶命のピンチや希望の見えない逆境の中で必死で生き抜いていた時代が最も輝いていたのではないか……。
 砂漠のような枯渇した砂地にこそ、満々と水分を含んだスイカや瓜類が実る。

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5/12(水) なぜ、苦しい出来事に遭遇してしまうのか……。
 その種を蒔いたのはかつての自分自身の言動だったのだから、何事も自業自得と心得て引き受けていくしかないではないか。
 心が折れるほど苦しいのであれば、後日に先送りするのもよい。
 心底から因果を理解すれば、乗り超える力がみなぎってくるし、耐えるべきものにも潔く耐えられるものです。

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5/11(火) たとえ茨の道であっても、わが身に起きる一切の出来事を引き受けていく覚悟……。

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5/10(月) それはそれとして、自分には自分の身の丈に合った現場がある。
 やれることもあるし、やれないこともあるが、与えられたこと、なすべきことを全力でなし遂げていくほかはない……。

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5/9(日) <ひとを生存に縛りつける原因となる(妄執から生ずるもの)をいささかももたない修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。―蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。>【ブッダのことば「(スッタニパータ)1-16」岩波文庫】

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5/8(土) <想念を焼き尽くして余すことなく、心の内がよく整えられた修行者は、この世とかの
世とをともに捨て去る。―蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。>【ブッダのことば「(スッタニパータ)1-7」岩波文庫】

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5/7(金) 反応系の心のプログラムを根底から一変させてしまう人たちもいる。
 「想(サンニャー)」が働き、六門から飛び込んできた情報が知覚されようとする瞬間、離脱の意識が発火してしまう特殊な瞑想をしている人たちも、ごく稀にはいる。
 この世の一切が超えられ、苦しみの根本が終滅する……。

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5/6(木) 過ぎ去った日の情景が心を過った瞬間、懐かしい情感で心が一杯になっていく……。
 涙ぐむこともあるし、恥ずかしさで顔を赤らめることもあるだろう。
 六門から入ってくる情報は自動的に知覚されてしまうし、その情報に対して瞬間起動で反応していく心のシステムも変えがたい。
 それゆえに、危険を察知した亀が首を引っ込めるように、心が無意識に流されていくのを阻止しなければならない。
 無自覚でいるのは危険な状態だと心得て、サティを入れる……。

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5/5(水) 思考を止める前に、テレビとパソコンと音楽の端末を止めなければならない。
 対人関係から受け取る情報も、孤独な環境で外界から受け取る情報も、心の矢印が外側に向いていることに変わりはない。
 外側に向いている意識の矢は、脳内イメージや思念をターゲット(標的)にして突き刺さっていく。
 乱心・乱想の所以である。
 外の世界も内の世界も、無常に変滅し苦に満ちていて、大した世界ではない、と達観すると、心は鎮まっていく……。
 静かになった心には、真実を見る準備がととのう……。

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5/4(火) 独りになったら、思考モードを離れる時間を、毎日作らなければならない。
 外界の情報を取りにいく意識も、脳内データを探しにいく意識も、対他的であって対自的ではない。
 意識の矢印が外側に向けられているかぎり、わが身を振り返り、自分自身を客観視する内省的モードにはなれないだろう。
 独りになって、思考を止め、瞑想をする意義……。

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5/3(月) 独りになる時間を、毎日作らなければならない。
 人の中にいれば、相手の状態に気を配り、会話の意味内容を理解し、情況を把握するために意識の矢印は常に外側に向けられていく。
 自分自身を対象化して見る視線ではない。
 習慣化され癖になった心の反応パターンが、自動的に、無自覚に立ち上がってしまう。
 これまでさんざん繰り返してきたように、バカなことを言い、人を傷つけ、失態を演じていく……。

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5/2(日) 凡夫の身ゆえに、ダンマ(法)に貫かれている感覚を維持しきれない悲しさ……。
 仕事モード、日常モード、思考モードになれば、いつの間にかエゴが息を吹き返していく。
 自己中心的な煩悩の発想を何とも思わず、のめり込み、熱くなり、対象化も自己客観視も忘れ去られてしまう。
 瞑想をやめるわけにはいかない……。

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5/1(土) どんな音にも思考にも感覚にも正確にサティが入り始め、中心対象の鮮明さがいや増し、本物の瞑想状態が展開し始めると、薄汚れた煩悩の想いにのめり込んで固まってしまっていたことが痛切に実感される……。
 それまで陥っていた自分の意識状態がきれいに対象化さた瞬間、夢から醒めたような感動が心に広がっていく……。

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4/30(金) 自分の力を最高度に発揮するためには、「私が…、俺が…、自分が…」のエゴ意識を一掃しなければならない。
 対象をあるがままに認識し、客観的な正しい判断と意志決定がくだされるためにも、エゴ妄想の介入を許してはならない。
 その瞬間に気づこうとするサティの技術と、わが身を三宝に委ねきろうとする瞬間の発想……。

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4/29(木) もし危ない局面に立たされているのであれば、エゴの判断が極力入らないように、三宝に痛切に祈るべきである。
 「道を踏み外すことなく、正しく生きていけるように導いてください。
 真理の道を歩み抜くことができますように……」

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4/28(水) 濃密な男女の愛や肉親の愛ではない。
 妄想が止まれば思考のプロセスから生まれてくるエゴ感覚も消失し、喜怒哀楽の感情的反応が機能しなくなるからだ。
 出力される愛情の温度も強度も変わらないが、淡々と、ただ一方的に出力されているだけの状態となった慈悲……。

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4/27(火) これまでともに生きてきた様々な思い出が、一瞬にして脳内を駆け巡り、涙が溢れ出す……。
 「妄想」とサティを入れる。
 情緒的反応が止まり、涙は瞬時に乾く。
 苦のない人生とは、妄想を離れた人となり、喜怒哀楽を超越して生きることだ。
 瞑想の充実と輝きに感動したことのない向きには、味もそっけもなくて耐えがたいと感じられるのかもしれない……。 

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4/26(月) 幸福を破壊するいかなる悪にも手を染めず、あらゆるチャンスに徳を積み続ければ、人は必ず幸福になれる。 
 その幸福の限界を身をもって知り尽くし、全てが一時的であることを思い知る……。

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4/25(日) 幸福を味わい尽くさなければならない……。

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4/24(土) 何もない絶無の状態となり、自分の存在が永遠に消されてしまうのではないか……と妄想し、死を怖れる人たち……。
 本当は、否応なしに再生し、永遠に存在を続けなければならない苦しみなのだが……。

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4/23(金) 輪廻の流れを超えるために、瞑想修行に命を懸ける人たちもいる。 
 毎日10分間の瞑想ノルマを果たすのも容易ではない在家の私たちとは、レベルが違うのだ。
 そのような、存在の最終ステージに入るためには、果てしなく徳を積みながら波羅蜜の熟していくのを待たなければならない。
 見るべきものを見、経験すべきことを経験し、人に愛され、自ら優しさと真の慈悲を発信することができるようになり、善い人生を生き、きれいな心で、良き再生を繰り返していった果てに到達していく順番だと心得る……。

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4/22(木) 人は、一人では死んでいくことはできない。 
 嫌悪と恐怖と絶望感に打ちひしがれた孤独な断末魔を迎える人も少なくないが、良い死とは言えない。
 心から愛してくれる家族に見守られ、良い人生だったと頷きながら、安らかに死の瞬間(死心)を受け容れていくべきだろう。
 安心して、きれいな心で、この世に幕を引き、次の生涯に再生していけるように、優しい波動で誰かが看取り、その介添えをしてあげなければならない……。

