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仏教法話の翻訳-4

私たちの真の家―死の床にある老在家信者への法話 
  アチャン・チャー


 さあ、法に敬意を払いながら話を聞こうと心に決めなさい。私が話をしている間、ブッダご自身があなたの前に座っておられるかのように、私の言葉に集中しなさい。目を閉じて、リラックスして、心を落ち着かせ、一点に集中しなさい。完全なる覚者に敬意を示すために、智慧、真理、清浄の三宝を、謙虚な気持ちで心にとどめなさい。
 今日、あなたに渡すような物質的な物は何も持ってきていません。持ってきたのはブッダの教えである法だけです。良くお聞きなさい。あなたが理解しなければならないことは、大いなる徳を積み上げたブッダ御自身でさえ、肉体の死を避けることができなかったということです。ブッダは老齢に達されると、肉体を捨て、その重荷から解放されました。ですから、あなたも多くの年月を自分の肉体に頼ってきたことに満足することを学ばなければなりません。もう十分だと感じるべきなのです。
 このことは、あなたが長い間使ってきた食器―――例えば、皿やコップや受け皿―――に例えることができます。最初に手にした時にはきれいで輝いていたのに、長い間使うと傷み始めます。既に壊れてしまった物もあるし、無くなってしまった物もあります。残っている物はますます痛んでしまいます。食器には安定した形状などありません。食器の本性はそういうものなのです。
 あなたの肉体も同じです―――生まれたまさにその日から、幼年期、青年期を経て、老人となった今に至るまで、常に変化し続けてきました。そのことを受け入れなければなりません。ブッダは、「諸々の条件(行、サンカーラ)は、内的条件であれ、身体的条件であれ、外的条件であれ、無我であり、その本質は変化することである」と言われました。はっきりと理解するまで、この真理についてよく考えなさい。
 ここに衰弱して横たわっている非常に小さな肉の塊はサッチャダンマ、すなわち真実です。この肉体の真実はサッチャダンマ(真理の法)であり、それはブッダの不変の教えなのです。ブッダは私たちに、「肉体を見て、肉体についてよく考え、その本質を受け入れなさい」とお説きになりました。私たちは、肉体がどのような状態にあろうとも、肉体と平和に共存しなければなりません。ブッダは、「牢獄に閉じこめられているのは肉体だけであって、肉体と共に心も閉じこめられてはならないことを私たちは確認すべきだ」とお説きになりました。
 ですから、年を取るにつれてあなたの肉体が衰え、朽ち始めたとしても、それに抵抗してはいけません。心を肉体と共に朽ちさせてもいけません。心は切り離しておくのです。物事のあり方の真理を理解することによって、心にエネルギーを与えるのです。ブッダは、「これが肉体の本性であり、他のあり方は存在し得ない―――すなわち、肉体は生まれたからには、年を取り、病にかかり、そして死ぬ」とお説きになりました。これが、あなたが今直面している大いなる真理です。知恵をもって肉体を見て、そのことを理解しなさい。
 あなたの家が洪水に流されたり、全焼してしまうなど、どのような危険に脅かされようと、関係するのは家だけにしておきなさい。洪水があったとしても、あなたの心まで洪水に流されてはいけません。火事があったとしても、あなたの心まで焼かれてはいけません。洪水で流されたり、火事で焼かれたりするのは、あなたの外側のものである家だけにしておくのです。心が執着から離れるのを許しなさい。機は熟したのです。
 あなたは長い間生きてきました。目はとても多くの形や色を見てきました。耳は非常に多くの音を聞いてきました。あなたはとても多くの経験をしてきたのです。そして、それはそれだけのこと―――単なる経験でしかないのです、あなたはおいしい食べ物を食べてきましたが、おいしい味はすべて単なるおいしい味でしかなく、それ以上のものではありません。まずい味は単なるまずい味、それだけのことです。目が美しい形を見たとしても、それだけのこと、単に美しい形でしかありません。醜い形は、単に醜い形でしかありません。耳は魅惑的で美しい音を聞きますが、それ以上のものではありません。耳障りな不協和音も単にそれだけのものでしかありません。
