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仏教法話の翻訳-2

布施と寛容

 翻訳部より
 「布施と寛容」というように二つの言葉で訳しましたが、本来この法話の原題は “Generosity”の一語です。これは寛容と言う意味ですが、著者は内なる寛容が外に向かったものが布施であると捉えているようです。そこで、訳出 においては二つの言葉によって使い分けました。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 たくさんの花を集めて多くの花冠を作るように
 死すべき定めにある人として生まれたならば
 多くの善きことをなすべきである
                   ダンマパダ 53


 役に立つものや 人を喜ばすものを与えることは、布施(寛容)の行ないです。しかし、外側に現れる行為だけに目を向けていては、心から寛容であるかどうか分かりません。行 動を動機づけている心について、私たちはもっと学ばなければなりません。真の布施(寛容)とは難しいものです。何かを与えているとき、私たちは良いことや 崇高なことばかり考えているとは限りません。与えようとする動機がすべて純粋なものとは言えないのです。何らかの見返りを期待したり、相手から好意をもた れようとしたり、寛容な人物であると思われようとしたりなど、利己的な動機で与えることもあります。

 私たちの考えは、その瞬間瞬間で異なります。ある瞬間には真に寛容であり、またある瞬間には他の動機をもっているものです。様々な経験をする「永続的な」 心や魂というものはないと、ブッダは説いています。私たちの経験それ自体は、異なる一瞬一瞬に意識することであり、それは、ある瞬間に一つ現れては、すぐ に消えてしまうものです。それぞれの意識の瞬間は生じては滅し、つづいて次の意識の瞬間が生じます。私たちの人生は、このような意識の瞬間の連続により成 り立っています。

 ブッダの教えを学ぶ者は次第に、様々な種類の意識を見分けることができるようになります。不善の意識と善の意識、それに加えて、不善でも善でもない意識 があります。一度にはただ一つの意識しか生じませんが、それぞれの意識には、いくつかの心所が伴って現れます。不善の意識には、執着や物惜み、嫉妬、嫌悪 といった不善の心所が伴います。善の意識には、寛容さや優しさ、情け深さといった善の心所が伴います。

 不善心所のうち、三種類の不善心所が「諸悪の根源」です。それらは不善の意識の強力な基盤になっています。すなわち、「執着あるいは貪欲」、「嫌悪ある いは怒り」、そして「無知」が、その三つです。これらの不善心所には多くの程度の差や段階があります。

 食べ物に対する貪欲や他者の財産を自分のものにしたいという欲望があるときなら、私たちは執着の存在に気づくでしょう。しかし、自然の風景や音楽を楽し んでいる時にも執着があるとは分からないかもしれません。社会では他者を害さない限り、微細な種類の執着は良いものとして考えられています。しかし「不 善」という言葉には、「不道徳」という一般的な語よりも広い意味があります。不道徳とは言えないような些細なことも、「不善」に含まれるのです。とはい え、美しいものを好きにならないように、自分に強いることはできません。条件がそろえば執着は起こります。それでも、善なる意識の瞬間と不善な意識の瞬間 の違いを見分けられるようにはなります。

 非常に微細な執着の瞬間にも、ある程度の自己中心性(自我)は根強く存在しています。そのような瞬間は、自分の喜びのことなど考えない、寛容さを伴った 無我の意識の瞬間とは異なります。私たちが立ちあがったり、動きまわったり、物に手を伸ばしたり、食べたり、寝たりする時にも、執着はしばしば現れます。 私たちは自分自身を気にかけ、自分を楽しませるものを手に入れようとします。他者が自分に親切にしてくれるのを期待します。これも執着の一つの形です。

 身内に対する執着は善ではないのかと思うかもしれませんが、善ではないのです。それは、善である純粋な慈悲とは違います。身内や親友と一緒にいることに よる心地好い感情に愛着を持つとき、そこには執着があります。純粋に誰か他の人を気遣うとき、自分自身のことは考えないものです。その時には善なる意識が あります。私たちは執着して生きることがあまりにも当たり前になっているので、執着の瞬間と自己中心性のない慈悲の瞬間の違いを考えたこともないかもしれ ません。様々な種類の意識は、次から次へととてもすばやく続けざまに起こるので、意識についての理解を深めない限り、その変化に気づくことはないでしょ う。