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4/21(水) 年老いて抑制系の脳の働きが悪くなると、ワガママや怒り、猜疑心、吝嗇などさまざまな煩悩が露わになり、老醜をさらすケースが少なくない。
 過去世から担ってきたもの(有分心)と、人生最初期に刷り込まれた「三つ子の魂」がストレートに表出されてしまうからだ。
 2年後には90歳になる老母の、そんな醜さを見るのは辛いことだろうなと覚悟していた。
 しかし、若い頃からとても素直な人だったが、老いて母の心の奥底から露わになってきたのは、思わず胸を衝かれるほどの無類の素直さだった。
 同居を開始して今までまったく見えなかった母の真の姿が目の当たりになってきたが、童女のような可愛さと無垢な心に感動する日々となった……。

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4/20(火) <悪いことをしたときには気をゆるすな。その悪いことが、ずっと昔にしたことだとか、遠いところでしたことであっても、気をゆるすな。秘密のうちにしたことであっても、気をゆるすな。それの報いがあるのだから、気をゆるすな。>【感興のことば「(ウダーナヴァルガ)28-30」岩波文庫】

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4/19(月) 人が見ていても見ていなくても、熟したリンゴは落下し、谷間の百合は花開き、萎れ、枯れ果てていく。
 そのように、反応系の心から出力された意志的行為は自動的に業を作り、やがて、その結果を未来に刈り取ることになる。
 その因果応報の正確さゆえに、天が全てを見通しているかのような印象となり、「天網恢恢疎にして漏らさず(老子)」などと表現されてきた。

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4/18(日) 人が計らったいかなることも、最後には結局、バレてしまうものだ。
全ては、天の知るところとなる……。

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4/17(土) 顔も体も全身すっぽり覆面におおわれて完全な匿名性が保証されると、とたんに社会的な抑制が外れて、本性がムキ出しになる。
 絶対にバレないし捕まらない……と判明するや、それまで気が小さくておとなしかった者にも盗みの心が鎌首をもたげ、性的放埓が始まり、暴君のように煩悩をほしいままにし始める。
 本当は、因果論など何も解ってはいなかったのだ……。

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4/16(金) 欲と怒りのどす黒い想念の渦に、光明が射し込む一瞬もある。
ハッと我に返った瞬間、君子は素早く法の世界の感覚に立ち戻り、豹変する。
 一度は確かに脳裡を掠めているのだが、自分とは関係ないことのようにぼんやり見送って、再びむらむらと充血した煩悩に巻き込まれていく人たち……。

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4/15(木) ブッダの時代から、地獄に堕ちた比丘は少なくない。
 ブッダのサンガを支えた功績では比類のなかった王妃マリーカも、微罪ゆえに地獄に堕ちた。
 圧倒的な徳の分量ゆえに、いや、犯した悪の少なさゆえに、地獄での滞在期間は7日間だったともいう。
 どれほどクーサラ(善行)をしていても、安心しきることはできない。
 たとえわずかであっても、悪をなすことを怖れなければならない……。

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4/14(水) 今、自分は悪をしているという自覚があれば、つまりサティがあれば、悪いことを止めるだろう。
煩悩に巻き込まれると、人は、巧妙に自分に言い訳をする……。

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4/13(火) だが、全てを失い、何もかも終わった時にそう言えるのであって、渦中にいる時には妄執の嵐が吹き荒れ、情けない、あられもない醜態を演じてしまうものだ。
 人は善行もするが、煩悩に衝き動かされて不善もなす……。

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4/12(月) もし心から受け容れることができれば、今、自分に与えられている家族が、友が、仕事が、環境が、一切が…最高の輝きを放ち始める……。

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4/11(日) のめり込み、巻き込まれ、熱くなる、エゴ。
 淡々と、正確に、客観的に、ありのままに観る、サティ。

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4/10(土) 内容の如何を問わず、今の瞬間をことごとく対象化しようとする精神。
 サティが入る瞬間の無執着性。

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4/9(金) 知的に納得はしていても心の中で終わりにできなければ、未練が残る。
 そんな未練がましい自分を否定する心があれば、自分を見失っていく。
 「抑圧」されたものは、自覚できない。
 本気モードで執われているものも、その切実さゆえに盲点になって気づくことができない。
 エゴをあるがままに観ることは難しい……。

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4/8(木) 妄想が生み出すエゴ感覚を、絶対的な存在に明け渡し委ねきるのも、エゴを超える有力な方法である。
 だが、委ねるものも委ねられるものも思考のプロセスから生まれる印象に過ぎず、究極ではない。
 エゴ意識が生まれてくる構造を理解し、法としての存在と識別しなければならない……。

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4/7(水) スポーツだけではない。
 芸術も技能もどんな仕事も、思考モードから自我意識が生まれ、成功にこだわった妄想でプレッシャーに押しつぶされていく。
 最高のパフォーマンスは、その時やるべきことに100%集中した、忘我の状態から生まれる。
 思考が止まれば、体に刻み込まれた習練の成果が「独り働き」を始める……。

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4/6(火) 100分の1秒の差が勝敗を決する格闘技やスピード競技では、たとえ一瞬でも余計なことを考えている暇はない。
 刹那刹那の現状把握と反射的な反応に、全神経が研ぎ澄まされている。
 こうして見ると、「私が……」「俺が……」のエゴ感覚や自我意識が、思考のプロセスから生まれてくる妄想だということがよく分かる。

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4/5(月) それでもふと気づくと、上手くやろうとひとり気をもんでいる。
 問題を勝手に背負いこんで、何もかも全部自分でやろうと必死になっている。
 手足や体がいつの間にか汚れてくるように、エゴ意識が巧妙に息を吹き返して取りしきっているのだ。
 三宝にエゴを明け渡し、一切を委ねきっている全托の修行者も、対策を講じないわけではない。
 問題点を洗い出し、原因を究明し、必要な情報を仕込み、念入りに練習もするだろう。
 やるべきことは何ひとつ変わらないのだが、ダンマが自分を通して立ち働くのを眺めるかのように、淡々となすべきことをなし、どうなろうとその結果は私の知ったことではない、と言わんばかりに心配も不安も怖れもない……。

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4/4(日) 法に身を委ねきる覚悟が定まれば、怖れるものは何もない……。

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4/3(土) たとえ悪い想念が渦巻いて心がどす黒く汚れてしまっても、崇高なものを切に求めた瞬間、身も心も一気に昇華されていく……。

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4/2(金) 過去の言動によって今経験する事柄が決まるのであれば、幸せになるためには、未来に向かって善行をするしかない。
 ……と、いくら言われても、反射的にカッと頭に来るし、貪り始めたら止まらない。
 あーあ、また、やっちゃった……と溜息を吐きながら、何度でもサティを入れる決心をしていきましょう。
*【1週間ぶりにパソコンが使用可能となり、メールとインターネットが復旧しました】

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4/1(木) 途方に暮れ、困り果てているときに、地獄で仏に会うように次々と素晴らしい方々が助けの手を差し伸べてくれる。
 天の筋書きで定まっていたかのような不可思議な印象。
 自分のような者でも多少は人に善いことをしていたのか、と過去世の自分に感謝したくなる。

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3/31(水) 何をどのようにやろうとも、人の努力をはるかに超えた、いかんともしがたい力で物事は展開していく。
 なぜそうなるのか、ならないのか‥‥。
 万物万象を支配している天が定めたかのような印象だが、本当は、直近の努力エネルギーと、はるかな過去から集積されてきた自らの業のエネルギーとが足し算された総和ではないのか……。