 ブッダは、「金持ちであろうが、貧乏人であろうが、若かろうが、年寄りであろうが、人間であろうが、動物であろうが、この世のいかなる存在も自分自身を長い間、一つの状態に維持することはできず、すべてのものは変化と分離を経験する」と言われました。これは私たちが変えようとしても変えられない生命の真理です。しかし、ブッダは、「私たちにできることは、心と体についてよく考え、心と体が無常であることを理解し、心も体も『私』や『私のもの』ではないことを理解するようになることだ」と言われました。
 心も体も一時的な実在でしかないのです。それは、この家と同じです。あなたのものであるのは単に名義上のことしかでなく、どこにも持っていくことはできません。これはあなたの財産や所有物や家族についても同じです―――名目上あなたのものであるにすぎません。本当はあなたのものではありません。大自然のものです。でも、この真理はあなただけに当てはまるのではありません。誰でも、ブッダやブッダの解脱した弟子たちでさえ同じ立場にいます。ブッダと私たちが違うのはただ一点にあります。それは物事をありのままに受け入れる、という受容の仕方であり、それ以外にはあり得ないことをブッダたちは理解していました。、
 ブッダは私たちに、「この肉体を足の裏から頭の上まで、そして今度は逆に頭の上から足の裏まで入念に見て、吟味しなさい」とお説きになりました。肉体をちょっと見てご覧なさい。どういうものが見えますか。そこに本質的に清らかなものがありますか。変化しない本質を見つけることができますか。この肉体のすべては着実に朽ちつつあるので、ブッダは私たちに、「肉体は私たちのものではないことを理解しなさい」とお説きになりました。
 肉体がこのように変化するのは当然のことです。なぜなら、すべての条件付けられた現象は変化するからです。どうやって肉体のあり方を変えることができますか。実際、肉体のあり方に問題はありません。あなたを苦しめているのは肉体ではなく、あなたの間違った考え方なのです。正しいものを間違った見方で見れば、必ず混乱が生じます。
 これは川の水と同じです。水は、低い方に流れ下るのが自然であって、高い方に上ることはありません。それが水の本性です。ある人が川岸に行って、そこに立ち、水がすみやかに下流に流れて行くのを見て、愚かにも上流へ流れ戻ることを望んだとしたら、その人は苦しみます。その人が何をしていようとも、考え方が間違っていれば、心の平安は得られません。間違った見解を持っていると、流れに逆らう考え方をしているので、その人は不幸です。その人が正しい考え方を持っていれば、水は必ず低い方へ流れるものだということを理解します。この事実に気づき、受け入れるまで、その人は動揺し、狼狽します。
 必ず低い方に流れる川の水は、あなたの肉体と同じです。かつては若かったのが、年を取り、今では死に向かって曲がりくねりながら流れています。このようでなければいいのに、と望んではいけません。それはあなたの力で変えられることではありません。ブッダは私たちに、「物事のあり方を理解し、物事に対する執着を手放しなさい」とお説きになりました。この手放すという感じ方をあなたの依り処としなさい。

 疲れてくたくたになったと感じたとしても、瞑想をし続けなさい。あなたの心を呼吸にとどめなさい。深呼吸を数回してから、「ブッダ」というマントラを使って心を呼吸に定着させなさい。この修行を習慣にしなさい。より強い疲れを感じれば感じるほど、あなたの集中力はより微細になり、より集中するはずです。その結果、生じてくる苦痛にうまく対処することができるようになります。疲れたと感じ始めたら、全ての思考を中断し、心を集中させ、それから呼吸を見ることに心を向けなさい。心の中で「ブッ・ダ、ブッ・ダ」とマントラを唱え続けなさい。