 嫌悪という不善なる根源にも多くの段階があります。それは、ほんの些細な不快感となって現れることもあれば、激しい怒りや憎しみとして現れることもあり ます。嫌悪は執着と同時には生じません。執着があるときは、意識は経験されている対象を好んでいるのに対し、嫌悪があるときには、意識は対象を嫌っていま す。執着は、ある種の意識と共に生じるのであり、すべての意識に伴うわけではありません。それは嫌悪の場合も同じです。しかし、無知は、すべての種類の不 善なる意識と共に生じる、不善の根源です。それは、すべての悪の根源です。無知は、何が善で何が悪か分かりませんし、何が真実か全く理解しません。執着も しくは嫌悪があるときには、いつでも同時に無知があります。

 三つの善根は、「無執着あるいは布施」、「無瞋(怒りのないこと)あるいは優しさ」、そして「理解や智慧」です。各種の善なる意識は、無執着と無瞋を根 源とし、さらに理解をも根源としていることもあります。これらの善の根源には、多くの段階があります。無執着と無瞋の助けがなければ、善の意識は生じるこ とができず、布施を行なおうとする意欲を掻きたてることもできません。執着は、寛容さと同時に存在できません。人が真に寛容であるとき、その人は、自分の 好む人や家族だけに与えるのではなく、すべての人々に公平に与えます。

 すべての善行の目的は、煩悩を取り除くことであり、自己中心性(自我)をなくすことです。ブッダは、自我感にたいする愛着をなくす智慧を教えています。 しかし、物惜しみや自分の所有物に対するこだわりを取り除くことをまず学ばないと、自己に対する愛着も手放せません。やがて、真の布施(寛容)が有益であ り、自己中心性や物惜しみが有害であることを理解した時、私たちは、寛容さが生じる瞬間をより多く経験したくなります。しかし、その願いにもかかわらず、 不善の意識がしばしば起こることに気づきます。そして、自分に失望します。

 私たちは、どんな条件のもとに不善なる意識が生じるかを理解するべきです。過去において、私たちは執着と怒りと無知だらけの生き方をしてきたに違いあり ません。過去世においてさえ、そうだったでしょう。そのような傾向は、深く根付いていて、積み重なっています。過去はすでに過ぎ去っていますが、現在まで に積み重なってきた不善の傾向が原因となり、今の瞬間に不善なる意識が生じることがあります。一方、私たちは、悪の傾向だけでなく、善なる傾向も積み重ね てきました。それゆえ、現在において寛容さと優しさの瞬間が生じることもあるのです。不善心所が生じれば、さらに不善を積み重ね、善心所が生じれば、さら に善を積み重ねることになります。

 ブッダは善を発達させる様々な方法を説いています。私たちがこれらの方法について学ぶならば、それだけで善をさらに積み重ねる条件が生じます。布施を行 なう最中だけでなく、実際に与える行為をする以前にも、布施(寛容)の機会はあります。布施する物を手に入れようとする時も、布施を行なう機会です。ま た、布施したことを後になって思い出す時も同じです。

 自分をあるがままに観察してみると、与える前、与えている最中、そしてその後にも、布施の機会がしばしば不善心で台無しになっていることに気づきます。 たとえば、贈り物を準備したり買ったりしていると疲れてしまうかもしれませんが、そんな時には嫌悪が生じます。贈り物を与えても、受け取る側はあまり喜ば ず、こちらが期待するような反応をしてくれないかもしれません。そんな時は失望することもあるでしょう。

 しかし、何が善なのかを正しく理解しているならば、他者の反応は気にかけず、善心所の発達だけを気にかけるべきなのです。善はあくまでも善であり、生じ てくる善なる意識を変えることは誰にもできないのです。私たちは、ブッダの教えを学ぶまで、このような方法で布施(寛容)を考えることはなく、寛容の意識 が生じる瞬間に注意を払うこともありませんでした。ブッダの教えを通して、私たちは物事のあるがままの姿を学ぶことになるのです。

 贈り物をした後に善意識で布施を思い出す機会が、不善の意識のせいで、失われてしまうこともあります。初めは寛大であったかもしれませんが、後になっ て、贈り物が高すぎたと思ったり、自分のお金を使ったことを後悔したりすることもあるでしょう。ブッダの教えによれば、生じてくる様々な意識に影響力を及 ぼすことのできる自我というものは存在しません。それらの意識が生じるのは、生じるにふさわしい条件がそろったからなのです。