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3/30(火) 自信のない人は、どんなクーサラでもよいから善行に励むとよい。
 家族のために、友のために、地域のために、国のために、世界のため人類のために、ささやかながら何事か貢献できているという自己有用感……。
 善行のエネルギーが発生させる徳に守られ、不安も心配も怖れもない日々を生きる……。

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3/29(月) 家族を作り、友の存在を必要とし、さまざまな群れや集団や社会の中で共生しなければ生存できないのが人間である。
 自己保存の本能に由来するエゴイズムは全ての生物に共通だが、他者を慈しみ、仲間を求め、人のためにお役に立てることに喜びを感じるプログラムも遺伝的に組み込まれている。
 自分のことしか考えていない時の後ろめたさ。 
 善行をした後の清々しさ……。

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3/28(日) 自分は何の役にも立たない存在だ、と自己否定を繰り返していれば、心も体も萎れて生命は輝かない。
 人に喜んでもらえることをした、自分は誰かの役に立っていると感じられるので、人は生きていける……。

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3/27(土) 通奏低音のように繰り返されていた思考のループが対象化され、無明の闇が破れ、智慧の光が点る瞬間……。

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3/26(金) 夢から醒めたように、憑きものが落ちたように、停電が復旧し突然、明かるさが戻ったかのように、今まで自分は何をしていたのだろう……と心底から我に返ることがある。

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3/25(木) 瞑想をすれば、普通の考えも、黒い想念の渦も、思考の流れそのものが止められていく。
 電源をoffにしたパソコンのように、駆け回る思考で熱くなっていた脳内に静けさが広がっていく……。
 心に冷静さがもどる。
 煩悩の心には煩悩の心が接続するように、サティという善心所からは諸々の善心所が生まれてくる……。

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3/24(水) なんとなく後味が悪く、理由もなくイライラし、暗く、重たく、嫌な感じにモヤモヤと包まれ、何をしても悪化していく……。
 貪っても、怒りを爆発させても、その後に続く不善心所モードの特徴だ。
 汚れた水が、砂や活性炭やセルロースを通過するときれいに浄化されるように、瞑想は汚れた心を浄化する……。

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3/23(火) 業の世界で幸せを得たければ、業の世界を貫く因果の理法に従う……。
 幸福の無常性と不満足性を痛感すれば、この世の禍福を超える瞑想に魅了されるだろう。

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3/22(月) 法としてのあるがままの立場から達観できれば、どんなものも等価に眺めることができ、苦楽が超越されるだろう。
 そんな境地は早過ぎるというのであれば、しっかり瞑想をして、この世的な成功をもたらす智慧の恩恵に浴すのもよい。

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3/21(日) 瞑想が上手くいけば、心がリセットされる。
 思考モードを離れるからだ。
 想いの世界からエゴ意識が生まれ、成功や失敗、利害や得失に振りまわされる苦楽の世界が始まっていく……。

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3/20(土) 流れが良いのも悪いのも、しょせん一時的なことだ。
 最高に輝く瞬間も、最悪の状態も、やがて変滅していくではないか。
 静かに、澄みきった心になれば、どんなものもやって来るがままに受け入れることができ、どこからでも等しく学ぶことができる……。

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3/19(金) どうしていいのか、わからない。
 心が千々に乱れて、何からどう手をつけていいのか途方に暮れるばかりだ。
 だが、そんな時だからこそ、瞑想をしなければならない。
 難局を乗り超えるには、心をシーンとさせて、冷静に、落ち着いて、瞑想がもたらす智慧に導かれていく……。

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3/18(木) 腹をくくって引き受ける覚悟が定まった瞬間、脳内編集の方針が一変する。
 今まで固執していたのが嘘のように、すべてを否定することも肯定することもできる……。

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3/17(水) 肩がぶつかっただけで激怒する人もいる。 
 痛みに腹を立てている訳ではない。
 「この私」という存在が侵害されたと感じて怒っているのだ。
 エゴの所有物という妄想は、心にも体にも衣服にも持物にも家族にも同胞にも、何にでも及んでいく……。

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3/16(火) これまでに何冊の本を読み、何本の映画を観、テレビやインターネットからどれほどの情報を受け取ってきたことだろう。
 他人の思想が、集団の意思が、時代の潮流が、自分の考えや経験と融合し、渾然と一体になっている。
 エゴの意思も、一皮剥けば、他人の考えの寄せ集めではないのか……。

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3/15(月) 自覚されているエゴの世界と、深層意識の本心との間には常にギャップがある。
 そのまま読み取ることはできない本心の意図も、無意識の態度や表情などに必ず現われてくる。
 優勢の法則に厳密に従って、無差別平等のサティを入れていくと、無意識の闇の中に沈んでいる本心が客観視されていくだろう。

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3/14(日) 失敗をすれば、痛切に反省し、もう一度初心に帰って謙虚に取り組み直すものである。
 なぜ失敗したか敗因の研究は、創造性開発の定番でもある。
 失敗から学ぶことの豊かさを思えば、成功して慢心するよりも良いくらいだ、とプラス思考をする。 
 ……そういうことが起きたのだと、ありのままに、等価に受け止めていく。

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3/13(土) 矛盾する情報が脳内を駆けめぐる状態になると、とたんに脳活動の仕事率は低下する。
 否定的な考えと肯定したい気持ちが行きつ戻りつする。
 疑う。迷う。後悔する。不安になる。ためらう。劣等感を蒸し返す……。
 その葛藤状態にサティが入れば、ネガティブな思考そのものが突然、消える。
 すべてを受け容れていこうと、腹がくくれれば、矛盾が根本から解消され、脳内は一本化される。
 「サティ」から「変容」の流れ……。

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3/12(金) 受け取ったものと同じものを与えてしまうのが人の常です。
 千の優しさをもらった人は千の優しさを与え、三百の優しさをもらった人は三百の優しさを自然に返してしまう。
 もらった優しさが多くても少なくても、過不足のない最高の優しさ(→慈悲)を発信できるようになるために、瞑想の修行がある……。

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3/11(木) 思わず苦笑してしまうほど正確に、業の結果が現れてくるものだ。
 怒りには怒りが、優しさには優しさが、冷たさには冷たさが、善行には善行に対応した出来事を経験することになる。
 まさに蒔いた種を刈り取っている日々、瞬々、刻々である。
 その因果の帰結が読み取れる人もいる。
 読み取れない人もいる……。

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3/10(水) 本当に危うい大変な情況であればこそ、心をリセットするために、瞑想しなければならない。
 どんな苦しみも、妄想の嵐から生まれてくる。
 暴れまわり心を駆けめぐる思考が鎮まれば、心に余裕が生まれ、静けさが広がっていく。
 腹をくくることができれば、どんな苦況でも楽しむことすらできる……。

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3/9(火) 死ぬのを恐れ、殺されることを何よりも嫌がるように設計されているのが生命だ。
 だが、本当は、死ねない苦しみなのではないか……。

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3/8(月) 意識が途絶え、眠りに落ちれば、生きていることも存在していることも何も分からなくなる……。
 そのまま、二度と目覚めることなく、永遠に絶無になれるのであれば、死も悪いものではない。
 死ねばまた必ず再生して、因縁に縛られた業の世界を、初めからやり直さなければならない……。

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3/7(日) 今からでも遅くはない。
 何をどうしていいのか、途方に暮れて立ち尽くすばかりであっても、諦めなければ、必ず道は開かれていく……。