 外側のものは全て手放しなさい。子供や親族に対する思いをつかんではいけません。手放しなさい。心を一点に集め、その落ち着いた心を呼吸にとどめなさい。ただ呼吸だけを認識の対象としなさい。心がどんどん微細になるまで集中しなさい。やがて、感覚は些細なものになり、大いなる内的明晰さと覚醒が生じます。すると、苦痛が生じても、自然と徐々に消滅して行きます。ついには、親戚が訪問しに来たかのように呼吸をみなすようになります。
 親戚が帰るとき、彼に従って外に出て見送りをしますね。歩きであれ、車であれ、彼が視界から消えるまで見送ってから家の中に戻ります。呼吸についても同じように見つめます。呼吸が粗ければ、粗いと知り、微細なら、微細であると知ります。私たちは呼吸がどんどん微細になるのを追いかけ続け、それと同時に心を覚醒させ続けます。ついには、呼吸は完全に消え、残るのは覚醒の感覚だけになります。
 この状態を「ブッダに会う」と呼んでいます。私たちは、知者であり、覚醒者であり、光明である「ブッダ」と呼ばれる明晰な覚醒を手に入れます。それは、智慧と明晰さを有しながら、ブッダと会い、ブッダととどまることです。というのは、パリニッバーナ(般涅槃)*に入られたのは、血と肉を持つ歴史上のブッダだけだからです。真のブッダ、明晰で輝く智慧のブッダ(覚者)を、私たちは今日でも経験し、体現することができます。そして、私たちが体現すると、心は一つとなります。
 ですから、手放しなさい。すべてを、知ることを除くすべてを肩から下ろしなさい。瞑想中、心の中に映像や音が生じたとしても、騙されてはいけません。そうしたことはすべて下ろすのです。決して何かをつかんではいけません。ひたすらこの気づきと共にとどまりなさい。過去や未来の事で悩んではいけません。ひたすら落ち着いていなさい。そうすれば、進むこともなく、戻ることもなく、とどまることもない場所、つかんだり執着するものが何も存在しない場所に到達します。それはなぜでしょう。なぜなら、無我だからです。「私」も存在しないし、「私のもの」も存在しないからです。すべて去ってしまいました。ブッダは私たちに、「このようにして中のすべてをあけて空っぽになり、何も持ち歩かないようにしなさい」とお説きになりました。これから知ることも、すでに知ってしまったことも手放しなさい。
 法――生と死の輪廻から解放される道――に気づくことは、私たちの誰もが独りでしなければならない仕事です。ですから、手放そうとし続け、教えを理解しようとし続けなさい。静かに思いめぐらすことに、本当に努力を傾けなさい。家族のことを心配してはいけません。あなたの家族は、現在は若くて元気ですが、将来にはあなたのようになるのです。この運命から逃れられる人は、この世に誰もいません。
 ブッダは私たちに、「本当に永続する中身を持たないものはすべて下ろしなさい」とお説きになりました。あなたは、すべてを下ろせば、真理を理解するでしょう、下ろさなければ真理を理解することはありません。それが物事の在り様です。そして、これは誰の場合でも同じです。ですから、心配してはいけませんし、何かをつかんでもいけません。
 自分が考えていることに気がついたとしても、賢明な考え方をしている限り、それはそれで良いのです。愚かな考え方をしてはいけません。自分の子供について考えるとすれば、智慧を持って考えなさい。愚かさを持って考えてはいけません。心が何に向かおうとも、智慧を持ってその事について考え、知り、その本質に気づきなさい。あなたが知恵を持って、ある事を知れば、それを手放しても苦は生じません。心は明るく、楽しく、平安で、散漫さに向かうことはありません。心は統一されています。今の瞬間、助けを求めて頼ることができるのは、あなたの呼吸です。