 ブッダの教えを通して、私たちは、様々な種類の意識と、自分が積み重ねてきた傾向について学ぶことができます。そうして、何が真実かについてのさらなる 理解が生じるならば、それも善なのです。ある人が物惜しみの傾向を積み重ねてきたなら、寛大になるのは難しいことです。しかし、ブッダの教えを理解するこ とによって、そうした傾向は変わりうるのです。

 ジャータカ(ブッダの前世物語No.535)という文献のなかに、ブッダの時代に最上の布施を実践した僧についてのお話があります。彼は自分の食物を他 者に与え、手のひらをやっと満たすほどの飲み物を受け取った時でさえ、貪欲から解放されていたので、人に与えてしまうほどでした。しかし、以前の彼は、 「草の葉の先端についた油一滴でさえ決して与えないだろう」といわれるほどのけちだったのです。

 ある過去世で、コシヤという名前だったとき、彼は大変なけちでした。ある日、彼は、粥がとても食べたくなりました。彼の妻が、自分の分だけでなく、ベナ レスの全住民分の粥を作ることを提案したところ、彼は「まるで、棒で頭を殴られたかのように」感じました。それで彼の妻は、一つの通りに住む人々の分、さ もなければ彼の家の従者の分、もしくは自分たち家族の分、それでもだめなら彼と彼女の二人分だけでも、作ってはどうかと提案しました。しかし、彼は、その すべての提案を退けたのです。彼は、自分一人のために作った粥を、森の中で一人だけで食べ、誰にも見られたくなかったのです。

 菩薩(ブッダの前世)は、その当時帝釈天(サッカ)でしたが、彼を改心させたいと思い、バラモンの姿をさせた四人の従者を連れて、彼のもとへとやって来 ました。彼らは一人づつ、そのけちな男に近づき、いくらかの粥を請いました。帝釈天は次のような詩を詠んで、布施を褒め称えました。
 
 少ししか持たないものは少し与え
 ほどほど持つものはほどほど与え
 多く持つものは多く与える
 何も与えないのは問題外
 私はこのように言う、コシヤよ
 汝のものを施しとして与えよ
 一人で食べるな、一人で食べる者には何の喜びもない
 施しによって、汝は天上界にいたる聖なる道を昇るであろう
 
 コシヤは、嫌々ながら、彼らにいくらかの粥を提供しました。
すると、バラモンの一人が、一匹の犬に変身しました。犬は小便をし、その一滴がコシヤの手にかかりました。コシヤが川へ行って手を洗うと、こんどは犬がコ シヤの鍋の中に小便をしました。コシヤが犬を脅かすと、犬は荒々しい馬に変身し、コシヤを追いかけました。それから帝釈天と従者たちは空中に浮かび、帝釈 天はコシヤを憐れんで教えを説き、そのままでは不幸な生まれ変わりをしてしまうことを警告したのでした。コシヤは、物惜しみの危険性を理解するようになり ました。そして自分の持ち物をすべて手放して、修行者になったのです。

 自分の所有物を分け与えることは、難しいことかもしれません。しかし、死ぬときにはそれらを一緒に持って行くことはできません。人生は短いのです。です から、布施の機会があるときには、自己中心性(自我)と闘うために、その機会を活用すべきです。布施(寛容)の瞬間をいま経験することは、未来にも布施の 瞬間を生じさせる要因となります。善い行為は喜ばしい結果をもたらし、悪い行為は不快な結果をもたらします。これが、カルマと果報の法則、すなわち原因と 結果の法則です。行為(カルマ)は、再生という形でも結果をもたらすことがあります。善いカルマが幸せな再生をもたらし、悪いカルマが不幸な再生をもたら すことがあるのです。

 生存の段階には、人間界以外の、幸せな段階や不幸な段階があります。人間界や天上界に生まれることは、善いカルマによって得られる幸せな再生です。地獄 に生まれたり、餓鬼や動物として生まれたりするのは、不善なカルマによる不幸な再生です。カルマの結果はまた、一生のあいだ種々の快や不快の感覚を経験す るという形でももたらされます。目に触れることや耳に入ってくることは、カルマの結果としてもたらされる知覚です。私たちは、快、不快という経験をもたら すカルマに応じて、快適な対象や不快な対象を見たり聞いたりしているのです。