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3/6(土) 苦受・楽受の経験はただそれだけのことであって、何も問題ではない。
 経験をどのように受け止め、どう理解していくかだ。
 楽受の経験から身を滅ぼすこともあり、苦受の経験を礎にして成功を収めることもできる。
 どの道を選び、どの方向に向かって人生を生きていくのか……。

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3/5(金) なぜ瞑想が、エゴを超越する営みになるのだろう。
 親しい人に対しても、嫌いな人に対しても、同じ想い同じクオリティの慈悲の瞑想を捧げるためには、エゴをいったんドブに捨てなければならない。
 サティの瞑想もまた、すべての対象を無差別平等に見なければならない。
 聞き惚れるような美しい音色も、不愉快な金属音も、同じ音として等価にラベリングしなければならない。
 懐かしい思い出も、血が逆流するような怒りの記憶も、どちらもただの妄想ではないか、という公平な視点からサティを入れなければならない。
 慈悲もサティも、エゴ意識が働くかぎり純粋な瞑想にはならないのだが、やがて必ず心は変容していく……。

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3/4(木) 魚には魚同士の水の世界がある。
 鳥には鳥同士の空の世界がある。
 人には人同士の地上の世界があり、感情と感情、思想と思想、エゴとエゴとが激突し、怒りをぶつけ合って人生の修羅場を生きている。
 空を飛ぶ鳥が地上を見下ろすように、トビウオが海原の上を滑空しながら水中の世界を眺めるように、エゴを超越する視点から達観しなければならない。
 その技法を「瞑想」と言う。

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3/3(水) 納得がいかなければ、心は本当には変わらない。
 相手の何に対して腹が立っているのか、怒りが由来してくる根本を分析してみる。
 腹が立った出来事のどの部分に怒りを感じるのか、それがなされた理由と原因と背景を思い起こし、それ対してなぜ怒りの情念が渦巻いてしまうのか、いつ頃から嫌悪を感じるようになり、そのきっかけは何だったのか……。
 いちばん頭に来るそのことを、自分は他人にしたことがなかったかどうかを調べ、腹を立てることによって得られるものと失うものとを比較し、ついでに仏教の業論を思い出してみる。……最後に慈悲の瞑想をする。
 こういうやり方をしている人もいる。

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3/2(火) 頭に来て憤懣やる方ない時に、これではいけないと、必死で慈悲の瞑想をする。
 言葉は「幸せでありますように」などと唱えているが、心の中では怒りのエネルギーが渦巻いている。
 それでも断固として繰り返し繰り返し、慈悲の瞑想を唱えて唱えて唱え続けていくうちに、だんだん頭と体が暖まってきて、ちょっとトロリとしてくる。
 ポーッとした感じになって、ひたすら慈悲の文言を唱えていると、なんだか自分も相手も一つの全体のような感じがしてくる……。
 ふと気づくと、もう怒りの情念はどこにもなく、地上で蠢いている自分と相手を、天空から見下ろしているような、ちょっと崇高な感じの心になっている……。
 タイプによるが、こんな慈悲の瞑想のやり方を得意にしている人もいる。 

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3/1(月) 名古屋から乗車してきたちょっと品のいいおばさんが2人、隣の席に座った。
 「ここ、よろしいですか?」
 「ええ、どうぞ。空いてます」
 と挨拶の言葉を交わしただけで、黙ってノートパソコンに集中しているうちに、2人連れは京都で下車する用意を始めた。
 「……あのう、これ、わたくしが今朝焼いたパンなんですけど、よろしかったら召し上がりません?」
 「え?!私にですか? はあ、そうですか、では、ありがたく頂戴いたします。ありがとうございます」
 にっこり微笑んで、下車していった。
 丁寧に包装された袋を開けると、イギリスパン風の半斤ほどのパンが入っていた。
 全ての仕事が終わった夜更けに、この日のメルヘン風な出来事を思い出し、優しい気持ちになった。感謝の念を捧げ、心から幸せを祈った。純度の高い慈悲の瞑想に集中することができた。
 とても温かい優しい気持ちと、捨(ウペッカー)のバランスが理想的だった……。

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2/28(日) 苦しくて、苦しくて、なんとか苦しい状態から脱け出したい一心で、必死に慈悲の瞑想をすることもある。
 苦しいのはまったく同じなのだが、セオリー通り、淡々と、ただ相手の方が良くなることを願って、慈悲の瞑想を捧げることもある。
 不思議にというか、当然というか、淡々と相手の幸いを祈った時のほうが、苦しみがなくなっている……。

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2/27(土) 優しさと智慧が一つになると、崇高な慈悲が発露する……。

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2/26(金) 愚行も失恋も挫折も大失敗も、ネガティブな経験がなかったら、心が成長することもない……。

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2/25(木) 邪悪な人間に出遭い、不快な出来事や不幸な事件に遭遇することが、どうして必要なものか……。
 そう考えるのも無理からぬことだが、あらゆる事象が因果のエネルギーで生滅しているのだ。
 苦を受けることにも意味がある。
 不善業が一つ消滅したことをありがたく受け容れて、心を汚さない……。

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2/24(水) 常に、必要な事が、必要な時に起きている……。

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2/23(火) 何万回も同じ発想と同じ反応を繰り返し、揺るぎない脳回路が形成された結果、ネガティブなキャラクターが作られていったのだ。
 その根深い傾向を塗り変えて、新しいパターンを脳回路に定着させる仕事がやすやすと達成されるだろうか。
 性懲りもなく巻きもどされ、元の木阿弥を繰り返すのは当たり前である。
 何度失敗しても、断じてブレない決意を堅持すれば、いつの日か必ず変わることができるだろう。
 正しい智慧で心底から理解され、決意されたことは、必ずそうなっていく……。

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2/22(月) たとえ渇愛が根強く残っていても、サティの技術が進化すれば、煩悩を機械的に封じ込めることができるだろう。
 渇愛を滅ぼすためには、現象世界の喜怒哀楽を達観する智慧が成長しなければならない。
 人生の修羅場で反応系の修行をする、と言ってもよい。
 目鼻がついたら、現象世界そのものの構造的苦である「サンカーラ(行)の苦」を目の当たりにしなければならない。
 ヴィパッサナー瞑想に着手する、と言ってもよい。

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2/21(日) 今、現実だったことが次の瞬間、概念化され、妄想や夢や思い出と同じ素材となって追憶の対象になっていく。
 過ぎ去ったことへの執着が、次の瞬間の新しい現実を見誤らせ、エゴの世界に苦を紡ぎ出す。
 頭の中を空っぽにし、今の瞬間に集中することができれば、<無常の苦>を乗り超える智慧が閃くのだが、そのサティが入らない……。

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2/20(土) 過ぎ去った遠い昔のことではあっても、そこだけは光り輝いていた自分の人生の一コマが、破裂するシャボン玉のように虚しく消えていく<無常の苦しみを感じました。
 今はどこにも存在しない、記憶という名の妄想に過ぎないのに、強く執着する心があるかぎり、消えていくのが、失われていくのが、たまらなく寂しく、苦しく、ドゥッカ(苦)なのだと思いました……。
 そのように所感を述べ、深々とお辞儀をして、面接の部屋から立ち去っていった。