 これはあなた自身の仕事であり、他の人の仕事ではありません。他の人には他の人の仕事をさせておきなさい。あなたにはあなたの義務と責任があり、あなたの家族の義務と責任を引き受ける必要はありません。他のものは何も引き受けてはいけません。すべてを手放すのです。そのように手放すと、あなたの心は静かになります。今あなたに課せられた唯一の責任は、心を集中させ、心を平安に導くことです。他のことはすべて他の人に任せなさい。形、音、香り、味――こうしたものに集中するのは他人に任せておきなさい。すべてを置き去り、自分の仕事をし、自分の責任を果たしなさい。心に何が生じても――苦痛の恐怖であれ、死の恐怖であれ、他の人に関する不安であれ、何であれ――こう言いなさい。「私に構わないでくれ。お前はもう私には関係ないんだ」と。こうしたダンマ(法)が生じるのを見たときは、ひたすら自分にこのように言い続けなさい。
 「ダンマ」という言葉はどういう意味なのでしょうか。すべてはダンマ(現象)です。ダンマでないものはありません。では、「世俗」とはどういう意味でしょう。世俗とは、この瞬間にあなたを動揺させている心の状態です。つまり、「この人は何をするのだろうか。あの人は何をするのだろうか。私が死んだら家族の面倒は誰が見るのだろうか。家族はやっていけるのだろうか」。こうしたことすべてが「世俗」なのです。死や苦痛を恐れる気持ちがただ生じることですら「世俗」なのです。
 世俗を捨てなさい。世俗とは今のあり様です。世俗が心に生じ、意識を支配することをあなたが許してしまうと、心は曇り、心は自分自身を見ることができなくなります。ですから、心に何が生じようとも、ただこう言いなさい。「これは私には関係ない。これは無常であり、苦であり、無我である」と。
 長生きしたいと考えると、あなたは苦しみます。しかし、すぐに死にたいとか、死ぬときは一瞬にして死にたいと考えることも正しくありません。これも苦ですね。諸々の状況は私たちのものではなく、それ自身の自然の法則に従います。肉体のあり方について、あなたは何もできません。若い女の子が口紅を塗ったり爪を伸ばしたりするように、しばらくの間、肉体を飾り立てたり、魅力的に見せたり、清潔に見せたりすることはできますが、老いると誰でも同じ運命になります。それが肉体のあり方であり、それを変えることはできません。しかし、あなたが向上させ、美しくできるものがあります。それは心です。
 誰でも木とレンガで家を建てることができます。しかし、ブッダは、「そうした種類の家は私たちの『真の家』ではなく、名目上、私たちのものになっているにすぎない」とお説きになりました。それは世俗の家であり、世俗の法則に従います。私たちの「真の家」とは内的平安です。外的な物質の家は確かに素敵かもしれませんが、それほど平安をもたらすものではありません。こういう心配事があるかと思えば、ああいう心配事があり、こういう不安があるかと思えば、ああいう不安もあります。
 ですから、世俗の家は私たちの「真の家」ではなく、私たちの外側のものであり、遅かれ早かれ私たちはその家を捨てなければなりません。なぜなら、それは私たちのものではなく、世俗のものだからです。私たちの肉体も同じです。私たちは肉体を「我」であり、「私」であり、「私のもの」だと思っていますが、実際は、そんなことはまったくありません。肉体もまた別の世俗の家なのです。
 
*般涅槃:全面的な解脱。阿羅漢の死によって、五薀が完全に停止すること。

 あなたの肉体は、生まれたときから、今老いて病むにいたるまで、肉体がたどる自然な道に従ってきました。そして、あなたは肉体がそんな風に変化していくのを止めるることはできません。それがあるべき姿なのです。肉体がそのようでなければいいと望むのは、アヒルが鶏のヒナであればいいと望むのと同じくらい愚かなことです。それは不可能なことです。アヒルはアヒルだし、鶏のヒナは鶏のヒナだし、肉体は老いて死ぬものです。このことを理解すると、力とエネルギーが湧いてくることに気づきます。肉体が長く生き続けることを、あなたがどれほど強く望んだとしても、そうはなりません。
 ブッダはこうおっしゃいました。

 Anicca vata sankhqra
 Uppqda vayadhammino
 Uppajjhitva nirujjhanti
 Tesam vupasamo sukho.

