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仏教法話の翻訳-1A

◎帰依と戒   ビク・ボディ

 翻訳部より

 ここにお送りする「帰依と戒」は仏教入門ともいうべきものです。普通私たちが仏教を学び、生活の指針とするとき、「仏教に帰依する」と表現します。日本 語で言う「帰依する」とは、「信じる、支えとする」というような意味合いを含みますが、パーリ語や英語での表現は少し違っています。パーリ語では 「Saranam gacchami」、英語では「Going for refuge」であり、共に「帰依処へ行く」という意味です。
 では、「帰依処」とは何でしょうか。大まかに言って二つの意味があるようです。一つは「依り処」ということで、これは私たちにも理解しやすいものです。 もう一つは「避難処」という意味です。「避難処」という意味合いは日本語の「帰依」という言葉からは想像しにくいものです。

 では、「避難処」という時、一体何から避難するのでしょうか。避難しなければならない危険が存在するのでしょうか。あるいは、私たちはどんな依り所を必 要としているのでしょうか。このあたりが、私たちの生きている世界への見方に係わることであり、テーラワーダ仏教の基礎を成している所だと思われます。今 回は、そこのところを掘り下げ、説いている法話を翻訳してみました。翻訳に当たって、「帰依処へ行く」という表現を、「帰依する」、「依り処とする」、 「避難処へ行く」、と訳し分けてみました。元々は同じ言葉の違った表現です。なお原著にあった章のうち、次のものは紙面の関係で省略してあります。(帰依 の対象について・帰依の堕落と違反・帰依についてのたとえ・八戒について)。いずれ機会を見て訳出したいと考えています。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~


目次

Ⅰ.帰依について
1、帰依処へ行く理由
2、帰依処(依り処)の存在
3、帰依するという行為
4、 帰依の役割
5、 帰依の方法

Ⅱ.戒について→次ページ

1、戒の本質的意味
2、五戒
3、戒を守ることの利点
4、戒を受け入れること
5、戒を受け入れること
6、戒を破ること
7、戒についてのたとえ

はじめに

 在家の仏教徒になるための最初の二つのステップは、帰依することと、五戒を受け入れることです。帰依することによって、私たちは人生を導く理想としての 三宝(仏・法・僧)を受け入れることを誓います。そして戒を受け入れることによって、行ないを正し、人生を導く理想と自らの行動を調和させる決意を表わし ます。これからお話しすることは、主としてブッダの教えを受け入れたばかりの人々のためのものですが、以前から伝統的に仏教徒ではあるものの、自分達のな じんできた実践の意味を知りたいと思っている人々にも役立つでしょうし、仏教徒になることの意味を知りたいと思っている人々にも役立つでしょう。


Ⅰ 帰依について

 ブッダの教えは、特有の土台、階層、階段、屋根をもつ一種の建物と考えることができます。他の建物と同じように、ブッダの教えにも入口があり、中へ入る にはその入口から入らなければなりません。その入口にあたるのが、三宝に対する帰依です。すなわち完全な悟りを得た師であるブッダと、ブッダによって説か れた真理である法(ダンマ)と、貴い弟子たちの集まりであるサンガ、の三つに対する帰依です。

 はるか昔から今に至るまで、帰依することはブッダの教えの体系への入口の役割を果たしています。その入口から入って初めて、ブッダの教えを一番下の階か ら最上階まで学ぶことが許されるのです。ブッダの教えを受け入れる者は誰でも、帰依という入口から入ることによって教えを受け入れることになります。一 方、すでにブッダの教えに自らを委ねている人々も同様に、次のような三つの宣言をすることによって、常に自らの信を再確認します。

 ブッダン サラナン ガッチャーミ
 (私はブッダという帰依処に行きます)
 ダンマン サラナン ガッチャーミ
 (私は法(ダンマ)という帰依処に行きます)
 サンガン サラナン ガッチャーミ
 (私は僧(サンガ)という帰依処に行きます)

 このステップは、その後に成就されるべき高邁な成果に比べると、取るに足りないありふれたものに見えるかもしれません。しかし、それこそが仏教徒の実践 の全てを方向付け、前進する勢いを与えるものであり、その重要性は決して過小評価されてはならないのです。帰依することは、そのように決定的な役割を果た すので、その行為を次の二つの点において正しく理解することが重要です。すなわち、帰依すること自体の本質的な意味と、帰依することが、今後、仏教の道に おいて心を成長させる上でどんな影響をもたらすのか、という二点です。

1、帰依処へ行く理由

 ブッダの教えの実践が帰依にはじまるというとき、すぐさま重要な疑問が生まれます。その疑問とは、「私たちは帰依処(避難処)に対して何を求めているの か」ということです。帰依処とは、危害や危険から保護してくれる人物、場所、もしくは物です。だから、私たちが帰依による実践をはじめるとき、その実践と は、私たちを危害や危険から守ってくれるものであるという意味を含んでいます。「帰依処の必要性」をめぐるそうした疑問は、もう一つの疑問に言い換えるこ とができます。すなわち、「私たちが保護を必要とする危害や危険とは何だろうか」ということです。

 私たちは、自らの生活を顧みても、差し迫って個人的な危険にさらされているとは思えないかもしれません。仕事は安定しており、健康状態は良好、家族は何 不自由なく養われていて、財産もちゃんとあるかもしれない。私たちが思い浮かべるこれらすべての事柄が、自らは安全であると考えるに足る理由になっていま す。このような場合、帰依処に行くことは全く無用なことになります。

 帰依処(避難処)の必要を理解するために、私たちは自らの境遇が本当はどのようなものであるかについて、観察することを学ばなくてはなりません。すなわ ち、正確に、全体的な状況に照らして、私たちの境遇を見るのです。仏教の観点から見ると、人間の置かれた状況は、氷山に似ています。氷山は、氷塊の小さな 一部のみが水面に出ており、巨大な下層部は水中に隠れていて、私たちには見えません。心の視野には限界があり、私たちの洞察力は、心の表面の下まで、すな わち、心の深いところに横たわる自らの状況まで見通すことができません。しかし、見ることのできないものについて語る必要はありません。それどころか、じ かに目に映るものでさえ、私たちが正確に知覚することは稀です。

 ブッダは、認識とは願望に従属するものであると説いています。私たちが気付かないような巧妙な仕方で、願望は知覚を左右します。自分にとって都合のよい 鋳型にねじ込んでしまうのです。このように、私たちの心は、選択と排除を行ないながら働いています。私たちは、先入観に合う物事には注意を向けますが、先 入観を混乱させる怖れのある物事は見えなくしてしまったり、歪めて受け取ったりします。