 物惜しみは、今世だけでなく来世においても、本人が恐れているとおりの結果をもたらします。つまり、自分の所有物を失うことになるのです。他方、布施 は、繁栄などの喜ばしい結果をもたらします。しかし、布施の行為をするとき、喜ばしい結果が生じることにこだわるべきではありません。こだわりは不善なの です。カルマは、私たちがそれについて考えようと考えまいと、そのカルマにふさわしい結果をもたらします。

 私たちが布施をするとき、こだわりがなければ、カルマとその結果について正しく理解することができます。何が善であるかを理解したうえで、私たちは善を 行なうことができるでしょう。今まで見てきたように、理解というものは、善なる意識を伴っているかどうかにかかわりなく、善の根源です。とはいえ、理解に 善の意識が伴っていれば、善の度合いは高まります。理解を意志の力で生じさせることはできません。理解は条件がそろったときに生じるものです。ブッダの教 えを学ぶことは、より深い理解を得るための必要条件なのです。

 与えるものを何も持っていなくても、布施を実践する方法は他にもあります。他の人々が行なった善行を高く評価することも、布施の一種です。誰かの善い行 ないに気づいたら、その善さを認め、承認と賞賛の言葉をもって誉めたたえるとよいでしょう。私たちは、自分の所有物についてだけでなく、他人を言葉で誉め ることについても、物惜しみすることがあります。しかし徐々にではあっても、物惜しみせずに他者の善行を高く評価できるようになるものです。

 善を成長させるには、将来を見通せなくてはなりません。善の行ないであろうと、悪の行ないであろうと、今日積みかさねたものが、将来や来世においてその 結果を作りだすということを理解すべきです。そうした理解があると、自らが置かれている環境やつきあっている友人たちを、より適切に評価できるようになり ます。そうなると、自分の環境と友人たちが善の成長にとって好ましいかどうかを判断できるようになります。どんな類の話を避けるべきか、どんな類の話を育 むべきかが、わかるようになります。私たちの会話はしばしば他人の悪口や無駄話になりがちですが、それらは善の成長にとってなんの助けにもなりません。私 たちは他人とよく会話を交わしますから、会話を善が成長する機会に変える方法を身につけるべきです。

 もう一つの布施の方法は、自らの善行為を他者と分かち合うことです。これは、私たちによる善行為のよい結果を他者が受け取るということではありません。 ブッダは、「生存するものは、自らの行為の”継承者”である」と説いています。私たちは、めいめいが自らなした行為の結果を受け取っているのです。善を他 者と分かち合うというのは、私たちの善なる行為によって他者が喜ぶとき、私たちの善行は他の人たちに善の意識が生じるための条件になり得るという意味で す。もしある生き物が善行為の功徳を受け取れる世界にいるなら、私たちは他の生存界(餓鬼界など)にいる生き物とでさえも、善を分かち合うことができま す。

 経典は、ビンビサラ王がブッダに食事を供養したときに、他の生き物に対する布施を怠った話について語っています。前世で王の親戚だった餓鬼たちは、布施 を望んでいましたが叶えられなかったので、失望しました。彼らは絶望から夜通し恐ろしい金切り声をあげました。ブッダは、王になぜ餓鬼が金切り声を上げて いるのかを説明しました。それで、ビンビサラ王は、他のお供えを用意し、「これをわが親類たちに捧げる」と献辞を述べました。

 餓鬼たちは、すぐさま王の贈り物から功徳を得て、善の意識状態になり、苦しみが和らげられました。蓮で覆われた沐浴池が現れ、その中で餓鬼たちは水浴び をしたり、水を飲んだりしました。そして彼らの体は黄金色に染まりました。天の食べ物や天の衣、天の宮殿などが彼らのために自然と現れ出たのです。この世 を去っていった者たちとも、自分の善行を分かち合うことができるということを、この物語は明らかにしています。もし、過去において親類であった人々がその 功徳を受け取れなくても、他の存在が受け取ることができます。