 諸々のサンカーラ(行い、状態*)は無常であり、
 生じては滅する定めである。
 生じた限りは、滅してゆく。
 諸々のサンカーラ(行い、状態)が静まることは幸いである。
 
 sankhqra(サンカーラ 行い、状態)という言葉は、この肉体と心に当てはまります。サンカーラは無常で、不安定で、生まれたからには消え、生じたからには滅します。それにもかかわらず、誰もがサンカーラが常であることを望みます。これは愚かなことです。呼吸を見てみなさい。入ってきたら出て行きます。それが呼吸の本性なのです。それがあるべき姿なのです。入息と出息は交互に行われます。つまり、必ず変化があります。
 サンカーラは変化によって存在し、あなたにはそれを妨げることができません。考えてみなさい。息を吸わずに息を吐くことができますか。それでうまく行っていると感じますか。また、息を吸うことだけを続けられますか。
 私たちは物事が常であることを望みますが、それはありえません。不可能なことです。一旦息が入ってきたら、息は出て行かなければなりません。出ていったら、今度は入って来ます。それが自然ではありませんか。私たちは、生まれたなら、歳を取り、病気になり、そして死にます。それはまったく自然で普通のことです。サンカーラが自分の仕事をしてきたからこそ、入息と出息がこのように交互に行われてきたからこそ、人類は今日でも存在しているのです。
 私たちは生まれたと思ったら、すぐに死がやってきます。私たちの誕生と死はまさに一つのことなのです。これは木と同じです。根があれば枝があり、枝があれば根があります。どちらか一方だけということはありません。おかしなことに、人々は死に際しては憂いに打ちひしがれ、混乱し、涙を流し、悲しくなりますが、誕生に際しては、嬉しくなり、喜びます。これは幻影です。このことを明確に理解している人は誰もいません。
 私が思うに、あなたが本当に泣きたいと思うなら、誰かが生まれたときに泣いたほうがいいのです。というのは、実際に、誕生は死であり、死は誕生であり、根は枝であり、枝は根だからです。もしあなたが泣かなければならないなら、根でも泣きなさい、誕生でも泣きなさい。よく見てみなさい。誕生がなければ死もないのです。このことが理解できますか。
 考えすぎてはいけません。ただ、こう考えるのです。「これが物事のあり方だ」と。それがあなたの仕事、義務なのです。今、誰もあなたを助けることはできません。あなたの家族や、あなたの持ち物があなたのためにできることは何もありません。今あなたを助けることができるのは、「正しい気づき」だけです。
 ですから、怯んではいけません。手放しなさい。すべてを捨てなさい。たとえあなたが手放さなかったとしても、どうせすべての物があなたのもとから去り始めます。それが分かりますか。あなたの肉体のあらゆる部分がどのように離れていこうとしているのか分かりますか。髪の毛を見てみましょう。あなたが若かった時はふさふさとして黒かったのが、今では抜け落ちていっています。あなたのもとから去って行っているのです。あなたの目は良く見え、強かったのに、今では弱くなり、視界はぼやけています。
 諸々の器官が十分に働き尽くしたなら、去って行きます。この肉体がその諸々の器官の家ではないからです。あなたが子供のとき、歯は健康でしっかりしていました。今では、ぐらぐらし、恐らく抜けてしまった歯もあるでしょう。あなたの目や耳や鼻や舌――すべてが去ろうとしています。なぜなら、この肉体がその家ではないからです。
 あなたはサンカーラに常なる家を建てることはできません。少しの間滞在したら、出て行かなければなりません。それはまるで借家人――見えなくなりつつある目で自分の小さな家を見ている――のようではありませんか。その借家人の歯もそれほど良くなく、耳もそれほど良くなく、肉体もそれほど健康ではありません。すべてが去りつつあります。
 ですから、あなたは何も悩む必要はありません。なぜなら、これはあなたの真の家ではなく、一時的な避難所でしかないのですから。この世に生まれたからには、その本質について良く考えるべきです。存在するすべてのものは消え去る準備をしているのです。
 あなたの肉体を見てみなさい。あなたの肉体で未だに生まれたときのままのものがありますか。皮膚は昔のままですか。髪の毛はどうでしょう。同じではありませんね。みんなどこへ行ってしまったのでしょう。これが自然、物事のあり方なのです。時間が来ると、諸々の行い、状態はそれぞれの道を行きます。この世界は頼れる存在ではありません――不安と困難の、喜びと苦しみの無限の繰り返しです。平安はありません。
 私たちは、本当の家がないと、目的のない旅人と同じで、しばらくこっちの道を行ったかと思えば、今度はあっちの道を行き、しばらく滞在したかと思ったら再び出発します。私たちは真の家に戻るまで、何をしても落ち着かず、旅に出るために自分の村を出た人と同じです。家に戻ったときにだけ、リラックスして落ち着けるのです。