 より深く、より大局的な見地から見るならば、普段抱いている安全という感覚は、私たちが気付かずにいるということと、ごまかしを行なう心の能力によって支 えられている、偽りの安全だということがわかります。私たちの境遇は、見方を限定したり歪曲したりすることによってのみ、確固としたものに見えるのです。 しかし、安全に至る本当の道とは、正確な洞察によるものであり、願望の詰まった思考によるものではありません。恐怖と危険を越えて行くには、洞察力を研ぎ 澄まし、視野を広げなくてはなりません。自らをだまして、心地よい自己満足の中に誘い込もうとする、心のごまかしを見抜き、不安げに目をそらしたり気晴ら しを追い求めたりすることなく、自らの存在の奥深くを直視しなくてはなりません。

 そうすると、私たちが狭い小道を横切って、危険きわまりない断崖絶壁のふちに立っていることが徐々に明らかになって来ます。ブッダの言葉によると、私た ちは沼地や絶壁に接する深い森を通り抜ける旅人のようなものです。あるいは、川で流された人が助かろうとして葦をつかもうとしているようなものであり、荒 れ狂う海を渡る船乗りのようであり、毒蛇や殺意ある敵に追いかけられている人のようです。

 私たちがさらされる危険は、いつも直ちに分かるほど明白なものとは限りません。しばしばそれらは捉え難く、偽装していることもあり、見つけるのが困難で す。それらの危険をただちに見出すことはできないかも知れませんが、それでも危険がそこに存在しているという、明白な事実に変わりはありません。危険から 逃れたいなら、私たちはまず、それらをありのままに認識する努力をしなくてはなりません。しかしそのためには、勇気と決意が必要です。

 ブッダの教えに基づけば、帰依処(避難処)を必要とする危険は、三つに分類されます。(1)現世に係わる危険 (2)来世に係わる危険 (3)生ある者が繰り返したどる過程に係わる危険
 これら各々には二つの側面があります。(A)この世界における物質的側面と、(B)私たちの精神構造に対応した主観的側面、です。各々を順番に考えてみましょう。

(1)現世に係わる危険
(A)物質的側面  
 私たちが直面している最も明白な危険は、肉体とそれを支えている物質が極めて脆いということです。私たちは生まれた時から、病気、事故、怪我といった危 険にさらされています。自然は、地震や洪水といった天災によって私たちを苦しめ、社会生活では、犯罪、搾取、抑圧、戦争の脅威が、私たちをさいなみます。 政治、社会、経済の各方面での出来事が、危機に陥らずに推移することはめったにありません。変革や革命への試みは必ず、停滞と暴力を経て幻滅に至るとい う、昔から繰り返されている結末に行き着きます。比較的平穏な時にあっても、私たちの生活のあり方は決して完璧ではありません。常に何かしら、ピントがは ずれつつあるように見えるのです。思わぬ障害と苦境が入れかわり立ちかわり絶え間なく続くのです。

 幸いにして、重大な災難から逃れることが出来たとしても、決して避けることが出来ないものが待ち受けています。それは死です。私たちは死ぬように定めら れています。あらゆる富、知識、権力を手にしていても、死という避けられない運命の前においては無力なのです。死は、生まれた瞬間から私たちに重くのしか かってきます。刻一刻と私たちは避けがたい死へと近付いています。安楽さの中で安全だと思いながら死へと引き寄せられている様は、凍った湖の上を歩きなが ら、足元の氷が割れているにもかかわらず安全だと信じ込んでいるようなものです。 

 私たちに迫りくる危険は、それが不確実であるせいで、更にやっかいなものになります。危険がいつ迫ってくるのか、まったく分かりません。もし災難が起こ りそうだと分かれば、少なくとも冷静にそれを受け止めるよう、事前に準備することができるかもしれません。しかし私たちは、それだけのことでさえ、未来に 対して先手を取ることができないのです。 私たちには予知する能力がありません。そのため、さまざまな希望が、ぼんやりとした嫌な予感と共に、次から次へ と立ち上がってきます。しかし、それらの希望は、すぐにでも一瞬にして、突如こなごなに砕かれてしまうかもしれません。健康は病に害され、仕事は失敗し、 友人は敵対し、最愛の人を亡くすかもしれません。これらの不運が訪れないという保証は決してないのです。死ぬことは確かだとはいえ、私たちに確実に分かっ ているのは、死が必ず襲って来るということだけです。正確にいつ死が訪れるかは、わからないままなのです。

(B)主観的側面
 逆境は、私たちの世界に組み込まれている客観的特徴です。この世界には災難、危機、苦境がある上、もともとそれらすべてに不確かさがつきまとっていま す。このような二重の重荷に対して、私たちは「否定的な反応」を示します。が、実はそうした反応にこそ、現世における危険の主観的側面が現れているので す。
 うわべの自信の下にずっと潜んでいた不安が、物事の不確かさにあおられて浮上するのはよくあることです。私たちは、自分が支えにしているものの不安定さ や移ろいやすさ、変化に対するもろさを、心の深いところで感じています。そうした不確かさに気づくと、心配が頭から離れなくなり、ときには不安の大波が生 じます。

 不安の原因をいつも特定できるとは限りませんが、心の奥底に不安はつねに潜んでいます。慣れ親しんできた支えが突然取り去られ、ふだん物事を理解したり行動を起こしたりする際の視座が失われるのではないかという、漠然とした不安があるのです。
 こうした不安があると、それだけで心は動揺します。ところがその上に、不安はしばしば的中し現実のものとなります。さまざまな出来事の展開は、私たちの 意志と係わりなく、独自の法則性に従っています。出来事の展開と私たちの意志は必ずしも一致しません。この世でもたらされる病気、喪失、死は、機が熟せば 私たちを襲います。出来事の展開が私たちの意志に反すると、苦痛と不満足が生じます。

 願望と現実の不一致が小さい場合でも、私たちは怒ったり、動揺したり、落ち込んだり、困惑したりするものです。不一致が大きければ、苦悶、悲嘆、絶望を 経験することになります。いずれにせよ、願望と現実との間にある溝から両者の根本的な不調和が浮かび上がり、私たちに苦をもたらすのです。
 生じた苦はそれだけでは、さして重大な意味を持ちません。しかし苦には、その下により深く根を張った病弊が潜むことを示す、兆候としての意味があるのです。その病弊は、この世界に対する私たちの態度の中に巣食っています。