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2/19(金) 両親に見守られ、遊園地で笑いながら木馬に乗っていた日もあった。
 山の上に行けば必ず無償の愛を注いでくれる祖父母も、その頃はいた。
 苦しい人生の中で束の間、黄金のように光り輝く幼少期の思い出が浮かび上ってくる……。
 「膨らみ・縮み」とサティを入れながら、浮かんでくるその掛けがえのない追憶のイメージに「妄想」とサティを入れて射ち落とす。 
 祖父母の笑顔、手を広げて迎えてくれる両親の顔、短かったが本当に幸せだった、宝物のような思い出が、「妄想」の一言で崩れ落ち、次々と消え去っていく……。
 たまらない虚しさと寂寥感が込み上げてきて、泣きそうになった自分にはサティが入りませんでした、とレポートした方がいる……。

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2/18(木) 好ましい現象が起きれば、導かれた結果と考え、感謝を捧げた。
 不愉快な苦の現象からは何を学べば良いのでしょうかと問うと、やがて泥が黄金に変わるようにその意味が露わになった。
 苦の現象も快の現象も、天から与えられたものであり、聖なる修行の完成に必要不可欠な事が起きるべくして起きているのだ、と受け止める。
 そんな「全托」の修行をしていると、どんなことが起きてもそれが自分には最高の出来事なのだと肯定できるようになっていく。

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2/17(水) 自分の意志で決めた人生なら、耐えられなかったかもしれない。
 何も願わずに、自然な展開で与えられたものをことごとく受け取っていく、「全托」の修行に打ち込んでいた。
 「あるがままに」全てを受け容れていくと、何かに導かれるようにさまざまな瞑想修行に専念することになっていった。
 ただ流れに従っていくだけの受動的な生き方に徹すると、過去世のカルマによって組み込まれた宿業が自ずから開示されていくのだろう……。

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2/16(火) 社会との接点がほとんどなくなり、誰からも認知されず、ただ引きこもって瞑想修行にのみ明け暮れていた。
 こんな生活をしていて本当によいのだろうか、この先どうなっていくのか、果たして修行のゴールに到達できるのか。……将来になんの展望も見えていなかった。 
 しかし、燃えるような思いで、私はやるであろう、必ずやり遂げるであろう、と毎日自らに言い、一瞬も自分を疑かったことはなかった……。

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2/15(月) ある日、飛び立てる瞬間が来る。
 単調な繰り返しや地道な努力が正しく積み重ねられていくと、全てが一点に集約し結晶する時が訪れる……。

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2/14(日) 一瞬一瞬、諸々の力が寄り集まって新たなものが形成され、更新され、変化し、滅していくサンカーラ(行)の構造で現象世界は成り立ち、展開している。
 諸々の力が展開していく方向を定めるのは意志(チェータナー)であり、その意志が作り出すカルマ(業)はサンカーラ(行)の別名ともなる。
 イメージ・トレーニングを繰り返したアスリート達が寸分たがわぬ結果を具現させるの  も、痛切に願い続ける願望がいつか必ず実現されていくのも、サンカーラ(行)の構造によって説明されるだろう。
 決意が全てを変えていく所以である。

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2/13(土) 魔法のように一瞬にして変わることはあり得ない。
 長年に渡って繰り返されてきた習慣的行為や習慣化された考え方が変容するのには時間がかかる。
 変わり方が急激だった人たちは、必ずのように揺りもどされていく。
 張り詰めた糸が切れるように、杳として消息が知れなくなる人も少なくない。
 正しい理論に基づく正確な習練を重ねて、ゆっくり変わっていくのが本物です。 

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2/12(金) 人物も、仕事も、趣味も、食べ物も、ファッションも……、
好き嫌いをなくすなんて、できるわけないでしょ。
 成功、出世、家族、財産、恋愛、プライド……、いかなるものに対しても無執着だなんて、あり得ないっていうか、人間業とは思えないよ。
 ヴィパッサナー瞑想を始めたんで、どんな音にも妄想にも囚われないで、サティを入れ続けたいんだけど、なんでこんな簡単なことができないのかわかんないよ、教えて、先生!

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2/11(木) 自分で自分がコントロールできなくなってしまう瞬間が必ずやってくるだろう。
 常識も理性も自意識もサティも何もかも吹き飛んで、どうしようもない力に呑み込まれ、怒涛のように押し流され漂着していく先は天国か地獄か……。
 自分の力ではどうしようもなくなった時に救ってくれるのは、自分のカルマだけである。
 死んだ後に持っていけるものも業だけである、と説かれる。
 今からでも、諸々の悪を避け、人のため世のために善をなしていく……。

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2/10(水) 正しかったのか間違っていたのか、誤解なのか思い込みだったのか冷静な客観視だったのか、本当のことは、結局わからないのだ。 
 たとえ無自覚でも無我夢中でも、受け取った情報に反応した心が業を作り、その必然的結果が濁流のように人生を押し流していく……。
 混沌とした無明の闇夜を照らすサティ(気づき)の瞑想……。

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2/9(火) 瞑想モード・ダンマモードが、跡形もなく霧消してしまうことのなんと早いことだろう。
 一夜明けて通勤ラッシュにもみくちゃにされれば…、職場の上司に呼ばれれば…、取引先からの電話に答え始めれば…、腹一杯食べて満腹すれば…、メールを打ち始めれば、好きな音楽やゲームに吸い込まれれば…、誰かに怒鳴られれば…、ザブン!と水に飛び込んだ瞬間のように、それだけで一杯になる。
 一日が終わり、やっと独りになって、ダンマのことを思い出し、ああ、瞑想か……。

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2/8(月) 雑念と戦いながら必死でサティを入れているときは、まだ普段の思考モードと大差がないのだ。
 ところが、急にサティを入れようとする努力が要らなくなり、全てのものが、音が消えたテレビ画面を見るような感じに映ってくる。
 一瞬一瞬の状態が難なく対象化されていくと、今まで頭にお椀をかぶった状態で生きていたのだとハッキリわかってくる。
 喜怒哀楽、不安、絶望、恐怖……に巻き込まれる思考モードとはこういうことだったか……と。

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2/7(日) テレビを消し、インターネットも携帯もOffにして、誰もいない孤独な空間に身を置いて、思考モードを離れた時間の豊かさ……。

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2/6(土) 瞑想をしない人には、孤独が身に沁みるかもしれない……。

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2/5(金) もし悪をなしているのであれば、時代によって、情況によって、偶然の出来事によって、業の法則によって、裁かれるだろう……。
 無明の悲しさを想い、「悲(カルナー)」の瞑想を捧げるばかりだ。

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2/4(木) 自分に被害を与え傷つけた人の頭上にも、満点の星が輝き、月光が平等に降り注いでいるではないか。
 ダンマを学んだのだから、理法に貫かれた視点に立って、見つめ直してみる……。

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2/3(水) 誤解が解けないなら解けないで、仕方がないではないか。
 心から幸いを願い、祈る心に一点の曇りもないのであれば、真意が伝わっても伝わらなくてもよいのだ。
 関係が修復されてもされなくても、慈悲のエネルギーは確実に届くであろうし、その結果ちょっとでも輝きを増した良い人生になってくれれば望むところではないか。
 見返りはゼロでも、いや、たとえ怒りや嫌悪の念を向けられようとも、黙って、慈悲の念を捧げていく……。

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2/2(火) 黙って耐え忍ぶしかない時もある。
 「忍耐は最上の苦行である」というブッダの言葉を思い出しながら、一群の不善業が過ぎ去るのを待つ。
 善業の結果である幸福も消え去っていくが、恐ろしい苦もやがて消えていく。
 万物の無常性を想い、やがて終わる日が来ると信じて、静かに、心を乱すことなく耐え忍ぶ……。