 愛する人を失ったとき、悲しみの気持ちが起こるのは無理からぬことです。しかし私たちが善の心を発達させる方法を知っているなら、大いなる慰めを見出す ことができます。悲しみや怒りで心を満たすのでなく、善の行為を、喜んで受け取れるすべての人々に捧げるべきです。そうすれば私たちの意識は善なる状態に なるでしょう。私たちは善を他者と分かち合うことを習慣にすることができます。習慣になれば、誰に善を捧げたいかを特定する必要さえなくなります。

 食事や僧衣が僧たちに寄進されるときには、仏教の習慣として、僧は祝福の言葉を唱えながら、寄進者の手に水を注ぎ、寄進の行為を他の存在へ回向する意志 を示します。注がれる水は海を満たす河を象徴しており、善行もそのように非常に豊富なものなので、他者と分かち合えるというわけです。

 善の行ないは、普通三つに分類されます。布施(寛容)、道徳性(持戒)、そして精神的成長です。この三つの分類は、固定的なものと考えるべきではありま せん。道徳、すなわち不善の行ないを避けることは、他者への思いやりの行ないとみることもできますから、そこには布施の側面もあります。不善の行ないを避 けるとき、私たちは、害されることなく平和に生きる機会を他の存在に与えています。寛容さを育みたいのなら、精神的成長、すなわち善心所を育てることを怠 るべきではありません。寛容さ(布施)やその他の善い特質を発達させるには、意識が不善であるときと善であるときに気づくよう心がけるべきです。さまざま な意識の違いについてより深く理解することは、精神的成長なのです。

 預流者とは、悟りの第一段階に達した聖者です。預流者は、現在の瞬間に現れるさまざまな精神と肉体の現象を正しく理解するようになり、あるがままの現実 を観るようになっています。悟りに達することで、涅槃、つまり一切の制約のない現実そのものを初めて経験します。自我があるという誤った見解は、悟った瞬 間に根絶され、それとともに物惜しみの性質も滅ぼされます。物惜しみの心は二度と生じなくなり、預流者は完全な寛容さを身につけることになります。

 一般の人々は、例えば物を与えているときなどに、物惜しみの心を一時的に抑えることができるかもしれません。しかし、過去から積み上げてきた物惜しみの 傾向が残っている限り、物惜しみは必ずまた現れます。けれども預流者は、正しい理解を通して、物惜しみの傾向を根絶しているので、物惜しみの心に打ち負か されることは決してありません。

 いかにして善を発達させ、煩悩を拭い去るかについてのブッダの教えを学ぶことは、大いなる幸運です。それゆえブッダの教えであるダンマ(法)を伝えるこ とは、最高の贈り物であるとみなされるべきでしょう。ブッダの教えを学び、善を成長させることによって、私たちは、「何が努力する価値のあるものであり、 何がそうでないのか、何が真実であり、何が単なる妄想なのか」についての見方を正すことになります。

 ブッダの教えを聞く以前、私たちは快楽の対象を楽しむことを人生の目的としていたかもしれません。けれどもブッダの教えを学んだ後には、自己中心的な執 着は心に不安もたらし、自分にとっても他者にとっても害を及ぼすものであると、次第に分かってくるでしょう。そして、善は自分と他者にとって有益なもので あり、心に平安をもたらすものであると理解するようになるでしょう。

 人生において何が努力に値するものであるかの見方は変わり得るものです。何が善のカルマであり、何が不善のカルマであるかを理解したとき、またカルマが それにふさわしい結果をもたらすことを理解したとき、私たちは真実についての見方を正します。「自我」ではなく、善や不善など異なる種類の「意識」が、自 分の行動の動機になっていることを理解したとき、またそれらのさまざまな種類の意識は、それぞれ異なる条件が要因となって生じるということを理解したと き、私たちは真実についての見方を正します。

 見方を正すことには、多くの段階があります。真実への理解を深めることにより、自我があるという誤った見方を拭い去れます。そうすることによって、完璧 な寛容さ(布施)が生じます。ダンマ(法)を学ぶことの意味は、自己中心性を減少させ、寛大さを成長させること、そして他者に対する、より純粋な思いやり の心を持つことであるべきです。

1) 帰依と戒 ビク・ボディ
2) 布施と寛容 ニーナ・ヴァン・ゴルコム
3) 人生は苦だけではない タニッサロ・ビク
4) 私たちの真の家―死の床にある老在家信者への法話 アチャン・チャー

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