 私たちは、期待や予想、要望によって作り上げられた心の枠組みにもとづいて行動します。さらに、現実が私たちの願望に従い、要求を受け入れ、予想どおり になることを期待します。しかし現実はそんな期待を拒絶します。期待が拒絶されると、私たちは、期待と現実の不一致から生じる苦痛と失望にさらされます。
 この苦しみから逃れるには、私たちの意志かこの世界か、二つのうちいずれかを変えなければなりません。自分の意志に合わせてこの世界の本質を変えるのが 不可能である以上、残された唯一の方法は、この世界への執着や嫌悪を捨てることによって、私たち自身を変えることです。執着を手放し、渇望と貪欲を断ち、 高揚したり落胆したりする心の揺れから離れ、物事の絶えざる変化を超然とした平静な心で眺めることを学ばなくてはなりません。

 世間的な対立がもたらすさまざまな変化にとらわれない、バランスのとれた平静な心こそ、この上ない避難処であり保護手段なのです。しかし私たちがこうし た平静さを得るためには、導きが必要です。とはいえ、私たちが得られる導きは、実在の逆境そのものから私たちを守ってくれるわけではありません。心配、悲 哀、落胆、絶望といった「否定的な反応」がもたらす危険から守ってくれるだけです。けれども、これが唯一可能な保護なのです。そして私たちにとって絶対必 要なそうした保護を与える導きこそ、真の依り処(帰依処)であると考えられるのです。
 以上が、帰依処(依り処)に行く、すなわち帰依することの一番目の理由です。つまり、この世で私たちを取り巻く危険に対する「否定的な反応」から自分自身を守るために、帰依処を必要としているのです。

(2)来世に係わる危険
(B)客観的側面
 危害や危険にさらされがちな私たちの境遇は、死によって終わるわけではありません。ブッダの教えの観点から言えば、死という出来事は、新たな生への導入 部であり、さらなる苦しみにつながる通路でもありうるのです。無明と渇愛に囚われた生きとし生けるものは再生を免れない、とブッダは説いています。生存へ の本能的欲求が変わらずにある限り、個々の生きものによる生存の流れは死後も続きます。そして前生で蓄積された心象や性質が受け継がれます。一つの生から 次の生へと転生する「魂」というものは存在しません。しかし、継続する「意識の流れ」のようなものは存在し、その中で優勢な性向に応じて、死後、新たな生 の形をとって現れます。

 ブッダによれば、再生は六つある生存の世界のいずれかで起こります。六つの中で最も低いところにあるのが地獄です。数々の悪業に対するそれ相応の罪滅ぼ しとして、激しい苦痛と拷問を受ける世界です。地獄の一つ上には、苦がはびこり、暴力が支配する畜生界があります。その次は、餓鬼の世界です。餓鬼とは、 決して満たされることのない強い欲望に苦しむ、薄気味の悪い存在です。これらの上にあるのが人間界です。ご存知のようにそこでは、幸福と苦しみ、美徳と悪 などが共存しています。その次に来るのが、半神である阿修羅たちの世界です。嫉妬と野望に取り憑かれた巨人の世界です。そして最上に位置するのが、神々 (デーヴァ) のいる天上界です。

 最初の三つの再生の世界、つまり地獄、畜生、餓鬼の世界は、阿修羅の世界と共に、「悪趣地」とか「離善地」と呼ばれています。こうした名前が付いたの は、その世界では苦が優勢だからです。これに対し、人間界や天上界は、幸福が優勢なため、「善趣地」と呼ばれます。悪趣地への再生は、その世界特有の苦だ けでなく、もう一つの理由によっても、とりわけ不幸だと考えられます。悪趣地への再生が悲惨だというのは、そこからの脱出が極めて困難だからです。善趣地 への再生は、善行(クーサラ)を積むかどうかにかかっています。しかし、悪趣地に住むものには、善行により徳を積む機会がほとんどありません。したがっ て、悪趣地の苦は、断ち切るのが大変に難しい永続的な悪循環を作ってしまいがちなのです。

 ブッダは言いました。「穴の一つあいたくびきが大海を漂い、盲目のウミガメが100年に一度だけ、海面に現れるとする。それでも、悪趣地に住むものが人 間界に戻る可能性にくらべれば、そのウミガメがくびきの穴に首を入れる可能性の方が高いのだ」と。悪趣地固有の苦難と、そこから逃れることの困難さという 二つの理由によって、悪趣地への再生は、来世に係わる由々しき危険であると言えます。私たちは、その危険から保護されることを必要としています。

(B)主観的側面
 悪趣地に転落することからの保護は、他者から得られるものではありません。悲惨な世界に再生する原因を作らないことによってのみ、保護は得られるので す。どの世界に再生するかは、私たちのカルマ(業、行い)に係わっています。つまり、私たちの意志と、意志による行いが重要になります。カルマは二つに分 類されます。善業(クーサラ)と不善業(アクサラ)です。善業は、無執着や慈悲、正見(正しい見解、理解)によって動機付けられた行為。不善業は、貪欲、 憎悪、無知によってもたらされる行為です。これら二種類の業が、二つの次元への再生を引き起こすのです。善業は善趣地への再生を、不善業は悪趣地への再生 をもたらします。

 私たちが悪趣地そのものを消し去ることは出来ません。この世界が存在し続ける限り、悪趣地も存続します。悪趣地への再生を避けるために私たちにできるの は、自らを観察し、行動を制御することだけです。そうすることにより、自分の行動が、悲惨な世界への再生につながる悪業の道に入り込まないようにするので す。しかし、不善業を作り出さないようにするには、助けが必要です。その理由は主に二つあります。

 第一に、私たちが取りうる行動の選択肢は多様で数多くあり、どれを選ぶべきか分からないことがしばしばあるので、助けが必要なのです。善か不善かが明ら かな行為もありますが、判断が難しく、直面したときに迷ってしまう行為もあります。正しい選択をするためには、導きが必要です。あらゆる行為の道徳的価値 と、さまざまな生存世界へつながる道に精通している人物による、明確な導きが必要なのです。

 助けを必要とする第二の理由は、善と不善の区別ができても、私たちは往々にしてまともな判断に反し、つい不善を追い求めてしまうからです。私たちの行動 は、冷静な判断にもとづく計画にいつも従っているわけではありません。それはしばしば衝動的であり、自分でも抑えたり制御したりできない非理性な欲望に駆 られることがあります。私たちはこのような衝動に屈し、自らがそうするのをなすすべなく見つめながら、不善を働いてしまいます。