 世界のどこにも真の平安を見出すことはできません。貧乏人にも平安はありませんし、金持ちにもありません。大人にも平安はありませんし、子供にもありません。僅かな教育しか受けられなかった人にも平安はありませんし、高い教育を受けた人にも平安はありません。どこにも平安はありません。それがこの世の本質です。
 少ししか所有物のない人も苦しみますし、所有物をたくさん持っている人も苦しみます。子供も、大人も、老人も、みんな苦しみます。歳をとっていることの苦しみ、若いことの苦しみ、富を有することの苦しみ、貧乏であることの苦しみ――すべては苦しみ以外の何物でもありません。このようにして物事について良く考えたなら、あなたはanicca(アニッチャ:無常)と、dukkha(ドゥッカ:苦、不満足)を理解します。なぜ物事は無常で苦なのでしょうか。なぜなら、物事はanatta(アナッタ:無我)だからです。
 ここに病気で苦しんで横たわっているあなたの肉体と、その病気と苦痛に気づいている心はダンマ(法)といいます。形の無いもの、思考、感情、感覚はナーマダンマ(名法)といいます。疼きと苦痛に苦しめられるものはルーパダンマ(色法)といいます。物質もダンマですし、非物質もダンマです。ですから、私たちはダンマと共に生き、ダンマの中に生きており、私たち自身もダンマなのです。本当に、どこにも我を見つけることはできません。ただダンマが連続的に生じては滅しているだけです。それがダンマの本質です。一瞬ごとに、私たちは誕生と死を経験しています。これが物事のあり方です。
 
*サンカーラとは、現象を作り出す働きのことで、伝統的には「行」と訳されています。ですから、この文は「諸行無常」と訳すこともできます。ここでは、サンカーラを(行い、状態)と訳しておきました。
 
 ブッダのことを考えてみると、師はなんと正しいことをお話になったことでしょう。私たちは、ブッダが非常に多くの敬礼と崇敬と尊敬に値すると感じます。実際には、まだダンマの実践をしていなくとも、私たちが何かの真理を理解すると、そこにかならずブッダの教えがあります。しかし、ブッダの教えを知り、教えを勉強し、実践していたとしても、まだその教えの真理を理解していないなら、私たちにとっての「真の家」は無いのです。
 ですから、すべての人、すべての生き物があなたのもとから去ろうとしているということを理解しなさい。生き物は、寿命が来たら、それぞれの道を行きます。金持ちも、貧乏人も、老人も、すべての生き物はこの変化を経験しなければなりません。
 これがこの世のあり方だとあなたがに悟れば、この世はうんざりするような所だと感じるでしょう。あなたが頼れるような安定したものや、物質的なものは何も無いと理解すれば、うんざりし、迷いから覚めたと感じるでしょう。ですが、迷いから覚めるとは、あなたに嫌悪感が生じるということではありません。心は明晰です。心は、この物事のあり方を変える方法は何も無い、これがこの世のあり方だと理解します。このように知ると、あなたは執着を手放すことができます。うれしくもなく、悲しくもない気持ちで、智慧をもってサンカーラ(行い、状態)の変化する本質を理解することによってサンカーラとは平和に共存したままで、手放すことができます。
 Anicca vatasankhqra――全てのサンカーラは無常である。簡単に言うと、無常はブッダだということです。私たちが無常の現象を本当にはっきりと理解すると、「現象は常である、変化する本質が不変である、という意味で常である」と理解します。これが生き物が持っている常性です。幼少期から青年期を経て老齢に至るまで、常に変化し続けています。そして、まさにその無常性、つまり、変化するという本質は、常であり固定しています。あなたが現象をそのように見れば、あなたの心は平穏になります。このことを経験しなければならないのはあなただけではありません。誰もが経験しなければならないのです。
 あなたが物事をこのように考えると、物事はうんざりするようなものであるとみなすようになり、迷いからの覚醒が生じます。感覚の喜びの世界に対するあなたの喜びは消滅します。たくさんの物を持っていると、たくさんの物を残して去らねばなず、少しの物しか持っていなければ、少しの物だけを残して去るのだということを理解します。富は単なる富、長寿は単なる長寿であり、特別なものではありません。
 大切なのは、ブッダがお説きになったように私たちが行動し、私たち自身の家を建てること、すなわち、私が今まであなたに説明してきた方法で家を建てることです。あなたの家を建てなさい。手放しなさい。進むことも無く、戻ることも無く、留まることも無い平安に心が到達するまで、手放しなさい。喜びは私たちの家ではありません。苦しみは私たちの家ではありません。喜びと苦しみのどちらも衰え、消え去ります。