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2/1(月) 心が折れそうになってきたら、まだ残っている力でささやかな善行をする。
 独りではもう無理なら、仲間の力を借りて一緒にクーサラができる場へ這ってでも行く。
 安っぽい笑いでもお涙頂戴感動物でも、笑えば、涙を流せば、内分泌系が一変するので、暗転していく意識のチャンネルを換えることができる。
 人の力、環境の力、外側の力をいただいて、折れそうな心にスイッチを入れる……。

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1/31(日) 渾身の力を奮って、全力投球で、命懸けで、死に物狂いで……と言うが、火事場の馬鹿力が真の実力だとすると、その何割ぐらいになるのか……。
 自分のために発揮できる力よりも、愛する人のため、誰かを助けるため、皆んなのため、義のため、ダンマのため……の方が、より強大な力が出力される。

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1/30(土) きれいサッパリ諦めがついて、現状のまま楽しく生きていけると心から思えるのであれば、人生の禍福もカルマも、どうでもよいではないか。
 波瀾万丈が好きな人には、苦しみも不運もストレスも何もない、平穏な日々がえんえんと続いていけば、ウンザリして不幸と感じるだろう。
 花に嵐も良い……。

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1/29(金) わかりました、もうこのままで結構です、と心から受容できるのを待っていたかのように、情況が一変していく。
 業が尽きたので、諦観が完成するのだろうか。
 心の底から諦めがついた時に、業が尽きているのだろうか……。

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1/28(木) 「わが事において悔いず貪らず、揺るぎない捨(ウペッカー)の心を保持するにはどうしたらよいのでしょうか?」
 「あらゆる事象が因果のエネルギーの帰結した姿であって、すべて必然の力でそうなったのだと心得ること。
 何が起きようとも物事は必ず変滅していく、と無常性への理解を徹底すること。
 この2つを反応系の心に叩き込んで、サティを入れ続けることでしょうか」

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1/27(水) どんな宿業のエネルギーも、ひとたび現象化すればそれで終わるのだ。
 失意のどん底にいた日々も過ぎ去ったが、黄金時代も過ぎ去っていった……。

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1/26(火) 否応のない力で濁流に押し流されていくのを楽しみながら、自分の人生を生きていく……。

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1/25(月) 善いこともしたが、悪いこともした。人を助けたこともある。迷惑もかけてきた。バカにされたこともあれば、上から目線で見下したこともある。同じ人に、愛も憎しみも感じた。
 優しい心も、冷たい心も、どちらも本当だった……。
 あざなえる縄のごとくに、禍福の原因を自分でまき散らしてきたのだ。
 新たな業を作ろうが作るまいが、人生は混沌としたカオス状態のまま、否応のない力で変滅していく……。

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1/24(日) もし苦楽を等価に眺める捨(ウペッカー)の心を保持できるならば、受け身の人生に徹しきり、日々わが身に起きる出来事を、生起するがままに見物し、受け切っていくことができる。
 無願三昧の世界も、相当楽しい……。

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1/23(土) 不快な現状を乗り超えようと願うのも、実行するのも当然のことである。
 問題は、怒りを覚える前に、まず、事実をありのままに、冷静に認める精神が生まれるか否か……。
 苦の現状を正しく知るがゆえに、智慧が生まれ、慈悲の心が発露する。
 「事実の承認」→「乗り超える決意」→「祈る、実践する、改善する……」
 怒らなくても、苦を乗り超え、幸せになれる。

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1/22(金) 慈悲の瞑想をしても効果がない、とボヤく声も耳にする。
 幸せであれ、望みがかなえられるように、と祈る心に、怒りや嫌悪は含まれていないだろうか。
 現状を良しとせず不幸と認識するのはよいが、その状態を激しく嫌い、怒りの心で幸福を求めていないか。
 嫌悪とセットの慈悲の瞑想……?

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1/21(木) 業が尽き因縁の糸が切れれば、関係は自然に終息するだろう。
 複数の因縁が束ねられた強固な絆であれば、一本の糸が切れても他の糸によって支えられていく。善業の関係も不善業の関係も。
 否応のない力で日々わが身に生起する事象に一喜一憂すれば、反応するその心が新たな業を作り、輪廻の輪を永遠に回していくだろう……。
 涅槃を体験した心は、六門になだれ込むこの世の事象に一瞬たりとも振動することがない、不思議な静けさを保つ。
 果定という……。

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1/20(水) 業の引力に引き寄せられて出会い、縁が尽きれば別離していく……。
 善いカルマが働けば素晴らしい関係が花開き、不善業の因縁が帰結すれば自然な流れで悪しき逆縁の関係が形成されていくだろう。
 流れ落ちる滝のように、苦楽の事象は日々生滅する。
 善業がもたらす楽受の事象を貪らず、不善業の苦しい出来事に嫌悪や怒りの反応をしない。
 善業に対しても不善業に対しても、淡々と捨(ウペッカー)の心で静かに対応できるだろうか。
 それを目指していく心の清浄道……。

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1/19(火) こうして、足かけ5年に及ぶタイの瞑想遍歴は終わり、私は、もう一つの原始仏教の国ミャンマーを目指して飛び立っていった。一人の知人も友人もなく、チャンミーの寺のアドレス以外には一片の情報もなかったが、流れのままにどこへでも導かれていく覚悟が揺らいだことはなかった。
 だが、その覚悟が試されるかのように、雨のそぼ降る夕暮れに重いスーツケースを持ってチャンミーにたどり着くと、なんの手違いか私の予約の手紙は寺に届いていなかった。そして、雨安居真っ最中の寺は超満員で、飛び込み状態になった私が泊まれる部屋はどこにもなかった……。
 こうして、波瀾に満ちたミャンマーの遍歴が始まっていくのだが、いつの日かそれについて物語る日もあるだろう。

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1/18(月) やがて車はバンコックのバスターミナルに到着し、ウルパットは次に乗るべきバスに私を導いてくれた。初めて出会ったときから、なんの違和感もなく風通しよく話すことができ、私より5、6歳若かったはずなのに、長旅から帰った優しい兄のような印象だった。
 もしウルパットに出会わなければ、果たして原始仏教に対する私の「信(サッダー)」は今のように揺るぎないものになっていただろうか。真っ暗な夜の海で座礁した舟のように、その時の私は混乱し途方に暮れていた……。
 言い尽くせない感謝の念と、かたじけなさと、細密画のような回想シーンが高速度で心を飛び交っていた。これでもう本当に会えなくなり、ダンマについて話せなくなるのが信じられなかった。去りがたく、別離しがたく、思いっきりアチャンを抱きしめたかったが、静かに篤く礼を述べ、車窓から遠ざかっていく姿に手を振り続けた。涙が溢れそうになった……。

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1/17(日) ウルパットの少年時代に両親は離婚し、女手ひとつで育てられながら法律家を目指し大学を卒業した。一人息子だったのになぜ出家されたのか、と問うと、女癖の悪い身勝手な父親の血が自分の中にも流れているのを感じたからだ、という。
 その母親にも父親にも紹介していただいたが、ウルパットの優しさは母親から受け継がれ、人生に対する洞察力は父親とのネガティブな関係を通して育まれたように思われる。いつでも何処でもどのような話題が振られても、ウルパットに怒りの波動を感じたことは一度もなかった。その穏やかさは生来の資質もあろうが、自分を律する自己抑制力に負うところが大きいのかもしれない。
 緻密な論理を展開させていく能力は法律家の資質にふさわしく、厳密な守戒をことのほか重視する傾向も法律との関係が深いだろう。だがそれ以上に、戒の力によって自分自身が守られていると強く感じていたのかもしれない。
 誰に対しても常に優しく穏やかなウルパットだったが、私との関係にはやはり、過去世のカルマが働いていたような気がしてならない……。