 私たちは、自らの心を制御するようにしなくてはなりません。そうして自らの行為を、より高い智慧からもたらされる分別によって制御するのです。しかしそ れには、自らを律する必要があります。自らを律する道を学ぶには、心の微妙な働きを熟知している上、私たちを不善で自己破壊的な行動パターンへ駆り立てる 妄想を克服する道を教えてくれる人物に、導いてもらうことが必要です。これらの導きや、導きを与えてくれる人物は、将来の危害や苦から私たちを保護する手 助けをしてくれますから、真の「依り処」(帰依処)であると考えられます。
 以上が、帰依処へ行く第二の理由です。すなわち、来世において悪趣地に落ちるのを避けるため、自らの行いを制御できるようになる必要があるというわけです。

(3)生ある者が繰り返したどる過程に係わる危険
(A)客観的側面
 実をいうと、私たちがさらされている危険には、これまで述べてきた危険よりもはるかに大きいものがあります。今世ではっきりそれとわかる逆境や災難、 あるいは悪趣地へ落ちる危険以上に、この世の生ある者すべてに共通する根源的な危険があるのです。それが、輪廻(サンサーラ)に内在する苦です。
 輪廻とは生成の循環、つまり生、老、死の回転であり、始点のない無限の過去からずっと繰り返されています。再生は一回だけ起こるものではなく、次の生、 また次の生というふうに永遠に続きます。生の過程は何度も何度も繰り返され、新しい生を受けるたびに、死に至るまでの同様の流れをまた逐一たどります。一 つ一つの生は朽ち果てて死ぬという結末を迎え、一つ一つの死は新しい生へと続きます。

 再生して幸運だったり不幸だったりしますが、再生という車輪の回転は中断することがありません。一切のものは無常であるという法則は、感覚をもった生命 すべてにあてはまります。どのようなものが生まれても、やがては終わりがくるのです。輪廻から抜け出る出口は天上界にもありません。天上界に生まれるカル マが終わるとそこでの生も終わり、どこか他の世界に再生します。もしかしたら次の居場所は悪趣地であるかもしれません。

 輪廻を条件づけられた生きとし生けるものの状態は、それらに共通する無常性ゆえに、本質的にドゥッカ、つまり、決して満たされることのない苦であると、 智慧の目には映ります。私たちが支えとし頼りにするものはすべて、変化と死から逃れられません。ですから、私たちが慰めや快楽を求めて身を寄せるものも、 実は、隠された状態にある苦に過ぎないのです。安全を求めて私たちが頼るもの自体も、危険にさらされているし、保護してもらおうと頼みにするものも、それ 自体が保護を必要としています。私たちがずっとしがみついていたいと思うもので、消滅することなく永遠に存在できるものは何一つありません。「崩れ落ち、 滅び去る、それゆえここは『この世』と呼ばれる」

 若者はやがて老い、健康な者も病に倒れ、生ある者は死を迎えます。すべての出会いには別れが訪れ、別れには痛みが伴います。さらに理解が深まると、そう した状況は無限と言えるほど数多く起こっていることが分かります。始点のない無限の過去から、私たちは生存の循環の中で転生を繰り返してきました。めまい がするほどの頻度で、何度も同じ経験に遭遇しています。生、老、病、死、別れ、喪失、失敗、挫折などを経験してきたのです。

 私たちは、繰り返し悪趣地に落ち、数え切れないぐらい動物や霊にもなったし、地獄の住人だったこともあります。何度も何度も苦、暴力、悲しみ、落胆を経 験してきました。ブッダは、私たちが輪廻の中で流した涙と血は海の水より多く、死後に残した骨を積み上げたならばヒマラヤの山々より高くなると言っていま す。私たちは過去に数え切れないほど何度もこのような苦を経験しましたが、輪廻における循環の原因が断ち切られない限り、この先も転生を繰り返しながら、 さらにたくさん同じことを経験する危険性があるのです。

 訳者注:この法話によると、阿修羅の世界は人間界の上となっていますが、「アビダンマッタサンガッハ」では人間界の下に位置付けられています。

(3)生ある者が繰り返したどる過程に係わる危険
(B)主観的な側面
 転生を繰り返すという危険から逃れ、救われる道が一つだけあります。いかなる形の存在にもならないようにするのです。この上なく崇高な形の存在にさえな らないのです。しかしそのためには、私たちを輪廻に縛りつけている原因を断ち切らなければなりません。輪廻の世界をさまよい続ける原因は、私たち自身の中 にあります。ブッダはこう説いています。「私たちは生から生へとさまよっている。それは、自分という存在を永続させたいという、根深く飽くことのない衝動 に駆られているからだ」

 ブッダはこの衝動を「存在への渇愛」(バヴァ・タンハ)と呼んでいます。「存在への渇愛」がたとえ潜在的にでもある限り、生の流れが死によってはばまれ ることはありません。渇愛は、死によって生じた空白状態に橋を架け、新しい形の存在を生み出します。どんな形の存在になるかは、生前に蓄積されたカルマ (業、行い)によって決まります。このように渇愛と存在は互いにつながり、支えあっています。渇愛が新しい存在を生じさせ、その新しい存在が渇愛の下地を 作り、再び満足を追い求めるようになるのです。

 渇愛と転生の繰り返しとの悪しき結びつきの根底には、「無明」(アビッジャー)と呼ばれる、さらに根源的な要素があります。無明とは、物事の本性につい ての根本的無知であり、始点のない過去から続いている、精神面での気づきのない状態のことです。無明は、二つの著しい働きをします。一つは、正しい認識を あいまいにする働き。もう一つは、ゆがんだ認識と知覚の網を作り上げる働きで、私たちはその網によって物事をとらえがちです。

 無明のせいで、私たちは、本当なら胸が悪くなるようなものの中に美を見出したり、はかないものを永遠だと思ったり、不快なものに喜びを感じたり、一時的 で実体や自己などない現象の中に自我を見出したりするのです。このような錯覚はさらに渇愛を助長します。荷馬車から吊り下げられた目の前のニンジンをロバ が追うように、私たちは見かけが美しいもの、永遠に見えるもの、喜びや自己があるように見えるものを追い求めて、向こう見ずに突進します。が、結局何も得 られず、いっそう強く輪廻に縛りつけられるはめになるのです。

 こうした無駄で無益な行いの繰り返しから解放されるには、その原動力となっている渇愛を根絶する必要があります。単に一時的にではなく、完全に永久に根 絶するのです。そのためには、渇愛を支えている無明を取り除かなければなりません。無明が妄想を創り出している限り、渇愛が再生する下地が存在するからで す。
 無明をなくしてゆくのが、智慧(パンニャー)です。智慧とは、無明という覆いをはぎ取る鋭い洞察力であり、智慧があれば、「物事をあるがままに見られ る」ようになります。それは単に頭の中で行なわれる認識ではありません。智慧は、私たちの心の中での経験を通じて産み出されるべき実践的能力であり、「各 自が、端的かつ即座に」発揮しなければならないものです。