 偉大なる教師であるブッダは、すべてのサンカーラ(行ない、状態)は無常であることを理解し、それゆえ、私たちに、サンカーラに対する執着を手放しなさい、とお説きになりました。私たちが人生の終わりに至ると、どうせ選択肢は無くなり、何も持っていくことはできません。ですから、その前にいろいろなものを下ろしたほうが良くありませんか。持ち歩くには重い荷物でしかありません。その重荷を今捨ててはどうですか。なぜわざわざ重荷を引きずって歩くのですか。手放し、リラックスし、家族にあなたの面倒を見させなさい。
 病人の世話をする人の優しさと徳は増えて行きます。病気で、他の人にその機会を与えている人は、世話をしてくれる人が、やり辛くなるようにしてはいけません。痛みや何らかの問題などがあれば、世話をしてくれている人にそのことを伝え、心を健全な状態に保ちなさい。
 両親の世話をしている人は、自分の心を温かさと親切で満たすべきであり、嫌悪にとらわれてはいけません。これが両親に借りを返すことのできる唯一の時なのですから。生まれてから少年となり、さらに大人になるまで、あなたは両親に頼りつづけてきました。私たちが今日ここにあるのは、父と母が多くの点で私たちを助けてきてくれたからです。私たちは途方も無い量の感謝の借りを両親に負っているのです。
 ですから、今日、あなたの子供と親戚が全員ここに集まりました。あなたの両親がどのようにしてあなたの子供になったのかを見てみなさい。以前に、あなたは彼らの子供だったのです。今は、彼らがあなたの子供です。彼らはどんどん歳を取り、やがて再び子供に帰ります。彼らの記憶は無くなり、目はあまり良く見えなくなり、耳は聞こえなくなり、時には間違ったことを言うようになります。それに動揺してはいけません。
病人の世話をしているあなた方は、誰もが手放し方を知らねばなりません。物事をつかんではいけません。何としても手放し、物事のしたいままにさせるのです。子供が若いときに言うことを聞かないと、両親はただ平穏を保つために、子供を幸せにするために、子供に好きなようにさせることがあります。今、あなたたちの親はその子供と同じです。記憶と知覚は混乱します。あなたたちの名前をごちゃ混ぜにすることもあるでしょう。また、コップを持ってきてくれと頼んだのに皿を持ってくることもあるでしょう。それは普通の事です。それに動揺してはいけません。
 病人であるあなたは、世話をし、つらい感情に辛抱強く耐える人の親切心を忘れてはいけません。気を強く持ち、心を散乱させたり動揺させたりしてはいけません。そして、あなたの世話をしてくれている人に迷惑をかけてはいけません。病人の世話をする人の心が、徳と親切で満たされるようにしなさい。仕事の嫌な面、粘液と痰や糞尿の掃除をすることを嫌悪してはいけません。全力を尽くしなさい。家族は全員が手助けをしなさい。
 ここにいるのは、あなたたちの唯一の両親です。二人は、あなたたちに生命を与え、あなたたちの教師であり、看護師であり、医者でした――二人はあなたたちにとってすべてでした。二人があなたたちを育て、あなたたちと富を共有し、あなたたちを遺産相続人にしたことは、両親の偉大な善行です。
 それゆえ、ブッダは、私たちの感謝の借りを知る徳(カタンニュ)と、それを返そうとする徳(カタヴェーディ)をお説きになりました。この二つの徳は補い合うものです。両親が困っていたり、健康に優れなかったり、苦境にあるなら、私たちは全力を尽くして両親を助けます。これがカタンニュ・カタヴェーディであり、この世を支えている徳です。これがあれば家族が崩壊することもなく、安定した仲睦まじい家族となります。
 今日、私はこの病気のときの贈り物として、ダンマ(真理)を持ってきました。あなたに渡す物質的なものは何もありません。そういうものは既にこの家にたくさんあるようですから、あなたには永続的な価値があり、決して使い切ることのできないものであるダンマ(真理)をあげました。それを私から受け取ったのですから、あなたはそのダンマを好きなだけ多くの人に渡すことができますし、そのダンマは決して使い尽くされることはありません。それが真理の本質です。この法の贈り物をあなたに与えることができたことをうれしく思います。そして、この贈り物によって、苦痛に立ち向かう力があなたに与えられますように。

1) 帰依と戒 ビク・ボディ
2) 布施と寛容 ニーナ・ヴァン・ゴルコム
3) 人生は苦だけではない タニッサロ・ビク
4) 私たちの真の家―死の床にある老在家信者への法話 アチャン・チャー


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