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1/16(土) その日、ウルパットの寺に到着する前に、ここで仏教書を買いなさい、この学校で自分も講座を一つ持っている、とアチャンは私をバンコックのあちこちに連れていかれ、人に会えば、日本から来た瞑想者だ、と紹介してくださった。
 夕方になり、30人ぐらいの在家者が高層ビルの1Fに集合し、ウルパットを講師に90分ほどの仏教を学ぶ会が始まった。私も同席することになったが、まったく理解できないタイ語は、窓の外の樹木で飛び交う小鳥の囀りと変わらなかった。眼を開いたまま私は悠然と、六門解放型の法随観の瞑想に専念していた。こんな場所なのに、体調もよく集中が高まり、1秒間に5、6個の高速サティが60分ぐらい続いていた。
 会が終わり、バスを乗り継ぎながらウルパットの寺に向かっていると、アチャンは「私の講義中、レベルの高い瞑想をしていたようだね」と微笑みながら言った。
 説法比丘として道を定めていたウルパットには、瞑想に専念する時間はなかった。それゆえに、瞑想に全てを捧げた一途な私の生き方を応援したかったのだろうか……。

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1/15(金) びゅんびゅんと風に吹かれ声を嗄らしながら、アチャン・ウルパットとダンマを語り合えるのも今日が最後だった。
 ……ウルパットに連れられ、彼の常住するバンコック郊外の寺に滞在した日が思い出された。与えられたクーティで荷を解くと、短い祈りをすませて座る瞑想を始めた。窓の外には、ピンク色の夕焼け雲がしだいに茜色に変わっていくのが見えた。
 禅定感覚が深かったので、誰が来ても瞑想を続けようと決めていた。やがてクーティの外に、ゆっくりと踏みしめるように歩く足音が聞こえ、気配からウルパットであることが知られた。しかし、いつまで経ってもドアはノックされず、ウルパットは私の瞑想を邪魔しないように待ち続けていてくださった。
 多忙なウルパットをこれ以上申し訳ない、という念にうながされ立ち上がると、「この寺で最も波動の良い場所がある」と言い、木立の陰に白い廟がひっそりと静まっている不思議な空間に案内してくれた。果たして翌朝、朝靄に包まれた廟の前で私は、記念すべき最良の瞑想のひとつを体験することができた。
 ……たかが外国から来た一介の在家瞑想者に対して、なぜウルパットはこれほど優しく丁重に扱ってくださったのか……。

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1/14(木) バンコックに近づくにつれ、喧騒と蒸し暑さと粗悪な排気ガスで不快指数が増していった。エアコン付きの高速バスで移動したほうがはるかに快適だったろう。だが、幌のない後部座席で声を嗄らしながら話し、硬い木板の座席で激しく揺られ、汗ばんだ体が排気ガスと埃に汚れていく不快感こそ、アチャン・サンガー亡き後のワットKが私に示してくれた最後の好意の証しだった。
 最初はただ寺を去る時にお金を布施するしか能がなかったが、パイリーンの手ほどきで初めて食事の供養をさせていただき、食事の終わった70名の比丘が一斉に低声で唱和された経の美しさに心底、感動した。僧衣や托鉢の鉢、クーティの建設費、比丘のテキストや資料などダンマブック関係の予算、ガラス扉の調度家具に納めた諸々の常備薬一式、車のガソリンや交換用タイヤなど、多角的なお布施で徳を積むことを教えていただいたワットK……。
 寺から遠く離れ、軽トラックに揺られているこの期に及んで、ワットKの比丘の方々の無言の好意が生々しく迫ってきた……。

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1/13(水) どうしても送ってくださるという申し出を受け入れ、寺の車でワットKを去ることになった。寺の少年僧と、所用でバンコックに赴くアチャン・ウルパットと並んで軽トラックの後部座席に座り、風に吹かれながら出立した。雑草が生え土ぼこりの舞い上がる田舎道の臭いも、懐かしいこの田園風景も、おそらく、もう二度と目にすることはないのだろう。
 真のヴィパッサナー瞑想は心の清浄道であり、反応系の心も潜在意識の汚染も根底から完全に浄らかにしなければならない。「戒→定→慧」の三学の本当の深さを心得ず、どれほどサマーディの到達とサティの持続に没入しようとも、悟りの瞬間には到らないだろう。
 瞑想の技法上のことだけで頭が一杯だったその時の私は、そうした仏教の道の真髄を叩き込んでくれたのがワットKの人々だったことに気づかずに立ち去っていった……。

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1/12(火) ウ・ジャナカ・サヤドウからの返事はとうとう届かないまま、ワットKを去る日がやって来た。
 かつて海辺の寺でアムノイと別れた朝のような爽やかさはなかった。
 ワットKの人々を思い出すといまだに、日本の家族や肉親を想起した時と同じ情緒に襲われる。
 社会から完全にドロップアウトした、孤独な修行者だった私が、異国でこのような親密な師友が得られるとは夢想だにしていなかった。
 ……それなのに、今は道が違ってしまったのだ。いや、進むべき道は同じなのだが、旅程や方法が相違して、もう同行することができなくなってしまったのだ。
 あれほど多くのことを教えていただいたのに……と、溢れるような感謝に圧倒されながらも、私が去っていく真意を打ち明けることができないまま、別れていかなければならないやるせなさと、もどかしさだった……。

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1/11(月) 高床式の私のクーティで、私たちは、真紅のハイビスカスティーを飲みながら、互いに経験してきたこの2年間の瞑想とダンマについて語り合った。瞑想体験の最深部まで分かち合うことができる友のかけがえのなさを想った。
 日は暮れかかり、アムノイは、またあの海辺の寺に帰らなければならない。インストラクターをやって欲しいと再三再四頼まれても固く断って、自らに宿る法のみを拠りどころに、独り犀の角のように無師の道を歩んでいくという。
 アムノイを見送るために池の畔をゆっくり歩いていると、彼はポツリと言った。
 「君とは、過去世で従兄弟同士だったような気がするよ」
 そうだったかもしれないが、瞑想とダンマの話以外は一切しない私たちには、肉親の絆よりも法の縁がより強く働いていたのではないか……。
 縮緬のようなさざ波が立った池の波間には、ハイビスカスのような深紅の夕陽が照り映えていた。アムノイは静かに微笑しながら、夕陽のシルエットになって浮かび上がっていた……。

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1/10(日) ワットKのクーティを引き払い、ミャンマーへの出立に余念のなかったある日、寺の尼さんが私に来客だと伝えにきた。
 先生達を除いて人間関係など皆無の私に?……と訝りながらクーティを出て池の畔を歩いていくと、前方から、落ち着き払った足取りでゆっくりと近づいてくる男の姿が見えた。
 ……なんと、それは、海辺の寺から私を救い出してくれた、あのアムノイだった。こちらに気づくと立ち止まり、気品のある笑顔で言った。
 「君が今年もここに来ていると漏れ聞き、ふと、訪ねたくなったのだよ」と、まさにタイを去ろうとしている私に別れを告げにきたかのような絶妙のタイミングだった。
 アチャン・サンガーの死、ソンポールとパイリーンへの告別、タイを離れる私をバンコックで最後に見送ってくれたウルパット、そして、私のタイ遍歴を締めくくるかのように現れたアムノイ。
 ……まるで映画のようだった。