 智慧を目覚めさせるには、指導、助け、案内が必要です。私たちが何を理解し、何を見なければならないかを教えてくれる人物と、智慧を目覚めさせる方法が 必要なのです。転生の繰り返しに私たちを縛りつけている絆を智慧によって断ち切ることで、私たちは輪廻から解放されます。そのための手引きをしてくれる人 たちやその方々の指導は、転生という危険から私たちを保護してくれますので、真の依り処とみなすことができます。
 これが帰依処(依り処)を求める三番目の理由です。輪廻という、いつまでもついてまわる苦から逃れる必要があり、それで帰依処を求めるのです。

2、帰依処(依り処)の存在

 依り処を求めざるを得ない状況に人間が置かれていることを理解するのは、依り処へ行きたい気持ちを起こさせる必要条件ですが、それだけでは充分ではあり ません。依り処へ行くには、頼りになる依り処が現実にあることを確信しなければなりません。とはいえ、依り処があると決め込む前に、依り処(帰依処)とは 何かを正確に定義する必要があります。

 辞書では「帰依処」を、「危険や苦からの避難処や保護、そのような保護を与えてくれる人物や場所、そうした保護を得るための手段」と定義しています。こ の定義はパーリ語では「サラナ」の語義に相当し、パーリ語のさまざまな注釈書では、「帰依処」の意味で「サラナ」という言葉が使われています。それらの注 釈書では「サラナ(帰依処)」を説明するにあたり、「打ち砕く」という意味の「ヒムサティ」という語を用いて、「人が帰依処に行くと、まさにその行為に よって、恐れ、苦悩、苦痛、不幸な再生と煩悩をこうむる危険が打ち砕かれ、一掃され、取り除かれ、滅する」と述べています。この説明から帰依処(依り処) であるための二つの条件が分かります。

(1)一つ目は、依り処そのものは危険や苦を超越していなければならないということです。危険にさらされている人物やものはそれ自体が安全ではありません から、他者を保護することなどできません。恐れや危険を超越している存在のみが、保護を与えてくれるものとして信頼が置けるのです。

(2)二つ目は、依り処とされるものは私たちが近づけるものでなければならないということです。恐れや危険を超越した状態が近づけないものであるなら、そ れは私たちとは無関係であり、依り処としての役目を果たしません。依り処となり得るには、それが近づけるもので、危険から守ってくれる能力がなければなら ないのです。

 では、「依り処」の抽象的な定義はこれくらいにして、目下の具体的な問題に戻りましょう。先に論じられた三つのタイプの危険、つまり「今世で不安や挫 折、悲しみ、落胆を味わう危険」「死後悪趣地に行き着く危険」「輪廻の中で繰り返し再生する危険」から私たちを守ってくれる依り処が存在するのでしょう か。この質問の答えは慎重に出してゆかねばなりません。

 まず私たちが受け入れなければならないのは、客観的に証明できて皆の前に示しうるような答えはあり得ないということです。依り処というものが存在するこ とや特定の依り処の詳細を、誰にも反論できないやり方で論理的に証明することはできません。せいぜいできるのは、「ある人たちや事物は依り処としてふさわ しい」と信ずるに足る程度の、説得力ある根拠を示すことぐらいです。あとは、信念、つまり信頼から生じるある種の確信によるしかない。少なくとも、最初の 段階でいちおう認めたことが自分自身の経験を通じて明確に理解されるまでは、他に手立てはありません。しかしたとえ明確に理解できたとしても、依り処があ ることの証明は、個人の内面的な経験による主観的な事柄であり、論理的に証明したり客観的に例示したりするものではないのです。

 仏教的な見方からすると、危険と苦から完全に守ってくれる依り処が三つあります。それがブッダとダンマ(法)とサンガ(僧伽)です。この三つはそれぞれ 別個の依り処ではなく、一つの依り処の中で互いに関係しあっている要素であり、その性質や働きを明確にするために三つに分けられているにすぎません。その ように分ける必要がある理由は、三者が示される順番を考えると明らかになります。

 三者の中で最初に来るのが、人間であるブッダです。私たちは人間ですから、指導してくれたり、鼓舞してくれたり、進むべき方向を示してくれたりする、誰 か他の人間を求めるのは当然なことです。危険から究極的に解放されるか否かがかかっている時、私たちが第一に探すのは、その人自身が危険から完全に解放さ れていて、私たちを同じ安全な状態に導いてくれる人物です。それがブッダ、すなわち悟った人であり、依り処を見出してそこに到達し、はっきりと示してくれ た人物だから、三者のうちで最初に来るのです。

 私たちが第二に必要とするのは、(1)恐れや危険を超越した依り処の状態、(2)そこに到る道、そして、(3)道案内になる教えです。それがダンマ (法)であり、この三つの内容を示しています。第三に必要なのは、もともとは私たちのように苦悩を持った普通の人でありながら、教え導かれた道に従い、恐 れと危険を超越した安全な状態にたどり着いた人たちです。それがサンガ(僧伽)なのです。修行の道に入って目標を達成した人たちの集まりであり、他者に道 を教えられる集団です。

 三者は協同して、効果的な救いの手段に万人が近づけるようにしています。ブッダは依り処を示す役目を果たします。ブッダは、ブッダ自身の力によって人々 を救う救世主ではありません。救われるかどうかは私たちにかかっています。私たち自身が、教えられたことの実践に熱心に励むかどうかによるのです。ブッダ は基本的には道を詳しく説明してくれる教師であり、私たちは熱意を持ち知性を働かせて、その道を歩まねばなりません。

 そこで実際的な依り処となるのがダンマ(法)なのです。ダンマを、教えの到達点としてとらえるならば、それは危険から解放された安全な状態を示すもので す。道としてとらえるなら、目標に到達する手段です。そして教えを言葉で表わしたものとしてみるならば、修行の実践方法を示した教えの体系です。しかし私 たちがその方法を自在に効果的に使えるようになるには、修行の道を熟知した他者の助けが要ります。そのような道に精通した人たちの集団がサンガ(僧伽)な のです。彼らは依り処を見つける手助けをしてくれる人たちであり、私たちが道を達成できるよう導いてくれる、修行の道を歩む友人の一団です。

 これら三つの依り処が形づくる構造は、簡単な類推によって理解できます。私たちが病気になった時、治りたいと思ったら、病気を診断し治療薬を処方してく れる医者と、病気を治す薬と、看病してくれる介護人が必要です。医者と介護人だけでは私たちの病気は治りません。彼らに出来るのはせいぜい、正しい薬を与 え、私たちがそれを必ず飲むようにすることぐらいでしょう。薬が、健康を回復させるための、実際的な治療をするのです。


 これと同様、苦や不幸から救われたいと思う時、私たちは医者であるブッダに頼ります。ブッダは私たちの病気の原因を見つけ出し、治る方法を教えてくれま す。そしてダンマ(法)が私たちの苦を取り除く薬であり、サンガ(僧伽)は私たちが薬を飲むのを手伝ってくれる介護人なのです。治るためには薬を飲まなけ ればなりません。自分では何もせず、医者が治してくれるのを期待しているだけではいけません。同じように、苦から救われるには、ダンマを実践しなければな らないのです。なぜならば、ダンマ(法)こそ、救済された状態へ私たちを導いてくれる実際的な依り処だからです。

3、帰依するという行為

 ブッダの教えの道を歩み始めるならば、帰依する対象について知るだけでは不十分です。教えへの入口を入るには、ブッダとダンマ(法)とサンガ(僧伽)に 帰依しなければなりません。帰依する対象の意味を知ることと、帰依することは、別物なのです。「帰依する」ことによってのみ、実際にブッダの教えの道に入 ることができます。

 では、「帰依する」とは、どういうことでしょう。一見すると、三帰依文を唱えて三宝(仏、法、僧)に形式的な誓約をすることが、帰依であるかのように思 えるかもしれません。三帰依文を唱えるのは、ブッダの教えを受け入れることを示す行為だからです。しかし、それは、表面的な理解に過ぎません。真の帰依は 型通りの誓いにとどまるものではないと、いくつもの注釈書が明言しています。実は、帰依の言葉を唱えると同時に、「もう一つの変化」が起きているというの です。その変化とは、精神における変化であり、心の底から帰依することを指しています。

 注釈書の定義によると、帰依とは、ある意識が生じている状態のことです。それは、「三宝に対する確信と尊敬によって動機付けられた、煩悩のない意識であ り、三宝を最上の拠り処として受け入れた状態である」と定義されています。帰依する意識には「煩悩がない」という指摘は、目的の誠実さが必要であることを 強調しています。認められたいという欲望、プライド、非難されることへの恐れなど、不善な動機があるならば、純粋な帰依にはなりません。

 三宝に対する確信と尊敬だけが、帰依にふさわしい動機です。確信と尊敬により動機付けられた意識は、三宝を「最上の依り処」とします。それは、三宝を救 済の唯一の源として認めることを意味します。三つの対象(仏、法、僧)を「最上の依り処」とすることにより、帰依は、心を開いた、自己放棄の行為となりま す。私たちは、帰依の対象を前にして自己防衛をやめ、三宝の救済能力に対して心を開きます。自己を満足させたいという要求やエゴを捨て、三宝の導きによっ て混乱や動揺や痛みから解放されることを信じて、帰依するのです。

 意識による他の行為と同様、帰依は、数多くの要素からなる複雑な過程です。それらの要素は、精神における三つの基本的なはたらきに分けることができま す。すなわち、「知性」と「意志」と「感情」です。では、帰依という行為がどのようなものかをもっと明確にするため、外面的な行為の背後にある精神の過程 に目を向け、帰依を三つのはたらきに分けてみましょう。そして、三つのはたらきが、それぞれどのように帰依という全体に貢献しているかを見ることにしま す。つまり、帰依という行為を、「知性」と「意志」と「感情」という三つの面から調べるのです。

 しかし、その前に注意が必要です。どんな現象でもそうですが、ある現象を深く詳しく調べたとしても、そこには直接知覚できない深淵なものが潜んでいま す。たとえば種子は、見た目には小さな有機体の粒ですが、実際にはもっと重要な要素をはらんでいます。種子は殻の内側に、種子が生まれるまでの、樹木の全 歴史も集め持っているのです。その上、将来の樹木としての可能性もたくさん秘めています。

 帰依に係わる意識のはたらきにも、同様のことがいえます。帰依する時の意識のはたらきを観察してまず明らかになるのは、前や後ろや外側などあらゆる方向 へ向かおうとする意識の力の広大なネットワークが存在することです。と同時に、その意識のはたらきは、記憶のはっきりしない遠い過去から今に至るまでの数 多くの経験が寄り集まり、現在の意識を形づくっていることを、暗に表わしています。その一方で、現在の意識においては輪郭さえほとんど描かれていない、未 来への発展の可能性をも示唆しているのです。

 同様のことは、帰依の行為全体と、帰依を構成する各要素にも当てはまります。帰依全体にせよ各要素にせよ、私たちの目には見えない過去と未来という壮大 な歴史を伴いながら、一瞬一瞬に具現化していることを、私たちは知らなければなりません。それゆえ、「帰依という行為」を分析的に調べたとしても、それに よって分かるのは、過去の背景と将来への展開までをも含む「帰依という行為」の意味のほんの一断片でしかない、と理解すべきです。
帰依の行為に話を戻しますと、帰依は第一に、「理解」という知性のはたらきです。帰依する気持ちは尊敬と信頼によって強まりますが、帰依する行為自体は洞察力によって導かれなければなりません。盲目的感情がもたらす危険から帰依を守る、明敏な知性の導きが必要なのです。

 知性のはたらきは、解脱を望む熱意が現実化される方向へと、帰依の行為を導きます。知性は、目標とそこから注意をそらすものを識別し、熱心な修行者が本 来の目標追求からそれて修行が徒労に終わることの無いようにします。それで、八正道の第一に「正見」があげられているのです。悟りへの道を進むには、その 道がどこから来てどこへ向かうかを知り、ある地点から別の地点へ移るための方法についても知らなければなりません。

 帰依しようとする際に、知性のはたらきによってまず理解することは、存在にはそもそも不満足性(苦)があり、私たちは帰依処に頼る必要があるということ です。苦はあまねく行き渡る性質を持ち、私たちの存在の根源までも侵していることを理解しなければなりません。苦をうわべだけの一時しのぎの手段で消し去 ることはできません。徹底的な対処によってのみ、消し去れるのです。私たちはさらに、不満足と不安の原因が、私たち自身の内側、私たちの執着・貪欲・妄想 などの中にあることをも理解しなければなりません。そして、苦から自由になるには、苦の原因を絶やす道を進まなければならないことも理解する必要がありま す。

 私たちはまた、帰依する対象が信頼するに足るものであることも、知性をはたらかせて把握しなければなりません。ブッダの教えには苦から解放する力がある という絶対的な確信は、悟りの道が成就した後に生まれるものです。しかし、帰依の対象に私たちを助ける力があるという知的な確信は、始めの段階からなけれ ばなりません。そのためには、ブッダの生涯と徳性の記録を調べ、ブッダのことを検討する必要があります。また、教えに矛盾や不合理がないかどうかを調べな ければなりません。さらに、サンガ(僧伽)が信頼と確信に値するかどうかも検討する必要があります。これらの検討に合格した時にはじめて、三宝は私たちの 最終的な目的達成にとって信頼できる支えであると見なされるのです。