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1/9(土) 突然タイを去るという私の一方的な宣告を通訳するパイリーンも不意を打たれ、愕然となった。なんとかタイに引き止めようと、マハーシ・システムのマイナス点を早口で列挙しながら説得にかかったが、すぐに私の決意が揺らぐはずもないことを察した。
 パタパタとドミノが倒れるように、失望と怒りと悲しみと諦めと受容と友愛が、パイリーンの心の中で転変していくのが見えるかのようだった。サッと気持ちを切り換えると、遠い旅に出る家族を送り出す母親のモードに変わり、ミャンマーの僧院事情や注意すべき事柄を優しい口調で語り始めたのは見事だった。
 アチャン・サンガーの巨大な遺影を飾ったワットKは、長期間の喪に服しながら次期後継者問題で落ち着かなかった。ミャンマーへの航空券はすでに取得していたが、ヤンゴンのウ・ジャナカ・サヤドウからの返事がいまだに届かないのが一抹の気がかりだった。
 いよいよワットKを立ち去ろうとするある日、思いも寄らない光景に目を疑った……。

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1/8(金)剃髪の日が近づくと真っ白い坊主頭になっているソンポールに、今まで修行してきたあなたの方法はまちがっている、などと言えようはずはなかった。代案の方法を提示することもできなかった。
 ある時、ソンポールの常住するバンコックの寺の小道を二人だけで、並んで歩いたことがあった。お互いにまったく理解できないタイ語と英語をペラペラ喋りながら、何ひとつ困ることなく心が通じ合った。途中で尼さんと出会うたびに、ソンポールはニコニコしながら私を息子のように紹介してくれた。
 彼女の小さなクーティを見せていただき、甘くてピリリと辛いジンジャーティを夕べの飲物として作ってくださった。故郷の母親と同じ波動になっていた。
 ダンマに身を投じた厳しいソンポールが、たとえ一瞬でも、私の別離の言葉に凡夫のような愛執の反応をしたのはなぜだったのか……。

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1/7(木) 他の寺からの誘いを断って、アチャン・ソンポールはその年もワットKでの雨安居を決めた。私を指導するための配慮からだった。
 ある日、私は、かねてからの計画どおり、タイでの修行は終わったこと、今後ミャンマーで修行する旨をソンポールに伝えた。
 それを聞いた瞬間の彼女の驚きの顔を忘れることはできない。
 最愛の息子に裏切られたと知った母のような表情だった。
 お世話になった先生に、私は何ということをしているのだ……と自責の念でいっぱいになったが、私には新しい世界を見る必要がある、とだけ告げた。
 『申し訳ありません。赦してください……』と、胸が張り裂けそうな思いに駆られながら、私は心の中で呟いていた。

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1/6(水) その翌年、タイに出発する日が近づいたある日、アチャン・サンガーが危ないという手紙がパイリーンから届いた。
 バンコックに着いた翌日、市内の大きな病院にアチャン・サンガーを見舞った。比丘専用の病棟を探し、アチャンの病床に近づくと、満面の笑みで私を迎えてくれる力がまだ残っていた。
 言葉のコミュニケーションが取れなかったので、顔を見合わせ、万感の想いを込めて心の中で語りかけた。
 出会った最初の日からまるで息子か甥のように可愛がってくれたアチャン、ありがとう、と感謝の念を繰り返し捧げていた。
 アチャン・サンガーとの今生の別れだった。

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1/5(火) アチャン・ウルパットの寺に短期間滞在したこともあった。
 ミリンダ王のどのような問いにも見事な回答を与えるナーガセーナ比丘を彷彿とさせるウルパット。その薫陶を受けながらの僧院生活は素晴らしいものに想えた。もしウルパットが瞑想の師だったなら、出家して彼の弟子になる選択肢もあっただろう。
 だが、これまで10年の歳月、瞑想に命を懸けてきた私には、ただ比丘になるための出家などという人生はあり得なかった。
 何の保障もなく、誰からも認知されず、瞑想修行の行方がどうなるのか、未来は何も見えないまま、次に行くべきところに向かうしかなかった。
 最後の別れの瞬間まで、一貫して優しい心づかいと配慮に満ちた遇し方をしてくださったウルパットを想うと、胸が熱くなる……。

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1/4(月) 突然、パタリと風が止み、顔面や首筋に感じていた風圧と冷感が途絶えた。
 脳が直撃されるようなショックを感じた。
 1秒に10個ちかい高速のサティが入り続けていたので、思考のプロセスは完全に停止していた。
 その瞬間、何が意識を直撃していたのかを言語化すれば、熱帯の夕暮れの中を吹き過ぎていた涼風が突然消滅した無常性と、こちらの意志とは無関係な事象のコントロール不能性(諸法の無我性)ということになろうか。
 たかが夕暮れの微風に過ぎないが、この些細な体験によって私は、それまで長い時間を費やして検証してきたタイのシステムを放棄する心が決まった。
 どれほどわずかであっても、一瞬一瞬のサティにラベリングの概念が付着する瞑想からは、真の直観智が閃くことはないのだ。
 こうして私は、厳密な「法の確認のサティ」を説くことになっていく……。

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1/3(日) タイの瞑想方法には見極めがつき、ミャンマーやスリランカの新たな世界に分け入っていく機が熟したと感じた私は、本を頼りに、かねてより心惹かれていたモッコク・サヤドウの瞑想方法を試してみた。それは、六門に触れた全ての印象に徹底的にサティを入れていく法随観だった。
 すると、たちまち瞬間定がもどってきた。
 夕闇に包まれ始めたクーティの回廊を歩きながら、頬に当たる風、野犬の群れの吠え声、歩行感覚、リキシャーの警笛、力と輝きを失っていく夕焼けの残照、ギラついた真昼の陽射しの連想、したたり落ちる汗の感覚、熱風の印象……と、矢のように飛び込んでくる六門の知覚と、そこから叩き出されて脳内を駆け回る思考や連想を片っ端からサティで射ち落としていた……。

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1/2(土) 翌年も、その次の年も、私はワットKを拠点に、タイでの修行を続けた。
 アチャン・ソンポールの推奨で最も長く滞在した寺は、バンコックの一角に位置するワット・サンガチャイだった。驚いたことに、私に与えられたのは、僧院長専用のクーティだった。古い仏像が安置された大きな伽藍堂に隣接する修行用クーティだったが、高齢の僧院長は一度も使ったことがなく、私が最初の使用者になったと、ソンポールは可笑しくてたまらないというふうに笑った。
 この伽藍堂の周囲にめぐらされた歩行瞑想用の回廊は風通しがよく、眼下にバンコックの市街がはるか彼方まで見下ろすことができ、夕焼けのシルエットになった街並みは美しかった。伽藍堂にもクーティにもなぜか訪れてくる人はひとりもなく、一日中私が完全に独占して修行に専念することができた。
 2、3日に一度、私の瞑想指導のためにソンポールとパイリーンがわざわざやって来てくれたが、ここで私の心は整理され、タイの遍歴に区切りをつけることになった……。

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1/1(金) 盗まなければ、飢え死にする。殺さなければ、自分が殺される……。そんな事態に遭遇してしまう人生の流れが、宿業の結果なのだと考えられる。
 法として起きたことは起きたことで、その事実はいかんともしがたいのだが、次の瞬間、拒絶することも、逃げ出すことも、目を背けることも、ありのままに受け容れることも、何でもあり、なのだということ。
 何を選び、どのように反応するかを決めるのは、こちらの自由意志である。
 どのような事態も宿業の結果として受け容れるが、殺さない、盗まない、悪をなさないという人生を選ぶ……。

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