 知性は、帰依を決意する最初の時だけでなく、修行全体を通してはたらきます。三宝についての理解が進めば、帰依の度合いも深まり、帰依する気持ちが深ま れば、理解も促進されます。こうして理解と帰依が互いを深め合い、それが極致に達すると、世俗を超えた道が成就されるのです。この修行の道を成就して、教 えの真理を洞察すると、直接経験によって帰依処の正しさが実証されるので、帰依処への信が揺らがなくなります。

 帰依することは、「意志」の行為でもあります。帰依は、強制や外側からの圧力と関係なく、自発的決意によって成されるものです。パーリ語の「アパラパッ チャヤ」、つまり「他から強制されていない」選択でなければなりません。自由な選択によるこの行動は、意志に対して重要な構造改革を引き起こします。帰依 する以前、意志はさまざまな興味と関心に振り向けられていたかもしれません。しかし帰依が優勢になると、意志は新たな誓いによって統一された様式にしたが い、秩序だった状態になるのです。精神的理想が内面生活の中心になる一方、重要度の低い関心や理想にそぐわない事柄は、追い出されたり低い位置に追いやら れたりします。こうして帰依の行為は、価値観の調和をもたらします。そのように調和のとれたさまざまな価値はより高いものとなり、心の底から解脱を望む強 い願望としてまとまって、すべての行動を導く目的となるのです。

 帰依という行為はまた、意志を今までとは反対の方向へ確実に向かわせます。帰依する前には、意志は「自己」という意識の領域を拡大しようとして、外界へ 向かいがちです。意志は、「自己」の領域を拡張し、所有、統制、支配の範囲を広げようとします。しかし、ブッダの教えの中に依り処が見出されると、それま での意志の傾向はくつがえされ、方向転換が起こる基礎ができあがります。

 「自己を拡張しようとする衝動は、私たちを束縛するものの根源である」とブッダは説いています。自己拡張の衝動は、渇望や貪欲や執着から生まれ、たちまち のうちに不満足と失望に陥ります。このことが理解されると、エゴに囚われて追い求めることの危険性が見えるようになり、意志は方向転換して、離欲と無執着 へ向かいます。執着の対象は徐々に手放され、対象に貼り付いていた「私が」「私の」といった感覚も離れていきます。究極的な解放は、際限ないエゴの拡張の 中には無く、エゴという妄想を完全に根絶する中にあることが見えてきます。

 帰依することに係わる第三の側面は、「感情」です。帰依するには熱烈な感情だけでは不十分ですが、自らを鼓舞し向上させようとする感情の力なしには、完 全な帰依の達成は不可能です。帰依する行為の中で浮上する感情は、おもに三つあります。「確信」と「尊敬」と「親愛」です。「確信(パサーダ)」とは、帰 依処の持つ保護する力を信頼する清らかな心であり、帰依処の特質とはたらきに対する明確な理解にもとづく感情です。「確信」は「尊敬(ゴーラヴァ)」を生 み出します。この尊敬は、気高く卓越した三宝の特質に対する認識が深まると湧き起こる、畏敬、尊重、崇敬の念です。けれどもこの尊敬の念は、三宝に対し て、いつまでも控えめで形式的で打ち解けないままであり続けるわけではありません。

 人生に変化をもたらす法(ダンマ)の力を私たちが経験するにつれ、尊敬の念は「親愛(ペマ)」の情を呼び起こします。三宝に対する親愛の情は、精神生活 に熱意と活気を与えます。そうした親愛の情は、帰依への情熱をかき立て、その情熱は熱心な修行という形となって表われます。修行に打ち込むことによって、 私たちは、三宝(仏、法、僧)という帰依処のもつ、苦から保護し解放する力が他の人々にも及ぶよう努めることになるのです。

4、 帰依の役割

 帰依することはブッダの教えへの入口です。帰依は、ブッダの教えに沿って仏教徒をあらゆる修行の実践へと導く、入口の役割を果たします。適切な環境で修 行を行なうには、レストランで食事をする時に入口を入らなければならないのと同じく、帰依という入口を通って修行に入らなければなりません。レストランの 外に立ってウィンドウのメニューを読むだけならば、料理についてはすっかり頭に入るでしょうが、食欲の方は満たされないまま、その場を離れることになって しまいます。

 同様に単にブッダの教えを勉強し賞賛するだけでは、仏教の実践を始めたことにはなりません。仮に仏教の修行の要素をいくつか抜き出して自分なりに実践し ても、最初に帰依していなければ、ブッダの教えを本当に実践しているとは見なされません。そのような取り組みは、ブッダの教えから単に派生しただけの行 為、もしくは、教えと一致しているにすぎない行為でしかありません。修行の実践が「三宝に帰依する」という精神的な態度と結びつかない限り、ブッダの教え の実践にはなっていないのです。

 帰依の意義を明らかにするために、二人の対照的な人について考えてみましょう。一人は細かいところまで五戒にのっとり、道徳的な原則を守っています。こ の人は、仏教徒としての道徳を実践するつもりで正式に戒律を受け入れているわけではなく、生来の善悪の感覚によって自発的に、戒律が要求する行ないの基準 に従っています。つまり、生まれつき持っている道徳律の一部として戒律に従っているのです。さらに、瞑想実践も1日数時間していますが、ダンマ(法)に 従ったものではなく、ただ単に「今、ここ」における心の平安を楽しむために行なっています。その上、ブッダの教えに出会い、ありがたい教えとして尊重して はいますが、それを真理と認めて確信するまでには至っていないし、帰依したいという強い気持ちもありません。

 対照的にもう一人の人は、戒を完全に遵守できる環境になく、瞑想を実践する時間もありません。しかし、実践は完全にはできないものの、十分な誠実さと理 解と意志をもって、心の奥底から三宝に帰依してきました。長い目で見ると、この二人のうち、どちらの態度に、より大きな精神的価値があるでしょうか。帰依 はしていないが、五戒と同様の道徳的な行動規範を守り、1日数時間の瞑想実践をしている人と、実践は十分にできないとはいえ、心からブッダ、ダンマ、サン ガに帰依してきた人との、精神的態度の比較です。
 この事例について、経典と注釈書にはっきり書かれているわけではありません。しかし、理性的に推測する上で助けとなる記述はあります。それらの記述にも とづけば、二番目の人、つまり、はっきりと理解し誠実に帰依してきた人の精神的態度のほうが、長期的にいっそう大きな精神的価値を持っているといえそうで す。

 このように判断する理由は次のとおりです。一番目の人は、道徳的な行ないと瞑想実践の結果として、現世で平和と幸福を楽しむでしょうし、徳を積むことに よって、将来、好ましい再生に導かれるでしょう。しかし、積んだ徳が熟しても、徳の力は好ましい再生のために使い果たされてしまい、それ以上の精神的成長 にはつながりません。徳の結果である幸運な再生が終わりを迎えれば、それまでに蓄積されたカルマ(業)に従って他の世界に再生し、輪廻の生をめぐり続ける ことになります。こうした徳の積み方では、輪廻を超越することには直接結びつかないのです。

 これとは対照的に、心から三宝に帰依してきた人は、高度な実践ができなくても、帰依処を求めるという心からの行為だけで、未来の生において精神を成長さ せる基礎を作っています。とはいえ、もちろん自らのカルマの結果は刈り取らなければなりません。帰依したからといって、カルマの結果から逃れることはでき ないのです。しかしそれでも、帰依が本当に精神生活の中心に置かれているならば、帰依という精神的行為そのものが、強力な善のカルマになります。

 帰依は、未来の生においてもブッダの教えにめぐりあう絆の役目を果たし、いっそう成長する機会を得る助けとなります。たとえ現在のブッダの教えで悟りに 達することができなくても、未来のブッダたちの教えへと導かれ、最終的には目標を達成することができるのです。これらはすべて、帰依という精神的行為が行 なわれて初めて生じることですから、帰依することがいかに重要であるかがわかるでしょう。

 帰依の重要性は、「信」を種子になぞらえている経典の例えを通じて、より深く知ることができます。信は帰依を後押しする推進力ですから、信の代わりに 「帰依」を種子になぞらえてもさしつかえないでしょう。帰依するという精神的行為によって、知性、意志、感情という三つの基本的なはたらきが活動しだすこ とは、すでに説明しました。これら三つのはたらきは、帰依処を求めるという極めて単純で基本的な行為のなかにも、すでに存在します。それらは、仏教徒とし ての精神生活の花や果実へと育つ種子として、帰依という行為のなかに含まれているのです。

 人が帰依処を求めようとするのは、輪廻する存在としての危険と恐怖を理解するからです。こうした理解は、智慧のはたらきへと育つ種子です。やがて、その 智慧のはたらきによって、四聖諦を直接的に洞察できるようになります。決意という要素は、「離欲」への意志を生む種子です。決意は、悟りをもとめる人に渇 愛や快楽や利己的な執着を捨てさせる原動力になります。決意はまた、八正道の六番目の要素、「正精進」の実践へと育つ種子でもあります。正精進によって私 たちは、不浄で不善な心の状態を捨て、汚れのない善の心を育てる努力をします。

 三宝に対する献身と尊敬は、「迷いのない信」を芽生えさせる種子にもなります。「迷いのない信」とは、仏、法、僧への信頼が外からの力によって揺るがさ れることは決してないという、高潔な仏弟子としての確信です。このように、帰依するという単純な行為は、「正見(理解)」、「正精進」、「不動の信」とい う三つの高度なはたらきへと発展する種子でもあるのです。この例からも、帰依することが非常に重要であることがわかるでしょう。

5、 帰依の方法

 帰依することは、心を成長させる一つの方法です。日課の一部として毎日繰り返し、日々新たに行なうべき、精神的成長のための実践です。私たちは身体を洗 うことで、身体の手入れをします。同じように、ブッダの道に沿った成長にとって不可欠の種子である帰依を、毎日心に植え付けることによって、心の手入れも するべきです。できれば、帰依の行為を毎日二度行ない、そのつど、帰依文を三度繰り返し唱えることが望ましい。しかし、二回行なうことが困難ならば、少な くとも毎日一度は帰依文を三度繰り返し唱えましょう。

 日常の帰依は、聖堂あるいは仏像のある祭壇の前で行なうのが最上です。帰依文を唱える前に、ろうそくやお香、そして可能なら花の供物を捧げます。供物を 捧げた後に仏像の前で三拝し、それから跪いたまま、合掌した手を差し出します。三帰依文を実際に唱える前に、帰依の三つの対象の面前にいるという思いを起 こすため、それらを心に思い浮かべるとよいでしょう。

 ブッダを思い描くには、心を奮い立たせるようなブッダの絵や像を思い浮かべましょう。ダンマの象徴としては、仏教の聖典である「三蔵」があげられます。 ブッダの前に置かれた三巻の経典を思い浮かべるとよいでしょう。ダンマチャッカ、すなわち法輪も、ダンマの象徴になります。法輪は、八正道を象徴する八本 の輻(や)が、涅槃を象徴する輪の中心へと集まる形をしています。そしてその法輪は美しく輝き、金色の光を放っているのです。サンガの象徴としては、ブッ ダの両隣に、二人の偉大な弟子、サーリプッタ尊者とモッガラーナ尊者がいる姿を思い浮かべればよいでしょう。あるいは、ブッダの教えに精通し、煩悩を克服 して解脱に達した阿羅漢たちが、ブッダのまわりにいる光景を思い浮かべても結構です。

 深い信頼と確信を起こすには、三宝のイメージをありありと思い浮かべながら、感情と確信を込めて三帰依文を唱えるとよいでしょう。瞑想実践を始めるなら ば、実践の前に三帰依文を唱えることはとりわけ重要です。三帰依文を唱えることで奮い立ち、修行上でさまざまな困難に出会っても努力を維持できるようにな るからです。ですから、集中的な瞑想を始めるために孤独な状態に入る人々は、瞑想実践に先立ち、通常の帰依文とは異なる、次のような特別な帰依文を唱えま す。

 「アハン アッタナン アーブッダサ ニヤッテミ ダンマッサ (私はこの一身を、ブッダ、ダンマ、サンガにゆだねます)」。身体と命を三宝にゆだねるこ とによって、行者(ヨーギ)は、修行の妨げになる障害や、達成目標に対する利己的な執着から、自分自身を守るのです。しかし、このような変形の帰依文は軽 々しく唱えるべきではありません。その結果が非常に重大だからです。特別な目的がないかぎり、毎日唱えるのは、通常の三帰依文で十分です。

Ⅱ 戒についてへ

1) 帰依と戒 ビク・ボディ
2) 布施と寛容 ニーナ・ヴァン・ゴルコム
3) 人生は苦だけではない タニッサロ・ビク
4) 私たちの真の家―死の床にある老在家信者への法話 アチャン・チャー

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